22.食事(終)

 雨が降り続いている。安楽は肌に当たる水の感触に目を閉じていた。それは激しく頬を、首を、肩を、手を打ち、あっという間に服をずぶ濡れにする。その水は安楽が身を横たえたベッドのスプリングにまで染み込もうとしていたが、体温を急激に奪ってしまうような冷たさはない。安楽が浴しているそれはむしろ温もりを持っている。安楽の体温と同程度にあたたかく、当たりは滑らかだ。恍惚としてその温もりを味わっていると、安楽はふと開いた口の中に錆びた金属のような味と臭いを感じた。歯を立てられたときの傷はとうに治っていた筈だ――だが明らかに血の味だ。それは戸惑いを覚えた安楽の舌の上で花開き、咥内に溢れて歯を浸し、鼻腔にまで侵入して息苦しさを感じさせた。そうだ、これは血だ。血の雨が降っている。酸欠と混乱にもがきながら安楽はそう気付いた。瞼を開くと、真っ黒な瞳が目に入った。
「信治くん」
 いつも愛情深い光を湛えていたその瞳には力が感じられない。安楽は信治の頬に手を伸ばした。弛緩している。目が開いていなければ眠っているときと同じだ。
「信治くん」
 傷一つ無い顔、やわらかな輪郭を辿って首に下りると、噴き出していた血の出所が明らかになる。今はもう噴き出すほどの勢いは無くした血が、左右の頸動脈を正確に切断した二つの傷口からどくどくと溢れている。安楽はその傷口に手をやり、止血の為に圧迫した。だがもう遅い。遅すぎる。二人の間に落ちた見覚えのあるナイフが信治を傷付け、大量の血液を体外に排出させ、そして意識を消失させた。取り返しのつかないところまで来ている。今から救急車を呼んでも間違いなく間に合わないだろう――信治はもう殆ど、死んでいる。安楽は信治の名を呼びながらその体を抱き締めた。命の灯が消えつつある体はずしりと重たく、その腕は安楽を抱き返してはくれない。安楽は一瞬信治が震えているように感じたが、実際に震えているのは安楽の体だった。ここで起こったこと、そして今ここで起こっていることが、安楽の精神に、そしてそれが宿る体に強い影響を及ぼしていた。
「嫌だ、嫌だ……」
 安楽は泣き出し始めた。まるで子どものように嫌々と頭を振りながら、涙を流す。
「死なないで、死なないでください」
 腕に抱いた体は返事すらしない。心臓は止まってしまったようだった。安楽は震え、血に塗れた顔を歪めた。痛みに呻いているような泣き声が血に淀んだ空気を更に湿らせる。安楽に抱かれた信治の体はぞっとするような早さで温もりを失っていく。安楽は涙に揺れる声で何度も呼び掛け、懇願し、信治の体をその手で擦った。
 虚しく長い時間が一人と一つの死体の上を通り過ぎ、安楽は憔悴した顔を信治の髪から引き上げた。そして小さく息を吐き、そっと信治の顔を見る。
 そこにあったのは魂の抜けがらだった。

 ――悪夢から覚醒した安楽は、じっとりと汗をかいた体を起こした。瞳に留まっていた涙が重力に従って頬を流れた。指で拭って掛け時計を見る。午前四時、窓の外はまだ暗い。安楽は伸びをしてもう一度ベッドに上体を横たえた。ごろりと動いて横向きになると、鼻に近付いたシーツからむっとする臭いが漂ってきた。腐った血の臭い――そう、悪夢と同じようにここで信治が死んだ。安楽は鼻を真っ白なシーツに押し付けた。その臭いはひどく不快であり、同時に心地良くもあった。信治のにおいだ。安楽は信治が死んだ血塗れのシーツの上で毎晩眠っていたが、数日後に不都合な事態が起こり、マットレスを残して処分しなければならない羽目になってしまった。だから今はシーツの下、マットレスの奥に染み込んだ僅かな血の痕跡を嗅ぐだけだ。それでも十分なほど血は臭う。まるでそれ自体が一つの生命体のように強く自身を主張しながら存在している。
