5-1.秘密の恋人

「泰河ぁ、もう上がりだろ? 帰りに郵便局寄ってけ。これとこれと、あと鈴木さんもお使い頼みたいって言ってたからそっちもな」
 シュレッダーに書類を挿入していた持田は声の方を振り返った。パーマをかけた黒髪を艶のあるワックスでセットし、あからさまに高そうなスーツで決めた目つきの悪い男が、持田の傍のデスクに封筒をバサバサと投げているところだった。
「俺は無理なので、先輩お願いします」
「あ?」
 何でだ、と男は眉を顰める。柄はすこぶる悪いがその道の筋の者ではなく、持田の高校時代の先輩であり、持田が勤めるこのアパレル通販会社の社長でもあった。
「会社の前に迎えに来てもらってるから。今日は郵便局の前は通りません」
「迎えに来てもらってるって誰に。弟?」
「いや、彼氏」
 社長は「うげっ、まじか」と目を見開いて驚く。
「お前がゲイって事、最近忘れかけてたわ。つかお前が彼氏ってはっきり言うの初めてだよな……本気って事か?」
「うん」
「どんなやつ?」
 持田は微笑んだまま、何も答えなかった。
「あ~~~俺に教えるの勿体ないとか思ってんだろ!? くそっ、リア充はさっさと帰れ帰れ」
「はい。あと来週の飲み会は一次会で抜けます」
「えっ、それは嫌だ」
 感想を聞いたわけではなく報告をしただけだ。持田は気の知れた相手とはいえ仮にも社長の訴えを、ただその首を横に振る事で退け、片手に持っていたコートに腕を通す。
「じゃあ、お疲れ様でした」
 お疲れ様でしたー、とフロアに残っていた数名の社員が返した。社長はぶすくれた顔で封筒を拾い、近くにいたSEにそれを押し付けてから「泰河なんか嫌いだ」と拗ねた声で言った。その子どもっぽい言い草に持田はふっと笑い、デスクに置いていた鞄を手に取った。
「俺は先輩のこと好きですよ」
「ふーん。へぇ。でも彼氏よりは好きじゃないんだろ」
 そんな質問をして傷付くのは社長です――と、封筒を押し付けられた社員がぼそりと呟く。社長は彼に「何だとコラ」とやくざ紛いの因縁をつけ、モニター画面を無表情で見つめる彼の首を腕で締める真似をしたが、すぐさまその腕に噛み付かれて叫び声を上げた。持田はそんな二人の姿を見て微笑ましく思いながら彼らに背を向け、一人静かに会社を出た。


 約束した週末は唐桑の方に急な仕事が入り、結局流れてしまった。翌週は休みが合わなかった。翌々週は持田の祖父が急病で倒れ、ただの食あたりだと分かって戻った頃には休みが終わっていた。
 電話やメッセージでのやり取りと短い逢瀬を重ねて、やっと今週、二人の休みが重なった。だからだろう、持田の心は初めて唐桑を家に連れ込んだ時のように高鳴っていた。
 持田の会社が入っているビルの向かい、二階立てのカフェが待ち合わせ場所だった。持田は一階でカフェモカを買い、足音を立てないようにゆっくりと階段を上がった。広々とした二階席は八割がた埋まっていて、客層は十代半ばから四十代前半と幅広くあまり偏りがない。その中で持田はすぐに唐桑の姿を認めた。彼は階段から離れた窓際の小さなテーブル席に座り、カップを持って窓の外に目を向けていた。
 どうやら持田が二階にやってきた事には気付いていないらしい。持田は階段近くの席に空きを見つけ、腰を下ろした。隣に座っていた女子大生二人が持田の方をちらりと見て顔を見合わせ、ちょっとかっこいいね、と楽しげに小さく囁き合っていたが、持田の耳には入らなかった。遠くに座っている恋人の息遣いが――人々の話し声に掻き消されて聞こえない筈のそれが、持田の耳を楽しませる。誰の視線を意識するでもなく、ただじっと窓の外を見つめている彼の横顔と、力が入っているわけでもないのに自然にすっと伸びた、紺色のセーターに包まれた背中は、鑑賞に値する美しさがあった。そのままずっとこの美しい恋人を眺めていようかと本気で思い始めた頃、ふと店内に視線をやった唐桑と目が合ってしまった。唐桑は口を付けようとしたカップを中途半端な位置に上げた状態で固まった後、カップを下ろして立ち上がり、コートを片手に掛けて持田の方に歩いてきた。
