16.真実

 信治が安楽の家を出てから一週間が経った。初めの二日を実家で、残りをアパートの狭い部屋で過ごした。信治は階段を上る足音が近づくたびそれが見知った人物のものではないかと耳を澄ませたが、その足音が信治の部屋の前で止まることはなかった。

 実家で過ごした二日間で信治は質問責めに遭い、大学を休学して男と同棲するのだと話したときには卒倒しそうな母親を数時間かけて宥めることになった。
 だが意外なことに、自分は男を好きになるのだと告白したとき、両親が見せた反応の中に強い驚きはあっても嫌悪は見当たらなかった。無鉄砲だ、考えなしだと責められはしたが、それはあくまで失踪したこと、それで警察や知人に迷惑と心配をかけたこと、大学を休学すること、相手が年上にも関わらず無責任に大学生の信治と同棲していたことについてであると分かるように言われた。
 あまり心地いい時間ではなかったものの、傷付けられることはなかった。話してみてよかった、と信治は思う。自ら距離を作り、話す機会を避け、まるで他人のように振る舞い続けているときに感じていた後ろめたさ、自己否定感、そういうものがふっと軽くなった。
 アパートに戻ると、実家にいる間に購入した携帯電話で、電話帳のバックアップから呼び出した友人知人に連絡先と近況を知らせた。それから大学の休学・アパートの解約手続きを済ませ、家財その他私物の殆どを処分し、荷物をまとめるまでに数日。七日目の昼には、がらんとした部屋の真ん中に段ボールが三つと黒のバックパックが一つ残るだけだった。
 
 信治は寝転がって携帯電話を手に取った。番号を聞く機会があればよかったのに、と思う。番号を知っていれば今から帰ると連絡することも出来た筈だ。
 今どうしているのだろう。
 怒っているかもしれないし、悲しんでいるかもしれないし、呆れているかもしれない。話もせずに出て行った自分を恨んでいるかもしれない。だがもしかすると、今日にでも帰ってくるのではないかと二人分の食事を用意しているかもしれない――そこまで想像して、信治は体を起こした。バックパックを背負い、携帯電話を持って飛び出すようにアパートを出る。
 正確な住所は分からない。私書箱を利用していると安楽が言うのを聞いたことがあり、あの家の住所を示す郵便物を見掛けたことはなかった。だが、タクシーを捕まえた場所の近くで見つけたバス停の名前は頭にあったし、運転手から大体の住所を聞き出していた。数日前にそれを元にして調べてみたところ、信治の家から最寄駅までは電車を乗り継ぐだけで辿りつくことが出来ると分かった。問題はその先だ。平日の昼間、人の少ない電車に揺られ、開発の進んだ街から田園風景が続く田舎へと向かいながら、信治は思案した。駅の近くから出ているバスに乗っていくことを考え、バス停から安楽の家まで行く手段がないことに気付いて却下した。タクシーを使うのは手持ちを考えると避けたかったし、知らない人間をあの家の近くまで連れて行くのには抵抗がある。そして徒歩には遠すぎた。
 電車を下り、駅を出ると、信治は携帯で地図を見ながら五分ほど歩き、自転車屋に入った。そこでマウンテンバイクを一台買った。自転車ならこれからの生活でも役立つだろうし、周りの風景を見ながら行くことも出来る。
 途中休憩を挟み、地図を何度も確認しながら自転車を走らせると、夕方にはバス停に辿りつくことが出来た。安楽の家は山の麓の森にあり、バス停からそこまでは殆ど一本道で、迷うことはない。きっと日が落ち切る前には帰ることが出来るだろう。

 家が近付くにつれ、信治の心は浮き立っていった。心配事はすっかり片付けてきたし、ぼんやりとではあるがこれからの計画も立ててある。きっと上手くいく筈だ、と信治は笑みを浮かべた。