 安楽は暫し鼻腔に広がるそれを味わったあと、裸足のまま床に下りた。ワックスがかかったフローリングを己の足の皮膚で踏みしめる。信治がいつもそうしていたように、ぺたぺたと音を立てて歩く。部屋を出て階段を下り、その足で浴室に向かった。汗を吸ったTシャツとトランクスを脱ぎ、洗濯籠に入れる。高めに設定したシャワーの湯を頭から浴びると、刺激を受けた体が、細胞がざわざわと目覚めていくのが分かった。初夏の香りがし始めたこの時期に、冷や汗で体温が下がってしまった肌があたたまっていくのを感じる。
 安楽はふと、咥内に違和感を覚えた。何か小さな異物が舌の下にある。取り出して見てみると、それは小さな骨だった。安楽は骨を咥内に戻し、飴のように転がし始めた。昨夜しゃぶりながら眠りに就き、今の今まで存在を忘れてしまっていたらしい。それは信治の人差し指、短く折って歯で尖りを削ったものだった。頬の内側をそれで撫でれば、最後に信治に触れられたときのことが蘇ってきた――。

「優人、さん」
 掠れた声で名前を呼ばれて、その晩安楽は目を覚ました。隣で眠っていた筈の信治は何故かベッドの側に座り込んでいる。間接照明に照らされた信治の顔色は随分悪く見えた。安楽は不審に思い、上体を起こした。
「信治くん、どうしたんですか?」
 信治は肩で息をしながら瞬きをし、安楽の前にそっと手を置いた。その手には何かが握られていた――ナイフだ。安楽はすぐにそれがどこから持ち出されたものか悟った。キッチンの包丁立てに仕舞っていたものだ。血塗れのそれから信治は手を離し、ベッドに背を凭れた。
「――して、優人さん」
 初めの方は声が震えていて聞き取れなかった。だが信治はすぐに言い直した。
「俺を、楽にして」
 安楽は呆然と信治の顔を見つめ、それから息を吸い込んで信治の横に下りた。開け放ったままのドアからベッドまで点々と落ちている血溜まり。真っ赤に染まったTシャツ。信治は腹部を押さえていた。酷い怪我をしていることが一目で分かり、ざっと背筋が冷たくなる。
「信治くん、待っていてください、すぐに助けを」
「行かない、で」
 立ち上がりかけた安楽の手を信治が掴む。その手の力は弱弱しかったが、ここにいてくれと目で強く訴えられて安楽はふらふらと膝をついてしまった。信治の腹に手を伸ばし、血塗れの手の上に己の物を重ねる。これで血は止まるだろうか。
「かっこわるいこと、してごめん……ホントは自分でやるつもり、で……地下室に行ったんだけど……深く、刺せなかった。凄く痛くて、……だから、戻ってきたんだ」
 途切れ途切れの声を聞きながら安楽は傷口付近を窺い、出血場所が一か所でないことに気付いた。Tシャツを捲って見てみれば、圧迫している場所以外にも薄く血を流している浅い傷があった。それは病んだ少女が手首に刻む躊躇い傷にどこか似ていた。
「優人さんの代わりに……自分でやろうと、思ったのに、ごめん……ごめん、優人さん」
 暴力を嫌い、血を恐れ、苦痛と死を避ける信治が、一体何の為に自らの腹を刺したのか。それがもっと前に起こったことなら不思議に思っただろう。だが安楽には分かっていた。確かな動機を知っていた。
 そう、死んでその身を恋人に与えるためだ。
 安楽の欲望は強かった。一口ではとても足りない。切り取ったほんの一部だけでは満足出来る筈がない。その肉を余すところなく味わってみたい――そういう欲望を、確かに抱いていた。だが傷付けることは出来ない。食べてもいいと許しを与えられたとき、強い魅力を感じながらもそう答えた筈だった。信治を殺すことなど出来ると思わなかったし、死んで欲しくなどなかった。それなのに。
