13.家族

「わ、あ、うわっ……」
 喜び勇んで立ち上がり、そしてすぐに倒れそうになった体を安楽は抱きとめた。信治は照れくさそうな笑みを浮かべ、安楽に凭れたまま二ヶ月半振りに自由になった手へと視線を落とした。
「何か変な感じ。急に軽くなったから、バランスが」
 信治は呟いて、安楽の体に腕を回した。
「ありがとう、優人さん」
「いいえ」
 『ありがとう』。それがどちらに対してのものなのか安楽には判断出来なかった。体を支えたことに対してだろうか。それとも枷を外したことに対してだろうか? どちらにしろ、そもそもの原因は安楽にある。
 信治はそっと体を離し、上体に巻き付けていた大判の布を脱いで安楽が用意したシャツに腕を通した。シャツは少し大きめで袖が余っている。
「これ、優人さんの?」
「今は僕が所有していますが、かつては父のものでした」
「お父さん……ここに住んでるんですか? あ、前に一人暮らしって言ってましたね」
「父は亡くなりました。僕に家族はいません」
 一瞬の沈黙。
「だけど今は、俺と二人暮らし、ですね」
「はい」
 そうですね、と安楽は笑みを返した。



 その日の夜、安楽は消灯した地下室に毛布を持って下りた。奥のテーブルに置いたデスクライトがぼんやりと光っている。信治はラグにうつ伏せになって毛布を腰の上まで被り、顔を安楽のほうに向け、静かに待っていた。
「パジャマ姿、初めて見た」
 安楽は入浴を済ませた後、上下揃いの紺の寝巻に身を包んだ。確かに、こうしてゆったりとした姿を見せるのは初めてだ。
「何か……かわいい」
「かわいい?」
「だっていつもキッチリしてるじゃないですか。シャツは完璧にアイロンかかってるし、下も皺一つないし、ギャップが凄い。一緒に寝ようって誘ってみて良かった」
 信治は嬉しそうに笑い、少し奥にずれた後、仰向けになって空いたスペースをとんとんと手の平で叩いた。促されるまま体温が残ったあたたかいラグに腰を下ろし、差し出されたクッションを枕がわりに体を横たえて毛布を被る。
「優人さんっていつも何時くらいに寝てるんですか?」
「十一時です」
「じゃあまだ眠る時間じゃないですね。あと一時間ある……眠くなかったら、お喋りとかしませんか」
 お喋り。安楽は口の中で繰り返した。
「どんなことを?」
「何か、優人さんが話したいこととか」
「話したいこと?」
「そうです。どんなことでも」
「どんなことでも……」
 漠然とした言葉だ。戸惑いを読み取ったのか、信治は小さく唸るような笑い声を上げた。
「予想通りの反応だ。優人さんって聞いたら大体何でも答えてくれるけど、初めて会った日以外と用があるとき以外はあんまり自分から話さないから、多分そういうタイプなんじゃないかと思ってました。自分のことを話すのは好きじゃないのかなって」
 その通り、安楽は話し手より聞き手に向いた人間だった。黙っていろと言われればいくらでも口を閉じていられるし、どんな罵詈雑言でも微笑んだまま耳を傾けていられる。それは忍耐強さの表れでもあり、ある意味では他人にも自分自身にも無関心であるということの表れでもあった。
 必要なときには予め用意しているいくつかのパターンの中から適当なものを取り出し、それで他人を喜ばせ、警戒心を解くことも出来る。しかし安楽が自分の感情や思考、日常で起こった些細なこと、そして勿論この家で起こった秘密を積極的に他人と共有しようという気持ちを起こすことは皆無に近いため、過ごす時間が長くなるとその本性が露見する。安楽に好意をもって近付いた人々は、初めのうち穏やかで見目のいい安楽を必要としたが、やがて安楽を空虚な人間だと思い始め、最後には向こうから別れを告げて去って行った。
 信治は背を向ける代わりに、その顔を安楽の方に向けて言った。
「優人さんに話したいことがないなら、代わりに俺の話、してもいいですか」
 安楽が頷くと、信治は天井を見上げ、少し間を取ってから話し始めた。
「俺、高校のとき彼女がいたんです。付き合うのはその子が二人目で、最初の彼女は一ヵ月くらいで終わっちゃったんですけど、その子は一年くらい続いて……俺なりに本気で好きだったんです。でも振られました。理由は、友達には大学が離れたからって話しました。けど本当は、俺が悩んでたから」
 細く長く、信治は溜息を吐いた。
「前に話した通り、俺、男も好きで、多分男の方が好きな人間なんです。けど高校のときは誰にも言えなくて、というか最近まで自分でも本当にそうなのか分からなくて、ずっとモヤモヤしてました。今考えると、彼女は俺がそうなんだってことは最後まで知らなかったと思います。でも俺が何か隠してるんだってことは気付いてました。何で言ってくれないのって聞かれたこともあります。それに答えられずにいる内に距離が出来始めて……彼女がとうとう別れようって言い出したとき、彼女は別れたい理由を教えてくれました。俺の隠し事、それが理由だって言われました。本当はそのままの意味だったんだと思います。でもその時は、内容について言われてるんだと思って、俺の性癖がバレたんだって思って、彼女以外にもバレてたらどうしようってパニックになっちゃって……逃げるみたいに、住んでたところから離れてる大学を受けることにしました。それも、第一志望は受かるか受からないか分からないレベルの公立大に、第二志望を第一志望と同じ珍しい学科のある、本命の『遠い大学』にして、親とか先生への言い訳に出来るようにして。結局第一志望も第二志望も落ちちゃったんですけど、第三志望だったところも少し離れてたから、そこに行くことにして……レベル低いところだったから、同じ高校で受けてるの俺ぐらいでした」
