1.運命の人

「お前、喧嘩売ってるだろ」
 何故酔っ払いは揃いも揃って同じ言い回しで喧嘩を売ってくるのか。売ってるのは自分の癖に、不思議だな――持田はトイレのドア近くに立つ見知らぬ男の不穏な視線を受けながら、能天気に胸の内で呟いた。
「おい、何言ってんだ。やめとけ」
「お前だよお前。さっきから俺を睨んできやがって」
 スーツ姿の酔客は宥めようとする連れの男の声を完全に無視し、据わった目で持田を睨み続けた。そして出てきたばかりのトイレのドアを閉めもせず、持田の方へと歩いてくる――狭い店内、二人の距離は短い。そしてこの面倒そうな酔っ払いとその連れの席は、持田のいるテーブルのすぐ傍のカウンター席だった。
「聞いてんのか? おい」
「大野木、分かった。大丈夫だから」
 連れの男は席を立ち、酔っ払いが持田の前に辿り着く寸前に通路を塞いだ。それでも酔っ払いは連れの存在を無視し、連れの肩越しに「お前だっつってんだろ!」と声を荒げる。その声が聞こえたのか、一分ほど前から姿を消していたマスターが裏から戻ってきた。不安げな顔で突っ立っていたアルバイトらしき若いバーテンが、ほっとしたように息を吐く。
「お客様――」
「すみません。ちょっと外に出てきます」
 酔っ払いの連れは素早くマスターの声を遮り、カウンターテーブルに一万円札を一枚置いた。その間も彼は、「ふざけんな、何か言えよ」「殺すぞ」と喚いていた酔っ払いを片手で制していた。
「かしこまりました」
 マスターはあっさりと頷いた。酔っ払いの連れの男は、酔っ払いの身体が先に進まないよう阻みつつ後ろに回り、鞄を持った片手でがっちりと酔っ払いの腰を抱え込み、もう片方の手で腕を掴んで、有無を言わせぬ勢いで店の外へと連れ出して行った。
 二人がドアの向こうへと消え、その先から喚く男の声が聞こえなくなると、緊張していた店の空気がふっと緩む。若いバーテンとマスターは不手際を謝罪したが、そもそも気を害した客などいなかった。あっという間の出来事だったのだ。
 若いバーテンの方は札を回収してトイレチェックへと向かい、マスターはカウンターから出てテーブル席の方へとやってきた。狭い店内にテーブル席は二つ。一つは数十分前に女性の二人組が使っていて、今は空きになっている四人掛けの席。残りの一つは持田のいる二人掛けの席だが、今夜の持田に連れはいなかった。
 改めて謝罪に来たらしいマスターは、丁寧に頭を下げた。
「持田様。ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。今晩はお代をいただきませんので」
「いや、いいよ。マスターのせいじゃないから。それに俺、まだ殴られてすらいないしね。連れの人がすぐ外に連れてってくれたからさ」
 マスターは少し食い下がる気配を見せたが、最終的には一杯分だけ無料に、という事で話が纏まった。
「あの人、戻ってくるかな」
 ラムロックのグラスと頼んでもいないフードの皿を持って戻ってきたマスターに、持田はドアの方を見ながら独り言のように尋ねた。
「お連れの方ですか」
「そうそう、酔っ払いの連れの方」
「戻られるでしょうね、おひとりで」
 マスターは断言した。九割九分そうなると見ているらしい。持田はそれを信じる事にした。
「それにしても、さすが持田様ですね」
「どうして? 動じてなかったから?」
「ええ」
「だって、いざとなったらマスターが何とかしてくれてたでしょ」
 本心だった。マスターは以前持田が聞いたところによると五十六歳。ほっそりとした体つきで、顔つきと態度はいかにも温厚そうだ。武闘派ではない。客あしらいが上手いのだ。出て行った二人は三十代後半といったところで、酔っ払いの方はいかにも普段から鍛えていそうな体つきをしていたが、マスターは力で抑え込むのではなく、おっとりとした態度のままさらりと性質の悪い酔客の意識を逸らし、意気を削いで、いつの間にか空気を元通りにしてみせる。そういう所が好きで持田はここを贔屓にしているのだ。
「ありがとうございます」
 だがああなる前に動くべきだった、とマスターは残念そうに言い、空の皿とグラスを下げてカウンターに戻っていった。
 持田はマスターがサービスで置いて行ったティラミスにフォークを入れながら、ドアの方を見遣った。そして早く戻ってこないだろうか、と思った。戻るつもりはあっても、遅くなればそのまま家に帰ってしまうだろう。
「早く戻ってこないかな」
 小さく呟いた言葉を拾う者はいない。
 持田はここに連れを伴って訪れたことがない。テーブル席に座り、消音モードで古いモノクロのアメリカ映画を映し続ける近くのテレビを見ながら、以前はどこかの有名店でシェフをやっていたというマスターが作る料理をじっくり味わい、マイペースに酒を飲むのに連れはいらなかった。話したければカウンターに移って誰かに相手をしてもらえばいい。奥まった場所にあり、表に目立つ看板も出さず、今時サイトもSNSアカウントも持っていないこの店は、持田にとって秘密基地といってもいい場所だった。
 その店に珍しく現れたマナーの悪い客は、常ならば多少持田を不快にしたかもしれなかったが、今夜は違った。持田の意識を、その男の連れが奪っていたからである。