「お願い、優人さん……それで、俺を」
 楽にして。少し前に聞いた言葉を、信治は繰り返した。選んだ方法が懸命ではないと気付くことは出来なかったのだとしても、出血量からすると死ぬまでに時間が掛かることは信治も予想出来たのだろう。このままでは長く苦しむことになるに違いない。
「だけど僕には……、僕には出来ません」
 その返答を聞くと信治は目を閉じて長く息を吸い込み、それから目を開けて微笑み、腹に置かれた安楽の手をそっと退けた。
「じゃ、あ、このままここで……俺の側で、じっと、してて……終わるまで……」
 言葉で答える代わりに、安楽は信治の手を握った。
 そして父親が体の自由を失って以来事あるごとに口にしていた言葉を思い出した。その手で殺してくれ。それが出来ないのなら、次は間に合わなくなってから助けを呼んでくれ。安楽は父親の言う通りにした。ベッドから転がり落ちて倒れている父親の姿を、十分な時間が過ぎるまで何もせずにただじっと眺め続けていた。
 あの時は何も感じなかった。心を揺り動かすものはなく、肉体的反応も何も起こらなかった。
「優人さん……優人さん……」
 か細い声で名前を呼びながら苦痛に耐える信治の姿に、自分が心で何を感じているのか、安楽には分からなかった。だが手足の感覚がぼやけ、震え、胸が焼けるような感覚と頭痛に襲われ、息苦しさを感じている。安楽は激しく動揺していた。信治の腹から漏れ出る血液は手を焦がすように熱い。
 痛みによってか信治は一度気を失った。安楽は前に倒れ掛けた体を両手で押し止め、それから抱え上げてベッドに寝かせた。信治はすぐに目覚め、安楽の名を呼び、呻き、涙を流し、荒れた息を吐き、苦しみ出した。安楽はじっとそれを見つめていた。信治の言う通り、積極的な延命措置は何もせず、助けを呼ぶこともなく、ただ側にいて、信治を見つめ続けていた。そうしている内に、安楽は自身の視界が一瞬酷く明瞭になり、それからぼんやりと曇るのを感じた。
「泣いてるの……」
 そう言われて、安楽は自分が涙を流していることに気付いた。
「大丈夫……俺はいなくなったりしないよ……ずっと、優人さんの側に、いる」
「……本当に?」
「うん……」
 信治はそう言って頷き、また苦しげに呻いた。額に浮いた脂汗が前髪を濡らして張り付き、眉間には深い皺が寄り、頬と唇は真っ青だった。安楽は無意識に、ベッドの端に置かれたままのナイフに手を伸ばした。料理用だが、使いやすいように鋭く研いである。
「信治くん」
 ナイフを持ち上げると、信治は微笑んでゆっくりと溜息を吐き、安楽の頬に手を伸ばした。その指は安楽の肌を撫でながら下に落ちた。
「ありがとう……好きだよ……優人さん」

 安楽は骨を歯の間に挟み、圧を掛けた。一度焼いたせいか砕くのは難しくなかった。音を立てて形を崩したそれを、更に噛み砕いていく。ざらりとした感触。砂を口に入れたようだった。出来る限り小さくし、唾液で喉の奥にやって飲み込んでからシャワーを止めた。
 浴室を出ると、棚からいつものように信治の服を取り出して身に付けた。下はいつも少し短く感じるが、上のサイズは同じだ。裸にふわりと馴染むパーカーはあの雨の日に信治が着ていたものだ。数日の間雨晒しになっていたせいか前面のイラストがぼやけて見える。安楽はそれを指先でなぞった。
