3.朝

 買い置きのバターロールを軽く温め、卵とベーコンとアスパラを焼いて、数年前に旅先の陶芸教室で作った皿に盛り付ける。洗ったミニトマトを添えれば立派な朝食の出来上がりだ。
 ついでにインスタントコーヒーを二杯分カップに用意し、持田は寝室に戻った。ドアを開ける音で目が覚めたらしく、ベッドの上で厚手の毛布を肩から被った男が身じろぐ。持田は数分後に騒ぎ出す予定になっていた目覚まし時計に暫しの休みを与えた後、ほんの一時間前までその身を横たえていた場所に腰を下ろし、男を見下ろした。その男――友人から恋人へと関係を変えてまだ一日と経っていない、年上の愛しい男――唐桑がゆっくりと瞼を上げる。持田は唐桑の乱れた前髪を指先で軽く払ってやり、ぼんやりとした目をじっと見下ろして、唐桑の意識が覚醒するまでの十数秒の変化を観察していた。柔らかく無防備な眼差しが、やがて一人の成熟した男としての自我と知性とを感じさせるそれに変わる。唐桑はゆっくりと二回瞬いた後、自身を見下ろす男の視線に気付き、目を上げた。 
 唐桑は目を見開いた後、やや狼狽した様子で僅かに身を引いた。持田はそれに気付かない振りをして、優しく問い掛けた。
「おはよう。貴大さんって寝起き、悪い方?」
「いや……、おはよう…………今は……何時……?」
 寝起きの、掠れた声。持田は上体を起こそうとしている唐桑をベッドに押し付けたくなった。
「七時、三十秒前」
「そうか……」
 唐桑は自身の額に手を当て、そのまま乱れた前髪を後ろにゆっくりと撫でつけ、何か考えているような目をして沈黙した後、もう一度持田に目を向けた。
「何時……って、もう聞いたな」
「七時一分。二回目だから、キスしてもいい?」
「まだ歯も――」
「気にしない」
 持田はやんわりと拒もうとする唐桑の言葉を遮って身を寄せ、唐桑の後頭部に手を当てて唇を合わせた。躊躇いがちな唐桑の咥内に軽く舌を差し込みながら、唐桑の首の後ろに両手を回し、足をベッドに上げて唐桑の腰を挟んだ。
「泰、河」
 持田は唐桑を抱いて背中から後ろに倒れ込んだ。驚く唐桑の唇を舐め、髭の生えていない口元にキスをし、頬を擦り付ける。そして片手は唐桑の首の後ろに置いたまま、もう片方の手で背中をするりと撫でる。背骨のラインを指でなぞってみれば、ぞくりとするほど心地良かった。なぞる指をそのまま下に滑らせると、唐桑の身体がびくりと震えた。持田は動きを止め、息が触れ合う距離で唐桑の目を見つめた。
「……貴大さん、今日はどんな夢、見た?」
 唐桑は答えない。その目に浮かぶのは、困惑と躊躇い、そして微かな欲望だった。
 持田は手の平で裸の尻を包むようにし、軽く撫でた。そしてそのしっとりと張った肌、やや肉厚の、筋肉と脂肪がほどよい加減でついたそこを、焦らすようにゆっくりと揉み込む。
「……泰河」
 やめてくれ、という意味だと声音で分かった。だが持田はやめる代わりに唐桑の唇を塞いだ。本気の拒絶なら素直に従ったが、唐桑は明らかに、どう反応すべきか分からずに戸惑っているだけだった。その証拠に、唐桑は勝手に振る舞う持田を突き放すどころか、戸惑いつつも持田に体重をかけないよう少し体をずらし、積極的とは言えないまでもキスに応えてくれる。持田は唐桑の唇と舌を静かに味わいつつ、唐桑の尻を撫で、緩やかに揉んでその感触を楽しんだ。そして戯れに双丘の狭間に指先を近付けたが、唐桑が体を離そうとする気配を感じ取り、自ら退いた。
「まだ……変な感じする?」
 持田が尋ねると、唐桑は返答に迷ったのか少し間を置いて頷いた。
「俺は……抱かれて、ないよな……?」
「抱いてないよ。指は入れっぱなしだったけど」
「入れっぱなし?」
「貴大さんが起きる一時間前くらいまで入れっぱなしだった」
 唐桑はぽかんと口を開けた。
「嘘だろ?」
「嘘だと思う?」
 長時間挿入されていた感覚は残っている筈だ。持田の指に、締め付けられる感覚が残っているように。
 唐桑は奇妙な感覚の正体に納得がいったらしく、ああ、と呟いた。
「だからあんな夢を……」
「あんな夢って?」
「何でもない」
「聞きたいな」
 しつこく尋ねながら尻を揉むと、唐桑は懲らしめるように持田の鼻を親指と人差し指で軽く掴んだ。持田は笑って尻から手を離し、するりと前に手をやった。少し硬くなっていた唐桑のそれを軽く撫でてみる。
「手で抜いていい? 時間ない?」
「……むしろ俺が聞きたいんだが、いいのか?」
