2.『睡眠学習』

「唐桑さん。会議中にお電話が四件ありました。全て折り返しにしたので、お願いします」
「ありがとう。お……鈴木さんか。急いでた?」
「いえ、今日中ならいつでもと。メールでも構わないそうです」
「了解」
 デスクにポストイットが貼られている。唐桑はちらりと会社名を確認し、折り返しの優先順位を考えつつ席に腰を下ろした。会議が少し長引いたせいで喉の渇きを感じていたが、一時間以上待たせている相手もいた為、水分補給をする前に受話器を取った。
 それから手が空いたのは三十分後の事で、唐桑は部下に軽く声を掛けてからデスクを離れ、以前は倉庫として使われていた小部屋に入った。がらんとした部屋の中央には折り畳み式の長机が一つに、パイプ椅子が八脚。昼は弁当組の女性社員が占領しているが、十五時過ぎの今は無人の状態だった。
 入って左手の壁近くにもう一つ長机があり、その上にはポット、マグカップ、使い捨ての紙コップ、インスタントコーヒーや紅茶のパック、菓子類が並べられている。唐桑は持参したタンブラーにコーヒーを入れ、椅子に腰を下ろした。三口程飲み、ほっと息を吐いてプライベート用の携帯を取り出す。以前ならここでゆっくりと煙草を燻らせる所だったが、六年前に禁煙を始めてからは、定期購読しているオンラインマガジンを開く事が多くなっていた。記事一つ分が時間的にも気分転換にも丁度良いのだ。
 開いた記事を半分ほど読み進み、コーヒーを一口飲もうとしたとき、さざ波のように静かな、そして短い通知音が流れた。唐桑は驚いた拍子にタンブラーを落としそうになり、慌てて机に置いて、濡れた口元をハンカチで拭った。

『今夜会えませんか? 魚が美味い店を教えてもらいました』

 メッセージは最近出来たばかりの一回りも年下の友人、持田泰河からだった。初めて出会った日の翌々日に連絡が入り、そこから数えて五度目の食事の誘い。うち二回はスケジュールが合わずに断ったので、実際に会ったのは初対面の日を含めて四回だ。そろそろこちらからも誘ってみようか、と思っていた所だった。
 八時には職場を出られるよ、と返事を送る。十秒も経たずにまたメッセージが入った。

『やった』

 唐桑は思わず微笑んだ。無邪気で気安く、年齢差を考えるといささか無礼なその文章が、無性に可愛らしく思えたのだ。
 誘いづらくなるから、となかなか奢られてくれない癖に、時折中学生の姪っ子よりも子どもっぽい言葉遣いをする。根元が黒くなった緩く波打つ金髪を少し長めに伸ばし、着古したジーンズを穿き、チープなシャツやセーターを合わせても、安っぽい、あるいは浮ついた印象はなく、むしろ地に根を張っているような落ち着きと余裕を感じさせる。悪戯っぽい目をする事もあれば、やけに達観した眼差しで辺りを眺めている事もある。
 若いのか老成しているのかよく分からないその絶妙なアンバランスさが、唐桑には好ましいものに思えた。
 
『今日は珍しく車なので、そのまま近くまで迎えに行きます』

 酒に強い持田は、しかし酒好きというわけではなかった。あれば飲むが、飲まないなら飲まなくてもいい。唐桑は初め酒に弱い自分に合わせようとしているのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。酔えない男は酔う楽しみが薄いのだろうか、と唐桑は思う。普段つい飲み過ぎた同僚や友人を介抱したり、面倒を見る側に回ったりする事の多い唐桑にしてみれば、飲んでも酔わず飲まなくてもいいと言う持田は、得難い友人だった。
 車を出してくれるという持田に甘えることにし、さっと返事を送って唐桑は立ち上がった。前日の終電間際までの残業や今日の会議でやや疲弊していた筈だったが、身体は軽く、素直にこの後も頑張ろうと思えた。仕事終わりに持田との予定が入っているだけでこれほど心持ちが変わるものなのかと、唐桑は驚きを覚えながらデスクに戻る。単に友人と食事に行く、というだけは片付かない高揚感。これほど年の離れた友人を持つのは初めてだからか。
「あっ、唐桑さん、ちょうどいいところに。ソフトの更新の件でシステムの佐々木さんから内線入ってます……って、何かご機嫌ですね?」
 からかうような目で言う部下に、唐桑は「どうして?」と尋ねて受話器を取った。表情に出ていたのだろうか。七歳年下で二児の母である彼女はにっこり笑って、「彼女さんですか?」と問い返した。



 夕方、唐桑は再来月を予定しているイベントの打ち合わせに出た。会場の下見も行ったので、戻る頃には辺りは大分暗くなっていた。大急ぎで事務処理を済ませ、エレベーターに乗り込んで一階のボタンを押した瞬間、メッセージが入った。

『近くのコンビニに車、停めました。終わりそうですか?』

 唐桑は送り主の番号に電話を掛けた。ワンコールで繋がった。

「お疲れ様。ああ、今ちょうど終わったところ――」

 話しながら、唐桑はふと後ろを振り返った。エレベーター奥に取り付けられた鏡――その中に映る顔には、思わず苦笑してしまうほど無防備な笑みが浮かんでいた。


 コンビニに向かうと、持田はちょうど中から小さな袋を持って出てくるところだった。持田は唐桑に気付き、軽く片手を上げ、歩み寄ってくる唐桑の為に「どうぞ」と助手席のドアを開けてくれた。
 初めて見た持田の車はなかなか見ない珍しい型のものだった。やや丸みのある可愛らしくレトロなデザインで、色はパステルカラーの水色。乗ってみるとやや手狭ではあったが、クッションや匂いなどが心地よく、落ち着ける雰囲気があった。
「貴大さん、飴あげます。この間のお返し」
 運転席に乗り込んだ持田は、鍵を差し込みながらそんな事を言った。
「飴?」
「明日のおやつを買ったら、くじで当たったんです」
 手渡された飴は、小包装ではなく手の平サイズの袋にごろごろと入ったタイプのもので、味ははちみつレモンだった。
「これも明日のおやつにしたらいいんじゃないか?」
 持田は大食いの部類で、しかもなかなかの甘党だ。
「明日はチョコの気分だから。それに、飴を食べてる貴大さんっていいなと思って」
 いい、と思うほど面白味のある姿だろうか。唐桑は意味の分からない冗談に笑い、折角だからと飴を受け取って鞄に入れた。



