15.姉との会話

 車が一台通れるだけの、薄暗く細い道を歩いて行く。電灯は暫く見当たらなかった。思っていたよりずっと田舎なのかもしれない、と信治は心細い気持ちで思う。時折吹く風の冷たさに足取りを重くし、元来た道を戻ろうかと真剣に悩み始めた頃、やっと大きな道に合流した。しかし相も変わらず鬱蒼とした森に囲まれている。心待ちにしていた電灯はぽつりぽつりと橙色の光を辺りに投げかけてはいるが、車一つ通る気配のない道路の不気味さを拭うほど明るいわけではなかった。
 家を出るとき、踏むと大きな音が出る白い石が敷き詰められた庭を避け、玄関から門まで続く一本の煉瓦道を歩いた。玄関にも門にも、近付くと点灯するライトが取り付けられている。ベッドを出たとき安楽は眠っていたようだが、目覚めて隣が空いていることが気付けば窓の外を見たかもしれない。見なかったかもしれないし、途中で起きることもないかもしれないが、朝には気付く。いずれにしろ時間の問題だ。誰かが追いかけてはこないだろうかと何度も振り返るのは、連れ戻されるのを恐れているからなのか、それとも連れ戻されたいと願っているからなのか、もしくはその両方なのか、信治自身にも分からなかった。
 ゆるい傾斜を下りながら歩き続けている内に民家が視界に入った。信治は足を止め暫くその姿を眺めた後、足音を立てないように気を配りながら通り過ぎた。寝静まった見知らぬ人たちを起こす勇気はなかったし、助けを求めたいわけではない。電話を借りるか、ここはどこなのかと訊ねるくらいはしてもよかったかもしれないと数十分後に思ったが、もしそうしていたら真夜中に一人で歩いていたことを不審に思われ、警察に通報された可能性もあった。大事になれば経緯を話さなければいけない羽目になり、そうなれば嘘が得意ではない信治は、安楽のことを口にしてしまったかもしれない。
 それは意図するところではなかった。
 あの家を出て来たのはただ、やるべきことがあると思ったからだった。



「田辺さん?」
 鍵穴に鍵を差し込んだ瞬間に、久しく耳にしていなかった自分の名字を呼ばれた。信治は声がした方向――アパートの前の小さな敷地を見下ろした。そこにいたのは信治と同年代の、隣人の女性だ。彼女は信治の顔を驚いた顔で見上げ、そして階段を上ってきた。何と言うべきか迷い、信治はその場では最も無難と思える言葉を発した。
「あの、こんばんは」
「こんばんは……っていうか、無事だったんですね。いつ戻ってきたんですか?」
「えっと……ついさっきです」
 彼女は薄暗がりでも分かる派手な化粧をしていた。仕事帰りなのかもしれない。何度か壁越しに聞こえて来た電話の内容から、彼女が水商売で身を立てていることは知っていた。真夜中、コンビニに出掛けると疲れた顔の彼女と稀に遭遇することはあったが、会釈を交わすくらいでまともに言葉を交わしたことは殆どなかった。こうして驚きと好奇心をあらわに『無事だったのか』と聞かれるということは、つまり失踪していたという事実を知られているということだ。
「ご家族の方とか、警察の人とか、留守の間に結構来てましたよ」
「警察……」
 信治は背筋が凍るのを感じた。
「何か言ってましたか?」
「言ってたっていうか、何か変な物音を聞かなかったとか、不審者を見なかったとか、交友関係とか色々聞かれました」
「すみません。ご迷惑かけました」
「あーいや、別にいいですよ。でもご家族に連絡はしておいた方がいいと思います。心配してたみたいだし。お姉さんなんか今日の夕方も来られてたし」
「はい……本当にすみません。早めに連絡しときます」
 信治がそう答えると、彼女は鞄から鍵を取り出しながら言った。
「ちょっと旅行か何かに行ってただけですよね?」
「え?」
「田辺さん大学生みたいだから、休み中に旅行か何かに行って、その先で彼女が出来て帰りたくなくなったとかじゃないのかなーって思ってました」
 私達もう大人なのにいつまでも子ども扱いされますよね、と彼女は言った。そして信治の表情を見て自身の説の確証を得たと感じたのか、にやりと笑った。
「それじゃ、おやすみなさい」
 信治が同じ言葉を返す前に彼女は部屋の中へと消えて行った。

 家の中に入ると、一瞬全てはそのままのように思えた。だが少し見れば自分以外の誰かが足を踏み入れ、中にあるものに触れたことは明白だった。どの程度調べて行ったのだろうか。流しにあった生ゴミは片付けてあり、覚悟していた悪臭はない。
