14.風

 夕暮れが鮮やかに空を染めている。沈む太陽の赤、夜の青、そして二つの色が混じり合って出来た紫。その下で黒々とした影を伸ばしているのは、敷地の周りに群生する木々だ。一日の間でひととき目にすることが出来る、圧倒的な色遣い――窓枠に切り取られて、家の中からは風景がまるで一枚の絵画のように見えた。
 その絵に心を惹かれて手を止める者は多いだろう。だが安楽は違った。乾いたばかりのモスグリーンのカーテンをフックに取り付ける手付きには無駄一つなく、両端を同じ素材の紐で留め、空気の入れ替えの為に開け放っていた外開きの窓を閉めた後は、窓の外に関心を含んだ一瞥を加えることすらせずに背を向けて別の作業を始めてしまった。安楽の性質がそうさせるのか、それとも今は別の何かが安楽の思考を支配しているからなのかは、傍目から判断出来ない。
 安楽は電気を点けて組み立て式のベッドの包装を解き、僅かな時間で手際良く組み立てた。マットレスを載せ、すぐに使えるようにベットメイクまで済ませる。それからテーブルや椅子、小さな棚を適当な場所に配置すると、部屋は大分、人が住むのにふさわしい場所に見えるようになった。今朝の五時までここは、うっすらと埃が積もるだけのがらんとした空間だったのだ。
 ワックス掛けを済ませたフローリングの床は光沢を放っているが、作業の間に落ちてしまった埃やゴミがいくつか落ちている。安楽はそれを手とモップで始末し、最後に使った道具を片付けて、作業を完璧に終えた。
 暫く部屋の中央に佇み、やり残しが無いことを確認した後、安楽は廊下に出た。足を踏み出してすぐ右手にはドアがある。そこは安楽の部屋だ。素通りして階段に下り、一階に、そして地下に向かう。
 あとは新しい住みかに信治を案内するだけだ。



 信治はいつもの場所――鎖で繋いでいたときと同じ行動範囲の中にいた。膝を抱えてぼんやりと壁を見ていた顔が、ドアの開閉に気付いたのか安楽の方に向けられる。
「優人さん」
「用意が出来ました。今から行きますか?」
 その問いへの答えを信治が口にするまでに、少し時間がかかった。
「……行きます」
 安楽が部屋を準備している間に、信治はショッピングバッグや新品のゴミ袋に荷物を詰め込んでいた。信治は立ち上がってその中の一つと鞄を持ったが、安楽はまるで羽でも抱えているかのような涼しい顔で残りの荷物を全て手にした。軽く数十キロある。信治は口をあんぐりと開けた。
「重たくないんですか? 無理しないで何回かに分けて持って行った方がいいんじゃ」
「大丈夫ですよ」
「ホントに?」
「ホントに、です」
「優人さんって意外と力持ちなんですね。俺だったら腕が千切れてる……」
 確かに、信治の腕は筋骨隆々とはとても言い難い。安楽はこの数カ月の間に信治が腹筋運動や腕立て伏せを行っている姿を何度か目にしていたが、服の上から見る限り成果は出ていないようだった。
「パッと見た感じはほっそりしてるのになぁ」
「脱いでみましょうか?」
「そ、それはいいです。抱き締めただけでも何となく筋肉の付き具合が分かるし、大丈夫」
 信治は顔を赤くし、「荷物持ってるし、行きましょう」――そう早口で言うと、一人で地下室への出入り口まで歩き始めた。安楽はそれに続いた。
 しかしドアに近付くにつれ先を歩く信治の歩みは遅くなり、一メートル前にまで辿りつくとその足はぴたりと止まってしまった。
「信治くん、鍵は掛けていません。開いたままです」
 信治は答える代わりに振り返った。
「優人さん、けど、本当にこれでいいんですか」
「何のことですか?」
「その……」
 口籠り、足元に目を落とした信治は、一つ深呼吸をした。
「俺をここから出したら……優人さんは後悔するかも」
「後悔?」
「だって、今から行く部屋って普通の部屋なんですよね。こんな感じの、外から鍵を掛けられる部屋じゃなくて」
「そうですね」
 家族扱いをすれば信治は喜んでくれる筈だった。だが信治はこうして戸惑いを示している。安楽は、自分は何か間違いを犯しているのだろうかと不思議に思った。
「……優人さんがいいなら、俺は……」
 信治はそこで言葉を切った。そしてドアの方に向き直り、荷物を持ったままドアノブに手を掛けて大きく開いた。



