21.雨

 信治は立ち上がって少年の手を取った。
「いえにかえろう」
 少年は悲しげに眉尻を下げて首を横に振る。
「怪我してるんだ。それに家には帰りたくない」
 信治は少年の膝をもう片方の手で指差した。そこには白く綺麗な肌だけがあった。傷跡すらない。
「ぼくたちのいえにかえろう」
 少年は驚きながら立ち上がった。挫いた筈の足はもう完全に治っている。
「僕たちの家って?」
「ぼくたちがすんでいるいえだよ」
 二人は歩き出した。少年はまだ辺りを注意深く見回しながら父親の影に怯えている。信治は安心させるために少年の手をきゅっと握り締めた。
「だいじょうぶ、なにもしんぱいないよ、おにいちゃん。もうおとうさんはいない、ぼくたちふたりだけ、おれたちふたりだけだ。優人さんは何も心配しなくていいんです。何も怖いことなんてない。俺が優人さんを守るから」
 二人は公園を出て電車に乗った。二人の他に乗客はいない。座席に腰を下ろすと、電車はゆっくりと動き始めた。
「俺が一人で住んでいたアパートも、通っていた大学も、優人さんと俺が再会した公園も、ちょうど反対の方向なんです。電車を乗り継いで行くから、初めて出会った公園からも、ここからも、俺たちの家からも、ずっと遠く離れたところにあります」
「僕たちは長い間、離れ離れになっていましたね」
 信治の隣に座っていた少年は、いつの間にか見慣れた青年の姿に変わっていた。
「だけどもう離れたりしない」
 信治が言うと安楽は頷いた。その微笑みは穏やかで、そこには一点の曇りもない。
「ずっと一緒にいるから」
「はい。僕と信治くんはずっと一緒です」
 電車を下りてまた歩き始めた。二人なら長い道程も苦にならない。取り留めのない話をしているとあっという間に辿りついてしまった。信治は安楽の手を引いて家に入った。
「信治くん」
 信治は振り返った。安楽は繋いだ手をそっと解き、そっと信治の頬に手を当てる。その手は少しだけ硬く、そしてあたたかい。安楽の顔が近付いてくる。唇が合わさった。何度でも味わいたくなる、そのやわらかな感触――。

 目を開けても夢の中の光景が続いていた。そっと離れていく唇。信治は目を瞬き、 頬に当てられた手に自分のものを重ねた。
「優人さん?」
 安楽は信治の目をじっと見つめている。信治はにこりと笑い、今度は自分から口付けた。触れるだけのキス。
「また俺の寝顔見てたの?」
 信治はからかうような口調で言う。安楽は信治の目を見つめたまま常のような微笑を信治に向けていたが、何も答えなかった。どうしたのだろうと不思議に思い始めたとき、信治は焦げ茶色の瞳が厚い涙の膜で覆われる瞬間を目にした。その涙が表面張力によって瞳の上に留まっていたのはほんの僅かな時間で、瞬く間に溢れ出した。
「優人さん」
 信治は心臓が止まりそうになる程の衝撃を受けた。涙は次から次に流れては安楽の顔を濡らしていく。嘔吐の後に見せた生理的な涙ではない――安楽は声も上げずに泣いている。
「どうしたの? どっか痛い? 苦しい? ……嫌だった?」
 何か間違いを犯してしまったのだろうか。傷付けてしまったのだろうか。信治は不安に襲われる。時計は見ていないが、まだ体を繋げてから数時間しか経っていない筈だ。意識を取り戻したことで肉体的苦痛を――もしかすると精神的苦痛も感じ始めたのかもしれない。
 安楽は信治を見つめながら「いいえ」と小さく答えた。だが涙は後から後から溢れ出している。カーテンの隙間から差し込む昼下がりの光がその涙に反射して光っていた。
「優人、さん……」