 髪を乾かしてキッチンに入り、少し早めだが朝食の準備を始める。冷蔵庫を開けると、ぎっしりと収められた大量のタッパーとラップの掛った皿が安楽を迎えた。全て一つの体から取り出し、保存の為の処理を施したものだ。既に食べてしまったもの、流してしまった血液、胃腸の内容物、体毛以外の全てがここと冷凍室にある。これまで使っていたクーラーボックスは信治が肉ごと処分してしまったし、これまで捨てて来た部位も出来る限り残そうとすればそれに収まる筈もなかった。それに――父親はもういない。地下室で事を行い、そして貯蔵していたのは、ひとえに安楽の母親の為だった。彼女は夫の趣味を野蛮だと思っていた。山で動物を狩り、持ち帰って生き物から肉片に変える夫を恐れていた。この家にある地下室は彼女の目に見えない場所、生活しない場所に隠すため作られたものだ。しかしここに彼女の幻影が現れることはない。彼女を呼んでいた一人の男を、安楽がもう必要としていないからだ。
 安楽はタッパーを一つ取り、冷蔵庫のドアを閉めた。脂を入れて加熱したフライパンに中身をあける。五本の腸詰肉だ。きれいに洗浄した後に塩漬けで保存し、戻して中身をぎっしりと詰めた腸はきらめいている。数種類のハーブを混ぜた肉は加熱前でも食欲をそそる色をしていたが、火が通ると更に安楽の食欲を増進させた。油の上で皮が縮む音、キッチン中に広がる香ばしさ、焼き目のうっとりするような美しさ。真っ白な皿に焼き立てのパンと共に載せ、グラスに注いだミネラルウォーターと共にダイニングテーブルへと並べる。栄養学的な問題がないわけでもないが、シンプルで素晴らしい朝食だ。
「いただきます」
 初めに水を一口、それから腸詰肉に取り掛かった。フォークを入れた瞬間に小さく、歯で噛み力を入れた瞬間に大きく皮が破ける音が聞こえる。熱い肉汁が漏れ出し、舌に溢れ唇を濡らした。荒く挽いた肉は歯の間で弾け、癖になるような食感だけではなく濃厚な香りと味わいを出して安楽を楽しませる。肉には脂肪の甘みがあり、舌がとろけるようだった。安楽は五本の内二本をそのまま食べ、残りはナイフで小さく切りながら食べた。皿に残った肉汁はパンを浸けて余すことなく胃に収め、唇に付いたそれも無意識に舌で舐め取り、目を閉じてゆっくりと余韻を味わった後、咥内に残った残滓を流し込むように水を飲んだ。
「信治くん、ごちそうさまでした」
 その言葉は単なる習慣として口にされたわけではなかった。安楽は今口にした食事が何を元に作られたか理解している。どうやって死体が食べ物に変わったのか、その過程を思い出すことが出来る。地下室で解体したときのことを瞼の裏に思い浮かべることが出来る。それらはどこか靄のかかった映像で、自らの行いだという実感は無かったが、確かにこの素晴らしい贈り物を与えてくれたのは信治だった。
 だが贈り物は信治であって信治ではない。これまで口にした何よりも素晴らしいが、そこに人格は宿っていない。ただその残り香を感じるだけだ。

 早い時間に片付けや掃除を済ませて自室に入った。窓を開けると蝉の鳴き声が聞こえ始める。その中に木々のざわめきが混じるのは風があるからだろう。小さな窓からも心地良い風が吹き込んでくる。安楽は棚から本を一冊手に取った。それには革のカバーを掛けてある。父親がその手でなめしたものだ。父親がこの世で唯一愛したもので出来ている。他にもいくつか記念品のようにして作られていたが、与えられたのも残ったのもこれ一つきりだった。残りは全て貪欲な父親の胃の中に収まってしまった。安楽にとって、安楽自身を除けば母親が遺した唯一の形見になる。それは父親と自身の相違点を探すための鍵であり、母親と過ごした短い日々の記憶を補完するための拠り所であり、また、ふとした瞬間に父親の支配力を感じさせられる棘の付いた重たい枷のようでもあった。だが今はどんな意味合いも持っていない。今安楽にとって重要なのは中身の方だ。
