17.過去

 遊具は体格の大きな男の子たちが占領していた。砂場で遊ぶ年頃でもなく、信治は一人、大きな公園の中を歩きまわっていた。両親はまだ仕事をしている時間で、いつも面倒を見てくれる姉は家に信治を残し、同じ年の友人と出掛けてしまった。ひらひらした綺麗なスカートを履いている姉の友人と、余所行きの服を着た姉、二人はしっかりと手を繋いでいて、上品そうな姉の友人の家に行くのに、三つ下の自分は邪魔だったのだと信治は幼心に理解していた。さすがに付いてこないでと強い口調で言われたときは泣き出してしまいそうだったが、今はそうでもない。公園に出掛ける途中、道端できれいな木の棒を見つけたからだ。
 若くしなやかで、すらりとしたフォルムを有した枝。信治はそれをゆらゆらと揺らしながら塗装された道を歩いて行く。広い敷地の中では、人が集まる場所とそうでない場所が別れている。信治は無意識のうちに人気のない場所に足を向けていた。騒がしいところにいると自分が一人だということを意識してしまうからだ。仲間に入れてもらうのも良かったが、前回姉に置き去りにされたときに入れてもらったグループは、少し乱暴で信治には合わなかった。まだそのときの記憶が薄れていない。誰かと一緒にいたくても、一人でいた方がいいときもある。
 信治はやがて公園の奥、最も草木の茂った場所に辿りついた。季節は秋、少し肌寒い風が吹いている。草の背は高く信治の膝下あたりまであった。人の話し声がしないことに気付いた信治はふっと怖くなった。お化けが出てきたらどうしよう。そう思って立ち止まったとき、小さな声が聞こえた。心臓が跳ねる。逃げ出してしまいたかったが、その声は苦しげだった。恐る恐る声の方に近付いた。
 まず見えたのは、足だった。泥まみれの皮靴、片足だけ少し下がった紺のハイソックス、チェックの半ズボンから伸びている細い足。膝から血が出ているのに気付き、信治はその足の主が怪我をして倒れていることを悟った。驚かせないように、自分の心も落ち着けながら近付く。白いシャツの上半身と短い髪を見て、自分と同じ性別の、少し年上の少年だということが分かった。
「おにいちゃん、けがしてるよ」
 信治はそっと少年の肩に触れた。びくりと揺れた肩に、信治まで驚いて枝を落としてしまった。しかしその驚きは、少年が顔を上げたときに受けた衝撃とは比べようがなかった。
 綺麗だったのだ。今まで信治が目にした中で、その少年はもっとも美しい顔をしていた。長い睫毛と乱れた髪は栗色で、それより少し濃い色の瞳は大きい。くっきりとした二重の線。顔色は悪く隈も出来ていたが、それでも肌には思わず言葉を無くしてしまうような透明感があった。信治が見とれている間に、滑らかな色の小鼻がひくりと少しだけ動いた。
「誰?」
「しんじ。しんじるに、なおすってかく、しんじ」
 そう説明しなさいと言われている通りの言葉で説明する。
「僕は……」
 少年はそれだけ言って口を閉じ、ゆっくりと上体を起こした。そして辺りを不安げな顔で見回す。
「ちがでてるの、いたくないの?」
 自分の体より他に意識を向けることがあったのだろうか、少年は信治の言葉でやっと自分の膝が出血していることに気付いたようだ。信治はポケットからハンカチを取り出した。学校から一度家に帰った後に取り替えたもので、まだ清潔だった。差し出すと少年はそれを見たが、首を横に振って受け取らなかった。どうするべきか迷って、信治は少年の膝にハンカチを当てた。
「……ありがとう」
 信治は首を横に振った。
「どうしてここにねてたの?」
 何もない、ただの草むらだ。それも少し湿っている。白いシャツに付いた泥は簡単には落ちないだろう。少年はまだ落ち着かない様子で、辺りに気を配りながら膝を抱えた。
「行くところが無くて」
 少年がハンカチをちらりと捲るのを、信治は横から覗き込んだ。血は殆ど乾いていたようだが、よく見れば砂が肉を抉っている。信治は自分の体が痛んだように顔を顰めた。
「びょういんにいったほうが、いいとおもう」
「……そんな怪我じゃない」