 こんな風に泣く人を目にするのは初めてだった。信治は動揺しながらも安楽の後ろに腕を回して額を合わせた。何が起こっているのか分からなかったが、その方が落ち着くかもしれないと思ったのだ。背中を撫でながら見守っている内に涙の川は少しずつ細くなっていく。最後に安楽はゆっくりと瞬きをして涙を止めた。濡れた長い睫毛から最後の一滴が落ちる。
 信治が涙の跡を指で拭うと、安楽は不思議そうに濡れた指を見た。まるで泣いていたことにそれで初めて気付いたかのような目つき。
「優人さん、大丈夫?」
 安楽は首を縦にも横にも振らなかった。
「目覚めたとき……」
 表現に迷ったのか、安楽は一拍置いて続けた。
「自分はまだ夢を見ているのではないかと思いました」
「……どうして?」
「いつもと何かが、決定的に違うように感じたからです。髪も、顔も、腕も、指も、胸も、足も、視界も、感覚も、何もかも。僕は殆ど夢を見たことがありません。だからこれがそうなのかと思ったんです」
 潤んだままの安楽の瞳。焦げ茶色の虹彩に取り囲まれた瞳孔の広がり。信治はその目が自分を見つめていることを、これまでにない程強く意識した。
「僕は傍らにいる信治くんに何が起こっているのか訊ねようとして、信治くんがまだ眠っていることに気付きました。信治くんは規則的に小さな寝息を立てていて、僕が見ている間に寝返りを打ち、僕の方に顔を向けました。その表情は穏やかで、笑っているように見えました。僕は無意識のうちに信治くんの頬へ手を伸ばしていました」
 信治は夢の中で自分の頬に触れた手の感触を思い出した。あれは現実の感覚を反映したものだったのかもしれない。
「不思議な事に、生まれて初めて信治くんに触れたような気がしました。その感覚自体はこれまで何度も起こったもので――ですがこれまでの中で最も強く感じました。まるで初めて味わうもののように、信治くんの体温や、肌の感触が僕の中に入り、深くに沈んでいきました。そうしたら……」
「……そしたら、キスしたくなった?」
 安楽は頷いた。
「目覚めた信治くんが僕に触れると、僕は信治くんを感じ、そして信治くんを感じている僕自身を感じました。僕の体、僕の感覚、僕の意識が、ここにあるのを強く感じたんです」
 ふと、安楽は思い出したように信治の濡れた指へ目をやった。
「そのとき僕は泣いていたんですね」
「うん」
「僕はどこかおかしくなったんでしょうか」
「ううん。……多分、いいことだよ」
 信治は安楽の頬を撫で、形の良い耳に指先で触れ、髪を梳くように手を動かした。
「そう、きっといいことが起こったんだと思う。……今も、感じる?」
「はい。感じます」
「俺も。俺も感じる」
 二人はどちらからともなく唇を合わせた。何度か離してはまた合わせ、互いの唇をやわく食んで口付け合い、足を絡ませて抱き合った。信治は自分の動きを安楽が感じていること、そしてそれに喜びを感じている自分自身を感じた。何でもないものだった自身の唇が、腕が、手の平が、足が、今では何か価値のあるもの、愛する人を愛撫するのにふさわしいものだと思えた。
 信治は安楽の顔の横に手をつき、そのまま上に乗り上がろうとした。その瞬間信治の腹部から、ぐうと音が鳴った。二人は動きを止めて見つめ合う。
「えっと……」
 そう言えば昼食を取っていなかった。信治は頬を赤く染め、上体を起こした。
「ご飯、食べてからにしようか」
「はい。……僕も、お腹が空きました。下に行きましょうか」
 信治は頷き、安楽の手を取りながら、安楽が空腹だと口にするのを初めて耳にしたことに気付いた。