 凄く面白いから優人さんも読んでみてください。そう言って渡されたのは随分前のことだ。一度信治がこの家から出て行く前に買い与えていた本の中の一冊だ。他にも数冊そうやって渡された。信治は滅多にそれを開く暇を与えてくれなかったが、あの日からどれも繰り返し飽きることなく読んだ。この本を読むのも七回目になるだろうか。内容はとうに頭に入っているし、大部分は暗唱出来る。可愛らしい絵柄の挿絵も随分と見慣れてしまった。
 それでも安楽はその本を持って椅子に腰を下ろし、一つの空想世界を開いた。そうするときいつも安楽の中にあるのは、信治が面白いと感じたものを同じように面白いと感じたいという気持ちだった。両親の間には無かったものが安楽と信治の間にはある。互いに求め合い与え合いたいと思う感情、一つになりたいという欲望が。生のまま齧り付いた心臓、圧力をかけて柔らかくした骨、切り取った脂で焼いた肉。少しずつ安楽の血肉となりつつあるそれらが肉体と肉体の垣根を無くし、そして同じ欲求を抱えた精神の同化も可能にしてくれる筈だった。
 乾いた紙のページを捲るたび、安楽はそこに信治を見つけようとした。栞が挟まれたページの挿絵を眺め、このキャラクターが好きだと言って指差した青年の顔を指先でなぞり、彼が文章の中を動き回る姿を何度も辿った。だが安楽にとって彼は非人間的な存在であり、物語には共感できることなど何一つ無く、その本が与えてくれるのは無味乾燥な時間だけだった。
 本の終わりが近付くにつれ、安楽の意識はぼんやりと本の世界から抜け出し、薄れ始めた。窓の外から聞こえていた蝉の声が段々と遠ざかっていく。やがてページを捲る音はぴたりと聞こえなくなった。一瞬安楽の体が小さく揺れ、そしてその視界に一人の人間の姿が現れた。
「優人さん、またその本読んでたんだ」
 信治は机の端に両肘を置き、その上に顎を載せて安楽に笑い掛けていた。
「信治くん」
 本を持つ手が震えた。それは机の上に落ち、小さく音を立てた。
「驚いた?」
 安楽は呆然と信治を見つめた。
「信治くんはいなくなってしまったんだと……思っていました」
「俺はどこにも行かないよ。ずっと一緒にいるって、ずっと優人さんの側にいるって約束したから」
「……でも、信治くんは……」
 死んでしまったのだと思っていた。その喉を切り裂いたときの感触、命の灯が消えて行くときの息遣い。それらは古いモノクロ映画のように何度も繰り返し安楽の中に映し出され、自らの手で信治を人から肉へと変えてしまったときに覚えた虚脱感は、今なお思考の全てを覆っていた。
「俺はいつも優人さんの側にいるよ」
「本当、ですか?」
「うん」
 信治は立ち上がり、安楽の頬に手を伸ばした。安楽はそのあたたかな手に己のものを重ねた。そう、これは確かに信治の手だ。これがずっと恋しかった。あんなに味わってみたいと思っていた肉は、確かに素晴らしかったがどこか虚しかった。
「僕は……後悔していたのかもしれません。あんなに満たされていたのに、あれ以上を欲しがるなんて」
「じゃあ、それは――あれ以上のものはもう手に入らないと思ってる?」
「はい」
 信治はゆっくりと首を横に振った。
「優人さん。俺の書いてた日記を読んで」

 蝉の声が戻ってくる。安楽は視線と思考を彷徨わせ、暑さにじわりと滲んだ額の汗を手の甲で拭った。信治の姿は見えない。だが喪失の悲しみや恐怖はなく、どこかふわりと体が浮いているような感覚があった。
 立ち上がって部屋を出る。隣の部屋に入った。ドアから見て右手にはクローゼットがある。そこに信治が言ったものがあることは知っていた。地下室で暮らしているときに安楽が与えたノートに、信治が何かを書き込む姿を見掛けたことが何度もある。日記を書いていたのだとしたらあれ以外に心当たりはない。
