2.目的

 空気が湿っている。信治は重たい瞼を押し上げながら身動ぎした。片頬が冷たいコンクリートに触れ、意識が急速に現実に引き戻される。ぼやけた視界が鮮明になり、思考が動き始めた。
 ――ここはどこだ。
 信治はあたりを見回した。その部屋は床だけでなく壁も一面コンクリートで、壁紙は張った形跡すらなかった。寒々とした、生気の感じられない空間が広がっている。生活の場には見えない。信治のアパートの一室より遥かに広く、そして整然としていた。ドアは一つ、窓は無い。ドアは長方形の部屋の短い辺の方にあり、信治はその反対側、ドアから最も離れた壁際に倒れていた。部屋には大きな流しの付いた調理台、背の高いステンレス製の収納棚が二つ、同じくステンレス製のテーブルと椅子がある。それらは綺麗に磨きあげられていて、きらきらと光っていた。
 微かに頭が痛み、信治は呻いた。そして片手をこめかみに当てようとして――失敗した。何かが、信治の行動を阻んだ。
「……嘘だろ」
 信治は自らの右手首に嵌っている手枷を信じられない気持ちで見つめた。鍵穴のある銀色の枷、そこから繋がった重たげな太い鎖が一度床に落ちている。信治が目で追っていくと、鎖は天井に近くに通った金属製の棒に開いた穴へと入り、おそらくは長さを調節するためにある器具に巻きついて、最終的に棒の上部へと消えていた。
 肺に冷たい空気が入り込んだような怖気に襲われて、信治は一瞬息を止めた。『繋がれている』。殆どパニックに陥りかけながら、腕に力を入れて手を動かそうと試みた。動くことは動くが、鎖の重さで自由にはならない。それとも枷自体の重さだろうか。信治には判断が付かなかった。どちらも床にあたると重量感のある音を立てた。
「何で、何で……」
 冷たい汗が信治の肌に滲み始めた。いつどうやって、なぜここに自分がやってきたのか思い出せなかった。夢にしてはあまりに現実感があり過ぎる。消毒液のような臭い、コンクリートの冷たさ、鎖の重み、喉の渇き、頭痛、蛍光灯の光、それら全てが、今ここに自分が置かれている状況が現実に違いないことを信治に告げていた。
 信治は怠さが残った体を無理やり起こし、自由な方の手で枷に力を入れ、鎖を引っ張って外そうとしたが、無駄だった。もし仮に、信治が人並み以上の筋力を持っていたとしても同じ結果に終わっただろう。手枷と鎖はそれほど強靭だった。中肉中背の、平均的な体型の信治にはどうすることも出来ない。
 動ける範囲はごく限られていた。手足の先までを有効範囲としてみても、部屋の十分の一に満たないだろう。棚、テーブルと椅子は長方形の中間あたりにあったが、そこにすら届かない。衣服を脱いで伸ばしてみても、何かに引っ掛けることが出来そうには思えなかった。
 数分間じっと恐怖に耐えていると、信治は唐突にある可能性、初めに確認すべきだった事柄に思い至った。焦る手でポケットの中を探る。もしかしたら、という期待は一瞬にして裏切られた。携帯電話は消え、自宅の鍵や、財布は影も形もない。そのほかの私物、ノートや本を仕舞っていた鞄はどこにも見当たらなかった。パーカ―には紐がなく、ジーンズには金属製のボタンとファスナーがあるにはあったが、取り外したとしても小さすぎる。靴は消えていた。
 信治はもう一度辺りを見回した。枷の鍵を外せそうなもの、鎖を切ることが出来そうなものは――ない。床に排水溝を見つけた。蓋は外せるものに見えたが、手を伸ばしても明らかに届きそうになかった。天井には空調のようなものがある。動いているのか動いていないのか、信治には分からない。音はしなかった。あまりに静かだ。