 その日から安楽は仕事を受けるのをやめ、信治は携帯電話の電源を切ってしまった。そして二人は夜も昼も無く触れ合うようになった。毎日同じベッドで目覚め、居間で映画やドラマを楽しみ、ゲームをして、空腹になれば食事を取り、片付けをし、共に入浴して、また同じベッドに入る、そのどこでも二人は愛し合った。性急に事を済ませることもあれば、殆ど丸一日そうしていることもある。安楽は体を繋げる前に話していたことが嘘のように容易く乱れ、信治は覚えたての少年のように安楽の体を欲した。昼も夜も無く、飽くことも無く、どちらかが求めれば相手も同じようにもう一方を求め、触れ合う。
 裏庭には収集所に持ち込むべきゴミが溜まりつつあり、食事の材料は日々選択肢が減っていく。だが二人はどちらも出て行くつもりはなかった。

 数週間が過ぎたある日、早朝から雨が降った。しんしんと霧のように細かい滴が天から降り、木々を濡らし地を水浸しにする。そして窓の外へ手を伸ばした安楽の肌も濡らしていた。
「優人さん、何してるの?」
 雨の滴は手首に垂れ、綺麗にプレスしたシャツの裾まで湿らせていた。
「雨を触っていたんです」
 そんな答えが返ってきても信治は不思議に思わなかった。近頃、安楽は赤子のように何にでも触れる。料理中に手を火の中へ差し込んだときはさすがに驚いたが、すぐに安楽も我に帰って手を引いたため大事には至らなかった。何故そんなことをするのかと訊ねてみると、どんな感じがするのか確かめたかったのだと安楽は答えた。
 それが安楽に害をなすものでなければ、信治は安楽が何を触りたがろうと構わなかった。むしろ喜ばしいことだと思った。好奇心を持ち、外からの刺激に対し何かしらの反応を示す傾向を見せているのは、『人間らしさ』を取り戻しているからなのかもしれない。信治は安楽の変化をそう捉えていた。
「あんまり続くと憂鬱な気分になるけど、そうじゃない雨の日は何かわくわくするね」
 信治は安楽の横に並び、曇った空を見上げた。
「昔は雨合羽着せられて、長靴履いて、雨の中はしゃぎまわるのが好きだったなぁ」
「楽しそうですね」
「うん。楽しかった。あんまりはしゃぎ過ぎて転んで怪我してからは大人しくなったけど。優人さんはお行儀良かった?」
「小さい頃はあまり外に出してもらえませんでした。こんな風に窓から外を眺めるだけで」
 そっか、と信治は返した。そして安楽のように窓から手を出してみる。雨は思っていたほど冷たくはない。
「……ねぇ、優人さん」
「はい」
「水遊びする?」
「水遊び?」
「うん。待ってて」
 信治は一人浴室に向かい、洗浄を済ませてある浴槽に湯を張り始めた。少し熱めの設定温度。
「優人さん、下りてきてー!」
 階段下で声を上げる。安楽はすぐに信治の視界に顔を出し、落ち着きのある足取りで下りてきた。二段目でまだ濡れたままの手を取る。手を引いて居間に入った。
「スリッパ、この辺で脱いで」
「どうしてですか?」
 そう訊ねながらも、安楽は信治の言う通りに従ってスリッパを脱いだ。
「うーん、どうしてでも!」
 信治は安楽の手を握ったまま居間から続くテラスに出た。煉瓦敷きのテラスはそれ程広くなく、スチールのテーブルと椅子があるだけだった。今はどれも雨に濡れている。信治は裸足だったが、構わず歩いて行く。
「うわー、濡れる濡れる」
「信治くん、これは……」
「水遊び! もし気乗りしなかったら優人さんは先に部屋の中に戻ってて」
 高揚した声で信治は答え、安楽を引いていた手を離し天に両手を伸ばした。雨足はそれ程強くない。霧のように優しい雨が信治の手の平に降り、パーカーの袖を濡らし中に侵入していく。顔が濡れ、髪が濡れる。
「俺、一回でいいから思いっきり雨に濡れてみたかったんだ。携帯が壊れるとか、荷物が駄目になるとか、風邪引くとか、人目とか、そういうの気にせずに」