 初めて出会った日に持田から渡された名刺――裏に試し書きのような跡が残る、擦り切れた名刺には、初めて見る会社の名前があった。検索してみればアパレル通販会社で、国内・海外アーティストがデザインしたTシャツや一点もののファッション雑貨など、独自性を求める若者向けのラインナップだった。唐桑の仕事とは全くといっていいほど重ならない業界。それを知って安堵した。利害関係がないのは良い事だと思ったのだ。出会いが出会いだけに、正体不明の男と親しくなっていいものか分からず、名刺やプライベートの連絡先を渡したのは軽率だったのかもしれないとも思っていた。
 今は何も心配していない、どころか、同世代の友人たちと過ごすよりも楽しい、とさえ思うようになっている。それは二人の相性というよりも、持田の魅力によるものが大きいと唐桑は見ていた。
「刺身は今日のおすすめにしますか?」
 店に入って一通りメニューを見た後、持田は尋ねた。
「ああ、それで」
「他には?」
「煮つけと貝も食べたい」
「了解」
 薄い立て板で仕切られた半個室席にやってきた店員に、持田はいくつか質問をしながら手早く注文し、最後に唐桑へと視線を投げ掛けた。頷くと、「以上で」と注文を〆る。年下だからと気を遣っているわけではなく、普段からそういう役回りなのだろうと思わせる、自然なリードの取り方。たまにぐいぐいと来る事もあるが、どうしてだか不快感を覚えた事はなかった。たとえそれは嫌だとすげなく断ったとしても、持田なら決して腹を立てたり、こちらに罪悪感を覚えさせるような態度を取ったりしないと分かっているからだろうか。
「君は多分、凄く頭が良いんだろうな」
 小皿に刺身を取りながら言うと、持田は「勉強は普通でしたよ」と答えた。
「そうなのか? でも精神年齢は高い方だろう」
「あぁ、それは言われます。でもガキっぽいって言われることもあります。どっちなんだろう?」
 持田は不思議そうに首を傾げる。幼げな仕草だが、そのゆったりとした動きと、喉仏の隆起が美しい長い首には、妙にこなれた大人の色気があった。
「それに、勉強も真剣にやればかなり出来るタイプなんじゃないかと思う」
「初めて言われた。うーん、何か勉強してみようかな?」
「何か興味はあるのか?」
「今ですか? 今は貴大さんかな」
「……面白いか?」
「こんな風になれたら、って皆が思うような理想の男だから。勉強のしがいがありそう」
「いつも言ってるが、さらりとべた褒めするな。俺はそんな大した人間じゃない」
 唐桑は苦笑した。嬉しい――と思うより、あまり期待されても失望されるだけだと思う。
 仕事はそれなりに頑張っているし、身なりにも気を遣っている。年齢なりの教養とスキルは身に付いているだろうとも思う。だが自分が『理想の男』と評されるような上等な人間では無い事を、唐桑は自覚していた。特に裕福な家の出というわけではないし、互いの今後の人生設計を考え直した上での円満な別れとはいえ、離婚経験がある。大学を出てすぐに就職した会社は五年もしないうちに潰れてしまい、今の会社は知人の紹介で入った。そこから数年はコネ入社と言われぬよう、がむしゃらに働いて勉強もして、何とか今の位置に辿り着いた。『それなりに頑張っている』と肩肘を張らずに言えるようになったのはごく最近のことだ。
 卑下するわけではなく思う。自分は普通の、どこにでもいるサラリーマンだと。
「大したことない人だったら、こんなに何度も誘ってない」
「……俺だってそうだ」
「相思相愛?」
 持田はふっと笑いながら言う。そうかもな、と唐桑が返してみると、持田はじっと静かに唐桑の目を見つめて、そうだよ、と言った。



