12.抱擁

 伸ばした足、膝の上にずしりとした重みがある。約五キログラム。人の頭――信治の頭だ。左側を下にして、安楽の腹とは反対側に顔を向けていた。
 地肌をしっかりとあたため濡れタオルで清めたばかりの頭からは、湯に混ぜたミントの香りが立ち上ってくる。
「意外と硬い……」
 独り言のようにそう感想を述べた信治を、安楽は小首を傾げて見下ろした。
「やめますか?」
 信治は安楽の膝の上に頭を載せたまま、首を横に振った。
「もう少しこうしてたい。いいですか?」
 断る理由はなかった。いいですよ、と安楽は答えた。

 あの日から、信治は時折安楽の体に触れるようになった。あの時と同じように手を繋ぐこともあれば、寄り添って肩を凭れたまま映画を見たり、ゲームをしたりすることもある。
 信治は僅かな接触でも安楽の許可を求めた。安楽はいつでも、構わないと返した。

 暫くすると信治は膝の上で目を閉じた。直前までの様子から考えれば、眠りに入ったわけではなくただ目を閉じているだけのようだ。これから眠るのだとしても、まだテレビの電源は消さなくてもいいだろう。画面に映っているドキュメンタリー番組は海中の物音と英語の解説を流しているが、どちらもささやかで落ち着いていて、それほど騒がしくはない。
 手持無沙汰な安楽は、周りを眺め始めた――不足はないだろうか。信治を繋いだ鎖が届く範囲は快適そうだ。物量は大分増えている。信治が望むままに与え続けた結果、本やDVDは山のように積まれ、ゲーム機は最新のものが一通り揃ってしまった(勿論それら全てに付属していたネットワーク接続機能は、あらかじめ部品を取り除いて動かないようにしてある)。日用品や非常食の類いも充実していて、もし安楽が何らかの事情によってここに訪れることが出来なくなったとしても、一ヵ月は生き延びられるようになっていた。
 テーブルの上には筆記用具がある。一度却下したものだが、検討した結果、与えてもいいという結論に達し、ひと月ほど前に渡したものだ。消しゴムを使った後の細長い滓がいくつか落ちているところを見ると、ノートには何度かシャーペンを走らせたのだろう。しかしノートは見当たらない。テーブルの横に置いた鞄の中に入っているのかもしれない。その鞄は元々信治の所有物で、一週間程前、携帯電話を除いた全ての私物を入れたまま返したものだった。手の届く範囲にあるそれを開けてみようとは思わなかった。
 安楽は視線を彷徨わせるのをやめた。足りないものは見当たらない。
「こういうのいいな」
 ふいに信治が呟いた。眠っていなかったようだ。
「こういうの?」
「膝枕です。さすがにOKしてもらえると思わなかった……あ、足痺れてないですか?」
「大丈夫ですよ」
 信治は目を開き、安楽を見上げた。じっと目を見つめたかと思うと、はにかんだような笑みを浮かべた。
「下から見ても安楽さんって顔整ったままですね。正統派って感じ。全然崩れない」
 容姿について誰かに褒められるのは度々あることだった。色素が薄く、優しげな印象を与える顔は母親譲りで、母親がかつてそうであったように、安楽も大抵の人間にその容姿だけで好感を与えることが出来た。
 にも関わらず、安楽は自分の容姿を特に美しいと思ったことはなかった。朝に顔を洗って鏡を見上げるとき、そこにあるのはただの顔だ。自分のものだという実感すらなかった。それはいつも無感情に鏡の外へと消えていく。
「オレも安楽さんみたいに整ってたら良かったのに。それかもっと男らしいっていうか、覇気のある感じだったらなぁ」
 そう言う信治の顔を、安楽はじっと観察してみる。