 信治はそう言ってくるくると回った。
「優人さんは?」
 返事を待たず、テラスの端に腰を下ろした。足を置くのは庭に敷き詰められた小石の上だ。テラスと庭の高低差は十センチほどしかない。体重を掛けると防犯用の小石は雨の中でも音を立てた。
「僕もです」
 安楽はそう言って信治の横に腰を下ろした。
「僕も、ずっと昔はこんな雨の日に体を濡らしてはしゃいでみたいと思っていました。……今、思い出しました」
 横顔を見ると安楽はちょうど目を閉じるところだった。顔を上げて心地よさそうに肩の力を抜いている。信治は嬉しくなった――自分たちは喜びを分かち合っている。
 二人は暫くの間静かに寄り添っていた。身動きもせず、話もしない。信治は思考も手放して雨を味わっていたが、濡れて額に纏わりつく前髪が段々と鬱陶しくなり、手でそれを後ろに撫でつけた。手を下ろしたところで視線を感じ、横を見る。
「ちょっと格好良くなった?」
 ふざけてそう訊ねてみると、安楽は小首を傾げた。
「……やっぱり俺、髪上げてもまだ子どもっぽい? 高校生に見える?」
 鏡を見ずとも自分の顔の造形は承知している。他人の目に自分がどう映っているかは簡単に想像出来た。だが、少し期待した。
「そうですね。少なくとも僕の目にはそう見えます」
 その返答は想定の範囲内だった。それでも実際に耳にしてしまえば無傷ではいられない。信治はうーんと低く唸り、安楽の頭に手を伸ばした。自身と同じように前髪を後ろに流してみる。中性的な風貌が、額と眉が露わになることで変化を見せた。
「……何かめちゃくちゃ格好良くなった」
 信治はがっくりと肩を落とす。安楽もそう変わらないことを期待してやったことなのに、逆に年齢差が広がってしまったような気がした。溜息を吐く。
「……信治くん、こんな僕は嫌ですか?」
「嫌じゃない。格好良い優人さんも好きに決まってる。大好き。押し倒したくなるくらいかわいい」
 間髪入れずに答え、安楽の頬に手の平を当てた。
「俺はどんな優人さんも好きだよ」
 安楽は信治の目を見つめ、ゆっくりと瞬きをし、手の平に擦り付いた。
「『押し倒したくなるくらい』?」
「……うん」
 信治は頬に当てた手を肩に置いた。頭を打たないよう気を配りながら安楽の身を煉瓦の上へと倒し、その上に覆い被さる。伸ばされた手に誘われて口付けた。
 雨足は徐々に強まっていた。重さを感じさせない柔らかさで体に触れていた雨粒は存在感を増し、信治の背中を、信治の後ろに回された安楽の腕を打つ。二人は構わず口付け合った。互いの濡れた唇を、あたたかな咥内を味わう。
 水気を含んだ布地の上から肩を撫で、それから体に直接触れようと安楽のシャツの中に手を入れた信治は、その肌の思わぬ冷たさに顔を上げた。
「優人さん。中に戻ろう」
 安楽は信治をぼんやりとした目で見上げて頷いた。信治は立ち上がり、安楽の手を取った。ずしりと重たい感触。雨水は服の隅々まで染み込んでいるだろう。このまま居間に入れば絨毯はずぶ濡れだ。安楽を立ち上がらせると、信治は安楽のシャツのボタンに手を掛けた。
「服……ここで脱いじゃおうか」
 シャツの下には何も着ていない。濡れて透けた肌がぴたりと張り付いたシャツ越しに窺える。ボタンを外し、前を開いて肩から落とす。首に口付けながらベルトを外した。スラックスを下着ごと下ろせば、既に勃起しかけている性器が目に入った。
「もう?」
 屈み込んで靴下を脱がしながらからかうように言う。だが興奮しているのは信治も同じだった。ジーンズの前を押し上げているそれは、もう痛いほど張り詰めている。安楽は信治を見下ろし、そして信治の腕を取って立ち上がらせた。