 家に辿りついたときには、あたりは殆ど真っ暗だった。門に近付くとパッとライトが点灯する。自転車は駐車場の隅に置いた。家の中の照明はまだ点いていない。だが車が二台ともあるということは、家主は在宅に違いない。
 呼び鈴を鳴らしても返答はなかった。暫く待ち、それから信治はそっとドアノブを掴んだ。捻って引いてみると、簡単に開いてしまった。
「優人さん?」
 家の中は静まり返っている。中に入った信治を迎える者はいない。靴を脱いで玄関に荷物を置き、居間を見た。誰もいない。物音もしない。悪臭が鼻をついた。心臓が跳ね、息が荒くなる。悪臭はキッチンの方から漂っていた。吸い寄せられるように向かうと、流しに皿が積まれているのが見えた。信治は鼻と口を手の平で覆い、浅く息をして中を覗き込んだ。空の皿と、手を付けられた形跡のない皿が交互に積み上げられている。どうやら悪臭の正体は魚のようだった。魚が皿の中で腐り、それが一番酷い匂いを放っている。他にもパスタやグラタン、サラダにデザートの皿もあった。傾いたスープには薄く白い膜が張っている。信治は胸が締め付けられるような思いに顔を歪めた。空の皿は安楽のもの、腐っている皿は自分のものだ。
 キッチンから居間へ、廊下に出て階段を上った。安楽の部屋のドアを叩いてみる。返事はない。中は真っ暗だった。パソコンの電源は切れていて、ベッドは人が抜け出た後の形を残し、乱れたままだった。
 隣の部屋に入ると、風がふわりと信治の顔に吹きかかった。窓が開いている。それを除けば全ては元のままのように見えた――いや、違う。一つ足りないものがあった。安楽が持って行ったのだろうかと考えながら信治は視線を彷徨わせた。テーブルの上に置いていたもの。安楽に残した筈のもの。それは部屋の隅に落ちていた。近付き、まるで鉛を持ち上げるかのような手つきで、自分が破いたノートの切れ端を拾い上げる。
『勝手に出て行ったこと、帰ってから説明します。すぐ戻ってきます。待ってて下さい。信治』

 二階には三部屋あり、もう一部屋は出て行く前と変わらない単なる空き部屋で、そこにも安楽の姿はなかった。信治は一階に戻り、脱衣所や浴室、トイレのドアを開いてそこが無人であることを確認した。残るのは物置部屋と地下室、そして安楽の父が過ごしていたという部屋だった。信治は物置部屋に入ろうとドアノブを握り、ふと小さな物音が聞こえたような気がして振り返った。だが誰もいない。向かいの部屋のドアは閉まっている。
 その部屋に入ったことはなかった。「父の部屋だったところです」そう安楽が説明するのを聞いて、親子の思い出が色濃く残っているのであろう場所に足を踏み入れるのは、何となく躊躇われたのだ。
 信治は深呼吸してドアを開いた。
「……優人さん」
 真っ暗な部屋、廊下から差し込んだ光で探し人がベッドに横たわっているのが見えた。目は閉じていない――顔はこちらに向いている。部屋の照明を点けた。
「今、帰ってきました。ちゃんと話もせずに出て行って……遅くなってすみません」
 声が小さくなってしまったのは、安楽の顔が無表情に近く、全く何の反応も示さなかったからだ。信治はゆっくりと近付き、匂いに気付いた。ベッド横のテーブルに皿が二つ、そこから漂ってくる。一つは空、もう一つはたっぷりと中身が残っていた。茶色くどろりとした液体の中から人参や玉葱、肉片がちらりと顔を出し、上には生クリームのようなものが細い線で円を描いている。
 ……肉片。
 信治はベッドの方に視線を戻した。瞬きもしない安楽は、まるで精巧な人形のように見えた。肩に手を伸ばし、そっと触れる。
「優人さん」
 栗色の長い睫毛が、ゆっくりと動いた。安楽は信治の顔を見上げた。
「信治くん」
 ふっと微笑み、安楽は上体を起こした。