「おとな、よんでこようか? ぼくのうちちかくだけど、でんわする?」
 少年は激しく首を横に振った。
「……じゃあ、いえにかえったほうがいいよ」
 少年は顔を強張らせた。膝を胸に強く引き寄せて体を小さくする。そして、帰れないんだ、と呟いた。信治はその悲しげな声を聞いて眉を八の字に下げ、唇を噛んだ。それからポケットの中に手を入れる。
「ぼく、おかねもってる」
 小学校に入ってから、信治は小遣いを貰うようになっていた。一年生では週に百円、二年生に上がると週に二百円に上がった。ポケットには一昨日渡されたばかりの百円玉が二枚入っている。信治はそれを二枚とも差し出した。
「どうして?」
「でんしゃとかバスの……おかね」
 遠いところから来て、帰るためのお金を無くしてしまったのかもしれない。信治はそう思っていた。自分の持っているもので助けられるのかは分からなかったが、少なくとも無駄にはならない筈だ。だが少年はやはり首を横に振った。
「たりない?」
 貯金箱を割ればもう少し入っている。信治はそれを取りに家へと戻ろうかと考え始めた。
「家には、帰りたくないんだ」
 帰りたくない。そう繰り返して、少年は俯いた。信治は下ろした手に百円玉を握り締めたまま立ち竦み、暫くの間少年の伏した頭を見つめていた。どうしていいか分からなかった。慰めてあげたいのに、方法が分からない。怪我した足を治してあげたいのに、絆創膏すら持っていない。ぐるぐると考え続けている内に、少年の体が小さく震えているのに気付いた。そう言えば彼は薄着だった。まだ明るい時間でそれほど気温は下がっていないが、もしかすると寒いのかもしれない。信治はTシャツの上に着ていた厚手のパーカーを脱いだ。腕を通すには小さ過ぎても、羽織るのならいいだろう。ファスナーを開けてそっと少年の肩に掛けた。
 ふわりとした感触に気付いたのか、少年は顔を上げた。
 信治は絶句した。少年は寒さに震えていたのではなく、泣いていたのだ。大きな瞳から零れ落ちる涙が長く濃い睫毛を濡らし、その先がきらきらと光って見えた。信治が見つめている間にもその瞳からは涙が溢れ、瞬きと共に瞼に押されて頬に落ちていく。固まってしまった信治の体に、少年は縋り付いた。
「おにいちゃ……」
 少年は声を上げて泣き始めた。信治は自分のTシャツが涙で濡れて行くのを感じた。心臓が胸を突き破ってしまいそうなほど激しく動揺している。泣き声は苦痛に満ちていて、今まで触れたことがないような深い悲しみが、首の後ろに回された冷たい手から伝わってきた。信治はそっと彼の体に腕を回した。そうした方がいいと思ったのだ。
 暫くして嗚咽は啜り泣きに変わり、啜り泣きは震える息遣いに変わって、それは肩の揺れが止まるのとほぼ同時に落ち着いた。顔を上げた少年は手で目元を擦り、それから自分が濡らした信治の服を申し訳なさげに撫でた。信治は首を横に振った。
「かわくから」
 少年は微笑を浮かべ、それからすぐにそれを顔から消して体を離した。
「ありがとう。……でも、もう君も……信治くんも、帰った方がいい」
「でも」
「僕と一緒だと危ないから。汚してごめん」
 ハンカチと上着を取って信治に差し出しながら言う少年は、明らかに信治を遠ざけようとしていた。縋り付いて泣かれた後に突き放されて信治は混乱した。帰った方がいい。一緒にいると危ない。彼の言っている意味が分からなかった。
「帰った方がいい」
 言葉を重ねられて、信治は頷くしかなかった。差し出されたものを受け取り、背を向けて少しずつ遠ざかる。十歩歩いたところで振り返った。少年は相変わらず悲しげで、途方にくれた顔で膝を抱えていた。彼は信治が振り返ったことに気付いて首を横に振った。だが信治は意を決して少年の側に戻った。
「ぼく……、いっしょにいる」
 上着を再び少年の寒々とした肩に掛け、ハンカチを膝に巻き、それから横に腰を下ろした。彼は信治の顔を見つめ、迷ったように目を彷徨わせた後に、信治に体を近付けた。
「ねえ、おにいちゃんいえでしてるの?」
 少年は頷いた。
「一昨日から……」