「僕にも……僕にもさせてください」
「うん。脱がせて、優人さん」
 パーカーの裾に手を掛けられ、中に着ていた薄手のシャツと共に頭から引き抜かれる。乱れた髪を撫でられ、それから下も脱がされる。安楽はそのまま信治の股間に触れようとしたが、信治はその手を掴んで制止した。
「風邪引いちゃうから、中に戻ってからしよう」
 脱ぎ捨てた服をそのままに、安楽の手を引いて居間に戻った。点々と足跡を残しながら浴室に入る。充満していた湯気が二人の体を心地良く包んだ。
「信治くん」
 軽くシャワーで体を流してから浴槽に入るつもりだった。だがお湯を出す前に、安楽に抱き寄せられてしまった。整った顔が近付いて、自然に唇が合わさる。信治はそれに応えながら安楽の背中を蒸気で濡れた清潔なタイルの壁に触れさせ、追い詰めるように体を密着させた。そして股間の昂りを押し付ける。
「信治くん……」
 唇を離して、安楽は請うような声で信治の名前を口にした。熱い息が信治の唇に吹きかかる。信治が頷いて少し身を引くと、安楽は嬉しげに目を細めて跪いた。その手は信治の腹に触れ、臍を撫で、指先は陰毛の中に潜り込む。安楽は性器の根元を掴み、口を開いて舌先を覗かせた。それは先端の小さな穴に触れ、先走りを舐め取った。あたたかく、ぬるりとした感触に芯が疼く。安楽は吐息を漏らして信治のものを刺激し始めた。先端にキスをし、軽く口に含み、舌を這わせる。堪らなく気持ちが良かった。咥内はやわらかく濡れていて、舌は熱心に絡んでくる。信治は壁に片手をつき、もう片方で安楽の頭を撫でた。
「ああ、優人さん……」
 安楽はいつも信治のものを舌で、口で愛撫したがった。信治も安楽を同じように可愛がるのが好きだったが、安楽はそれ以上にこの行為を好んでいた。信治の拙いそれを模倣した舌使いは回数を重ねるごとに変化し、今では巧みに信治を追い詰めるようになっていた。震えそうになる足で体重を支え、信治は荒い息を吐いて壁に爪を立てる。限界が近い。急激に下半身へと熱が集まり、頭が真っ白になる。ねだるように吸いついた唇に導かれて信治は達した――目をきつく閉じ、声を上げ、無意識に腰を動かして安楽の咥内にどくどくと熱を吐き出す。はっ、はっ、と犬のように荒く息をしながら壁に短い爪を立てて動きを止めた。ずるりと性器を引き抜き、瞼を開く。目が合った――潤んだ目が信治を見上げていた。小さく開いた口、舌の上には吐き出したばかりのものが見えた。安楽は口を閉じ、ごくりと喉を動かしてそれを飲み込んだ。解放感に弛緩していた体が愛しさで満たされる。信治は安楽と同じように膝をつき、座り込んで安楽の胸に吸いついた。立ち上がった乳首を唇で軽く食み、安楽の股間に手を伸ばす。それを握り込んだ瞬間、安楽は信治に縋りつきながら呆気なく射精に至った。信治は崩れ落ちそうになる体を抱き締め、その震えが収まるまで頭を、首筋を、背中を撫で続けた。

 呼吸が落ち着いた頃、二人は体を流して湯船に浸かった。心地良い疲労感。少しぬるくなってしまった湯は体温の上がった体にはちょうど良かった。広々とした浴槽で二人は体を寄せ合い、信治は安楽を後ろから抱く形で落ち着いた。
「何か、楽しかったね」
「はい」
 抱いた体はあたたかく、雨に濡れて落ちた体温は十分に取り戻せたようだった。ほっと安堵する。
「あんな風に、外で裸になったのは初めてです」
 安楽の声は普段よりゆったりと聞こえる。体と同じように力が抜けていた。
「俺も。あんなことしたの生まれて初めてだった」