 信治は畳の上に腰を下ろした。そして暫くの間ぼうっと膝を抱えていた。時刻は午前五時、疲労感はあるが眠気は全くない。数時間歩き、やっとのことで見つけたタクシーに乗ってここまで辿りついた。それからずっと頭が上手く働いていない。目にするもの全てにまるで現実感がなく、思考がぼやけている。
 ふと先刻の会話が頭の中に蘇り、信治は鞄を探った。そしてそこには目当てのものはないということを思い出した。携帯電話は、出会ったその日に処分してしまったと安楽が言っていた。アパートに固定電話は引いていない。数分の間固まって、それからテーブルの上に置いたパソコンの存在に気付いた。電源を入れ、ブラウザを開いて携帯電話のバックアップデータを呼び出す。電話帳を眺め、少し迷った後、一人の人物にメールを送った。
 返事が来るのには一分もかからなかった――『今どこ?』。家にいると返すと、それにもすぐ返事があった。『車ですぐに行くから、そこで待ってて』
 チャイムが鳴ったのは三十分後だった。ドアを開けた先に立っていたのは、
「姉ちゃ……」
「信治、この数カ月何してたの!?」
 大声にたじろいだ信治の顔を恐ろしい剣幕で見つめ、彼女は大きな溜息を吐いた。化粧をしていない顔、寝癖が残った髪。メールの着信音で起きて、慌てて家を飛び出してきたのかもしれない。
「何も怪我してない?」
「うん」
「病気も? 具合は悪くない?」
「うん、大丈夫、ごめん。……あのさ、玄関先だと近所迷惑になるから中に入らない?」
「朝ごはんは?」
「え?」
「食べたの?」
「まだだけど」
「じゃあ今から食べに行くから」
「でも俺、今そんなに食欲」
「無くても行くの。お金なら私が出すから早く靴履いて」
 返事をする前に彼女は背を向け、歩き出した。階段を下りる音を聞きながら信治は鞄を取り、靴を履いてその後ろに続いた。

 車はアパートの近くの駐車場に止まっていた。二人はそこまで歩き、早朝から営業しているレストランへと向かった。車中では沈黙が狭い空間を支配していた。信治は運転席の姉を横目でちらりと見遣り、その横顔が明らかに怒っているのに気付いて目を逸らした。そして何から話すべきか考え始めた。姉がどこからどこまで知っていて、どこまで警察が動いているのか分からない内は話す内容を限定した方がいいような気がしたが、この剣幕だと根掘り葉掘り聞き出されてしまうかも知れない。信治は昔から姉に弱かった。彼女は信治にとって小さな母親のようで、中学を卒業するまでは放課後や休日に誰とどこで何をして過ごしているのか常に把握されていた。その目で見つめられて訊ねられると、どんな隠し事も出来ないような気がするのだ。そして実際、信治が高校に入るまで彼女は弟の何もかもを知っていた――性的指向を除いて。
「好きなの頼んで」
 アパートから車で十五分程離れたチェーン店に入って奥の席に腰を下ろすと、信治はメニューを手渡された。
「腹減ってない」
「そ? じゃあ適当に頼むけど」
 信治はメニューを受け取った。
「……パンケーキのBセットで」
 二人は呼び出しベルを鳴らして中年の女性店員に注文し、ドリンクバーから飲み物を取って席に戻った。まだ早いせいか席は殆ど空いていて、信治たち以外に店にいるのはサラリーマン風の男が二人だけだった。
「それで?」
「それで、って?」
 信治はソーダにストローを差しながら姉を見返した。彼女はコーヒーに砂糖を溶かしている。
「さっきも訊いたけど、この数カ月何してたの?」
「……話すと長くなるんだけど」
「時間ならあるよ。今日会社休むから」
「何で?」
「警察に行ったり、お母さんたちに事情を説明したり、色々やらなきゃいけないでしょ」
「ああ……ごめん」
 信治が体を小さくすると、彼女は小さく溜息を吐いて首を振った。
「怒ってないから、そんなに怖がらないで」
「うん」
 信治はソーダを二口飲んだ。置いたグラスを指先で軽く叩きながら顔を俯かせる。
「その、家とか警察とか、どういう感じになってる?」