「土曜は空いてますか?」
 店を出て、折角だからと誘われ、二人でドライブを楽しむことにした。持田の運転は穏やかで、かつ的確だった。聞いてみれば大型の免許も持っているという。高校時代の先輩に立ち上げから誘われて入った会社で、彼曰く何でも屋のように雑多な業務を引き受けて働く過程で、いつの間にか取ることになっていたらしい。
「今週は仕事だな」
「じゃあ日曜は?」
「休みだ。予定もない」
「じゃあ朝から集合して、遠出してみません?」
「いいよ。どこに行きたい?」
「ハワイとか」
「……遠過ぎないか?」
「だって、どこに行きたいかっていう質問だったから。現実的な希望の方は、後ろに置いてる雑誌でチェックしてます」
 唐桑は後部座席に目をやった。付箋が貼られた観光情報雑誌が一冊。
 開いてみると、付箋が貼られているのは近隣の県の日帰りグルメ特集ページだった。
「持って帰って、どれにするか決めておいてください」
 と言われたものの、唐桑の目は既に一つの記事に吸い寄せられている。
「温泉……」
 九十分の貸し切り温泉風呂チケット付き、高級豚しゃぶランチコース。どちらかというと、温泉の方に惹かれた。
「温泉? ああ、でもゆっくりしたくなりそうですね。日帰りだと勿体ないかも」
 その口ぶりに違和感を覚えてページをよく見てみれば、温泉の記事のすぐ上に普通の飲食店の紹介があった。唐桑ははっと我に返る。いくら日帰りとはいえ、男二人で温泉はないだろう。
「そこにしますか?」
「いや……」
 傍からはどう見えるだろうと唐桑は思った。親子ほどは離れていない――年の離れた兄弟。叔父と甥。
 あるいは……ゲイのスケベ親父とその愛人。
「俺は何でもいいですよ、貴大さんと一緒なら」
「温泉だぞ」
「うん。貴大さんならいい」
 車は緩やかに速度を落とし、そして止まった。赤信号。
 唐桑は隣に座る男の横顔を見た。持田もゆっくりと唐桑に目を向ける。その視線で唐桑は気付いてしまった。単に見られたから自分もそうした、という眼差しとは決定的に何かが違う。
 お互いに、相手が察した事に気付いた。唐桑は持田の意図することに気付き、持田はそれに気付いた。
 狭い車内に二人きり。外は暗く、車の通りも少ない道。もし隣にいるのが他の誰かなら――持田以外の男なら、自分は恐怖を覚えたかもしれないと唐桑は思った。思わず呼吸を忘れてしまったのは恐怖や嫌悪感からではなく、心のどこかで予期していたその時が本当に訪れた事に、ただ驚いたからだ。
 持田はふっと優しく微笑んだ。
「どこかで分かってたんじゃないですか?」
 唐桑は曖昧に微笑み返した。
 分かっていた、というほど意識はしていなかった。だが分かっていなかったというほど、全く何も感じていなかったわけでもなかった。だがそれは持田が、というよりも、自分自身が『そう』なのではないかという感覚の方が大きかった。自分は異性だけではなく、同性にも同じように惹かれ、恋をする事が出来るタイプの人間ではないのかと――多分薄々、どこかで分かっていた。
 そして今、惹かれるだけの魅力を持った人間と出会って、それが確信に変わったのだ。
「あからさまだったし、俺。そもそもがナンパだったし」
「……そうか、あれはナンパだったのか」
「うん」
 信号が青に変わる。車はまたゆっくりと走り出す。会話は途切れて、音楽もラジオも流れていない静かな車内には、沈黙だけがある。
 唐桑はどこか自分の体がふわふわと浮いているような、非現実的な感覚の中にいた。夢でも見ているような、酔っているような……思考に靄がかかって、心地良く、恐ろしい事はなにもない。
 そして少しずつ心臓の鼓動が大きくなる。現実が見えてくる。フロントガラスに映る持田の顔が目に入る。ふっと視界がクリアになり、見える全ての物が実際以上の鮮明さと鮮やかさで頭の中に入り込んでくる。強い風に体中を嬲られるように、抗いようのない圧倒的な力で体の芯を揺さぶられる。
 ――欲しい。抱き合いたい。今すぐ。
「停めてくれないか」
 掠れた声。それが自分の喉から出た声だと、唐桑は持田が路肩に車を停めるまで気付かなかった。
「停めたよ」
 薄暗く通りの少ない田舎道。ガードレールの向こう側からせり出すように生えた木々が辺りに深い影を落としている。時折通り過ぎる車から中の様子を覗き見ることは叶わないだろう。
「やっぱり、出してくれ」
「わがまま」
「……どうしたらいいか分からないんだよ」
 持田はエンジンを止め、ハンドルに片手を置いて唐桑を見た。
「じゃあ、俺がどうするか決めていい?」
 試すような、誘い掛けるようなその声に、持田は体の芯が痺れるのを感じた。熱い欲望が首をもたげようとする。
「いいよ。君が決めてくれ」
 持田はシートベルトを外し、唐桑に体を近付けた。唐桑の頬に、厚みのある温かな手が触れる。吐息が触れるのを感じて、唐桑は殆ど無意識に持田の後頭部に手をやった。意外に触り心地のいい髪に触れて引き寄せ、唇を合わせる。少し驚いたように目を見開いた持田の唇をやわく食み、少しだけ顔を離す。見つめ合って、今度は持田から唐桑に口付けた。最初に舌を伸ばしてきたのはどちらだろうか。気付けば舌と舌は絡み合って、車内には濡れた音が響いていた。
「ん……」
 持田の声は、腰にずんと重く響いた。女性のような甘みを感じさせるそれではなく、感じ入ったような、呻き声に似たそれが、どうしようもなく唐桑を高揚させた。息苦しさに顔を離すまで、二人は夢中で互いの唇と舌を貪っていた。
 荒い息を吐き出す持田の顔には、はっきりと欲望の色が表れていた。自分を求めるその目を、唐桑は胸の内で踊る歓喜と共に見つめ返した。
「……上手すぎ、貴大さん。しかも……」
「……しかも?」
 持田は身を乗り出し、唐桑の首元に顔を埋めた。
「くらくらしそうな……ほんと良い匂いがする」
 すうっと息を吸い込んだ気配がした。程なくして吐き出された息が熱く肌をくすぐったのは、わざとだったのだろうか。持田の髪からは微かにオレンジと、ウッド系の香りがする――唐桑は興奮に震える溜め息を吐き出しながら、持田の髪を撫でた。
「君も……いい匂いがする」
 持田は顔を上げ、今度は触れるだけのキスをした。
「……俺の匂い、好き?」
 唐桑は頷いた。
「本体の方も?」
 少し笑いながら、唐桑はまた頷いた。
「じゃあ、俺と付き合う?」
 散歩にでも誘うような声だった。断ってもいいし、頷いてくれてもいい。どちらでも構わないのだとでも言いたげな、まるで気負っていない声。そうだな、そうしようか――唐桑は思わず頷いてしまう。その途端に近付いてきた唇にいきなり自身のそれを深く、激しく貪られて、唐桑は持田の内と外の熱量の違いに気付かされた。ほどほどに遊び慣れて、恋に心を焦がす事も欲望に呑まれる事もなく、ただ楽しみ、風のように自由に歩いている、そんな男のように見えたが、その内側にはもっと熱く、ずしりと重量のある情熱が隠されているような気がした。
 唇がやっと離れた頃には、酸欠と興奮とで頭がぼうっとぼやけていた。
「……俺と」
「ん……?」
「俺みたいなオヤジと、付き合ってくれるのか」
 そして君の情熱を、俺に向けてくれるのか――唐桑は胸の内で問い掛けた。
「貴大さんはオヤジっていうには綺麗過ぎるよ」
 持田は唐桑の頬に手を伸ばし、指先でそっと撫でながら、愛おしいものを見る目でじっと唐桑を眺めた。
「……本当に綺麗だ」
「……女っぽいタイプじゃないだろ?」
「うん。でも綺麗で、かっこいい」
 それだけ言って、持田は手を離した。そしてシートベルトを締め、ハンドルを握り直す。
「そろそろ帰りましょうか。……それとも、俺の家に来る?」
 明日も仕事だからと、断る事も出来た。
 だがそうする代わりに、唐桑はフロントガラスの先の薄暗い空間を見つめ、「そうだな」と答えた。