 こうして平常の状態に戻って思い出してみると、何だかとんでもないことをやってしまったような気がする。今同じことをしろと言われたら躊躇ってしまうだろう。非現実的で、自分ではない誰かの行為だったように思えてくる。だが信治の胸には後悔も、羞恥心もなかった。誰も見ていなかったと確信を持っていたからだ。あの雨の中、世界に存在していたのは二人だけ、自身と安楽だけのように思えた――そして今もそう感じていた。家族も、友人たちも、今は厚い膜を隔てた別世界の住人のようだった。
 寂しさは感じない。安楽が全てを満たしてくれる。満たしてくれている。
「――信治くん」
 心地良さに目を閉じて暫くした頃、優しく名前を呼ばれて意識をまどろみの中から取り戻した。いつのまにか安楽は体の向きを反転させている。
「どうしたの?」
 訊ねると、安楽は信治を見つめながら信治の肩に両手を置いて膝の上に乗り上がった。安楽の右手は信治の額に伸び、下りた前髪を後ろに流した。案外気に入っていたのかもしれない。その指先は信治の眉をゆっくりと辿り、目尻に下り、頬を撫でて唇に触れた。信治はほんの戯れにその指先を口に含み、やわく歯を立てた。安楽はびくりと体を震わせたが、手は引かなかった。
「……僕を食べるんですか?」
 信治は口を開いて顔を後ろに引き、指を解放して首を横に振った。
「ごめん」
 安楽は瞬きをし、不思議そうな目で信治を見る。何故謝るんですか、とその目は問うていた。
「信治くんがそうしたいのなら、僕は――」
「俺は優人さんにそんなことしたくない」
 何か恐ろしいことを続けようとした声を遮って答える。心臓が激しく動揺していた。それに気付いているのかいないのか、安楽は噛まれた指の関節を曲げ、そして伸ばした。
「同じ場所を、父に生前噛まれたことがあります」
 安楽はその手を信治の肩に置いた。
「……お父さんに?」
「はい。亡くなる四日前のことです。僕は料理中の火傷で指に水膨れを作っていました。いつものように父に食事させていると、父はおもむろにスプーンを持った僕の手を取り、指を口に運びました。父はその歯で水膨れを裂き、中の体液を舐め、そしてその下のまだ柔らかい皮膚を上下の前歯で浅く削り取りました」 
「僕は黙ってそれを見ていました。父が僕の一部を目を閉じて味わい、嚥下するのを。暫くして父は溜息を吐き、そして小さく『もう遅い』と言って僕から顔を背けました。父ははっきりとそうだと口にしませんでしたが、最初に倒れて以来、味覚障害の症状が強く出ていたのだと思います。僕は自分が、それまで用意していた食事と同じく父にとって無価値な存在なのだと気付きました。父があれは美味しかったと話すのはいつも倒れる前に口にしたもので、その中でも僕の母は他の誰より素晴らしかったと――」
 安楽はそこで言葉を途切れさせた。呆けたような顔で「ああ」と呟いた。
「きっと僕も……どこかで、そんな風になりたかったんです」
「……お父さんに……食べられたかった?」
「いいえ」
 安楽は殆ど唇が触れる寸前まで信治に顔を近付けた。
「誰かにとっての特別なものになりたかったんです。僕にとって特別な誰かの」
 鼻先が擦り合わされる。甘えるような仕草。
「今やっと気付きました。そしてその誰かは……信治くんなのだと。僕は……、僕は信治くんに食べられたい。僕のこの肉を、信治くんに味わって欲しい。父が母を愛したように、信治くんに僕を愛してほしい」
 そして一つになりたい、と安楽は夢見るような口調で言った。
「優人、さん……何、言って」
「僕は信治くんにそうして欲しいんです」
「俺は……俺は優人さんを愛してるよ。今でもこんなに、本当に優人さんのこと大事に思ってる。そんなことしなくたって、俺は優人さんとずっと」