「意外と普通の家だ」
 ベッドに寝転がって、信治は一通り家の中を歩き回った感想を口にした。
「けど何かお洒落ですね。洋風な感じ」
 そう続ける信治の顔は窓の外に向けられている。時刻は午後七時、空には星が輝いていた。
 安楽は椅子に座り、信治の方へ体を向けている。
「父が設計したんです」
「お父さんが?」
「ええ、僕の父が」
「建築士の人だったんですか?」
 安楽は頷いた。
「この家は父が母を喜ばせるために、間取りや外観、内装も母の趣味に合わせて建てたのだと聞きました」
「じゃあラブラブだったんだ」
 両親の仲が良かったのか、安楽には頷ける程の記憶が無かった。
「うちの両親はそんなに仲良くないんです。親父は母さんとあんま会話したがらないし、母さんも母さんで用があるとき以外は親父を空気扱いしてるし」
 信治はふと、「今どうしてるんだろ」と独り言のように呟いた。
「優人さん」
「はい」
 窓の外から安楽の方へ、信治は視線を移した。暫し見つめ合う。
「……こっちに来ませんか?」
 誘われるまま安楽はベッドに腰を下ろした。信治は安楽の手を引き、自分の横に倒してそっと抱き寄せた。断りなくそうされたのは初めてだった。胸に額を押し付けて息を吐いた信治の表情は、安楽からは窺えなかった。
「今日から俺達は、家族ですか?」
「はい」
「俺は優人さんの弟?」
「分かりません」
「弟じゃない方がいいな」
「なら、違います」
「そんな適当でいいんですか」
「信治くんがそれでいいなら僕もそれで構いません」
 ううん、と唸った信治の吐息が安楽の胸に触れる。
「何か俺もよく分からなくなってきました。色んなことが頭でからまってる」
 沈黙が降りると、安楽は信治の髪に触れ、指でゆっくりと梳くように撫で始めた。信治は心地良さそうに溜息を吐き、暫くの間身を任せていたが、ふいに顔を上げた。
「……もしかして、『頭でからまってる』って言ったから梳いてくれてるんですか?」
 安楽は頷いた。
「ブラシを持ってきましょうか」
「いや、あの、頭でっていうか、頭の中で……」
 そこまで言って、信治は耐えきれないように笑い出した。安楽をぎゅっと抱き締め、笑いの衝動をやり過ごそうとするかのように縋り付く。その振動が安楽の体に伝わる。
「信治くん、大丈夫ですか?」
「は、は……すみません、何かよく分かんないけどツボに嵌って」
 顔を上げた信治の目尻には涙が溜まっていた。安楽は信治の荒い息が落ち着くまでそれを見つめ――無意識にそこへ指を運び、溢れそうな涙に触れた。指の腹がじわりと濡れる。信治は息を止め、目を見開き、そして指が離れる瞬間に瞬きをした。黒い睫毛の先が微かに安楽の指を撫でる。
 信治はその指ごと手を握った。きゅっと自分の手を締め付ける手の平の強さを、安楽は黒い瞳に見つめられながら感じる。
「優人さん、好きです」
 それは一度聞いたことがある告白だった。
「今、言っておかなきゃと思って……面と向かって、ちゃんと言っておきたくなって」
「信治くん」
「言っておきたかったんです」
 信治は顔を伏せ、手を離して安楽の背中を抱き締めた。そして掠れるような小さな声で、ぽつりと呟いた。
「けど俺達はこれから、どうすればいいんだろう」



 一週間が過ぎた。二人はまるで本物の家族のように――あるいはプラトニックな恋人同士のように振る舞った。食事をし、会話をし、寄り添って映画を見て、夜はどちらかのベッドで共に眠る。訪問者はなく、買い出しに出掛けるのは決まって安楽一人で、信治はこれまでと同じように安楽以外の誰とも接触を取らない生活を続けていた。信治は不平不満を漏らすことも、元の生活に戻りたいと言い出すこともなかった。それどころか、自分は幸せだと、こんな風に暮らすのは夢だったと口にした。だから安楽は、これで良かったのだと思った。
 だが予兆は確かにあったのだ。
 ある日の夜のことだった。安楽は自分を抱き締めていた体が、ふっと離れていくのを感じた。目を開くと、隣にいた筈の信治がドアの方に向かっているのが見えた。三日月と星の光がうっすらと窓から差し込んでいるものの部屋は暗く、少しだけ振り返った信治の表情は窺えなかった。反対もそうだったのかもしれない。信治は音を立てずにドアを開き、部屋の外へ出て行った。安楽は廊下を歩く信治の足音に耳を澄ました。それはゆっくりと遠ざかり、階段を下りて行った。
 五分ほど経った頃だろうか。机の端に置いていた携帯電話が電子音を発した。それはあらかじめ設定していた警告音だった――玄関ドアの開閉を知らせるための。だが安楽はすぐに体を起こすことが出来なかった。暫くして麻痺したように動かない体に感覚が戻ると、安楽は隣の信治の部屋に向かった。安楽の部屋より数段明るい部屋には、求めていた姿はない。
 窓に近付く。カーテンは開いたままで鍵も掛っていない。外を見ると、門の近くの照明が点灯しているのが見えた。それは人感センサー付きのもので、夜間に人が近付くと自動で明るくなるタイプだった。安楽が光を目にして数秒、人工的な光は辺りに見当たらなくなった。窓を開けて身を乗り出してみても信治の姿は見えない。とうに生い茂る木々の中へと消えてしまったのだろう。
 風が吹いた。その風は安楽の頬と髪を冷たく撫で、部屋の中へと吹き込んだ。
「信治くん」
 部屋の空気を揺らした風は、やがてその声と同じように跡形もなく消えていった。

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