「言い忘れてたけど、今ちょうどエレベーターが壊れてます」
「……誘う前に言って欲しかったな」
 言えば来ないかもしれないと思っていたのか、それとも本当に忘れていたのか。少し先を歩く持田は顔だけ振り返り、悪戯っぽい目で笑って見せた。
「弟さんの家は?」
「一昨日帰ってきたから」
「そうか」
 持田は一段飛ばしで階段を上り始めた。その背中を追う内に、唐桑の視線は自然と持田の体の線をなぞっていた。程よく筋肉が付いた広めの肩、静かに、そして軽やかに動く長い手足、締まった腰。そしてその下の、今日は濃い目のジーンズに包まれた下半身。
 服を脱ぎ捨てた姿を見てみたいと思った。この手で脱がして、裸に剥いてやりたいと。
 部屋の前に辿り着いたとき唐桑の息が僅かに乱れていたのは、五階まで自分の足で上ったからではなく、その先にあるものに期待を膨らませていたからだった。
 持田は鍵を開けると、唐桑の手を引いて中に入れた。唐桑はその手にも、ドアを閉めるなり抱き締めてくる腕にも逆らわなかった。持田は唐桑を片手で抱き締めたまま器用に鍵を閉め、チェーンまで掛けた。キスを始めたのは、どちらからだっただろうか。車内でのキスのように深く唇を合わせて舌を絡ませるのではなく、触れて離れて、互いの唇の感触と息遣いを楽しみ、至近距離で見つめ合って、戯れに互いの唇を舐めてみるような―――そんなキスだった。
「ん……貴大さん、飴食べた?」
「食べてない」
「ほんとに? でも、甘い……」
 持田は甘えるように言って唐桑の鼻先に自分のそれを擦り付け、溜め息を吐く。
「シャワー……浴びてくる。部屋にあるもの、なんでも触っていいよ。喉が渇いてたら冷蔵庫に色々入ってるから。何しててもいいから、ちゃんと待ってて、帰らないでください」
「帰らないよ。早く戻ってきてくれるならな」
 唐桑は笑い、猫にでもするように持田のうなじを軽く掻いてやった。持田は最後にもう一度だけキスをして、やっと靴を脱いで上がった。同じように靴を脱いだ唐桑の手を引いて奥のリビングルームへと導き、それから浴室の方へと向かった。