 唇を塞がれて、それ以上を口に出来なくなる。だがその口付けは乱暴で押し付けがましいものではなかった。優しく穏やかに触れた唇は、呼吸を一つする間に離れて行った。
「信治くん」
 安楽は微笑んでいた。その目は信治に、ただこう言っているように見えた――あなたが愛しい。
 
 外は土砂降りの雨になっていた。ガラス越しに見えるのは庭までで、敷地の外は殆ど真っ白に染まっている。隔絶された世界だ、と信治は思った。誰もここに足を踏み入れることは出来ず、ここからどこかに出て行くことも出来ない。その考えは初め絶望と共に地下室で生まれ、見知らぬ男の死をきっかけに安楽を守り安楽から誰かを守るための願望として変化し、安楽と肉体的な繋がりを持つことで揺らぐことのない確信に変わっていた。永遠に誰にも邪魔をされない閉じた世界――そこに生きている、という確かな実感が信治にはあった。
 だがそれと同時に、信治は自身の精神の深層にある暗がりをどこかで感じていた。
「信治くん。食べないんですか?」
 カーテンを閉め、振り返る。安楽はソファに座り、右手にスプーン、左手にアイスクリームのカップを持っていた。冷凍庫に残っていた最後の一個だ。
「俺はいい。それ、優人さんが全部食べて」
 安楽は不思議そうな表情をしている。それは普段安楽の手作りを欲しがる信治が、珍しく気に入って欲しがった製品の一つだった。
「お腹空いてないから……優人さんが食べるのを見てるだけで十分」
「何か別のものを持って来ましょうか?」
「ううん」
 安楽の隣に座り、促すように目を見る。安楽は頷いた。
 チョコレート味のアイスクリームが銀色のスプーンに薄く掬い取られ、上唇にそっと触れて口の中へ消えて行くのを観察する。安楽はすぐには飲み込まず、それを舌の上で溶かしているようだった。ゆっくりと味わうのに十分な時間が過ぎ、安楽の白い喉がごくりと動くのが見えた。
「優人さん、それ美味しい?」
「はい。冷たくて、甘くて、とても美味しいです」
「そっか」
 『美味しい』。その言葉を安楽が口にするようになったのは、ごく最近のことだ。それまではごく機械的に、優雅ではあるが無感情に食事を口に運んでいただけだった。栄養補給のため、というより単にそうすることになっているからそうしているだけとでも言うように。信治と食事を共にする、という付加的要素が無ければ、食べ物を咀嚼し、味わい、食欲を満たすという行為に安楽が魅力を感じていなかったのは間違いないだろう。それが今では、こうやってごく普通に味わい、楽しんでいる。
 食事以外のこともそうだ、と信治は思った。物に触れること、見ること、感じること、話をすること、触れ合うこと。どれも安楽は楽しんでいるように見える。静かに、だが情熱的に。信治はそれを素晴らしい変化だと、安楽が人間らしさを取り戻している兆候だと捉え、喜びすら覚えていた。誰に傷付けられることもなかった幼い子どもの頃に戻って、新しい人生を自分と生き直しているのだと。
 絶えてしまった希望をもう一度取り戻せたと思った――だが違った。この先安楽の壊れた心が、歪な精神が、元通りの形になることは決してない。どんなに思い合っていても、どんなに深く繋がり合っていても、安楽優人という人格の基礎が揺らぐことはない。おそらくその機会はずっと昔に失われてしまったのだ。芽生えた感情、感覚、欲望は全て、恐怖と苦痛で押し潰されてしまった器の中にある。
「優人さん」