 持田は椅子に腰を下ろしたまま恋人を見上げる――唐桑は首を傾げた。
「一体いつからいたんだ?」
「五分くらい……前から?」
「一回出てきてから戻っただろ? 忘れ物でも取りに行ったのかと思ってたのに……違ったのか?」
「そうだね。戻ってすぐ裏口から出て、遠回りしながらここに入った」
「……何か意味はあるのか?」
「あるよ。楽しいから」
「楽しい?」
「うん。貴大さんなら一日中でも眺めていられるって分かったぐらい、楽しかった」
 持田は立ち上がり、唐桑の持っていたカップと自身のそれを交換した。いいかと視線だけで尋ねると、仕方ないな、とでも言うような笑みが返ってきたので、口を付けてみる。唐桑が選んだのはオーソドックスなブレンドコーヒーらしく、砂糖もミルクも入っていなかった。
「じゃあ、行こうか」
 そう言った唐桑に持田は頷いた。唐桑は歩き出す前に持田のカップに口を付け、一口飲んで「こっちの方が美味い」と呟いた。持田は微笑んだ唐桑の甘く濡れた舌を思いながら、そうだねと微笑み返した。


 車で向かった唐桑の家は、細長く変わった形の、外から見るとこじんまりとした印象の家だった。唐桑の別れた妻の趣味なのだと持田には一目で分かった。
 建物は小さいが庭は広めで、そこかしこに咲いている愛らしい花々や灌木はガーデニング好きの人間の存在を思わせるが、実際は数か月に一度、軽く手入れをするくらいだという。ある程度放置しても見栄えが悪くならないようにと、最初の段階でガーデンデザイナーに依頼を掛けた結果らしかった。
「売るつもりだったんだが、妹が欲しいと言って聞かなかったんだ」
「妹さん、今は旦那さんと中国だっけ」
「ああ。帰ってくるのは……予定では来年の春くらいだったか。それまではここに一人暮らしだ」
「そっか。じゃあ時々遊びに来ていい?」
「歓迎するよ」
「毎週来ようかな」
「泰河の家みたいに面白いものは置いてないぞ」
「貴大さんが住んでるなら、どこでも天国だよ」
「……本当に大したものは無いからな」
 念押ししながら唐桑は玄関ドアを開け、持田を招き入れる。外気温とほぼ変わらぬ冷たい玄関は、淡く爽やかな香りがした。
「すぐ食べるか?」
「うん」
 唐桑はコートを預かった後、持田をダイニングルームへと案内した。小さいながら独立したその部屋は暖かく、中央に配置された木のテーブルには、シンプルながら美しいテーブルコーディネートがなされていた。全体的にベージュと緑を基調とした優しい色遣いでまとめられ、テーブルクロスの質感や飾られた花には、何となく親しみやすさと安心感を覚える柔らかな印象があった。
「これ、貴大さんが?」
「ああ。昔、講座を受けた事があるんだ。可愛いだろ?」
 唐桑は花の影に隠れていた小さなテディベアを拾い上げて言う。確かに――可愛い。持田はそのテディベアを恋人の長く形の良い指から取り上げ、テディベアの小さな口に軽くキスをして――こんなものを用意してみせる可愛らしい恋人の腰を抱いて引き寄せ、口付けた。
「可愛い。どこで買ったの?」
 腰を抱いたまま尋ねると、唐桑は持田が頬に擦り付けようとするテディベアに笑いつつ、首を横に振った。
「去年、うちの系列の会社のフェアで配布していた残りだよ。処分するっていうから引き取ってきたんだ」
「いいな。俺も貴大さんに拾われたい。大事にしてくれそうだし」
 唐桑はそうだな、と持田の目を見つめて考える顔をしながら、持田の手からテディベアを取り上げ、テーブルに戻した。どうやらくすぐったかったらしい。
「拾われたい、か。どうしようか」
「俺の面倒を見るのは嫌?」
「そもそも処分寸前どころか、引く手あまただろ。どうやったら手に入るのか分からないからな」