「勿論」
「朝から元気だな」
「貴大さんも元気ですけど」
 品のない言葉に唐桑は少し笑った後、こう尋ねた。
「俺もしていいか?」
 答える代わりにキスをした。唐桑の手はすぐに持田の下着の中に入ってきた。触れたそれが想定以上の興奮状態だった事に驚いたのか、唐桑は合わせた唇を微笑の形にした。
 二人は上体を起こし、向かい合った形で互いのものを愛撫した。唐桑は昨夜初めて男と寝たのだとは思えないほど巧みに持田のそれを高めた。実のところ持田は今朝浴室で二回熱を放っていて、しかもその後冷水でシャワーを浴びていたのだが、それは簡単に芯を持って濡れ始めた。持田を高める唐桑の手は、元々持っている技巧をこれがいいだろうと押し付けるのではなく、相手が何をすれば喜び、そして何を望んでいるのかを知ろうとする人間の手だった。相手を学習し、相手の望む形の快楽を与えようとする、優しい手。
 持田は唐桑から与える快楽に身を任せた。先に達したのは持田の方だった。
「あ、いい……、いい、貴大さんっ……」
 達する瞬間、唐桑は持田の首をきつく吸った。それまでの二回よりも遥かに強い快感が体を駆け抜けていく。解放の余韻は強く、簡単には醒めそうになかった。吸われた首がじんじんと熱を持ったようになっている。持田は夢見心地のまま、後始末をしていた唐桑の唇に自身のそれを押し当てた後、唐桑の胸を軽く押してその体を仰向けに倒し、すぐに頭を下げて唐桑のペニスに口付けた。
「泰河、しなくても……」
「したい」
 唐桑のそれは平均よりも大きく、形も整っていて、理想的な美しさだった。持田はペニスの根元を掴んで躊躇いなく口を開き、深くまで受け入れた。快感に呻く唐桑の声に興奮を煽られ、もう片方の手を二つの膨らみの下に滑り込ませる。唐桑は少しだけ体を硬くしたが、制止の言葉がその口から漏れることはなく、身を捩りもしなかった。持田はそれをいいことに陰嚢と窄まりの間を指の腹でくすぐっていく。ペニスを舐め回し、唾液と先走りでペニスどころか陰毛までべたべたに濡らしていくと、指先も自然に濡れて、滑りが良くなった。
 唐桑の呼吸の間隔が早まっていくのを感じながらペニスを根元まで呑み込み、同時に濡れた指を窄まりまで下ろした。そこは侵入者の気配を感じてきつく閉じてしまったが、口から出したペニスを根元から舐め上げていくうちに、隙が出来た。唐桑の呼吸を窺い、吐いた瞬間に指を中に滑り込ませると、唐桑の口から思わず、といった風に声が漏れた。入ってしまった――男の指が。そんな風に驚いている声。
 中はまだ濡れていて、持田の指をいやらしく締め付けた。ここにもし――この中にもし、指以上に太くて熱いものを埋め込んだら、きっと信じられないくらいに気持ちが良いだろう。隙間もないくらいにぴったりと包み込まれて、濡れた腸壁で締め付けられる。この綺麗な、理想の男の中で精液を吐き出してみたい――持田は息苦しいほどの強さでせりあがってくる欲望を、何とか抑えた。
 ペニスを口と舌で熱心に愛撫しながら、指を浅いところで緩く動かす。唐桑は余裕無げな息を漏らし、指をきついくらいに締め付けた。その卑猥な、精液を絞り取ろうとでもするような動きに煽られて、持田は唐桑を追い立てる。音を立てて唐桑の弱いところを吸い、先走りを漏らす先端の穴にぐりぐりと舌先をねじ込みながら浅く口に咥え、それから一気に根元まで呑み込む。唐桑の息が一気に上がり、太腿に力が入る。
「……泰河……、もう、離してくれ」
 微かに掠れた低い声。持田はその声に頭が灼け付くような快感を覚えたが、耳に入らない振りをした。余裕がないのは持田も同じだった。
「……泰河? 駄目だ、もう、出るんだ、頼む……頼むから、泰河っ!」
 近所迷惑にならないように抑えた声で、しかし切羽詰まった口調で唐桑が言う。だが持田はその声も、顔を自らのそれから離そうとする手も無視して、唐桑のペニスを咥え続けた。
「あっ、く、泰、河っ……!」
 びくびくと唐桑の身体が震えて、持田の中でそれが熱を吐き出す。持田は軽くえずきそうになりつつも、ぐっと堪えてその飛沫を受け入れた。無理矢理に抑え込んだ筋肉は喉の奥を波打たせ、意識的なものとは違う動きで唐桑を更に刺激する。持田が指を挿入したままのそこは唐桑の身体の震えと連動して締まり、きゅうきゅうと淫猥な動きをして持田を興奮させる。先端に留まろうとしていた精液の残りも吸い出したのは、殆ど無意識の事だ。ペニスを口から出して舌を離し、指を引き抜いて、持田はやっと触れてもいない自分のそれが軽く吐精していた事に気付いた。