 クローゼットを開けると、中にはパステルカラーの収納ケースが一つある。引き出しは四つ、ノートは最下段に仕舞われていた筈だ。信治は恥ずかしいからと頑なに中身を見せようとしなかったが、そこに置いていることを隠す素振りは見せなかった。案の定ノートはそこにあり、読まなくなった本や飽きてしまったらしいゲームソフトのパッケージの上に載せられていた。何の変哲もないごく普通の大学ノート。安楽はそれを手に取り、ベッドの上に腰を下ろした。

 その日、安楽が昼食を取ろうとキッチンに立ったのは日差しが和らいだ三時過ぎのことだった。普段より少し遅めの時間だ。空腹感は食事に彩りを与えてくれるだろう。
 冷凍室から昨日の内に冷蔵室に出しておいた脳味噌(半分以上欠けている。残りは既に食べてしまっていた)、煮詰めておいたスープ、背肉、調味料を取る。肉と脳味噌の三分の一に薄く下味を付けておき、揚げ物油を熱する。その間に鍋にスープと水を入れて温めた。骨髄が染み込んだスープから漂う香りは安楽の食欲を煽り、唾液の分泌を促した。下味を付けた肉と脳味噌に衣を付けて揚げ、沸騰したスープに三分の一の量の脳味噌を入れて香辛料を足す。残った脳味噌はソース用だ。小鍋に入れて熱し、濃い目に味付けする。
 出来あがった料理と共に食卓につき、食事を始めて少し経った頃、安楽は対面に座る人物の姿に気付いた。
「優人さん。日記は読んだ?」
「はい。全て読みました」
「そっか」
 日記は殆ど丸々一冊埋まっていた。日付の始まりはノートを渡したその翌日。可愛らしい挿絵と文章で三ページ以上にも渡って記されている日もあれば、一行で終わってしまう日も、一週間以上の空白もあった。破かれているページ、飲み物の染みらしきものが残っているページもあった。初めこそ整った丁寧な文章だったが、段々と崩れ、日を追うごとに体裁を気にしなくなっている様が窺えるようになっていく。勢いだけでペンを走らせたことが分かる誤字だらけの日、安楽の似顔絵らしきものだけが描かれた日、その日見た映画に影響されてか全て暗号で書かれた日。肝心の中身はと言えば、三分の一は読んだ本やプレイしたゲーム、見た映画やドラマの話。残りは殆ど全て、安楽に関することだ。
「僕のことをたくさん書いてくれたんですね」
「うん」
「あんなに、僕のことを……」
 信治は気恥ずかしげに頬を染め、椅子の上で体を揺らした。羞恥心を覚えるのも無理はない。あの日記は恋する男のそれだ。安楽の容姿、近くで嗅いだ臭い、感触、ふとした動作、作った料理、話したこと、共にやったこと、あらゆることがそこには綴られていた。出来ることならもっと触れてみたい、だけどそうするのは怖い、という迷いのある欲望は初めのページで現れ、以降揺れ動き、微妙な変化を見せながら進み、途中の空白を越えて、筆跡と文体から滲み溢れる無上の喜びへと辿りつく。
「恥ずかしいけど、優人さんが喜んでくれたなら良かった。……ねぇ優人さん、それ美味しい?」
 信治が指したのはテーブルに並んだ料理だ。ゆっくりと味わいながら食べているつもりが、既に半分無くなってしまっている。安楽は驚きに目を瞬き、そして頷いた。
「とても。信じられないくらい美味しいです」
「俺のことを感じる?」
 安楽は笑みを深くして頷いた。これはもはやただの抜け殻ではない。信治そのものなのだ。腹を満たす肉という以上の意味を持つもの、喉を潤し舌を喜ばせるという役割以上のものを与えられた何か。安楽が口にしているのは信治を構成していたもの、そして今、安楽の中で実を結ぼうとしているものだ。 
 そうして高揚の中、最後の一欠片が安楽の咥内で弾けた。滑らかで濃厚な味わい。信治との口付けのように甘かった。
 信治はテーブルの上に頬杖を突いて安楽を見つめていた。穏やかで愛情深い目。
