11.触れる手

 『誰かを好きになったことって、あるんですか?』
 
 その問いに答えるのは、ひどく難しかった。安楽は言葉の意味を吟味し、文脈を理解しようと努め、記憶の中から自らの感情を掘り起こし、やっと答えを出した。
「好き、というのが『特定の相手に惹かれる』という意味なら、あります」
 信治は目を見開いた。染めたことのない髪の色と同じ黒い瞳の輪郭が、丸くくっきりと見える。その瞳には安楽の柔らかな微笑が映っていた。
「あ、あるんですか」
「はい」
 そう答えたものの、安楽はそのことについて他人事のように感じていた。過去の自分が彼に抱いた感情はおそらく好意であると判断出来る。しかしその感情は今、自分自身のものとして感じることも、乾いた絵の具に水を垂らすように蘇らせることも出来ない。
「もしかして、その、死体とかに反応するとか、そういう感じのやつですか。それなら聞きたくない」
 信治は怯えたように体を縮みこませた。二人はここ最近まるで友人同士のように振る舞ってきたが、二人の距離が近まっていくのと比例して、安楽が過去に起こした殺人や食人行為の詳細について触れるときに信治が示す拒絶反応は強まっていった。聞きたくない、知りたくない。本当はそんなこと起こらなかったのかもしれない、そう自らに言い聞かせているようだった。
「いいえ、僕が好きになったのは信治くんですから」
 普段と変わらぬ声音、何でもないことを口にしたような告白。信治はぽかんと口を開け、ゆっくりと瞬きをした。
「俺?」
「はい」
「でも、男は好きじゃないって」
「そうですね。今の僕はそうです。誰かに特別な感情を抱くことはありません」
 好きだという言葉も、それを否定する言葉も、安楽は同じ表情のまま発する。穏やかで優しげな頬笑みを浮かべたまま、何でもないことのように。信治は視線を彷徨わせ、何度か少し荒れ気味の下唇を噛み、右手首に嵌った冷たい輝きを放つ枷に左手で触れ、息を深く吸い込んで虚しく吐き出した。
「安楽さんのことが分かりません。何で……俺のこと、好きになったのはいつで、何で好きじゃなくなったんですか。どういう意味の好き、だったんですか」
「好きになったのは、信治くんと初めて会って、話をしたときのことです。残りの二つの質問については僕自身にもよく分かりません」
 信治は安楽の目を無言のまま見つめ、そして小さく唇の両端を上げた。
「本人が分からないんだったら俺に分かるわけないですね」
「そうですね」
 信治は左手の指でリズムでも取るようにタンタンと枷を叩きながら暫く沈黙し、それから「そうだ」と小さく声を上げた。
「今日の晩飯は何ですか?」
「信治くんが一昨日の朝に和食を食べたいと言っていたので、今日は筍の炊き込みご飯と鯖の塩焼きの材料を買ってきました」
「炊き込みご飯! それって材料の用意から安楽さんが? それとも炊き込みご飯の素?」
「前者です」
「本格的だ。すごい、オレなんか焼きそばしか作れないのに」
「材料を切って炊飯器の中に入れるだけですよ。それに僕は焼きそばを作ったことがありません」
「ホントに? じゃあ今度作ってもらおっかな。安楽さんでも初めては失敗するかの実験」
「失敗したら成功するまでやり直してから持って来ます」
「えー、そしたら確かめようがないじゃないですか……分かった。本当は自信あるんだ。まあ俺が作れるぐらいなのに安楽さんが失敗するわけないか」
 地下室という限られた空間の中に、通信機器は何もない。信治にとって娯楽と言えば買い与えられるゲームやDVDや本、そして唯一顔を合わせる人間である安楽と、安楽がきっちりレシピ通りに作る食事くらいのものだ。そう、だからなのだろう。安楽は自分の腕が特別いいとは思っていなかった。自分の口に運んでみても美味しいと感じたことはないし、信治以外の人間に褒められたことも殆どない。
「信治くんはいつもそういう風に言ってくれますが、僕を過大評価していると思います」
「なら安楽さんは自分を過小評価してる」
 信治は笑った。安楽はその笑顔を数秒の間じっと眺め、それから立ち上がって靴を履いた。
「ではまた、二時間後に」
「はい。待ってます」
 安楽は背を向けて歩き出した。ドアの前まで辿りつき、ドアノブを握る。普段ならそのまま立ち去るのだが、安楽はふと無意識に振り返った。視線がかみ合う。ほぼ同時に信治はその強い眼差しを和らげ、安楽に向けて手を振った。



