1.捕獲

「こんにちは」
 鼓膜を優しく撫でるような声に、信治は顔を上げた。自分に向けられたものだとは思わなかったが、声の主の顔を見てみたかったのだ。
「……、こんにちは」
 驚いたことに、声の主は信治の目の前、殆ど息がかかりそうな距離に立っていた。年は信治より少し年嵩に見える。髪は栗色、顔立ちは端正で声の印象と合致する柔和な感じがあった。しかしいくら無害そうな人物でも、初対面でこの距離まで近付かれると驚くのが普通だ。心拍数が上がるのを感じながら挨拶を返した信治に、男は微笑みかけた。
「隣に座っても構いませんか? 他にベンチが空いていなかったので……」
 男は信治の横を差した。四人掛けのベンチは独り占めするには広い。そもそも公共のもの、公園の誰でも使えるベンチなのだから、信治には拒否することなど出来るはずもなかった。
「えっ……はい、全然構わないです、どうぞ、座ってください」
「ありがとうございます。読書のお邪魔にならないといいんですが」
 右端に腰掛けた信治の反対側、左端に男は腰を下ろした。
「読書っていうか漫画なんで全然問題ないです」
「あれ、そうなんですか?」
「はい。えっと、今日出たばっかの新刊なんですけど」
 信治は本を男の方に開いて見せた。書店のカバーが掛けてあるせいで遠目には分からないが、読書と呼ぶには抵抗がある、ごく普通の娯楽漫画だった。
「ああ。名前と絵柄だけ知ってます。面白いですか?」
「めちゃめちゃ面白いですよ! この作者が描いたやつは全部面白いです。お兄さんは漫画とかあんまり読まない人ですか?」
 男は肩にかけていた黒のバッグから、皮のカバーが掛かった本を取り出した。
「僕はフィクションが苦手で……実用書の類が多いです」
「へぇー、今はどんな本を読まれてるんですか?」
 男は本を差し出した。信治は漫画を脇に置いて、それを受け取った。皮はやわらかく、触り心地が良かった。高そうだな、と思いながら信治は本を開いた。
「あ、経済の本だ」
「はい。最近興味があって、手を出してみたんです。それらしくない題名なのに一目で分かるなんて、お詳しいんですか?」
「詳しいっていうか、俺経済学部なんです。でもまだ一年なんで殆ど一般レベルの知識しかなくて……」
「もしかしてそこの?」
「そうです」
 信治は少し居心地の悪い思いがした。この公園から十分ほど歩いたところにある大学は、『どんな馬鹿でも名前さえ書けば合格する』というので有名だった。本命に落ちて仕方なく入った大学で、まだ名前を口にするのに躊躇いがあった。
 男は学校のランクを特に気にした様子を見せなかった。
「学生さんか。じゃあ僕とは少し年が離れてますね」
「おいくつですか?」
「二十六です」
「あ、やっぱり。凄く落ち着いてる感じなんで、もしかしたらもっと上かとも思ったんですけど……でも顔だけ見てたらそれくらいかなって思ってました。今日はお休みなんですか?」
 金曜日の午後三時、会社勤めなら公園にはいない時間だ。だが明らかに男は私服で、のんびり人と話をしている。仕事を抜け出してきたようにも見えなかった。
「今日は午後からの予定なんです。在宅の仕事なので、そのあたりは自由にやっています」
「わー、いいですねぇ……俺もそんな風になりたい……どんなお仕事なんですか?」
「ひたすらパソコンに向かう仕事ですよ。なので疲れたらここに逃げてくるんです。静かでいいですよね」
「こっちは人気がないですからね。海沿いは結構人が多くて煩いですけど。俺も疲れたらよくここに来たくなります。あ、でもお会いしたの今日が初めてですね」
「普段は早朝に来ることが多くて、今日はたまたま出掛けたくなったんですよ」
 この時間もなかなかいいですね、と男は微笑んだ。
「ああ、そうだ……あの、甘いものはお好きですか?」
 男は思い出したように言いながら、バッグから紙袋を取り出した。
「えっ、はい、大好きです」
「よかったら一ついかがですか? 少し買いすぎてしまって」
 そう言って、男は袋に手を入れた。取り出したのは、マカロンが二つ入ったビニールの小袋だった。
「いいんですか? ……その店めちゃめちゃ高いので有名なとこじゃないですか」
 紙袋を見て分かった。信治の大学の近くにある洋菓子店のものだ。海外でも有名なパティシエの店らしく、よく雑誌でも紹介されているがクッキー一枚でも恐ろしい値段がする。週三のアルバイトと実家の仕送りで暮らす、ごく標準的な大学生である信治には店に入る勇気すらなかった。
「ええ、よかったら。どれがいいですか?あるのはクランベリー、チョコ、抹茶、紅茶、あとオレンジと胡麻と……本当に買いすぎました」
「はは、じゃー……チョコをもらってもいいですか」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
 男は紙袋からもう一袋取り出し、そのまま封を開けて一つ口に入れた。
「……いただきます」
 家に帰ってから開けようかと思っていたが、男が横で食べ始めたので、信治も何となくつられてしまった。
「はい、どうぞ召し上がってください」
 口に含むと、カカオの香りがふわりと広がった。何度か噛んで味わったあと、信治は横で様子を窺っていた男に頷いて見せ、美味しいです、と目で伝えた。男は信治に笑みを返した。