 それだけは良かったな、と信治は呟くように言った。
「大学に入ってからは深い付き合いを避けるようになって、彼女も作りませんでした。かといって何か、男とそういう目的で会うっていうのも勇気が出なくて、なあなあで生活してました。優人さんと会ったときには高校のときの友達ともすっかり疎遠になってて、家族にも俺の秘密を話せなかったから、そっちとも殆ど連絡取ってなかった。……もしかしたら、まだ誰も俺が消えたこと気付いてないかもですね。まだ三カ月も経ってないし。俺はもう何年も前からここにいるような気がしてきてるけど」
 信治は何か考え込むように口を閉じ、毛布の上に置いた手の平をぱたぱたと動かした。そして暫くして、また口を開いた。
「ちょっと変なこと言ってもいいですか?」
「変なこと?」
「変なことっていうか、気まずいこと……でも優人さんは聞いても何も感じないかもしれない。ていうか多分、そうだと思う」
 安楽は信治の横顔を見つめた。信治は少しの間横目で見つめ返し、また天井に目を移した。
「前、優人さんのこと好きになるかもって言ったけど……本当のこと言うと、多分一目惚れだったんです」
 信治の予測した通り、安楽はそれを聞いても何も感じなかった。
「好みっていうより、ずっと心のどこかで思い描いてた人、みたいな感じでした。理想そのものっていうか……声を掛けられたとき、凄く緊張してました。やばいやばい、俺どうしようって思ってた。その後あんなことになって、それは死ぬほど怖かったけど。……だから最近まで、本気で好きなんだって分からなかった」
「好き、というのは恋愛感情のことですか?」
「そうです。でも、変なことはしないから。……いや、これまで触ったりとかしてて変なことしないっていうのも嘘くさいけど、その、キスとか、それ以上のこととか。正直したいっていう気持ちはあります。でも絶対しないから安心してください。体拭いてもらったりとか、気まずくなるようなことも出来るだけ自分から避けます。普通に一緒にいるときにもし反応したりしたら、収まるまで体を離すようにします」
「信治くん、僕は――」
「『僕は構いません』とか、そういうことだったら言わないでください」
「どうしてですか?」
 まさにその通りのことを口にしようと思ったのだ。安楽は構わなかった。自分は信治が求めているものを与えることが出来る。ただ、過去の経験から安楽は自分が性的興奮を覚えることがないということを知っていた。心理的な刺激には勿論、直接的な刺激にも性器は殆ど反応しない。勃起不全――それで信治が問題ないと判断すれば、性的接触を行うことに同意するつもりだった。
「だって、好き同士でもないのにそういうことするのって、悲しいじゃないですか」
 安楽の目を見つめながら、信治は唇の端を僅かに上げるだけの微笑みを浮かべて見せた。
「優人さんは前俺のこと好きだったって言ってたけど、一瞬すぎだし意味分かんないし、まず確実に俺と同じ意味じゃないし……それに、優人さんはそういうことする人より、親友とか、家族がいた方がいいんじゃないかって思うんです」
 親友。家族。どちらも安楽が持っていないものだ。
「優人さん」
「はい」
「手、握ってもいいですか」
 そう言って信治は毛布の中から左手を出し、軽く宙に浮かせた。安楽はその手を数秒の間見つめ、そっと甲に手の平を重ねた。二人の手は二枚の毛布が重なった場所に下り、組み直されて握り合う形になった。
「俺、もし何か奇跡が起きて優人さんが俺と同じ意味で俺のこと好きになってくれたら、そのときは優人さんの恋人になりたいです。でも、多分そんなこと起こらないから……俺、優人さんの家族になりたい」
「僕のですか?」
「うん。それで、ずっと二人で幸せに暮らしたい」
「二人で、幸せに……」
 幸せ。安楽はその言葉が意味する未来を想像する。そこには今ここにあるものとは違う何かがあるのだろうか? 分からなかった。
「優人さん、そっちにいってもいいですか? 抱き合って眠りたいです」
 安楽はぼんやりと頷いた。信治は笑みを浮かべてライトを消し、安楽の毛布に自分のものを重ね、身を寄せて安楽の毛布の中に体を潜り込ませた。するりと体に腕が回されて、密着する。
「信治くん」
 暫く経った頃に安楽が名前を呼ぶと、信治は安楽の胸に半分埋めていた顔を上げた。
「家族とは、どうやってなるものなんですか?」
「……現実的に言うと、養子縁組、とか?」
 養子縁組。安楽が繰り返すと、信治は困ったように小さく唸った。
「でも俺がさっき言ったのは、そういうのじゃなくて、何ていうか……ただ、優人さんが俺のこと、家族みたいに思ってくれたらいいなって」
 ただそれだけです、と信治は呟くように付け加えた。それからにこりと笑んで目を閉じ、安楽の背中を優しく撫でた。安楽はゆっくりと瞬きをしながら手の平のあたたかな感触を味わい、そしてその温もりに導かれて口を開いた。
「僕の父は、この家を建てるとき、いつか家族が増えることを期待していました。だから僕の妹か弟が生まれたときのために、子ども部屋を二つ用意していたんです」
 信治は手の動きを止めた。
「信治くんが僕の家族なら、もう一つの部屋は信治くんの物です」
「優人さん、それって」
 見開かれた目が、安楽の瞳に映った。
「もし信治くんが良ければ、今後はその部屋を信治くんの部屋に――信治くんが生活するための部屋にしませんか」

←前の話へ 次の話へ→ topページに戻る