 初めて足を踏み入れた持田の部屋は、口付けに興奮した頭では気付かなかったが、一人になって眺めてみると、これから起こる事も一瞬忘れて目を瞬いてしまうほど、不思議な空気の漂う空間だった。
 異国的――というのだろうか。カーテンや絨毯、ソファカバーはシンプルながらアジア風の独特な色合いと質感をしていて、明らかに国産のものではない。それほど多くは無い家具はどれもアンティーク風の重厚感と艶があるが、触れるのを躊躇うような観賞用の雰囲気は無く、実用性のあるデザインをしている。
 リビングルームの奥の壁を一面丸々棚が占領しており、その美しく緻密な手彫り細工が施された五段組みの木の棚には、十数個のスノードーム、大小様々な木彫りの象、仏像や神像、ハンドメイドらしい指輪や腕輪などの装飾品が収まったガラス箱、厚さも高さも言語すらもバラバラの数十冊の本、キルト生地のテディベア、鮮やかな色の鳥の羽根が付いた帽子、モデルガンなど、規則性の欠片も感じられない様々な物が所狭しと並べられている。
 残りの壁にはヌードポスター。モデルは外国人女性で、スタイルが抜群にいい。ヌードといっても影になっているせいでシルエットだけしか分からない。いやらしさよりもスタイリッシュさが際立つそのポスターの横には、中世の修道士が描かれたタペストリーや、美しい金字の筆記体で書かれたレストランのメニュー表が飾られている。
 国籍のごった煮。普通ならまとまりようがない筈のそれらが、しかし何故か反発し合う事も、それぞれの魅力を潰し合う事もなく、一体感を持ってそれぞれの場所に落ち着いている。
 三度目の食事の際、唐桑は持田の事を聞きたいと言った。趣味や好きな音楽、会社でどんな仕事をしているのか、どんな学校に通っていたのか、どんな家に住んでいるのか――高校時代、英会話のクラブに入っていた流れで大学でも語学を学んでいた事、その時に出来た海外出張の多い友人達から貰った土産物や、ふと気に入って旅先や通販で仕入れた雑多な趣味の物で家が散らかっている事、その家は昔から目を掛けてくれていた大叔父から生前贈与を受けたものである事。そんな事も話には聞いてたが、想像以上の部屋だった。
 唐桑は一通り眺めた後、棚の前に立ち、置かれたものを一つずつ見ていった。スノードームを手に取ったのは、持田が好きで集めているものだと言っていたからだ。一つ手に取ってソファに腰を下ろし、小さなドームの中に降る雪をじっと見つめていると、持田が消えた方向から音が聞こえてきた。
 リビングに入ってきた持田はTシャツにルームパンツを穿き、肩にタオルを掛けていた。唐桑の手元と、ソファの前のローテーブルをちらりと見る。
「こっちに来て、貴大さん」
 そう誘われ、唐桑は腰を上げた。スノードームはテーブルにと手振りで指示されたので、素直に従う。持田はキッチンの方へと歩いて行った。
「どれがいい?」
 持田は冷蔵庫の横の棚を開けて尋ねた。中には多種多様のアルコールが並んでいる。聞けば九割がた貰い物だという。
「……選んでくれるか?」
「いいよ」
 持田はそう答えて少しの間棚の中を見つめ、これでいいかと一つのボトルを指差した。湖のような青のミニボトル。どうやら日本酒らしい。飲み過ぎなければ大丈夫だろうと頷いたが、持田は何も取らずに棚を閉め、冷蔵庫から取り出した烏龍茶のボトルを唐桑に渡した。
「……さっきの、飲むんじゃないのか?」
「うん、でも今日じゃないから」
 内心首を傾げつつ烏龍茶を一口飲むと、持田は唐桑の手からそっとボトルを取って一気に半分ほど飲んだ。目の前で上下する喉仏に、唐桑は思わず見惚れてしまった。ボトルを下ろした持田と目が合う。
「……髭、剃ったんだな」
「あった方が良かった?」
「どっちでもいい……どっちもいいよ」
 持田は白い歯を見せて笑った。
「シャワー、借りてもいいだろ?」
「貴大さんはそのままでいい」
 持田は片手にボトルを持ったまま、もう片方の手で唐桑の手を取った。
「勘弁してくれ。今日は外にも出てたんだ」
 そのままでいい、なんて言葉を真に受けるつもりはなかった。汗臭さに引かれて早々に愛想を尽かされては堪らない。持田は唐桑の顔を眺め、「分かりました」と手を離した。
「でも早く戻ってこないと……」
「こないと?」
「貴大さんの服が消えてなくなるかも」
「酷いな」
「靴も消えます」
「すぐ戻ってくる」
 なかなか可愛い事を言う――唐桑は後ろ髪を引かれる思いで浴室に向かった。

 浴室は清潔で、まだ温かく湿っており、深い海を思わせる香りがした。オレンジの香りは整髪料か香水のそれだったらしく、置かれている石鹸やシャンプーから似た香りはしなかった。銘柄を覚えておこうとボトルの文字に目を凝らし、何故そんな事を思ったのか自分で不思議に思う。
 念入りに体を清め、少し迷って髪も洗い、これから自分たちはどんなセックスをするのだろうかと、唐桑は大いなる期待と僅かばかりの不安を覚えた。
 不安といっても、意に添わぬ事を強要される事はないと分かっていた。保証はないが、自信がある。自信が無いのは、自分がこれから持田を喜ばせる事が出来るか否かについてだった。
 唐桑には同性との経験はない。惹かれていると自覚したのも、はっきりと欲情したのも持田が初めてだ。異性との経験はそれなりといっても、その経験がどれほど役に立つのかすら分からない。
 おそらく――持田の方には経験がある。確信があった。大多数のゲイやバイの好みというのは分からないが、持田は黙っていても声を掛けられるタイプに違いない。あの長身に、年齢不相応に落ち着いた雰囲気。穏やかで素の頭の良さを感じさせる目。優しく、そして遊び心のある性格。持田の方も、気に入れば応えたのではないかと思う。その中には一夜限りの相手もいた筈だ。持田は抱いたのだろうか。抱かれたのだろうか。どちらが好きなのだろうか。唐桑は抱き締めた体の感触を、階段を上っていた時に想像していた裸身を思い出す――触れたいと思った。肩に触れ、胸に触れ、きっと引き締まっているだろう腹に触れ、脈打つペニスに触れてみたいと思った。そして最後には――抱いてみたい。たとえ持田にそちらの経験がなくとも、望めば許してくれそうな気がした。いいよ、貴大さんなら――そんな風に、答えてくれる気がした。
 浴室から出ると、服がなくなっていた。代わりに用意されていたのは白のシャツと柔らかく肌触りのいいグレーのルームパンツで、下着はなかった。苦笑し、下着の事は気にしない事にした。どうせすぐに脱いでしまうのだ。