 唐桑は持田の頬に手を当て、試すような――突き放すような事を言う。
 そして唐桑は、ふっと柔らかく笑った。
「まずは食べ物で気を惹いてみるかな。座って待っててくれ」
 体を離した唐桑は、持田の肩を軽く叩いてから部屋を出て行った。
 持田は開いたドアの先を少しの間見つめ、それから椅子に腰を下ろした。年上の恋人の、もう一度恋に落ち直してしまうような美しい笑みを思い返し、とくとくと高鳴る胸の鼓動を感じながらテーブルの上を眺める。
 よくよく目を凝らしてみれば、隠れているのはテディベアだけではないらしかった。ウサギとキツネ、それに猫のマスコットまである――唐桑は一体、どんな顔でこれを用意してくれたのだろうか。
「本当に可愛い」
 持田は呟き、その口から甘く切ない溜め息を漏らした。


 遊び心のある恋人は、料理でも持田を楽しませた。前菜から始まり、ポタージュスープ、メインの煮込みハンバーグに、焼きたてのパン、肉厚のベーコンと三種の茸が入ったサラダ、デザートにはフォンダンショコラまで供された。持田の胃の容量に合わせてか元々多めの量だったが、それでも足りなかった持田がお代わりを尋ねると、唐桑は夜の為に用意していたという、透き通った宝石のような洒落たゼリーを出してくれた。
 二人で片付けをした後、リビングに場所を移した。驚いたことにリビングには暖炉があったが、煙突は夫妻が中古で買い取った当時から塞がれており、今は電気式のイミテーションが本物の薪の代わりに部屋を暖めていた。
 持田は土産に持ってきた酒――いつか唐桑が持田の家で選んだあの酒をグラスに注ぎ入れ、ソファに座る唐桑に手渡した。
「こんなに明るいうちから飲むのか?」
「じゃあ暗くします」
 持田はカーテンを閉めた。厚手のカーテンで外の光が遮断され、昼が一瞬で夜に変わる。持田は暖炉に灯る偽物の火を頼りに歩いて唐桑の隣に腰を下ろした。唐桑はくっくと肩を揺らして笑っていた。
「乾杯」
「ああ、乾杯」
 唐桑のグラスには少な目に注いでおいた。潰れるほど酔う事はないだろう。持田は唐桑を煽らないようにさりげなく自分のグラスの分を飲み干し、空になったグラスに青いミニボトルの中の残りを注ぎ足した。
「飲みやすいな。外で飲んだら失敗しそうだ」
 それほど高価なものではないが、口当たりが良く芳醇なこの酒は、酒好きでも普段酒を飲まない人間でも手を出しやすい。酒のあてもなくグラスを持つだけの唐桑の手は、その整った口元に水でも飲むかのような軽やかさで無色透明のそれを運んでいった。唐桑の身体にアルコールが沁みていく――持田は恋人の頬に赤みが差し、理知的な瞳が潤んで柔らかく優しげな色に変わる様を眺めていた。
「美味い」
「良かった」
「美味いな」
「うん」
 唐桑は最後の一滴を飲み干した。持田も自身のグラスを空にし、二つ分のグラスをテーブルに置いて腰を上げた。不思議そうに見上げる恋人の手を取り、立ち上がらせて、暖炉の前に敷かれたラグに移動した。
「貴大さん、仰向けになって」
 持田が言うと、唐桑は言われた通りに仰向けになった。好奇心が見え隠れする目で持田の出方を窺っている。持田はソファの上のクッションを二つ取って唐桑の隣に座り、一つを唐桑の頭の下に、もう一つをその隣に置いた。それから唐桑に顔を寄せ、温かな唇に自身のそれを重ね、少し触れただけですぐに離し、横になった。唐桑の腰を抱いて体勢を変えさせ、向かい合わせになる。
 オレンジ色に染まる恋人の顔は、多分このまま一日中眺めていたとしても飽きないだろう。元々整った造形に重ねた年月が深みを与え、その健やかさを保つ為に唐桑が続けてきた努力と、内から滲み出る知性と理性の美しさが、酸いも甘いも知った男の色香が、唐桑の魅力を類稀なものにしている。
 美しい、年上の男。持田よりもきっと多くを知っているが、知らない事もある。それを唐桑は楽しんでいる。翻弄される事を、そして知ることを。遥か上から見下ろす事はせず、持田が伸ばした手を掴み、一度も足を踏み入れた事のない場所にもついてきてくれる。
