4.食事

 信治は短い眠りから覚めた。上下が張り付こうとしている瞼をこじ開け、近くに誰もいないのを、自分がまだ生きているのを確認する。周囲の状況は何も変わっていなかったし、信治はまだ生きていた。
 時計のない明るい部屋に長く閉じ込められていると、時間の感覚が明らかにおかしくなってくる。今が何時なのか、朝なのか昼なのか、それとも真夜中なのか、信治には見当がつかなかった。閉じ込められて四日、あるいは五日経った。その間、殆ど睡眠を取っていない。体内のリズムは大幅に崩れている。常に頭痛がし、情緒不安定になっていた。
 人は睡眠を取らないとすぐに体をおかしくする。信治が出来る限り眠らないようにしているのは、睡眠中に殺されるかもしれないという恐怖があったからだが、このままろくに眠らずにいると一人で勝手に死んでしまいそうだった。
 更に信治を追い詰めているのは、飢えだ。ここに連れてこられて以来、何も口にしていない。食事はおろか、水すら一滴も飲んでいなかった。信治は小食な方で一食二食抜くことはよくあったし、丸一日何も食べない日も稀にではあるが、あった。しかしこれほど長く絶食するのは初めてで、信治は男が毎日差し出してくるサンドイッチを拒否するのが辛くなってきていた。致死量の毒さえ入っていなければ、それは多分それなりに美味しかっただろう。どこかでテイクアウトしてきたものなのか、見るからに美味しそうだった。
 それでもまだ我慢は出来た。最初の空腹の波を抑えれば、まだ楽だった。
 だがどうしても我慢できないのは、水への強い欲求だった。喉の渇きは酷く、時を追うごとに増していく。口は渇いて、唾液の量はがくりと減っていた。何か飲みたい、どうしても飲みたい、浴びるほど飲みたい。排泄時に、簡素なポータブルトイレに飲み込まれていく自分の尿にすら魅力を感じるほどだった。
 これまでの無駄な抵抗で、信治の右の手首には擦り傷がついていた。ひりひりと痛み、手を動かすたびに擦れてまた傷を抉る。信治はそこから感じる痛みと頭痛に不快感を覚えながらも、感謝していた。痛みが無ければ今すぐにでも熟睡するところだ。
 胃を完全に満たすほど水を飲んでから、丸一日、誰にも邪魔されずに眠りたい――信治の思考はその欲求に殆ど支配されていた。

「おはようございます」
 一瞬意識が飛んだ、と思った次の瞬間のことだった。突然目の前へと現れた男に信治は小さく叫び声をあげた。眠っていたのかもしれない。数分か、数十分か、それとも数時間か。幸いなことに、男は部屋に入ったばかりのようだった。安堵して溜息をつくと、力がどっと抜けた。
「サンドイッチがお嫌いだったようなので、今日は雑炊にしました」
 男は微笑みながら信治の前に膝をつき、トレイから雑炊の入った小さな土鍋と木のスプーン、水が入ったコップを置いた。
「……どうせそれも、食べたら死ぬようになってるんでしょ。何でそんなことするんですか」
 信治は乾いた喉から抑揚のない声を出した。いまだに敬語を使うのはおかしいように思えたが、使わない強い理由が見つからなかった。第一、そんなことを気にしたところで意味もないだろう。
「あなたを食べるためです」
「じゃあ普通に殺せばいいじゃないですか。こんな回りくどい事をしなくても、ナイフとかで刺したらすぐ死にますよ」
 勢いで口にしてしまった言葉を、信治は取り消そうか迷って、やめた。男の顔を窺うと、あからさまに困った顔をしている。
「信治くんをそういう方法で殺すことは出来そうにありません」
 それなら最初に気を失っていたときに注射か何かでひと思いにやってくれてたらよかったのに、と信治は思った。
「俺が我慢できなくなるのを待ってるんですか」
「我慢?」
「……毒が入っていてもいいくらい腹が減るのを待ってるんじゃないんですか?」
「ああ……そう言われてみれば、そうかもしれないですね」
「そうかもしれないって」
 なぜ曖昧な肯定なのか。そういう意図があるのは間違いないと思っていただけに、男の口振りは異様に感じられた。信治は、出来の悪い人工知能か何かに話しかけてしまったような奇妙な感覚に襲われた。