 最後の一口を食べ終わった安楽の手から空のカップとスプーンを取り、テーブルに置いた。頬に手を当て、唇を合わせる。舌を伸ばせば咥内に残ったやわらかな甘みを感じることが出来た。深く口付けると安楽の鼻腔から吐息が漏れる。信治は甘い舌を自身の咥内へと誘い込んだ。優しく舐め、軽く吸って、指をそうしたときのように上下の前歯で軽く挟む。安楽は目を見開き、そして閉じて信治の体に回した手に力を入れた。体が密着する。そこから先はこれまでにない程の勇気がいった。顎の力をぐっと強め、安楽の舌を押し潰すような勢いで圧をかける。そして信治は想像した――このまま噛み切って咀嚼し、胃の中に収め、溢れるあたたかな血を飲み干すことを。それが愛する人の望みなら叶えてやりたかった。そう出来ればいいと、そうしたいと思った。安楽がどれほどの異常性を抱えた怪物であっても、その心に寄り添いたいと思った。
 やわらかな肉にじわりと滲み始めた鉄の味が、どちらのものかも分からない唾液と絡んだ。信治はそれが自身の舌の上に載るのを感じた。どくりと激しい動悸がして、信治は口を開け唇を離した。
「う」
 思わず呻いてしまったのは、開いたままの安楽の口から覗く舌の上に赤を見たからだった。体が冷たくなり、ぐらりと強い眩暈に襲われて安楽の肩に顔を埋めた。
「ごめん、優人さん……ごめん」
 安楽は何も答えず、信治の背中をそっと撫でた。それは信治の胸につかえた吐き気をいくらか和らげた。
「俺には、俺にはやっぱり出来ない……どんなやり方でも……たとえそれが優人さんでも、人間を……食べる、なんて無理だよ」
 どんなに安楽を思う気持ちがあっても、肉体は禁忌を犯すことを、安楽を傷付けることを、他人の体を損なうことを拒絶している。信治は瞼を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。安楽の吐息を聞き、体温と手の平の優しさを感じていると、徐々に気分が落ち着いてくる。大丈夫だ、と信治は胸の内で呟いた。それが出来るか試す前から結果は分かっていた。分かっていてやったのは、自分が最後に選び取るであろう選択肢がどうしても避けられないものだという確信を得るため、そして安楽にもそれを理解して欲しかったからだった。
「優人さん」
「はい」
「優人さんは……お父さんの為じゃなく、ただ誰かを食べたいと思ったこと、ある?」
 安楽は手を止めて一呼吸分沈黙し、そして答えた。
「あります」
「いつから?」
「はっきりとは分かりませんが、信治くんと初めてセックスした日から、少しずつその欲求が強まっていったように思います」
「そう、じゃあ今も?」
「はい。今も」
「その対象は誰?」
「それは――信治くんです」
 その言葉を聞いても、もはや信治の胸に恐怖が訪れることはなかった。逃げ出したいとも、安楽がそんなことを感じるのは間違っているとも思わなかった。安楽も変わったが、信治も変わったのだ。二人は互いに影響し合っていた。人形のように無感情だった安楽は信治のように何かを感じ始め、そして信治は安楽の世界にある淀みを一滴手に取って飲み干した。安楽の中に流れ、安楽を構成していた水は、雨が土に染み込むように信治の中へ深く入り込み、その精神に光では照らせない暗がりを作った。
「いいよ」
 信治は頭を上げ、安楽と顔を合わせた。頬を撫で、親指で唇の端に零れた唾液を拭う。それには薄らと血が滲んでいたような気がした。
「優人さんになら、いいよ。優人さんのこと、本当に愛してるから」
「信治くん」
 安楽は目を瞬いている。驚いたのかもしれない。
「ねぇ優人さん、もし、俺が優人さんを食べることで俺たちが一つになれるのなら……反対でもきっと上手くいくと思うんだ。……優人さんは、どう思う?」

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