「貴大さんは……」
「なんだ」
 優しく尋ねる声。
「俺が何やっても、許してくれそう」
 唐桑は静かに、楽しげに笑う。
「何をする気なんだ?」
 ――貴方をもっと、やらしい体に造り変えたい。もっと欲しがりで、もっと貪欲な人になって欲しい。そして二人で……。
「……今は、貴大さんの色んな事、聞き出したいかな」
「例えば?」
「好きな音楽とか」
「何だ、健全だな」
「好きな本とか」
「うん」
「好きな映画とか」
「そうだな……」
「生まれてから最初に残ってる記憶とか、恥ずかしくて今まで誰にも言えなかった事とか、自分だけのジンクスとか、そういうのも知りたい」
「そんな事も知りたいのか?」
「貴大さんを全部知りたい。教えてくれますか?」
「……いいよ」
 唐桑は持田の頬を愛しげに撫でる。その大きな手の、長く形の良い指に撫でられると、持田は堪らない気持ちになる。心全てを、この美しい恋人に奪われてしまう。
「泰河が聞きたいっていうなら、何でも答えるよ」
 そして唐桑は語り始めた。
 脈絡もなく思いつくままに尋ねる自分の声に応え、唐桑の低く穏やかな声が自らを少しずつ明かすのを、持田は一冊の本を読むような気持ちで聞いていた。それは冒頭から強く、静かに引き込まれる魅力的な本、ばらばらのようでいて全てが繋がりを持って在り、ページを捲るたびに世界が深みを持ち、広がりを見せ、いつまでも読み続けてその世界に浸っていたいと思わせるような本――読み終わって閉じた時、きっと自分はこれを手放すことが出来ないのだろうと一瞬にして悟ってしまうような本……。

 二人が体を起こした頃には、カーテンの外はすっかり暗くなっていた。持田は喋り疲れたのか少し眠たげな目をしていた唐桑にひと眠りするよう言い、一人で買い物に出掛けた。家に向かう際に見掛けたスーパーは十分徒歩圏内で、中を覗いてみればやや高めの値段設定の代わりに質が良く、品揃えが豊富だった。ありきたりなものより少し変わったものの方がいいだろうと思い、旅先で覚えた料理のレシピを思い出しつつ籠に食材を入れていく。十五分ほどで買い物を済ませ、勝手に借りてきた唐桑のマフラーと手袋で寒さを凌ぎつつ、ゆっくりと歩いて家に戻った。
 出掛けに唐桑は持田に鍵を持たせた。近隣の家で空き巣被害が何度かあったらしい。インターフォンを鳴らさずに鍵を開けて入り、キッチンに買い物袋を置いた後、リビングのドアを開けて中を覗く。唐桑は持田が出掛ける前の姿のまま――暖炉の前に横たわったままだった。持田は恋人の傍まで歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
 ――どうやら本当に眠ってしまったらしい。呼び掛ければ目を覚ますだろうか。今日は早起きをして掃除や雑事の片付けをした後、ジムで汗をかいたと言っていた。それから家に戻ってシャワーを浴びて食事を用意し、持田を迎えに行ったことを考えると、かなり忙しない休日の朝だ。
 ここで持田には選択肢がいくつかある。このまま目覚めるまでずっと唐桑の寝顔を眺め続けるか、眠っている間に食事を用意して唐桑を驚かせてみるか、あるいは今ここで唐桑を起こし、寝ぼけているうちに不埒な悪戯を仕掛けてみるか――どれも魅力的だ。持田が楽しみながら悩んでいると、唐桑が唐突に瞼を開けた。目が合って、数秒無言で見つめ合う。
「……起きてた?」
 寝起きの目つきにしてはしっかりし過ぎている。尋ねると唐桑は頷き、持田の首から下がるマフラーに手を伸ばした。
「鍵が開く音で起きた。起こしてくれるのを待ってたんだ……俺のマフラーだよな?」
「うん。勝手に借りた。駄目だった?」
「いいよ」
 唐桑は体を起こし、マフラーの結び目に指を掛けた。そしてもう一度、囁くように同じ言葉を繰り返した。微かな欲望の炎がその瞳の奥にちらつく。持田は誘われるように唐桑の顎をすくい、唇と唇を重ね合わせた。