「……なんか、お兄さんに命令してる人とかがいるんですか」
「いいえ、いません」
「ほんとに? ……色々アドバイスしてくれる友達とか、相棒みたいな人がいたりとか」
 信治は昔よく見ていた犯罪ドラマを思い出していた。残忍で切れやすい凶悪な殺人者と、それに従ってしまう、善良そうな大人しい共犯者、という組み合わせはよく見かけた。もしかしたら、自分を監禁しているのもそんな二人組みなのかもしれない。
「いません。僕は長い事ひとりです。ここにいるのは僕と信治くんだけです」
 男はまごつくことなく否定した。嘘をついているのか、それとも真実なのか、今確かめる術があるとしたら、ここで男に襲いかかり、存在するのかも分からない共犯者が助けにくるのを待つだけだ。体力が落ちた今、数日前に出来なかったことが出来るとは到底思えなかった。
「……出して下さい。ここから。絶対に誰にも言わないし、お兄さんのことは忘れます」
 何の意味もないと分かっていても、言わずにはいられなかった。予想通り男は首を振った。
「それは出来ません」
「じゃあ……せめて」
「せめて?」
「普通の、何も入ってない水が飲みたい」
「水が飲みたいんですか?」
 頷くと、男は少し考える様子を見せたあと、立ち上がった。
「分かりました」
「え」
「水だけでいいんですか?」
「えっ……も、貰えるんですか。毒が入ってない……?」
「はい」
 まさか要求が聞き入れられるとは思っていなかった。信治は激しく驚き、目を瞬かせた。
「じゃあ……じゃあ、普通のサンドイッチも……」
「水とサンドイッチですね。少し待っていてください」
 そう言うと、男は部屋を出て行った。信治は信じられない気持ちで閉まったドアを見つめ続けた。

 男が戻ってくる頃には、信治は少し冷静さを取り戻していた。混入した毒の有無など、どうやって確認すればいいというのだ。男が嘘を吐くのは簡単だ。ただ『入っていない』と言えばいいだけのことだ。これまで出された水は濁っていたが、無味無色の毒を仕込まれたら判断のしようがない。騙されるな、と信治は自分に言い聞かせた。
「お待たせしました」
 男は信治の目の前に躓き、トレイからペットボトルとバスケットを取って床に置いた。
 ペットボトル。信治は恐る恐る手に取った。封は開いていない。キャップはきっちりと締まっていた。ラベルを見れば、よく見かけるブランドのミネラルウォーターだった。木編みのバスケットにはサンドイッチが三切れ、具はたまご、ポテトサラダ、レタスとハムの三種。乾いてもう出てきそうになかった唾液が急にどこからか分泌され始めた。
「ほ……本当に……何も入ってないんですか」
「ええ」
 男は柔らかい笑みを浮かべた。信治はその笑みに一度騙されたことがあった。あのとき勧められて口にしたマカロンにはきっと睡眠薬が仕込まれていたのだろう。まるで邪気のない人の良さそうな顔の下には、恐ろしい犯罪者の本性が隠れている。
 だが誘惑は強かった。ペットボトルは大丈夫そうだ。穴や、穴を塞いだあとは見当たらない。信治はラベルを剥がして確かめた。まっさらで、どこにも細工をした痕跡がない。
 ――もし、毒が入っていて、死んだとしても。
 構わないじゃないか、と信治は思った。警察が尋ねてくる様子はないし、男はどうやっても自分を出す気はないのだ。変な味がすると思ったら吐き出せば間に合うかもしれないし、一口だけなら腹を痛めるぐらいで済むかもしれない。
 一口だけだ。そう自分に言い聞かせて、信治はキャップを開けた。そして口をつけた。一口だけ、一口だけ、あと少し、もうちょっとだけだ。数日ぶりに口にする水分は、感動するほど美味だった。はっと口を離したときには、ペットボトルは殆ど空になっていた。久々に大量の水分が喉を通ったせいか咳き込みながら、信治はペットボトルを床に置いた。
「大丈夫ですか?」
 男は咳き込む信治に声をかけた。
「だ、大丈夫、で……す」