「こんにちは」
「……こんにちは」
 信治は初めて会った日のことを思い出した。あのときもこうやって自分たちは同じ言葉を交わした。そして襲ってきたのは違和感だった。何かがおかしい――そうだ、視線だ。視線が交わらない。安楽は信治の方を見ているようで、どこか遠くを見ているような眼差しをしている。
「優人さん、どうかしたんですか」
「どうかって?」
「具合、悪いとか……」
「いいえ。何も問題ありません」
 信治の手の平にはじわりと汗が滲み始めていた。指先を擦り合わせるように動かしながらテーブルの上を見る。
「ここで食べてたんですね」
「はい。先程まで父が戻っていたので、一緒に食事していました」
「一緒に?」
 安楽は頷き、信治の視線を辿る。
「父の為に作ったんですが、気に入ってくれなかったようで手も付けてくれませんでした」
「だけど、優人さん」
 どくり、どくりと自身の心臓が大きく脈打つ音を信治は聞いた。
「お父さんは、亡くなったんじゃなかったんですか」
 安楽は小首を傾げた。
「そうでしたね」
「……優人さん」
「はい」
「ホントに、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「けど、具合が悪いからベッドに横になってたんじゃないですか?」
「父のことを考えていたんです。父はいつもここで眠っていましたから」
 安楽はシーツを撫でた。その動きを見つめながら、信治は震える息を吐き出した。
「お父さんと一緒に、食事してたんですよね」
「はい。そうです」
「……あれってビーフシチューですか?」
 頷いてくれればいいと願った。だが安楽は首を横に振った。
「じゃあ、鳥? 豚? ウサギとか、馬の肉ですか?」
「いいえ。あれは――」
 信治は返事を聞く前に耳を塞ぎ、後ずさってドアの外へと飛び出した。荒く息を吐きながら向かいの部屋のドアに頭を凭れる。耳の上あたりがガンガンと痛み始め、目の前がぐらぐらと揺れていた。何かに縋りたくて、殆ど無意識にドアノブを掴んだ。ドアを開き、中に入る。
 ふらふらと歩いて行くと、地下室に続く扉が開いたままなのが見えた。階段の先は真っ暗で見えない。扉の近くにある照明のスイッチを入れ、一歩一歩下り始めた。
 地下室のドアは施錠されていなかった。うっすらと開いている。そこから臭いが漂ってきた。きつい消毒液の臭い。そして思わず体が震えるほどの冷気。中に入ってみると二つは更に強くなった。部屋中を洗浄したのだろうか。まだ肌寒い日がある時期なのに冷房が入っているのは何故なのか、信治には分からなかった――それを目にするまでは。ステンレス製のテーブルの上にはかなり大きめのクーラーボックスが二つあった。そこは冷房が一番良く当たる場所だ。それを冷やしているのだろう。わざわざ冷房を入れてまで冷やしているのは、冷蔵庫を運び入れることが出来なかったからなのかもしれない。信治はそう思いながらクーラーボックスに近付いた。そしてそれを開く前に、ガス台の上に以前はなかったものがあることに気付いた。調理に使用した形跡がある鍋。ここで見たことはなかった。安楽はいつも上のキッチンで食べるものを用意する。少なくとも信治の意識があるとき、この地下室で料理をしている姿を目にしたことはなかった。ここでそれを行うときのことを聞いたことがあるような気がするが、強まった頭痛で記憶が混乱していた。
 信治は頭を暫く押さえた後、呼吸を乱したままクーラーボックスに手を掛けた。何が入っているのか知りたくなかった。だが、知らなければいけないような気がしていた。今ではなくもっと前に知っているべきだったことが、あるいは忘れるべきではなかったことが、この中に入っているような気がしていた。
 