 唐桑は放心状態だった。肩を上下させて口から荒い息を吐き出し、固まっている。持田は思わず口付けようとして、自分がたった今何を飲んだのかを思い出し、軽く抱き着くだけに留めた。唐桑は一拍置いて持田をきつく抱き返し、持田の肩に頭を凭れた。
「朝から……」
「うん」
「こんなに強烈なのは……」
「生まれて初めて?」
 唐桑は頷いた。
「そっか。良かった?」
「……良かった」
 その声が気恥ずかしげなのは、指を挿入されたまま達したからだろうか。
 二人はゆっくりと体を離した。
「シャワー、浴びてく?」
「いや、家に帰ってから……いや、やっぱり借りていいか。一分休憩してから」
 興奮醒めやらぬ、という顔で唐桑が言うので、持田は先に寝室を出て手を洗い、下着を替えた。寝室から出てきた唐桑からは数分前の情事の気配は殆ど感じられず、軽くシャワーを浴びてスーツに着替えた後は、昨夜と同じシャツでネクタイを締めていないにも関わらず、すっきりとした清潔感が漂っていた。
「焼いただけだし、朝食べない派なら俺の昼飯にするけど、どうする?」
 シャワーの間に温め直した朝食をテーブルに並べると、唐桑は目を見張り、微笑んだ。
「至れり尽くせりだな。俺がシャワーを浴びてる間に?」
「まさか。その前に作ってた」
「早起きして作ってくれたのか。ありがとう、頂いていくよ」
 持田は唐桑の勘違いを訂正しなかった。
 実のところ、持田は一睡もしていない。だが唐桑はきっと『入れっぱなし』にしていた理由を、自身が挿入されたまま眠ってしまったように、持田も挿入したまま眠ってしまったからだとでも解釈している。もしそうだったなら浅く入れていた指など寝返りで抜けてしまっただろうし、そもそも持田は目覚ましが鳴らなければいつまでもベッドでだらだらと過ごしてしまう性質だから、有り得る筈もない話なのだが。
「明日、どうします?」
「泰河はどうしたい?」
「うーん……車出して、温泉浴びて、美味い飯かな」
「分かった。車は俺が出してもいいか? もう一か月も運転してないから、そろそろ構っておかないと拗ねそうなんだ」
「早々に浮気ですか?」
 表現の可愛らしさに持田が含み笑いしながら尋ねると、唐桑は心外だな、と笑いながら返した。
「俺は一途だよ。泰河の事も真剣に考えるつもりだ。せっかく始めたんだから、長続きさせたい」
 その言葉は胸の隙間に入り込んで、持田の心をじわりと熱くした。
「……付き合う、ってそういう意味で良かったか?」
 ふと不安になったらしく尋ねてきた唐桑に、持田は頷いた。
「そうか、よかった。……もし嫌な事とか、やって欲しくない事があったら、すぐ言ってくれ。直すように努力する」
「そんなの無いと思うよ」
 持田は唐桑がやる事なら何でも許せると思った。浮気と別れる事以外なら。
「出てくるよ。年が離れてるし、俺は男と付き合うの、これが初めてだから。気を付けてても出てくる。その時は遠慮せずに言って欲しい」
 こんな風に言うのは、離婚を経験したからだろうか。二十五歳で結婚した同い年の女性と別れたのは、彼女の海外赴任が決まり、話し合って今後の人生を考え、互いに自分の仕事を取ったからだと聞いた。持田は自分の仕事を気に入っていたが唐桑の為なら辞める事など何でもないし、既に唐桑を全ての優先順位の一番上に位置付けている。そして唐桑にとっての一番になれるように何でもするつもりだった。
 だが、そんな事を口にするのはまだ早い事も分かっていた。だから持田は頷き、自分も同じようにして欲しい、自分もこの関係を長く続けていきたい、と返した。
「あと、反対にやって欲しい事とか。出来る範囲で頑張るよ。何かありますか?」
 持田が尋ねると、唐桑は少し考えた後、はにかみながらこう答えた。
「髭、はあった方が……好みかもしれない」
「……前みたいに生やした方が好き?」
「ああ。外国の俳優みたいに少し伸ばしてただろ? 初めて会った時から格好いいと思ってたんだ」
 出来たばかりの美しい恋人にこんな風に望まれて、嫌がる男はどれだけいるだろう。
 少なくとも持田は、喜んで望みに応えたいと思う大多数の男のうちの一人だった。
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