「もしかして、靴も無いのか?」
 リビングに戻り、ソファに腰掛けていた持田に尋ねる。持田は悪戯っぽく微笑み、立ち上がった。近付いてきた持田は静かに身を寄せ、唐桑の肩に両手を置いた。少し乾かしたらしく、濡れていた髪は少し湿り気を帯びる程度に変わっている。唐桑は持田の腰を抱いて引き寄せ、軽く唇を触れ合わせた。
「……ベッドは?」
 持田は唐桑の下唇を軽く噛み、唇の横に音を立ててキスをした後、唐桑の手を取った。
「こっち」
 手を引かれて入った寝室からは、あのオレンジの香りがした。爽やかな――というより、落ち着いた、微かに甘みのある香り。
「ああ、この香り……」
「弟の彼女の趣味で。誕生日に貰ったんですけど、よく眠れるんです」
 部屋の隅にはアロマディフューザー。床には単色のラグ。大き目のベッドの横に、猫足のテーブル。その上には美しい透かし模様が入ったオレンジ色のテーブルランプ。その傍にティッシュと目覚まし時計。テーブルとベッドの間にはクリーム色の細いゴミ箱。それだけだった。リビングとは正反対のシンプルさに、唐桑は妙な緊張を覚えた。気を紛らわす事が出来ない分、欲望だけが高まっていく。
 持田は途中キッチンに寄って持ってきた烏龍茶の新しいボトルをテーブルに置き、唐桑をベッドに座らせ、自身はその前に立った。
「どうしたい?」
 そう尋ねられて、唐桑はごくりと喉を鳴らした。
 男が――目の前に立っている。自分を欲している男。そして今、自分が他の何より欲している男が。
「したい事、何でも言って……して欲しい事は?」
 唐桑は持田の体に手を伸ばした。腰を掴んで、引き寄せる。
「体……」
「体?」
「君の体を見せてくれ」
「見たい?」
「見たい」
 いいよ、と持田は微笑んだ。唐桑は持田から手を離し、持田がTシャツに手を掛けるのを静かに見つめる。
「…………」
 現れた上半身に欲情した。さらりとした滑らかな肌――美しい線を描いて下りる広い肩。張った胸、薄い体毛。腹は引き締まっていて、驚いた事に細めのシンプルなピアスが光っていた。唐桑は思わず手を伸ばした。指先がそこに触れると、持田の腹がびくりと揺れた。
「痛かったか?」
 離れて行こうとした唐桑の手を持田が掴む。感じたのは痛みではなかったのだと、持田の目つきで分かった。唐桑は持田の腹を手の平全体で撫で、それから思い切ってルームパンツに指を掛けた。少しずらしただけでペニスの先端が顔を出した。どうやら下着を身に着けていなかったのは唐桑だけではなかったらしい。持田は唐桑のされるがままだった。引き落とされた最後の一枚が床に落ちて、美しい体を持った一人の青年の裸身が唐桑の眼前に晒される。
 そそり立った興奮状態の、標準よりも大きく硬いペニスに唐桑が手を伸ばしたのは、殆ど無意識だった。手の平で包んで、生々しい自分以外の男のペニスの感触に驚く。だが手を離しはしなかった。軽く撫でるように手を上下させると、持田は息を詰めた。それが可愛く思えて、唐桑は持田の腰を抱いてゆっくりと引き寄せ、自身の太腿を跨がせた。
 持田は唐桑の顔に自身の顔を寄せ、額と額をくっ付けた。どちらからともなく唇を合わせる。唐桑は持田の舌を味わいながら手にしたペニスを愛撫した。他人のそれに触れたのは初めてだったが、やり方は分かる。持田の反応を窺いつつ、やがて濡れ始めた先端のぬめりを全体に塗りつけていく。持田はキスに集中出来なくなったのか顔を離して喘いだ。唐桑は持田の肩に唇を落とし、きつく吸い付いて、跡を残した後、ペニスから手を離して持田の体をベッドに横たえた。持田の体は軽くは無かったが、意図を読んで自ら動いてくれたので難しくはなかった。
 持田の顔の横に片手を突き、もう片方の手をもう一度ペニスに伸ばして、ゆっくりと愛撫を施しながらキスをする。胸が上下しているところを見ると限界が近いらしい。
「……二回、いけるか?」
 唐桑は一回を長く続ける事が多い。一度出してしまえば完全に醒めてしまう、というタイプでもないのだが、二回目は一回目よりも大分鈍くなって、下手をすると一時間入れっぱなしでもいけなくなる。だから初めの一回を長く楽しめるようなやり方を好んでいたし、一回で終わらせる事が多かった。持田と同じ年の頃からそうだ。持田はどうだろうか。一度達した後、もう一度求めてくれるだろうか。
「貴大さんなら……何度でもいけるよ」
「本当だろうな?」
 からかうように言って、唐桑は自らが付けた肩の鬱血痕に唇を落とし、それから鎖骨を舐め、軽く盛り上がった胸に唇を滑らせた。乳首を口に含むと、手にしたペニスが大きく脈打った。男もここが感じるのかと感動を覚えつつ、しゃぶって芯を持たせ、軽く歯を立てて虐め、舌を尖らせてまた舐めると、持田は腰を浮かせ背を反らせて感じた。
「貴大さん……あ、……いい。貴大さん、イキそう、いく……!」
 どぷりと吐き出された精液が持田の腹に飛ぶ。唐桑は顔を上げ、眉を寄せ目を閉じる持田の顔をじっと見つめていた。やがて持田の体の痙攣が収まり、その目がゆっくりと開く。自身を見上げるその濡れた目には、思わず言葉を無くしてしまうような色気があった。唐桑は熱い息をその口から吐き出し、持田のペニスをそっと撫で、頬にキスをしてからティッシュを取った。持田の体と自身の手をさっと清めてゴミを捨てると、持田は唐桑の手を取り、今度は唐桑の体をベッドに横たえた。それから唐桑の足の間に入り、股間に顔を寄せる。ズボンの上からそこに口付けられて、唐桑は言いようのない興奮を感じた。