「……今度、俺に似合うマフラー、選んでくれる?」
 唐桑のマフラーはシックな黒の単色で、上品でごくシンプルなデザインだ。持田には少し落ち着き過ぎているし、色味が暗過ぎる。ねだれば簡単に手に入るだろうが、似合いもしないものを身に着けるよりは、唐桑が似合うと思って選んでくれた首輪をつけたかった。
「俺が選んでもいいのか?」
「うん。選んで欲しい」
「そうか。分かった」
「ほんと? ありがとう。俺も貴大さんに選んであげるよ。何がいい?」
「そうだな……」
 手袋を外し、唐桑の頬に触れる。
「じゃあ、シャ……ん、泰河、こら、俺は……シャ、ツを……」
 触れるだけのキスを何度も繰り返して、唐桑の言葉を阻む。
「なに? 下着?」
「そんな事言ってな――泰……が、ああ、もう」
 何度も繰り返し口付けていると、唐桑は真面目に答えるのを諦め、両手を上げて降参した。
「――ああ、分かった。下着だ。下着を選んでくれ」
「選んで欲しい?」
「……選んで欲しい」
「うん、いいよ」
 そう答えた持田を唐桑はもの言いたげな目で見つめた後、言葉を口にする代わりに持田を片手で引き寄せ、深く唇を合わせた。濡れた舌が中に入ってくる――柔らかな唇が持田の唇を甘く愛撫する。引き返せなくなる寸前に、唐桑は唇を離し、額と額を合わせた。このまま欲に任せて体を合わせるか否か――迷いを抱いた目を持田は静かに見つめ返し、唐桑の頬を撫でた。唐桑の口が僅かに開き、一度閉じて、唇が微笑の形に変わった。
「……夕食の材料、買ってきてくれたんだろう?」
「……うん。俺が一人で作ってもいいけど、一緒に作る? どうしようか?」
「皮むきと簡単なカットくらいなら手伝えると思う。何を作るんだ?」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「俺が旅した事のある国の料理、の、うろ覚え版。今レシピを思い出してるところ」
「……何が出来上がるか楽しみだな」
 二人は笑い、もう一度だけ軽く唇を合わせて立ち上がった。


 料理をしている間、持田は唐桑に請われて旅先の思い出を語った。それほど長い間放浪していたわけではなかったし、全てを見尽したと言えるほど多くの国を見てきたわけではなかったが、それでも唐桑にとっては立派な冒険譚といえるものだったらしく、たびたび手を止めて持田の話に聞き入っていた。
 そして二人がキッチンに入って一時間程経った頃、再現性はともかくとして、それなりのものが出来上がった。作りたいものを好きなように作ったのが一目で分かる多国籍料理。二人はそれをリビングの小さなローテーブルに並べ、テーブルに入りきらなかった分は床に置き、ラグの上に腰を下ろして食べることにした。持田が提案したそのやり方はいささか行儀が悪いと言えないでもなかったが、唐桑はたまにはこういうのもいいなと笑って受け入れ、持田に誘われるまま隣に座り、楽しげに食事を味わっていた。

 食事が終わると二人は片付けを済ませ、唐桑が物置から引っ張りだしてきたダーツに時間を費やした。元々得意だという唐桑と、最近仕事場にダーツセットを持ち込んで休憩時間に遊び始めた持田の腕前はほぼ互角で、恋人同士というよりは親友同士のように軽口を叩きつつ、ゲームの種類を変えて一時間以上競い合った。
「……楽しかった」
 遊び尽して最後のゲームを終えた時、唐桑はソファに腰を下ろし、天井を仰いで目を閉じて呟いた。
「俺も楽しかった。貴大さん、想像してた以上に上手かったし」
 持田が隣に腰を下ろそうとすると、唐桑は持田の手を引いて促し、自身の膝の上に乗せて腰を抱いた。持田は唐桑の首の後ろに手を回し、されるがままにしていた。
「泰河といると……何をやっても楽しい。本当に楽しいんだ」