 呼吸を整えて答える。信治は目の端に涙を滲ませて、顔を上げた。男と目が合う。どこか見覚えのある表情をしていた。ぞっとして少し身を引く。男は少し首を傾げて、いつものような微笑みをその顔に浮かべた。
「サンドイッチもどうぞ」
 食欲は、喉の渇きより切迫したのものではなかった。男が勧めるのは、いくらでも仕込みが出来そうなサンドイッチ。もしかしたら味も分からないかもしれない。缶詰やパックの食品にすればよかったと信治は今更ながら後悔した。それならば水と同じで仕込みを見破りやすい。男が了承するかは分からなかったが。
「……これ、どこかで買われてきたんですか?」
「僕が作りました」
「お兄さんが」
「ええ。味は保証できませんが、信治くんの要望通り薬は使いませんでした」
 まだ我慢できる、と信治は思った。我慢できるはずだ。男の言葉は信用出来なかった。食べたらのたうちまわりながら絶命するかもしれないし、また眠らされて、意識を失っているうちに体をバラバラにされているかもしれない。
 そう思いながらも、信治は手をのばさずにはいられなかった。水を飲んでしまったのが悪かったのかもしれない。一度踏み外すと次はもっと容易になる。においを嗅いでから考えよう、と信治は思った。ハムが挟まれたサンドイッチを手に取った。ハムは肉厚で、両側を新鮮なレタスに挟まれている。パンは焼き目がつけてあり、まだあたたかい。鼻を近付けるまでもなく、パンの香ばしい匂いと、油の滴るハムの肉の匂いが漂ってきた。途端に胃が活動し始めた。目の前にぶらさげられた御馳走を受け入れようと、ぐるぐると音を立てて信治を追い詰める。
 口をつける一歩手前で、信治はある可能性に思い至り、さっと青ざめた。
「こ……これ、何の肉なんですか。人の肉とかじゃない……ですよね」
 男は驚いた顔をし、ひとのにく、と呟くように言った。信治は手の中の物を取り落とした。サンドイッチは床に落ちる前にばらけ、無残に散らばった。信治は衝動的にトイレに駆けよると、乱暴に蓋を開け、顔を近付けた。
 胃液と飲んだばかりの水が、信治の胃から喉へ、喉から口へ、そして簡易トイレの吸収剤へと移動していった。嘔吐するものはすぐに無くなったが、暫くトイレから顔を上げることが出来なかった。
「信治くん」
「は、っうあ、はっ、な、なん……何ですか」
 信治はトイレの側に手をついて息を整えながら答えた。
「これは豚肉ですよ」
 男は床に落ちたサンドイッチを拾い上げながら言った。そのままトレイに載せ、薄いグレーのスラックスのポケットからハンカチを取り出し、床についた油とソースを拭きとる。汚れた水色のハンカチは、サンドイッチの傍らに置かれた。
「……本、本当に?」
「ストックがあれば信治くんを捕まえる必要がありません」
「でも、……調理器具とかに人の血とか……ついてたりとか」
「毎回くまなく洗浄していますし、人を食べるときの作業は全てここで、ここにあるもので行っているので、普段使っている調理器具に人の血がついたことは一度もありません」
 『ここで、ここにあるもので行っている』。信治は頭が真っ白になった。ここで人が死に、解体され、切り刻まれ、調理されて、男の胃の中に収まっていたのだ。また嘔吐しそうになったが、胃が震えただけで、何も出なかった。
「残りはどうしますか?」
 男はバスケットを持ち上げて尋ねた。中にはまだ二切れ残っている。信治は力なく首を振った。今何かを口にしても、吐き戻してしまうだけだ。
「分かりました」
 男は立ち上がり、蓋が開いたままのトイレから嘔吐物が収まったビニール袋を引き上げた。そしてそのビニール袋とトレイを持って、部屋から立ち去って行った。
 信治は疲弊していた。鍵がかけられる音を聞くと蹲る様に倒れ込み、暫く嗚咽を漏らしながら泣いた。そして涙が枯れてしまうと睡魔に屈し、ずしりと重みを増した瞼を下ろした。

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