 少し下がった目尻は甘えたな印象を与え、あまり鋭くない頬や顎の線は幼さを強調している。覇気も毒気もなかった。見ようによっては大学生と言うより、高校に上がりたての少年に見える。視線を感じてか、奥二重だが大きな目が忙しなく閉じては開いた。
「信治くんは童顔ですね」
「あー、気にしてることを……」
「すみません」
「許さない。でも頭を撫でてくれたら許します」
「そんなことでいいんですか」
 信治は首を縦に振った。安楽は黒髪に手を伸ばした。まだ少しだけ湿っている――ほんの数十分前に安楽が清めたのだ。髪の中に指を軽く差し込んでそっと撫でてみると、その時と同じように信治は目を閉じた。そして少しくすぐったそうに鼻先をひくひくさせている。
「多分分かんないと思うんですけど、半年前にちょっとパーマかけたんですよ」
「ストレートパーマを?」
「それが普通のやつで、全然かからなかったんです。だから美容室で二回やってもらって、何とかふわっとしたなーと思ったら一ヵ月くらいで殆ど取れちゃって。もうホント、痛んだだけでした。本当は大学に入る前にかけて大学デビューしようと思ってたんですけど、新生活で色々お金が飛んじゃうから余裕なくて、やっと余裕が出来たと思って凄く意気込んで行ったらそうなって……もう自分の頑固な髪が憎い」
 髪は太めで、ほんの僅かにパーマをかけた跡が残っている。少し痛んではいるが、ここ二カ月は最低限の刺激しか与えていないせいか健康な状態に戻りつつあった。安楽は手の平でゆっくりと撫で続ける。
「今度は染めてみようかなぁ」
「用意しましょうか」
「うーん。でもよく考えたら外に出ることないし、やっても意味ない感じがする。安楽さんは美容室で染めてるんですか? それとも自分で?」
「いえ、僕は地毛です」
 信治は上体を起こした。
「ホントに?」
「はい」
 栗色の髪は、一度も染めたことがない。そういうことには全く興味がなかった。あまり伸ばしていると不審に思われるため、一ヵ月に一度、義務的に通っている美容室で長さを整えてもらうだけだ。見苦しくなければそれでいい。
「そういえば、睫毛とか眉も髪と同じ色ですね」
 信治は暫くの間じっと安楽の髪を見つめていたが、思い切ったように口を開いた。
「触ってみてもいいですか?」
「はい、どうぞ」
 恐る恐る近付いてきた信治の手は、少し短めの前髪に触れた。指先で上から下に撫でた後は左に移動し、サイドの髪を掬って、ゆっくりと指で梳いた。
「さらさらだ……やわらかい」
 ぼうっとした顔でそう呟き、信治は安楽の髪を撫でる。触り心地が気に入ったのかもしれない。安楽が身を任せている間、信治の口は小さく開いたままだった。
「すみません、べたべた触って」
 暫く経って我に帰ったらしい信治の手は、ぱっと勢いよく離れていった。
「僕は信治くんが一日中触っていても構いませんよ」
 えっ、と信治は小さく声を上げた。
「そんなこと言ったら、俺ホントに一日中触りますよ」
「食事の準備をしなくてもいいのなら」
「それは困る……」
 信治はそう言いながらまた安楽の頭に手を伸ばし、長い間髪を弄んでいたが、やがて満足そうな溜息を吐き、手を下ろした。そして安楽の膝の上にとすりと音を立てて頭を置き、体を猫のように丸めた。
「昼寝してもいいですか」
「いいですよ」
 目を閉じて十数分、寝息が聞こえ始めた。顔を覗き込んでみると、幸福そうな微笑が浮かんでいる。安楽が以前夜中に忍び込んでいた時に目にしたものとは違う。あのときあった隈や、眉間に寄っていた皺は見当たらない。栄養バランスのいい食事で体重は元通りになり、更に数キロ増加したせいか、陽に当たらない生活にしては健康そうな顔だった。
 そして普段よりもっと幼く見える。子どもだ、と安楽は思った。あのときの子ども。