 持田は唐桑の期待した通りの事を始めた。ズボンの中から勃起したペニスを取り出して、その口に咥えたのだ。激しくはないが、ねっとりとした慣れた舌遣い。舐め回されながらあまりに深く呑み込まれて、唐桑は思わず声を漏らした。そこまでは――された事がない。
 気持ちが良かった。性行為自体が久し振りだった事を考えても、感じ過ぎていた。白み始めた思考を何とか正気に戻し、上体を起こして持田の顔を上げさせる。
「……駄目か?」
 主語が抜けた問いに、持田は首を横に振り、テーブルに付いていた引き出しに手を伸ばす。そしてコンドームの箱を取り出し、中から一つだけ取って唐桑の首の後ろに片手を回し、キスを仕掛けてきた。深く口付けながら、片手で器用に唐桑のペニスへとコンドームを被せる。
「すぐ……入れられるよ」
「すぐ?」
「シャワー浴びた後、濡らしてきたから。俺が上に乗って入れる? それとも貴大さんが……」
「俺がしたい。……してもいいなら」
「した事あります? 女性相手とか?」
「……やっぱり無いと不味いか?」
 聞いてみただけ、と笑う持田の唇に軽く歯を立て、その体を横たえた。持田は自らうつ伏せになった。締まった尻に目が吸い寄せられる。唐桑は持田の後ろに回り、背中に口付けながらその尻を軽く揉んで、腰を上げさせた。それから両手で尻を割り開いてその部分を露出させてみたが、持田は恥ずかしがらなかった。慣れているのだ、と確信した。嫉妬心を覚えるよりも、持田がそこを性行為に使った事があるのだと――男にペニスを突き立てられた経験があるのだという事に興奮を覚えた。
 閉じた襞に、親指の腹でそっと触れた。ぬるりとした感触の正体はローションか何かだろうか。愛液に濡れたように滑りが良くなったそこは、排泄孔というよりは性器のようだった。男を受け入れる為にあるような――その奥に精液が注ぎ込まれるのを待ち望んでいるような、淫猥な感触だった。ごくりと唾を飲み込んで襞をなぞると、感じたのかきゅっと収縮し、唐桑の指先を刺激する。誘い込まれて、唐桑は指先を中にめりこませた。抵抗は僅かで、ずぶずぶと根元まで呑み込まれてしまった。中は熱く、ぬるついていて、指を健気に締め付けてくる。暴力的なまでの衝動が唐桑の余裕を奪う。掻きまわしてやりたい――揺さぶって、喘がせて、汚してやりたい。そんな風に思ったのは、相手が男で、唐桑よりも立派な体つきをしているからだろうか。持田ならどこまでも応えてくれるような気がした。
 唐桑は震えそうになる息をゆっくりと吐き出し、指を軽く引いて、そのまま少し引っ張り、ペニスを挿入しやすいようにそこを広げた。先端を押し当てて、添えた手でめり込ませる。それからは持田の腰を両手で掴み、反応を窺いながら引き寄せて挿入を深くした。
「……痛いか?」
 持田は振り返り、「良い」とだけ言った。
 そんな風に言われて、喜ばない男はいない。唐桑は持田の腰骨を指先でくすぐり、熱い内壁をペニスで擦り始めた。腰を振って揺さぶって、引き寄せて離して、貪る。そのうち持田は片手でシーツをきつく掴み、もう片方の手で自身のペニスを扱き始めた。持田が感じる程に中が締まり、唐桑をその柔らかな肉壁で甘く愛撫する。
「貴大さ……貴大さん……俺、そこ感じる……」
「……どこだ?」
 それまでの反応で答えは分かっていたが、持田の口から答えを聞きたかった。
「深い……ところ」
「分かった」
 抜け落ちる寸前まで腰を引いて、それから一気に根元まで深く挿入する。抉るように腰を動かすと汗に濡れた背中と熱い内壁が波打って、持田が掴んだシーツには深い皺が寄った。
 やがて持田が濡れた荒い息を吐きながら達し、唐桑もそれに続いて――持田の腰を抱いて奥深くに潜り込んだまま、射精による強い締め付けを感じながら昇りつめた。
 余韻に浸りながらペニスを持田の中から引き抜いた時、散々太いペニスで嬲られた穴が締まり切らずに少しだけ開いているのを、唐桑はひどくエロティックだと思った。今終わった筈なのに、またすぐに始めたくなる。もし何時間も入れっぱなしにしたら、そこは開いたまま誘うようにひくつくだろうか――そんな事を思っていると、持田がごろりと仰向けになった。
 目が合う。持田がその顔に満足げな笑みを浮かべたので、唐桑も思わず微笑んだ。唐桑はコンドームの処理を済ませた後、白濁に濡れた持田の手をティッシュで拭う。引き出しにあったウェットティシュでさっと互いの体を清め、喉を潤したところで、持田が唐桑の手を引いた。逆らわずに持田の横に倒れ込むと、持田は唐桑の体を引き寄せて抱き締めた。
「貴大さん。凄く……良かった」
「俺も良かった。こんなに……良いとは思ってなかった」
「本当? じゃあキスしていい?」
 じゃあ、の意味が分からない。唐桑は笑い、持田に口付けた。持田も口付けを返してきたが、他意のない戯れのキスだった。
「……泊まっていきます?」
「構わないか?」
「うん、ていうか靴隠してるから帰れないんだけどね」
「じゃあ何で聞いた?」
 唐桑は声を上げて笑う。官能的な雰囲気が崩れた後、こんなに楽しい気分になるのは久し振りだった。抱いた後だからか、持田が言う事が何でも可愛く思えた。単純に女性を可愛いと思うのとは違う――愛着が湧いた、とでもいうのか。何でも言う事を聞いてやりたいと思った。衝動的に、時計でも何でも、持田が好きなものを買い与えたいとさえ思った。決して口には出さなかったが。
「ここから会社にそのまま?」