 信治は片手で数を数えて曜日を遡った。二日前は土曜日、今日は月曜日だ。
「がっこうは?」
「学校には……、行ってないんだ。父さんが行かなくていいって言うから。ずっと行ってない」
「おかあさんにおこられないの?」
 毎日ちゃんと学校に行きなさいと言われることはあっても、行かなくていいと言われることは熱を出したとき以外にはなかった。信治は驚き、目を丸くする。
「母さんは、一緒に住んでなかったから」
 少年は唇を噛んで左の足首に手をやり、少しの間撫でてからゆっくりと足を伸ばした。もしかしたら痛めているのかもしれない。この辺りには大きな石がいくつか落ちている。それに転んで足を挫き、立ち上がれなくなってここに留まっているのだろうか。
「いたい?」
 少しだけ、と少年は答えた。信治は何か自分に出来ることはないかと考えながらほっそりとした足を見つめ、無意識に手を伸ばした。だが更なる痛みを与えるだけかもしれないと気付き、落ち着ける場所に迷った末、その手を少年の手の上に置いた。彼はその手を握った。
「ありがとう」
「ううん……」
 少年の手は相変わらず冷たく、さらりとしていて、長い指は信治の丸みを残した手をすっかり包んでいる。信治の胸中には彼を心配する気持ちと、彼のように美しい人と触れ合っている喜びの両方があった。傷付き、憔悴した顔の、不安げな息遣いをしている少年は、姉や学校で見掛ける上級生よりも年上に見えたが、どこか頼りなげで信治は彼を守ってやりたい気分になる。きゅっと手を握り締めると、その手は同じくらいの強さで握り返してきた。
「一昨日から眠ってないんだ」
 暫くして、彼はそう言った。
「少し眠ってもいい? ほんの少しだけ」
「うん、いいよ」
 辺りを見回し、耳を澄まして、忙しなく高い声で鳴き続けている虫以外の気配がないのを確認したあと、少年は信治の肩に軽く体重を預けて目を閉じた。

 かさり、と音がして信治は眠りから覚めた。いつの間に眠ってしまったのだろうか。目を開けると、辺りが薄暗くなっているのが分かった。少年もまだ眠っているのかと隣に目をやった瞬間、肩に感じていた重みがふっと軽くなる。
「父さん」
 少年の顔は強張っていた。視線を追ってみると、ほんの三メートルほど前に知らない男が立っていた。背が高く、棒が入ったようにまっすぐな体。無表情に近い顔をしている。信治の目には、信治の父よりも祖父に近い年のように見えた。
「優人」
 ゆうと。それが信治の横にいる少年の名前らしかった。男は信治たちに近付いてきた。少年の手が、痛みすら感じる強さで自分の手を握っているのに信治は不安を覚えた。
「信治くん、走って逃げて」
「どうして?」
「逃げて」
 ぱっと手を離された。だが信治は彼らを二人にしておくことは出来なかった。
「父さん、僕は……、僕は何も話してません」
 男は返事をしない。少年は肩に掛ったバーカーの袖をぎゅっと握り締めた。
「父さん」
「立ちなさい」
 低く、抑揚のない声。それ程大きな声ではないのに、有無を言わさぬ威圧的な雰囲気があった。少年は立ち上がろうとして、失敗した。やはり足を挫いていたのかもしれない。
「怪我をしているのか」
「……はい」
 男は信治たちの目の前まで歩いてきた。そして少年の前で屈み、その体を軽々と腕に抱えて踵を返した。そのまま現れた方向へと歩き出す。
 信治はまるで、そこに存在していないも同然だった。視界には入っていた筈なのに、一言も声を掛けられず視線すら与えられなかった。
「おじさん」
 背中に声を投げかける。
「おじさん!」
 喉の奥から絞り出したその声も、男の歩みを止めることは出来なかった。信治は迷いながら二人の後を追って歩き出した。大人の男の歩幅に付いて行くために早歩きで、しかし走りはしない。追い付いてしまうのは怖かった。
 日が落ち始めた薄暗い公園には人気が少なく、遊具や広場から離れた道を通った三人は誰にも見咎められることなく駐車場に辿りついた。男は腕に抱いた荷物を車の後部座席に横たえ、そして振り返った。目が合う。信治は男の後ろで首を横に振っている少年の顔を見た。怯えている。男はゆっくりと近付いてきた。信治の足は地に張り付いたように動かず、極度の緊張から叫ぶことも出来ない。男は信治を見下ろした。冷たい目。爬虫類のような無感情な目だった。信治の手にじっとりと汗が滲み、呼吸が乱れる。