 助けてくれ、と叫ぶ勇気は出なかった。正確に言うと叫びかけて、思いとどまった。ドアの向こうが恐ろしかったのだ。何が、誰がいるのか信治には分からなかった。大学を出てからの記憶が途切れている。自分の身に何が起きてここにいるのか――分かるのは、おそらく拉致され、監禁されているのだということだけだった。誰かの悪戯にしては手が凝りすぎているし、そうだったとしても、こんな悪戯をしかけてくるような性質の悪い友人を持った覚えは無かった。
 呆然と座り込んでいると、微かな物音が信治の耳に入った。体が強張り、心臓がどくどくと激しく動揺しだした。信治はドアの方向を見つめた。殆ど間もなく、ドアが開いた。
「おはようございます」
 現れたのは男だった。栗色の髪、日に焼けていない肌、平均より少し高めの細身の体、整った優しげな顔立ちの男。見覚えがある、と思った次の瞬間、記憶が一気に蘇った。
「お……お兄さんじゃ、ないですか……」
 公園で出会った男だった。服装は変わっていない、清潔で落ち着いた雰囲気のまま、男は異様な部屋の入口に立っている、
「はい。信治くん、具合はいかがですか?」
 男はゆっくりと中に入り、中ほどまで来ると、テーブルに片手に持ったトレイを置いた。トレイにはガラスのコップが一つ、水がなみなみと注がれている。
「あの……、俺何でここに……いるんですか。ていうかこれ、これ何なんですか?」
 信治の声は震えていた。答えは聞かずとも分かっていたが、聞かずにはいられなかった。男は出会ったときから浮かべている微かな頬笑みを相も変わらずその顔に張り付けていた。
「拉致、監禁ですね」
「う、嘘ですよね……冗談でしょ」
「いいえ」
 男の顔に、罪悪感はどこにも見えない。
「じゃあ何か……災害か何かがあって避難してる……とか」
「いいえ」
「……俺を、……俺をどうするんですか? うち親お金持ってないから身代金の要求とかしても、は、払えないと思うし……臓器を売るにしても俺の家系ガンとか色々病気多いしあんま役に立たないと――」
「あなたの身柄と引き換えにして親族の方に金銭を要求する気はありませんし、臓器を売る目的もありません」
「じゃ、じゃあ何で……!」 
 男はコップを手に取り、信治の方へと歩を進めた。男は足音を全く立てなかった。重たい鎖を引きずって信治は後ずさったが、すぐに壁にぶつかった。逃げ場はない。
「食べるために、あなたが必要なんです」
 そう言いながら、男は腰を屈め、信治の顔近くにコップを差し出した。コップの中の水は微かに白く濁っている。
「……俺は、お金になんて」
「比喩ではありません」
「は……え、えっ、? な、なに……」
「これを飲んでください。痛みや苦しみもなく、ほんのわずかな時間で死に至ります」
 信治はコップを凝視した。そしてそれを持つ男の顔を、曇りのない優しげな光を湛えた瞳を。
「死に、死にたくない。殺さないでください、お願いします、殺さないで」
 下手な役者のように震える声を吐きだして、信治は男を見つめた。心臓は今にも弾けそうだった。
「信治くん」
 コップを床に付いた膝の上に置き、男は呼びかけた。その声は柔らかかったが、信治はすっと胸が冷えるのを感じた。あまりに場違いだった、信治の動揺と恐怖など気にも留めていない。
 信治は男に名乗った覚えが無いのを思い出した。
「飲んでいただけませんか? すぐに済みます」
「俺は……、死にたくない、です……死にたくない、殺さないで」
 信治の消え入りそうな声を聞いて、男は困ったように小さく首を傾げた。そして溜息を一つ。
「でも僕はあなたを生きたまま食べることは出来ません……まずは解体しなければ」
 身代金の要求でも、臓器売買でも、拷問でもない、信治を拉致してここに繋いだ男の目的――それを理解した瞬間、信治は喉の奥から声にならない叫び声をあげた。

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