 唐桑は持田をじっと見つめながら言う。まるで愛を告白しているかのような、熱を帯びた眼差しと声。言葉から熱が移って、持田は自身の体に汗が滲むのを感じた。熱い――体が熱い。目を逸らす事も出来ず見つめ返していると、唐桑は持田の頬に口付け、耳に指先で触れ、それから首に顔を埋めた。持田はそこに鼻先が擦り付けられるのを、柔らかな唇が押し当てられるのを感じた。触れられた場所から体が痺れていく。もっと触れて欲しい……。
 泰河、と唐桑が肌に吐息が触れる距離で囁いた。
「……なに?」
「したい」
 唐桑はもう一度持田の首に唇を押し当て、ゆっくりと顔を上げた。はっきりと欲望が見て取れる目――持田は唐桑の唇に自身のそれを重ね、強く押し付けた。開いた唇の隙間に差し込んだ舌を唐桑が甘噛みする。舌先が触れる。唇同士が擦れ合う――二人は互いの唇を貪ることに夢中になった。
 キスの合間に持田は唐桑の腕に触れて促し、ソファから降りた。持田は服を脱ごうとしたが、そうする前にラグの上に押し倒されてしまった。唐桑は持田の足を割って中に入り込み、持田を見下ろした。
「泰河……」
 唐桑は甘い溜息を吐き、持田に覆い被さった。唇が重なる。唐桑は持田の足の間で悩まし気に腰を揺らした。着衣のままペニスを擦り付けられる。激しくはないが、ぞくぞくするほど淫猥な動き。
 持田は唐桑の身体を押し返し、上体を軽く起こして二人の体の間に手を伸ばした。唐桑に口付け、舌を絡ませながらベルトを緩めてジーンズの前をくつろげ、唐桑の方にも手を伸ばそうとした。だがその手は唐桑によって阻まれ、挙句にまた押し倒されてしまった。
「貴大、さん?」
 唐桑は押し倒した持田の頬に、唇に、顎に口付けながら持田の下着の中に手を差し込んだ。ごくりと喉が動く音がした――どちらが立てた音だろう、と持田は思う。だがペニスに唐桑の指が絡んだ瞬間、その些細な疑問は頭から弾き出されてしまった。既に勃起していたそれは外に引き出され、唐桑の指で緩く扱かれた。あ、と持田の口から声が漏れる。欲望が嵩を増し、唐桑の手で大きく膨れ上がっていく。持田は与えられる快感を味わいながら、自身を見下ろす恋人の目を見つめていた。欲に濡れた目――何かを強く欲している者の目。
 唐桑の唇が開いた。
「……本当に、無いのか?」
 低く美しい声に言葉以上のものが滲んだその問いは、持田の体の芯にまで深く潜り込んで、奥底に隠した熱い欲望を撫で上げた。一瞬、まるで達した時のような強い快感が持田の中を駆け抜けた。
「ん……」
「誰にも?」
「無いよ、誰にも……」
「男にも、女にも?」
「うん……大事にしてるって、言った……」
 欲しい――唐桑の目が言った。そしてその口がもう一度開き、唇が躊躇うように震えた。
「……口でしても……いいか?」
 本当に欲しいものは、それじゃない――そう思ったが、落胆はしなかった。頬の裏側でそれを擦られた時の事を思い返すだけでひどく感じた。持田は獣のような息を吐き、唐桑の顔に手を伸ばした。唇の間に指を差し込むと、柔らかな舌が持田の指を濡らした。
「いいよ……貴大さんの中に入れて」
 そう答えながら犬歯を撫でれば、尖った歯で甘噛みされた。持田は唾液に濡れた指を口の中から引き抜き、その指で唐桑の唇を撫でた。
「貴大さんの中に……入りたい」
 無意識に口走った言葉に、唐桑は一瞬痛みを堪えるような顔をした。そして一度小さく息を吐いて、持田の足の間に顔を埋めた。先走りで濡れた先端から、ぬるりと一気に半ばまで包まれる。濡れて温かな咥内に入り込んだペニスに舌が絡みつく。
「…………っ」
 とろけそうなほど、気持ちが良かった。吸い付かれ、舐め回され、柔らかな粘膜でぬるぬると擦られる。興を削がれるような下品さはないが、静かで情熱的な、大胆な舌遣いだった。まるでそれが好きで好きで堪らないとでも言いたげな熱心さで、唐桑の口は持田の欲望を煽っていく。