「来なさい」
 返事をする前に腕を掴まれ、持ち上げられて車の中に投げ込まれた。目の前でドアが閉められる。呆然としている内に男は運転席に乗り込んだ。ガチャ、と音がして後部座席のロックが閉まる。車はすぐに走り出した。
「父さん、父さん……、彼は何も知らないんです。家に連れて帰らないでください。酷いことはしないでください」
 少年は体を起こして懇願したが、男は何も答えなかった。信治は泣き出した少年の手を握り、出来るだけ体を近くに寄せた。震えている体に寄り添い、自身も泣き出してしまいそうになるのを懸命に堪えながら男の様子を窺う。どうして少年がこれほどまでに父親を怖がっているのか、事情はよく飲み込めなかったが、男の異様な雰囲気にただならぬものを感じ取った。家に何があるのだろう。酷いお仕置きをされるのだろうか。信治は少年の手を握り締めて恐怖と抗った。
 暫く走って、男は車を止めた。窓の外には大きな建物が見えた。ここが二人の家なのだろうか。よく見る暇もなく、後部座席のドアが開いた。
「優人、手を離しなさい」
 信治とは反対側のドアの向こうから男は言った。少年は従わず、信治は男を睨みながら少年の手を握り締めた。
「離しなさい」
 二度目の命令で少年は従った。間髪入れず男は無抵抗な体を抱え上げ、引き留めようとした信治の目の前でドアを閉じロックを掛けたあと、建物の方へと歩き始めた。信治は遠ざかっていく二人を見つめながら必死にドアを開けようともがいていたが、はっと我に返って運転席へと移動した。そこのドアは開く筈だ。信治は車から飛び出し、建物の中へ消えた二人を追った。

 どうやら建物は二人の家ではなさそうだった。今は使われていない町工場のように見える。敷地は錆びたトタンの壁で覆われていて、建物の周りは雑草だらけだった。車で移動している間に空は大分暗くなっていて、玄関や目に入る範囲の窓から二階建ての広い建物の中を覗き見ることは出来なかった。信治は意を決して鍵が壊れたガラス戸を押し、中に入った。
 中は酷く散乱していた。機械類はカバーも掛けられずに放置され、埃や黄ばんだ紙、割れたガラスが床に落ちている。不法侵入者が多いのか、真新しいビールの缶や弁当のトレイのゴミ、くしゃくしゃになったビニール袋や折れた注射器までもが暗がりの中に見えた。不気味で、異様で、今にも物陰から何かが飛び出してきそうな場所だ。本来信治は遊園地のお化け屋敷でも姉の手に縋り付いてしまうほどの恐がりだった。一歩踏み出すことに心臓が破裂に近付いていく。それでも進むしかなかった。
 こんなところで一体何をする気なのだろうか。信治は少年の身を強く案じた。あの男は何か悪いことをするつもりなのかもしれない。想像の中の光景に唇を噛みながら歩き回っていると、近くから啜り泣く声が聞こえた。
「父さん……父さん……お願いです……」
 少年の声だった。階段前の小部屋から聞こえてくる。ドアは開いたままで、敷地外の電灯が薄らと部屋の中に届いているのが見えた。信治は荒い息を吐き出しながら近付き、そして視界の中に座り込んだ少年の姿を捉えて思わず駆け寄ろうとした――ドアを入ってすぐ横に立っている男の姿に気付いたのは、その後だった。
「優人。これが私の元から逃げ出した結果だ」
 男の抑揚に乏しい声が耳に入るのとほぼ同時に、信治は強い衝撃を左側頭部に感じた。痛みを感じる前に吹き飛び、散らかった床の上に倒れる。
 少年の見開いた目が信治を見つめていた。瞬きをする暇もなく、二人の間に影が立つ。身悶えした信治は、錆びたハンマーを振り上げる男の姿をぼんやりとした視界に映した。また同じ場所に衝撃が走り、目の前が真っ暗になる。
 そして意識が途切れた。

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