「――買いすぎた理由なんですが……スーパーならもう気にならなくなったんですけど、ああいう店にこういう可愛いお菓子を買いに行くのって、やっぱり少し抵抗があるんですよね。それで色々考えてしまって、『僕は海外でも認められたグローバルな味を学びに来た中堅パティシエ、電車を乗り継いで遠くからやってきた』っていう設定を作ってあの店に入ったんです。で、やっぱり勉強するっていったら一個や二個じゃ少ないだろうということになって」
 恥ずかしげな顔でそう話し始めた男に、信治は思わず吹き出しそうになった。
「そんな設定作って買いに行ったんですか? やばい、お兄さんめちゃめちゃ面白い人ですね」
「はは……今考えるとそんな設定必要なかっただろ、とか、『妹に買い物を頼まれて断れなかった優しいお兄ちゃん』設定でもよかったなとか思います」
「妹さんいるんですか?」
「いえ、いません。一人っ子です」
「いないんですか! 想像力豊かすぎ!」
 信治は堪えきれずに肩を揺らして笑い出した。男は気を害した様子もなく、はにかんだまま空になったビニールを紙袋の中に戻した。
「よかったらもう一袋いかがですか?」
「えっそんな、さすがに申し訳ないですよ」
「……あなたともう少しお話したいと思って。賄賂です」
 同性でなければナンパかと思う台詞だ。信治は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「……賄賂って。使い方おかしくないですか」
「うーん、じゃあ……このマカロンでもう少し僕の話し相手になっていただけませんか? 一袋で足りなかったら、もうひとマカロン払います」
 男は紙袋から抹茶、オレンジと二つ取り出して信治に差し出した。
「もうひとマカロンって何ですか!? あーやばい、やっぱお兄さんおかしい……わかりました、ひとマカロンで雇われます」
 信治は笑いを堪えながら抹茶を受け取った。男は残ったオレンジを紙袋に仕舞い、別の袋を取り出して開封した。
「そういえば、お兄さんはこのあたりに住んでるんですか? ずっとここの人?」
「いえ、ここに来たのはごく最近ですね。そちらは実家ですか? それとも一人暮らし?」
「一人暮らししてます。めちゃくちゃ狭いアパートなんですけど、ずっと憧れてたんで、それでも天国ですね」
「ホームシックになったりしませんか?」
「うーん、やっぱたまになりますね……でも家から大学までの距離を考えたら実家通いは無理だし、一人だと色々自由なんで」
「……かわいい彼女とか連れ込んだり?」
「いやいや彼女なんてもう一年くらいいないです……お兄さんこそ美人な彼女とかと一緒に住んでそう」
 男は溜息を吐いて首を振った。
「もう長いこといないんです。寂しいですよ」
「モテそうなのに、もしかして理想が高いとかですか?」
「さあ……どうでしょう。たまに考えるんです。最後に出来た彼女が去った後、何も感じなかった自分が、今でも何も感じない自分が、本当に求めているのは何なんだろうって」
 頬笑みが消えた顔、瞬きもせずに自分を見つめる目を、信治は落ち着かない気持ちで見つめ返した。隣り合ってそうするのは何となく不自然なように思えたし、男に自分を見透かされたような気さえして、信治は自分の心臓が早鐘を打ち始めるのを感じた。息苦しさのあと、呼吸が不規則になる。
「……好きじゃなかったんですか? 彼女さんのこと」
「酷い話ですが、最初から最後まで特別な感情を抱くことはありませんでした」
「昔の恋人を引きずってる、とか?」
「いいえ、これまでずっと同じ事を繰り返してきたんです。女性に対して愛情を感じたことは一度もありません」
「お兄さん、そ、それ、って……」
 最後まで言葉を紡ぐことは出来なかった。唐突に恐ろしい眩暈に襲われて、信治は息をとめた。世界が一回りし、視界から色彩が消えていく。
「え、な……なんだこ、れ………うわ、ちょっと待って、なんかおかし……」
「大丈夫ですか?」
 男は冷静な声で問い掛け、信治の方に体を近付けた。殆ど暗闇に飲まれた信治の視界に、男の顔が映る。まるで実験動物を観察でもしているかのような目、焦りはなく、動揺もなく、凪いだ心が見えた。強烈な違和感を覚えながら、信治は男の方に倒れこんだ。
 脱力し、意識が飛びかけた信治の腕を、男は自分の肩に回した。力を入れて立ち上がり、迷いなくベンチの背後の林に向かって歩き始める。そこを抜けたところに、公園の第二駐車場があった。入り口から遠く離れ、近くに何もないその駐車場は、イベントでも無ければ殆ど無人である。そこに男の車が停まっていた。男は信治を引きずるように運びながら、ポケットに入れていた鍵を取りだした。素早く行わなければならない。一目につくのは得策とは言えない。幸いなことに、信治は朦朧としながらも足を無意識に動かしている。どこに向かうのかを知っていたら、そうはしなかっただろう。
 三分後、男は車の後部座席で、用意していた縄と手錠、ガムテープを使って完全に意識を失った信治を拘束した。窓ガラスに張った黒のシートのおかげで後部座席は外から容易に覗くことが出来ないため、その慣れた手つきを見る者はいない。男は運転席に移動し、助手席に置いたクッションの下に隠している注射器を、すぐに取り出せる状態にした。もし途中で信治の意識が戻ったとしても、ほんの数秒で大人しくさせることが出来る。
 男は振り返り、ぐったりとした信治の顔を暫しの間じっと眺めたあと、エンジンを入れて車を走り出させた。

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