 ――中身を見た瞬間にそれだと分かったのは、最初から見当が付いていたからなのかもしれない。切り取られた舌や、剥がれた皮の下の肉を見て、それが動物のものではないと気付いたのは。頭が真っ白になり、信治は声にならない叫び声を上げた。
 喉の奥が引き攣り、背中に、胸に、腕に、足に、全身に冷たい汗が噴き出る。そして見開いた目に地下室の真実の姿が浮かび上がる。鎖に繋がれた死体、噴き出た血、零れ落ちた内臓、鋭いナイフを汚す脂。磨き上げられた無機質なコンクリートの壁と床に、信治はそれを見た。そしてその先の光景も。鍋の中に脂が引かれる、においが立ち始めた頃に置かれる肉片、信治が上のキッチンで眺めたときと同じようにすらりとした体にエプロンを纏って、慣れた仕草で木べらを握る手、皿に料理を盛り付ける手、その手の持ち主を見ることが出来た。
「信治くん」
 声がした方向に顔を向ける。驚くほど近くに、その声の主は立っていた。
「ゆ、うとさん……」
「はい」
「優人さんが、全部、やったんですか」
「何をですか?」
「何って、この……」
 その先を続けることは出来なかった。信治は流しへと顔を下げ、嘔吐し始めた。胃が裏返しになりそうな程の激しさで、胃の内容物を吐き戻していく。嘔吐物の臭いを嗅いで胃の痙攣は更に激しくなり、終いには胃液まで全て吐き出してしまった。力の入らない手で蛇口を捻って舌の上に残った味を洗い流し、水を止める。気付けば手足の先まで冷たく、血圧の低下の影響か激しい眩暈に襲われて崩れ落ちた。流しの下に背中を預ける。ぐるぐると回る視界が落ち着く頃、信治は安楽が傍らに座っているのに気付いた。
「大丈夫ですか?」
 いつのまにか肩に置かれた手を見る。その手がやったのだ。
「信治くん?」
「優人さんは……食べたんですか?」
「何をですか?」
 信治は喉の奥から言葉を絞り出そうとして、失敗した。ひゅうひゅうと息を吐き出し、力なく唇を噛んで、それからやっともう一度口を開いた。
「人間を」
 安楽はこの場にそぐわない、優しげな微笑みを浮かべたまま頷いた。
「はい。先程のシチューに入れましたから」
 そう答えることは分かっていた筈だった。問う前から知っていたことだった。だが信治は、自分が目を逸らそうとし続けていた真実の衝撃に強く打ちのめされた。丁寧な言葉を話す口が、あたたかく心地良い息を吐き出すその口が、殺人鬼であることを、食人鬼であることを肯定する言葉を放った。まるで何でもないことのように、ずっと昔から当たり前に行っていたことのように。
 そして信治も知っていたのだ。ずっと前から。優しげな顔をしたこの青年が、家族のように会話し、食事し、抱き合って眠ったこの男が、一体何をやってきたのか。知っていた。だから一人で出て行き、誰にもこの場所や安楽の名前を教えなかった。どういう経緯で共に暮らすようになったのか、親や姉、友人たち、警察に、そして自分自身にも隠し偽っていた。だが知っていたのだ。心の奥底では。
 信治は溢れ出した涙を手で拭い、嗚咽を漏らしながら顔を下げた。
「どうして、どうして……」
 どうして安楽は自分と家族になった後でこんなことをしたのか。どうして自分は止められなかったのか。どうして何もかも上手く行くと、自分たちは幸せになれると思ったのか。信治の中にいくつもの問いが浮かび上がっては後悔へ、悲しみへ、恐怖へ、自責の念へと変わっていった。涙は溢れ続け、やがて涸れた。
 信治は服で涙を拭い、それから肩に置かれたままの手を強く握った。立ち上がり、安楽も同じように立ち上がらせる。
「吐いてください」
 安楽は言葉の意味を理解出来なかったのか、信治の顔をぼんやりと見返した。信治はそれに構わず、安楽の体を流しの方に向かせる。そして握った手を、安楽の口元に持ち上げた。
「全部、吐いてください。食べたもの全部、今すぐ。体、屈めて」
 安楽は信治の言う通り体を屈め、流しに顔を近付けたが、嘔吐はしなかった。やり方を知らないのかもしれない――信治は安楽の唇に指で触れた。噛みつかれるとは思わなかった。そのまま指を食われてしまうとは思わなかった。恐怖よりも強い衝動に突き動かされていた。だから、口の中に指を差し込んだ。安楽は抵抗することなく受け入れ、信治の指が奥へと侵入し舌の付け根を押しても、信治の体を押しのけようとはしなかった。間もなく安楽の胸が激しく震え、信治の指の下で舌が揺れた。反射的に押し出そうとする力に抗い、ぐっと指の腹を舌に押し付けた。すると安楽は勢い良く胃の内容物を吐き出し始めた。信治の指に熱いものが触れたかと思うと、重力に従って流しに落ちて行く。咀嚼されたそれは殆ど形を保っていなかった。胃液の臭い、消化されかけている食べ物の臭い。信治はもう吐き出せるものを胃の中に残していなかった。代わりに安楽の体を抱き締め、空いた手を安楽の腹に当てた。背中に顔を押しつけながら、腹を圧迫する。嘔吐は続き、やがて安楽も信治と同じように胃の中を空っぽにした。信治は肩で息をする安楽の口から指を引き抜き、蛇口を捻って水を出した。水は嘔吐物を流して行く。信治は指に付着したものを流し、綺麗な水を手の平に溜めて安楽の口へ近付けた。
「口、ゆすいでください」
 安楽は逆らわなかった。口に水を含んでは吐き出す作業を十回以上繰り返して、信治はやっと水を止めた。
 そして我に返った――強い恐怖が襲う。逃げなければ。今すぐ警察に通報しなければいけない。そう思って体を離した。
「信治くん」
 だがその声を聞いて、信治の足は動かなくなった。
「優人、さん」
 振り返った安楽の顔は、汗と涙で濡れていた。その目は潤んでいる。信治は反射的に安楽を抱き寄せた。それは悲しみや後悔の涙ではなく、嘔吐によって引き起こされた生理的な涙であることは分かっていた。それでも抱き締めずにはいられなかった。
「信治くん、帰ってきたんですね」
 たった今それに気付いたかのような口振りだった。信治はゆっくりと頷いた。
「もう戻ってこないと思っていました。行ってしまったんだと」
「書き置き、見なかったんですか」
「書き置き?」
 聞き返してきた安楽の声音で、信治は自分の推測が当たっていたことを悟った。
「やっぱり見なかったんだ。……すみません、勝手に出て行って。ごめんなさい。俺のせいで、こんなことになって、本当に……」
「どうして謝るんですか?」
「俺のせいだから。俺が優人さんを一人にしたから」
「いいえ、僕は一人ではありませんでした。父がいましたから」
 信治は顔を上げた。
「父がいたんです」
 信治の目を安楽はまっすぐに見つめて言った。
 そして何の前触れもなく、信治の頭の中にある記憶が蘇った。

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