 そしてまた、一ヵ月が経った。
 信治が監禁されてから約二カ月。穏やかな春の日差しが降り注ぐその家に、二人の生活を脅かすような存在の気配はどこにもない。
 玄関に入ってすぐ右手には階段があり、それを登ると二階に通じている。上がって廊下を歩き突きあたりまで行ったところが安楽の仕事部屋だ。ドアは閉まっていて、電気は点いていない。その部屋は構造上昼間でも光が入り辛く、他の部屋に比べると少し薄暗いが、ある一点はぼんやりと明るかった。発光しているのは窓際の壁付近にあるモニターで、そこには機械の設計図が表示されている。それに接続されたコンピューターは微かに音を立てているが、それほど働かされているわけではない。安楽が作業を始めたのは昼食を取って片付けを済ませた二時間前のこと。信治が来る前は空いた時間をほぼ仕事につぎ込んでいたものだが、それはその必要があったからではなく、それ以外にやるべきことを知らなかったからだ。安楽が相続した父親の遺産は現金資産だけでも相当なもので、フルタイムの仕事から自宅で週にほんの十数時間作業をし、図面ごとにいくらかの報酬を得るスタイルに切り替えても問題はないどころか、それすらも必要ないくらいだった。
 安楽は視界の端、キーボードの横に置いた携帯電話のライトが数秒の間点灯するのを捉えた。そろそろ時間だ。手早く作業中のファイルを保存してコンピューターの電源を切り、立ち上がる。
 部屋の壁には本棚が二つあった。片方は仕事に関係した書籍が占領し、もう片方には父親から生前に与えられた雑多な種類の本と、国籍・新旧様々な料理の本が綺麗に分類されて並べられている。安楽は後者の前に立ち、デザート、魚料理に関するもの、そしてベジタリアン向けのものを収めた段に手を伸ばした。三冊取って椅子に戻り、明後日から三日間分の献立を決めるため、信治からの要望と栄養バランスを考慮しながらページを捲っていく。一日三食と間食の分を決めるのに二十分。本を戻し、同じ棚の最上段右端を見る。児童書や図鑑、画集など様々な本を支えるブックエンドの右隣に、皮のブックカバーを立てかけてあった。安楽はそれに指先で触れた。微かに寄った皺を指先の鋭敏な感覚が捉える。もう随分馴染んだ感触だ。少しだけなぞって離した。
 安楽は部屋を出てキッチンに下り、紅茶を入れ、冷蔵庫からチーズケーキを取り出して切り分けた。それを持って地下に向かう。音を立てない静かで落ち着いた足取りで廊下を歩きながら、安楽はぼんやりと考える――彼は今回も美味しいと言って喜んでくれるだろうか。そうであればいいと思った。



「信治くん」
 意識のある状態の信治が、地下室に入ってきた安楽の方を見ないのは滅多にないことだった。触れられる程近くに寄り、そっと控えめに声を掛ける。信治はやっと本から顔を上げた。
「安楽さん」
「お邪魔でしたか?」
「……いや、そんなことないです」
 本を置いて、信治は笑顔を浮かべた。偽物だ、と安楽は思う。それが作り笑顔だと安楽に判断出来るのは、目元の筋肉の様子がそうでないものとは違うからだ。
「今日はチーズケーキです」
「わ、やった」
 今度は本物の笑顔を浮かべ、信治はテーブルの上から漫画と携帯ゲーム機を取り除いた。二人は向かい合って腰を下ろし、安楽は紅茶のポットを手に取った。夕焼けのような色の液体が香りを放ちながらカップの中へと優雅に落下していくのを、信治はじっと眺めていた。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
 信治の利き手は右手だが、チーズケーキにフォークを入れる動作は元々左利きの人間のように淀みない。左手でフォークや箸を持つのにも随分慣れたようだ。切った一口を口に運ぶと、信治は安楽が期待した言葉を口にした。安楽自身はそれが泥であろうと洒落たレストランの食事だろうと構わなかった。ただ信治には彼が美味しいと感じるものを、自分の出来る範囲で与えたい。いつからかそういう気持ちが安楽の中に生じていた。
 他愛もない会話をしながらケーキを食べ尽くして、残った紅茶をゆっくりと飲む。信治が腹の中で長い間あたためていたような重みのある言葉を発したのは、ちょうどそのときだった。
「ここに俺と安楽さん以外の人間が最後に来たのって、いつですか」
 婉曲な表現を使ったその質問は、こう訊いているのと殆ど同じだった――あなたが最後に人を殺し、食べたのはいつですか。
「六年二カ月と十日前です」
 六年前、と信治は口の中で呟くように言い、それから瞬きをして、ひどく嬉しそうな顔をした。
「さっき俺が持ってた本に、人間の細胞は六年周期で全部新しいものに入れ替わるんだって書いてありました」
 安楽は信治に渡した本を読んでいなかったが、その話は聞いたことがあった。
「だから、安楽さんは……」
 その続きはいくら待っても紡がれなかった。信治は何か考え込むような顔をし、黙ってしまった。二つのカップから紅茶がすっかり無くなってしまった頃、その口は何気ない風に開いた。
「ずっと気になってたことがあるんです」
「何ですか?」
「安楽さんは、どうして好きでもない人と付き合ってたんですか」
 そうですね、と安楽は過去の記憶を思い出しながら言い、カップを置いた。
「誘われて、断る理由がないときは一緒に出掛けたり話をしたりしている内に、いつの間にか交際していることになっていました」
「ああ、何か安楽さんっぽい。そんな感じだと思ってた」
 信治は空のコップを口元に運び、傾けて何も入っていないことに気付き、気恥ずかしげに置いた。
「ごちそうさまです。美味しかったです」
「ありがとうございます」
 安楽がトレイに皿やカップを戻していくのを、信治はぼんやりとした目で眺めていた。その目は安楽の手の動きを追っている。
 片付けを終え、トレイを持って立ち上がりかけたところで信治はまた口を開いた。
「安楽さん」
「はい、何でしょうか」
「その、俺がもし、安楽さんの手を握りたいって言ったら……」
 信治は顔を上げた。
「断る理由はありますか?」
 安楽を見る目は潤み、揺れていた。安楽はトレイを置いた。
「いいえ」
 躊躇いがちな手が、安楽の手に触れた。信治の手は安楽のものより少しだけ大きく、色はワントーン暗く、水仕事など手を痛める作業をしたことが殆どない皮膚は滑らかだ。その手が安楽の手の甲に触れ、包んだ。久し振りに感じるその手の平はあたたかく、緊張が指の先まで伝わっていた。
 二人は視線を合わせた。安楽は口を僅かに開き、何か言葉を発しようとしたが、適切な言葉を見つけることが出来なかった。
「ありがとう」
 その言葉と同時に、信治は手を離した。

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