 唐桑は一度それを口から出して側面を根元から先端まできつく吸った後、幹に薄く浮き上がった筋を舌先で辿り、膨れた先端を、唾液と先走りを絡めるように舐め回した。
「ああ……気持ち良い……、凄い……凄い、貴大さん……」
 持田が無意識に唐桑の頭に手をやると、押さえつけたわけでもないのに、唐桑は持田を口に含み、ゆっくりと深くまで呑み込み始めた。半ばを過ぎ、もっと深くまで――それまで一度も達したことのない場所まで、その喉の奥へと唐桑は持田のそれを迎え入れる。喉が異物を追い出そうと震え出すとさすがにきついらしく、えずく気配がしたが、それでも唐桑は口からそれを出そうとはせず、むしろ持田の太腿をきつく抱いて離すまいとした。
 殆ど根元まで呑み込まれて、持田はあまりの良さに溜め息を吐いた。優しく、美しい恋人の中に入っている――柔らかな粘膜に包まれている。他の誰も入った事のない、喉の奥の震えを感じる。あと少し――あと数秒もしないうちに、きっと弾けてしまう――
 そうなる寸前に、唐桑はずるりと口の中からそれを引き抜いた。乱れた荒い息が聞こえ、持田はいつの間にか閉じていた目を開け、息を整えようとしている唐桑の顔を見た。唐桑は目を潤ませ、頬を紅潮させながら持田を見つめ返した。
「貴、大さん……」
 名前を呼ぶと「いいよ」と優しい声が返ってきた。
「出していい……」
 そう囁いて、唐桑は持田のそれにもう一度唇を落とす。何かをねだるような甘い舌遣いで先端を愛撫し、唇を大きく開いて口の中に含み、根元に添えた手で口に入らなかった部分を扱きながら、頭を軽く上下に動かした。
 そして――持田は体を震わせ、唐桑の咥内に熱い白濁を吐き出した。思考を途切れさせるような途方もない快感――両の肺まで満たされるような幸福感。
「ああ……」
 射精が終わり、体から力が抜ける。ペニスが温かい場所から抜け出る気配がし、ごく、と喉が動く音が聞こえた。確かに聞こえたその音で、やっと思考が戻ってくる。持田は荒れた息を吐き出しながら目をはっきりと開いた。白い天井を見て、それから恋人の姿を探す。唐桑は頭を上げ、まるで吐精直後のような色っぽい目で持田を見つめていた。持田は上体を起こし、唐桑を引き寄せて唇を合わせた。どんな味がしようが構わなかった。キスがしたかったのだ。
「……もしかして、飲んだ?」
 何度もキスをした後に尋ねると、唐桑はまだどこかぼんやりとした目で持田を見つめながら頷いた。いつも涼しげに整っている目元は微かに涙で濡れている。えずいたとき、相当苦しかったのだろう。
「……痛く、なかったか? 歯が何回か当たっただろ?」
「ううん。凄く良かったよ」
「そうか」
 嬉しげに微笑んだ唐桑にもう一度キスをする。
「ね……俺にも飲ませて」
 唐桑の身体を倒し、ボトムの前をくつろげると、下着は一目見て分かるほどに濡れていた。持田に口淫を施しながら、唐桑は感じていたのだ。
「可愛い……貴大さん……」
 下着の上から口付け、それから直に触れた。口に含むと、唐桑の口から甘い吐息が漏れた……。


 リビングで睦み合った後、二人は交互に風呂に入った。先に出た持田は二階に上がった。一階はキッチンやリビング、ダイニング、風呂場やトイレ、クローゼットがあるだけで、寝室や唐桑の部屋は無かった。床にも手すりにも埃一つ見当たらない広めの階段を上ると、ドアが四つあった。唐桑からは好きに見て回っていいと許可を貰ってある。持田は階段に近い方から一つずつドアの向こうを覗いてみることにした。
 一つ目――南向きの広々とした部屋は、倉庫になっていた。どこにもそれらしい形跡は残っていなかったが、きっとここは唐桑の元妻が使っていた部屋なのだろう、と持田は直感的に気付いた。
 数年間、唐桑と人生を共有していた女性の姿を思い浮かべてみる――嫉妬の情が浮かんでこないのは、顔も名前も知らない人間だからだろうか。あるいは、結局は唐桑が手放し、今はもう別の人生を歩んでいる人間だからだろうか?