「いや、早く起きて一度家に帰る」
「そこの目覚まし七時でセットしてるんだけど、間に合う?」
「そうだな……ああ、間に合う」
「シャワーは?」
「泰河はどうする?」
 持田は目を見開いた。
「……初めて下の名前で呼ばれた」
「そうだったか?」
「そうです。……もっと呼んで」
「泰河。シャワーはどうするんだ。汗、かいただろ」
「明日の朝浴びる。貴大さんも朝浴びる」
「俺の意思は?」
「この腕が離したくないって言ってる」
 持田はそう言って唐桑をきつく抱き締めたかと思うと、ぱっと体を離して上体を起こし、唐桑の顔をまじまじと見つめた。
「……どうした?」
「貴大さんは……どうしてこんなに綺麗なんだろうって思って……」
 本気で言っているのだろうか、と不思議に思いながら唐桑は持田を見上げる。持田は唐桑を現実のものか確かめるように頬に触れ、髪に触れ、耳に触れ、そして唐桑の唇に自身のそれを強く押し当ててきた。
「なに……どうしたんだ?」
「うん」
 何の説明にもなっていない返事をして、持田はテーブルの引き出しを開け、何かを取り出した。
「泰河?」
 持田が手にしたのは、ハンドクリームらしき手の平サイズの物体と、コンドームだった。もう一回するつもりだろうかと思いながら様子を窺っていると、持田は毛布を二人の体の上に引き上げ、唐桑の腕に自身の頭を載せた。
 腕枕をするのは久し振りだった。このまま寝るのならきっと痺れるだろうと思ったが、持田が望むなら多少の痺れを我慢する事くらい、何でもない。
「……なぁ、何してる?」
 問題は持田が何かを企んでいるらしいという事だった。コンドームの袋を破く音が聞こえたし、キャップを開ける音も聞こえた。
「うん」
「泰河」
「明日早いし、もう寝ようか」
 毛布の下で持田の手が唐桑の後ろに回る。ぬる、と濡れた指が尻に触れて、唐桑は戸惑いを覚えた。
 駄目か、と持田が目で問い掛けてくる。
「……寝るんじゃないのか?」
「指、入れるだけ。ゴム被せたから爪も当たらないし、痛くないと思う。寝てていいですよ」
 指をどこに入れるつもりなのかは明白だ。
「そんなに鈍感じゃないぞ」
「大丈夫、先っぽしか入れない」
 なだめすかして女の子をまんまとたぶらかそうとする、悪い男の見本のような台詞だ。
「撫でで、少し入れるだけ……」
 男でも女でも、指でも性器でも――唐桑はそこに他人のものを受け入れた経験はなかった。自分がそこに触れられて快感を得られるか否かについて自信は皆無で、そもそも持田がどういうつもりでこんな事をしているのかも分からなかった。唐桑を抱きたいと思っているのか、それとも年上の男の体をただ弄って遊んでみたいだけなのか。
 だがほんの少し前、唐桑が持田に対して抱いた気持ちは――何でもしてやりたいと思ったのは、どうやら勘違いや嘘でも、一過性の感情でもないようだった。
「……分かった」
 身体の力を抜き、ふっと微笑んだ唐桑に、持田は二度、三度と口付けた。
「目を閉じて。眠って」
「……起きてた方がいいだろ?」
「一時間くらいするつもりだから」
「い……一時間か……」
「それに、睡眠学習のつもりだから」
「俺は何を学習させられるんだ」
 持田は何も答えなかった。
 持田の指先が、唐桑の双丘の隙間をするりと滑って襞に触れる。唐桑は思わず息を詰め目を開けたが、持田の指の動きがあまりに優しいので、深呼吸をしてまた力を抜き、目を閉じた。
 濡れた指は、その腹で暫くの間そこを丸く円を描くように撫で、時折何もせずにそこに留まり、そしてまたゆっくりと撫で始める、そんな動きを繰り返した。それが十五分くらい続いた。快感はなく、嫌悪感もなかった。ただ触られているとだけ感じた。持田が何も喋らないので、本当に眠ってしまいそうなほどリラックスしていた。
 うとうととし始めた頃、持田が少し変わった動きをした。どうやら多めに潤滑油を足したらしく、穴の周りが濡れたような感触がした。指は淡い愛撫から少し趣を変え、襞を一枚一枚なぞり始めた。次第に、ただ触れられている、という自らの感覚に変化が訪れるのを、唐桑は不思議な気分で感じ取っていた。だがはっきりとはしない、ひどく曖昧な変化だった。
 そしてふいに、指先がぬるりと滑って、唐桑はほんの少しだけ、持田の指を自身の中に含まされた。そのままその指はゆっくりと、もどかしいほど優しい動きで進み始める。
「貴大さん……」
 呟く声は、欲望に濡れた男の声だった。唐桑は思わず指を締め付けてしまった。挿入された指の形が、閉じた瞼の裏にはっきりと思い浮かぶ。おそらく、ごく浅く挿入されているだけなのだとそれで分かった。だが存在感は大きい。入っている――と思った。持田の指が、体の中に入っている。
 指はゆっくりと出たり入ったりを繰り返した。苦痛も快感もないのに、体温が上がり、汗が滲み始める。浅いところでぬくぬくと指を抜き差しされて、呼吸が乱れる。唐桑の胸に顔を埋めている持田の表情はちらりとも窺う事は出来ないが、手つきは冷静そのものだ。キス一つ仕掛けてこないところを見ると、興奮はしていないのかもしれない。
 唐桑はどうすべきか迷って、言われた通りに寝てしまう事にした。ゆっくりと時間を掛けて息を吐き出し、持田の指がもたらす奇妙な感覚を意識の外に押しやる。疲れた体を、眠気が襲う。

 その日、唐桑は年下の恋人に抱かれる夢を見た。
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