 ふと寝返りを打った信治は、鎖が立てる音にも目を覚まさなかった。今度は左耳が上になっている。安楽は吸い寄せられるように信治の頭にそっと手を伸ばし、髪の間から耳の上の小さな窪みに触れた。その窪みは生来のものではないことを安楽は知っていた。後天的に、それも人為的に作られたものだ。
 指先で触れている内に、安楽の思考の中で古い記憶が呼び起こされ、ゆっくりと再生され始めた。
 それは始め、ぼやけた視界の中を歩いているところから始まる。足取りは覚束ない。何度か転び、足を擦り剥いても、それ以上の苦痛が小さな傷を覆ってしまっている。夢遊病者のように歩き続け、やがて大きく躓いて足を挫いた。安楽は蹲り、立ち上がれなくなる。そこは草むらだった。草のにおい。虫の鳴く音が微かに聞こえる。暫くして安楽の上に小さな影が落ちた。その影の主は安楽に声を掛け、そっと触れた。その声の邪気のなさ、やわらかい感触、近付いてきた丸い顔、子どものにおい。その子どもは――信治は、その善良さで記憶の中の安楽を救った。そして今、安楽はそのときのあたたかい感覚を微かに味わうことが出来た。
 だがその一連の記憶が終わりに近付くにつれ、安楽の胸には冷たい水が湧き出してきた。その水はゆっくりと全身に広がり、凍えるような冷たさの後に無感覚を齎した。そして膝の上にある信治のぬくもりは、どこかへと遠ざかってしまった。
 その無感覚は安楽にとって馴染みのあるものだった。
「安楽、さん」
 寝起きの声が安楽の思考を現実に戻した。信治は起き上がって時計を確認し、一時間くらいか、と呟いた。そして欠伸をし、安楽と顔を合わせてぱちぱちと瞬きをした。
「……安楽さん?」
「はい」
「もしかして足が痺れちゃったんですか。すみません」
「いいえ、痺れてません」
「でも」
「大丈夫ですよ」
 沈黙が下り、二人は見つめ合った。暫くして、信治は安楽の名前を小さく口にした。
「抱き締めても、いいですか? ……その、変な目的じゃなくて」
 安楽はいつもと同じ答えを返した。信治はゆっくりと安楽に手を伸ばした。重たげな左手も上げて、両手を背に回す。じゃら、と鎖が音を立てた。
 誰かの抱擁を受けるのは随分と久し振りだった。安楽は信治の吐息を耳元に感じ、胸には信治の上半身が触れるのを感じた。躊躇いがちな腕が体を包み、少しずつ力を加えていくのを感じた。
「信治くん」
 それを遠まわしな拒否の言葉だと捉えたのかもしれない。離れて行こうとした体に、安楽は反射的に縋り付いた。信治は硬直し、それから安楽を抱き締めた。二人は口を開くこともなくじっとただお互いを抱き締め合っていたが、やがて信治の左手がずるりと背中を伝ってラグの上に落ちた。重みに耐えかねたのだろう。信治はもう片方の手で強く安楽の体を包み、そして言った。
「安楽さん、これ、外してください……そしたら、もっとちゃんと抱き締められる」

 信治にその手で触れられているとき、安楽の麻痺したような感覚には変化が起こる。肌を通して温もりがじわりと移り、その場所がたった今存在し始めたように意識の中へと浮かび上がってくるのだ。まるで暗闇に灯りが点って、自分の手の形を初めて知るような感覚だった。その手は信治に触れている。信治の温もりを自分の体で感じているのが分かった。
 それがいいことなのか安楽には分からない。自分が何かを感じてもいいのか分からなかった。もしかすると、ずっと無感覚のままでいる方がいいのかもしれない。

「安楽さん……優人、さん」
 だが安楽はその声に抗う術を思い出すことが出来なかった。

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