「大事になってる。信治が春休みに入る少し前に大学に来なくなって、春休みが終わって一週間経っても大学に来ないから、お母さんに大学から連絡行ったの。私は先月の半ばから信治の携帯が繋がらないことに気付いてたから心配してたんだけど、もしかしたらただ私と話したくないだけかもって様子を見に行ったりはしてなかったのね。でも大学にも行ってなくて携帯も駄目ってことは、もしかしたら何かあったんじゃないかってお母さんと話して一緒にアパートに行って……大家さんに鍵を開けてもらったら家に大分帰ってない感じがして、二人で近所の人に色々訊いてみたら二月の始めから見てないし、雨の日もずっと洗濯物を干しっぱなしだから教えようとしても出てこないって言われて、それで警察に行ったの。捜索願も出して、部屋の中見てもらったり、近所に聞き込みとかもしてもらったんだよ」
 本当にごめん、と信治は消え入りそうな声で言った。
「謝るなら警察の人とか、お母さんに言って」
「うん」
「あとね、事件性が無いって判断したらしくて、警察は大規模な捜索はしてくれなかったから、興信所とかに依頼してみようって昨日お母さんと話してたとこだったの。そうする前に帰ってきてくれてよかった。無事に帰ってきてくれて、本当によかった」
「うん……」
「ねぇ、何があったの? 犯罪に巻き込まれてたりとか、したの?」
 犯罪。犯罪が起こったのだとしたら信治は被害者で、安楽は加害者だ。だがそれを肯定するのには強い抵抗があった。体はどこも傷付けられていないし、自分はいまこうして普通に外で息をしてる、と信治は心の中で呟いた。腕に抱いた安楽のあたたかさ、匂い、あの優しげな微笑みの記憶はまだ薄れていない。離れたのはほんの数時間前のことだ。
 信治は隣人との会話を思い出した。
「春休みの少し前に、ある人と知り合って」
「ある人?」
「うん……それで、その人の家で暮らしてた。色々あって姉ちゃんとか大学とかバイト先に連絡するのうっかり忘れてた」
「その人、友達?」
「違う。……何ていうか、大事な人」
「同棲してたってこと?」
 信治は頷くと、姉の顔を窺った。目がまっすぐに合う。心臓がどくどくと激しく動揺し始める。
「それだけ?」
「それだけって?」
「本当にそれだけだったの? 私に何か隠してない?」
 沈黙が降りる。気まずい空気が流れ、どちらも暫く口を聞かなかった。無言の限界に達する前に、頼んでいた料理を持って店員が現れた。
「お待たせしました。こちらがパンケーキBセット、こちらがモーニングAセットになります」
 信治の前にはパンケーキが置かれた。三枚重ねのパンケーキにフルーツとシロップが添えられている。対面に置かれたのは同じ色と大きさの皿だが、載っているのは全く違うもの――半分にカットされたトースト、カップに入ったミニサラダ、スクランブルエッグにウィンナーが二本のセットだ。信治の鼻は敏感に肉の匂いを捉えた。信治の体は一瞬ざわめき、吐き気や恐怖が起こる前に静まった。
「どうしたの? そんなにお腹空いてた?」
 姉の発した言葉は厚い膜を通して聞こえ、信治のぼんやりと麻痺したような頭がその言葉の意味を解するまでには少し時間がかかった。
「信治?」
「いや……何でもない」
「何か食べたいものがあったなら、何でもあげるよ」
「いらない」
 問題はない、どこにも。信治は自分に言い聞かせた。問題はどこにもなかったし、何も起こっていない。二人は食事を始めたが、信治はそれ以上ウィンナーに過剰な反応を示すことはなかった。暫く訝しげな顔をしていた姉も、信治が普通にしているのを見ると追及するほどのことではないと判断したようだった。
「あのね、信治」
「なに?」
「怒らないで聞いてほしいことがあるんだけど」
「うん」
「家に入ったとき、私、何か手掛かりが無いかってパソコンの中を見たのね」
「パスワード、かかってたのに?」
「適当に入れたらログイン出来たの」
 その先に続く言葉を瞬時に想像して、信治は体を硬直させた。
「それで、履歴を見ちゃったんだ。ごめんね」
 何を見たのか直接口にされなくても、姉が重苦しい口調で指しているのが何なのか分かった。
「姉ちゃん、あれは……」
「待って、先に言わせて」
 フォークを置いて真剣にこちらを見る眼差しに、信治は弁解しようと開いた口を閉じた。
「私、偏見ないから。怒りもしないし、信治が――ゲイだって言っても、怒らないし縁切ったりしないから。本当に、これだけは信じて」
 今すぐここから逃げ出したくなる気持ちを抑えるために、深呼吸をした。
「……うん。ありがとう」
「……じゃあ、やっぱりそうなんだ?」
「うん。けど、女の子も好きだよ。彼女いたし」
「そっか。うん、分かった」