「俺はいなくなってなんかない。優人さんが見るもの、触るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、感じるもの全ての中にいるし、いた筈だよ」

 その言葉の通り、安楽は全てに信治を見出すようになった。この家には信治の思い出が染み付いている。信治が足を踏み入れたことのない場所など残っていない。感情も温かみもなかった虚ろな家は、信治の手で余すところなく塗り替えられてしまった。そして安楽は今全ての中に単なる思い出以上のもの、縋り付いていた残り香以上のものを感じることが出来た。安楽は見るもの、触るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、感じるもの全てに意味を見出した。全てが少しずつ、安楽にそれ自身を語っていた。その思想、思考、価値観、感情、記憶、欲望、全てを。それらは安楽の中に降り積もり、組み合わさり、肉と絡んで沈み込んでいく。

 暑さが和らぎ蝉の鳴き声が変わる頃には、安楽と信治の肉体的な同化は終盤に差し掛かっていた。骨や皮や内臓はありとあらゆる調理法で楽しみ、味わい、消化した。残っているのは一塊の肉だけだ。
 骨盤の内側にある、一対の脂肪の少ない赤身肉。その内の片方が今、まな板に載せられている。光り輝いて見えるのは錯覚ではないだろう。艶やかで生々しい表面の水分がキッチンの灯りをきらきらと反射し、安楽の目に像を結んで、その美しさに言葉を失わせていた。安楽は包丁を手にしたまま顔を肉に近付け、そっと唇で触れた。やわらかく、少しだけ冷たい。
 包丁を入れ、適度な大きさに切って塩胡椒を振る。薄く丁寧に小麦粉をまぶし、オリーブオイルを熱したフライパンに置く。安楽は迷っていた――ソースは付けるべきか否か? 肉に火が通るまでの時間いっぱいまで迷い、結局ソースの材料を全て元の場所に戻した。
 焼けた肉を皿に入れ、香り立つ肉汁を回し掛けた。安楽はそれを持ってテラスに出た。夏の終わり、森の中から涼やかな虫たちの声が聞こえる。陽はとうに落ちているが、空には数えきれないほどの星々が輝き、テーブルの上には大小様々なキャンドルの火がゆらゆらと揺れていた。横一列に並べたキャンドルの前に小さな布を敷き、そこにナイフとフォーク、そして湯気の立つ皿を置く。これで用意は出来た。
 最初の一欠片を口に入れ、繊細な歯触りを味わった瞬間に、安楽は自身の中で感情の激しい奔出が起こるのを感じた。体の芯から溢れ出し手足の先まで広がる喜び、胸を舐め髪の先まで燃え広がる怒り、全てを冷やし凍らせる悲しみ、何もかもを投げ出して叫び声を上げたくなるような精神の高揚。やわらかな肉は一口ごとに安楽の心を嬲り、そして癒した。次から次へと生まれ出でる感情は抑圧を受け精神の奥底へと隠されていたものであり、これまで取り込んだ信治の欠片が取った新たな姿でもあった。
 そう、信治が言った通り、どちらがどちらを食べたとしても同じことなのだ。二人は互いの体を求め、愛し、味わい、その体と心を取り込み、その体と心を流れる川となる。安楽は信治の愛を一身に感じた。これまでにないほど強く、深く、求めていた以上のものを感じた。
 最後の一口を飲み込んだとき、安楽は過去、現在、未来全ての時間軸において信治と自身が完璧な一つの個体になる瞬間の訪れを知った。安楽の胃は信治と安楽自身を葬るための墓であり、生まれ変わった魂が目を開くための揺りかごだった。そして今、信治は安楽であり、安楽は信治であり、二人は新たな命となって生まれ変わった。あの肉を口にしていたのは安楽であって安楽ではなく、信治であって信治ではなく、あの肉は信治であって信治ではなく、安楽であって安楽ではなかった。
 