 ――だがもし、唐桑が今でも彼女を焦がれるほど愛していたのなら、持田は唐桑を手に入れる為にどんな事でもしただろう。
 ドアを閉じ、二つ目を開けた。トイレだった。三つめは簡易書庫になっていた。壁にはダーツの先端が突き刺さったような跡が微かに残っている。キャスター付きのラックに収まっているのは唐桑の仕事に関わる本が大多数ではあるものの、全く関連性が見当たらない分厚い専門書や、美しい装丁の大判の図鑑や写真集、小説もあった。小説は見たこともない作家のものもあれば、昨年のベストセラーに名を連ねていたものもある。時間が許せば全て開いて読んでみたいところだったが、あいにく読み終わるまでには数か月はかかりそうだった。数冊抜き取って部屋を出ると、持田は最後のドアを開いた。
 壁二面の大きなクローゼットがあるその部屋は、どうやら寝室のようだった。中央に据えられているのは、紺と白を基調とする落ち着いた色で纏まった、大き目のしっかりとした作りのベッドだ。ベッドの隣、窓と反対の側には折り畳み式のテーブルがある。その上には黒のミニコンポとCDのラック、ランタン型のテーブルランプ、エアコンのリモコンが置かれていた。リビングのソファと寝室の家具類は離婚後に買い直したものだと唐桑は言っていた。つまり、これが唐桑の趣味なのだろう。
 窓際には観葉植物の鉢がいくつか置かれている。葉と水受けの様子を見るに、まめに世話をされているようだった。
 微かにルームフレグランスの香りがする。唐桑の匂いを探してベッドに腰掛け、枕に顔を埋めてみたが、柔軟剤の香りがするだけだった。
 暖房を入れた。ミニコンポと、それに繋がっていた音楽プレーヤーの電源を入れて再生ボタンを押すと、緩やかなテンポの深みのあるチェロ音楽が流れ始めた。持田はランプを点けて部屋の照明を消し、ベッドに横たわった。
 枕に頭を置き、持ち込んだ本の中から適当な一冊を選んで本を開いた。ページを捲ってみたが、今は頭に入らない。大人しく本を閉じてテーブルに置き、天井を見上げた。
 静かに音楽に耳を傾けていると、遥か昔の記憶が蘇ってくる。
 その記憶は思い返す度に僅かずつ歪められ、今では何が本当にあった事なのか分からなくなってしまった上に、その記憶に端を発した願望は、記憶の中で目にした光景とは大きく乖離している。持田はそれを自覚していた――自身が囚われているのは、自らが長い年月をかけて作り出した幻想に過ぎないのだと。
 ほんの少し前まで、その美しく淫らな想像世界にいるのは持田自身と、靄がかかった曖昧な輪郭の男の二人きりだった。その男は時折断片的にはっきりとした顔や体を取ることもあったが、例外なくすぐに元の状態に戻り、しかもその時々で別人になった。それでもひどく魅力的なその男相手に、持田は何度もペニスを握り、ときには下着を濡らすこともあった。
 彼はそれまでに目にした現実世界のどんな男も敵わない、持田の秘密の恋人――いつか本当に出会う筈だと願い続けた、理想の男だった。酔った友人に寝込みを襲われるようにして抱かれた後、友情と性欲だけで現実世界の男たちと肌を合わせ、ときに抱かれる事はあっても、彼を忘れた事は無かった。
 きっとこれからも忘れる事はないだろう。彼は出会ったあの晩からずっと、たった一人の男の姿を取っているのだから――
「貴大さん……」
 持田は切なげな声で恋人の名を呟いた。
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