 二人はゆっくりと互いの様子を窺いながら食事を再開した。半分ほど皿の中身が消えた所で信治は新しい飲み物を取りに行き、そして戻った。
「ねぇ、信治は昔の事件のこと覚えてる?」
 唐突な話題のように思えた。『昔の事件』を思い起こしてみても、その印象は変わらない。
「俺が小学生のときにヤク中から頭を殴られたときの?」
「そう」
「前も言ったけど、そのときのことは覚えてないよ」
「でも聞いたことは覚えてるでしょ?」
「上着脱がされて倒れてたとか、そういうこと?」
「うん」
「それがどうしたの? ずっと前のことじゃん。もう犯人も死んでるし」
「そう、だけど私とかお母さんは、これまでずっとあの男のこと散々に言ってきたよね。悪戯目的で信治に近付いたんだって分かってたから、変態だとか、異常者だとか」
 男が異常者だったのは事実だ。発見時には奇声を上げ、信治が着ていた筈の上着を振り回していた薬物中毒者。留置所で自殺した。
「私、あの日信治を放って友達と遊びに行ったこと、今でも後悔してる」
「姉ちゃんのせいじゃないって。運が悪かっただけだよ。俺と一緒にいたら二人とも殴られてたかもしれないし」
「うん……でもね」
「でも?」
「もしかしたら私があの男のことをこれまで散々言ってきて、しかも一時期は信治に本気で過保護になりすぎてたから、今回のことが起こったんじゃないかって考えてたの。追い詰められた信治が出会い系とかで会った変な男に誘拐されたんじゃないかとか、私に何か言われるのが嫌で彼氏と駆け落ちするしかなかったんじゃないかとか」
「違うよ」
「本当に?」
「うん。その……一緒に暮らしてたのは確かに男だし、姉ちゃんとかにはバレないようにしたかったけど、本当に失踪みたいなことする気はなかったし」
「……そっか。うん、邪推してごめん。それに何か、大袈裟に騒いじゃって」
「いや、こっちこそいっぱい迷惑かけて――」
 謝罪の言葉を最後まで口にする前に、姉がテーブルの隅に置いていた携帯電話が着信を知らせる音を鳴らした。彼女は発信元を確認して信治にアイコンタクトを送り、電話を取った。
「うん、お母さん? 書き置き見た? うん。今一緒にいるよ。朝食取ってる。大丈夫、何も問題ないから。健康そうだし、事件にも巻き込まれてないって。食べ終わったら家に戻るから慌てないで待ってて。大丈夫。合流して話して、落ち着いてから警察行こう。うん、お父さんにも。大丈夫だから。……分かった、ちょっと代わるね。電話口だから質問責めしないでね」
 手渡された携帯電話を、信治は怖々と持ち上げた。聞こえて来たのは母親の声だった。声量は抑えられてはいても、その口調から動揺が伝わってくる。泣いているのかもしれない、と返事をしながら思う。会話はほぼ安否確認に終始した。
「お母さん、泣いてた?」
「多分」
「やっぱり」
 通話を切った携帯電話を返して、皿に残ったパンケーキを三口で胃に収めると、信治は紅茶のカップを手に取った。
「何て話そうか? どこまで話す?」
「どこまで、って?」
「信治はお母さんに、どこまで話せる? お父さんは多分言ったことそのまま受け取ると思うけど、お母さんは相手の人のこと聞いてくると思うよ」
「……姉ちゃんは?」
「私?」
「姉ちゃんは俺の相手のこと気になる?」
「そりゃあ気になるよ。ちゃんとしてる人なのかとか、どこに住んでて、何歳で、何をしてて、どんな性格で、信治とはどこでどうやって知り合ったのかとか。二人はまだ続いてるのかとか。けどこれ以上詮索する気ないから。何でも姉に知られてるのって、息苦しいでしょ……でも今度いなくなるときは、ちゃんと教えてくれる?」
「そうする。ごめん、ありがとう……けど多分、またすぐいなくなると思う。部屋、引き払うつもりでいるから。母さんにも姉ちゃんにも、父さんにも、まだ詳しくは話せないけど」
 姉の顔に浮かんだ感情を、信治は正確に読み取ることが出来た。彼女は今でもまだどこかで弟を、自分が守り導くべき存在だと思っている。だがその気持ちに抗って、弟を一人の人間として尊重し、そしてその選択を受け入れようと努めている顔だった。
「信治はその人のこと、凄く好きなんだね」
 信治は頷き、手にしていたカップに目を落とした。琥珀色の水に映った顔はぼんやりと揺らいでいた。

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