 食事が終わると、安楽はキャンドルを一つ取って部屋に戻った。照明を落としてから外へ出たせいか、中は暗い。安楽はキャンドルの灯をあちこちに移しながら歩いた。暗闇に灯った光と光がゆっくりと繋がって、幻想的な空間を生み出していく。
 階段を上って信治の部屋に入った。フローリングの床には信治の服や本が散らばっている。安楽はキャンドルを床に置き、着ていた服をその側に脱ぎ捨ててベッドに体を横たえた。素肌に感じるシーツの心地良さに溜息を吐くと、安楽はその体に触れる温もりを感じた。
「信治くん」
「終わったの?」
「はい」
 信治は嬉しげに目を細め、そして安楽の上に乗り上がった。二人は口付け合い、互いの体に触れ合う。信治は安楽の体に殆ど余すところなく唇を落とし、それから足を開かせた。信治の熱い性器の先端が窄まりに押し当てられるのを感じると、安楽は受け入れるために力を抜いて信治の首の後ろへ手を回した。信治のそれは安楽を押し開き、中を進んで根元まですっかり収まってしまった。繋がった場所を通して鼓動と興奮が伝わってくる。安楽は信治に抱かれるのが好きだった。自身の体の奥で味わうのが、抱き締められ、求められるのが好きだった。腰に足を巻き付けてその感情を表し、しっとりと汗に濡れた黒髪の匂いを嗅ぎ、触れる唇を舐め、舌を味わい、繋がった場所が立てるぬるついた音を聞く。
 二人は同時に絶頂に達した。一瞬意識が途切れ、熱が溢れて全身に広がる。快楽の波は驚くほど長く続き、荒い息が少しずつ落ち着き始めても二人の体から去ることはなかった。
 安楽は信治を見上げ、その頬に手を伸ばした。
「信治くんに……、言い忘れていた言葉があります」
「なに?」
 その言葉は、信治の日記に書かれた最後の文章と同じものだった。
「僕はあなたのことが好きです。これまでもこれからも、ずっと愛しています」
 信治の瞳は安楽だけを見つめていた。
「俺も。俺も優人さんのことが好きだよ。ずっと愛してる」
 始まりは、信治の頬、それに信治の頬へと触れた安楽の手だった。安楽は二つの体の境界が消えて行くのを見た。視覚的に、触覚的に、二つは一つに変わる。汗ばんだ体はみるみるうちに溶け合っていった。
 安楽はそれを見つめながら、小さく笑い声を上げた。自身の狂った精神が幻覚を見せているのは分かっていた。自身が父親と同じように人として犯すべきではない罪、唾棄すべき悪をなしたことを知っていた。信治を傷付け、狂わせ、殺し、解体し、口にし、消化して、排泄したことを覚えていた。自身の人格がどうやって形成され、その精神がどうやって歪み、どこに行き着いたのか、正確に把握し理解していた。
 そして同時に、これまで自身の中に生まれ、今も味わっている感覚が真実であることを知っていた。信治と自身が一つの存在に変わったことを信じていた。真実とは往々にして平面的なものではなく立体的な形を取るものだ。ある面ではグロテスクな形をした幻想に見え、ある面では全ての解のように完璧な形に見える。
 
 安楽は全てを受け入れ、何もかも完璧に満たされた気持ちで目を閉じ、それから夢を見た。初めて信治と出会った日の夢だ。だが現実で一度起こったものとは何もかもが違う。信治はその小さな手で安楽を父親の影から引き離し、暗がりから連れ出してくれた。手を繋いだまま二人は長い道程を旅し、人生を生き直しながら、木々に囲まれた家へと辿り着く。
 そこは二人の家、二人の箱庭、他の誰も足を踏み入れることが出来ない楽園――二人の命が一つの命に生まれ変わり、そして燃え尽きる場所だった。

←前の話へ topページに戻る