 酔客が持田に喧嘩を売られていると勘違いしたのは、実のところ全くの見当違いというわけもでない。持田は視線の端で二人をずっと捉えていた。
 ――正確に言うと二人のうちの一人を、だが。

 甘くほろ苦いデザートと一杯分の酒が持田の胃に消えた頃、待ち人が扉を開いた。
 彼はすぐに持田に目を向けた。目が合った瞬間、持田の中から音という音が消えた。そしてその一瞬が通り過ぎると、どくどくと自らの胸を打つ心臓の音が聞こえてきた。
 持田の視線をどう解釈したのか、彼は軽く頭を下げた後、カウンターにではなく持田のいるテーブルに足を向けた。
「申し訳ない。不快な思いをさせてしまって」
 持田は話し掛けてきた男をじっと見つめていた。持田は表情に感情が現れやすい方ではない――それ故おそらく傍からは分からなかっただろうが、持田はその時、目の前に立つ男に見惚れ、その低く落ち着いた声に聞き惚れていた。
「……いや。全然気にしてないです。帰りました?」
 持田が声を発したので、男は少しほっとしたようだった。
「帰しました」
「一人で帰れたんだ」
「近所だったので一緒にタクシーに乗って家まで送って、向こうの家族に押し付けてきました」
 既婚者だったのだろうか。興味が無かったので覚えていない。もう一人の方の左手に指輪が無い事は早々に確認していたが。
「折角だし、一緒に飲みませんか?」
 と、誘いを掛けたのは持田の方だった
「いえ、お邪魔でしょうから――」
「一人で飲むの飽きちゃったから」
「話し上手ではないですよ」
「いてくれるだけでもいいです」
 男は一拍置いて「下戸なので殆ど飲めませんが、よろしいですか」と尋ね返した。
「もちろん」
 男は口角を少し上げ、「飲み物を注文しに行ってきます」と言ってカウンターの方に歩いて行った。残っていた客とマスター達に連れの非礼を謝った後、さっと注文して戻ってきた。
「後で料理が来ますが、構いませんか?」
 持田の向かいの椅子を見て男は言った。持田は頷いた。
 待つまでもなく、バーテンがすぐにグラスを持ってやってきた。二人は軽くグラスを上げて乾杯した。
「何を頼まれたんですか?」
「烏龍茶です」
 ロンググラスでなければ上等なウィスキーでも飲んでいるように見えた筈だ。男には、いかにも酒を飲み慣れた大人の男の雰囲気が漂っている――よく手入れされた艶のある黒髪に、美しく、力強く整った眉。理知的な瞳。口元は一分の隙もなく、しかし偏屈そうな所はない。輪郭が完璧に整っていて、男性的な美しさがあるが男臭くはなく、均整が取れた体つきに仕立てのいいスーツがよく似合っていた。もっとラフな格好なら俳優にでも見えたかもしれない。
「名前は何て言うんですか?」
「カラクワと言います」
「カラクワ? 漢字は?」
 男はその目に一瞬微かな迷いを浮かべた後、それを完全に振り払い、ごく自然な動きで名刺を取り出した。『唐桑貴大』――カラクワタカヒロ。名刺には複数の居酒屋・レストランのチェーン店と宅配食で近年シェアを伸ばしている飲食会社のロゴが印刷されており、肩書は広報部長だった。
 持田は財布からくたくたになった名刺を見つけ出したが、裏にボールペンの試し書きをした跡があった。他には見つからなかったので、諦めて唐桑に渡した。
「カラ……クワさん。カ、ラ、クワ、って発音しにくいな……かわく……からくわさん……」
「お好きなように呼んでください」
 唐桑は苦笑しながら言った。
「貴大さんでも?」
 馴れ馴れしく下の名前で呼んできた持田に眉を顰めてみる事もせず、唐桑は「ええ」と頷いた。
「貴大さんが戻ってきたのって、もしかしてアレを注文してたから?」
「分かりましたか」
 持田はニヤッと笑った。連れが醜態を晒した店に、唐桑のような男がわざわざ戻ってきた理由――を持ったマスターが近付いてきたからだ。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
 テーブルに置かれたのは、色とりどりの料理が盛りつけられたプレートだった。デミグラスソースが掛かった小さなオムライス、季節野菜のゼリー寄せ、アボカドと海老のサラダ、鴨肉のソテー、木苺ソース添えのチーズケーキ。それぞれの料理は美しいのに、お子様ランチ風の雰囲気が漂っているのは、オムライスに刺さった旗のせいだろう。
「さっき俺も食べましたよ。美味しいですよね」
「私は初めてなんです」
「あ、そうなんだ。誰かから聞いて?」
「ええ。一度食べに来たらいいと言われまして。本当は一人で来るつもりだったんですが、話を聞いていた彼に押し切られてしまって」
 唐桑は溜め息を吐いた。
「普段はああはならないんですが、今夜は少し体調が悪かったようで。回りが早まってしまったみたいです。ご迷惑をお掛けして申し訳ない」
「もういいですって。食べてください、折角なんだし」
「はい。いただきます」
 暫くの間、持田は唐桑を放っておいた。食事の最中に話し掛けられるのは嫌だろうと思ったのもあったが、映画を観る振りをして唐桑の食べる様子を観察するのが楽しかったのだ。
 そして分かったのは、唐桑は沈黙を苦にしないタイプか、苦にしても態度に出さない男だという事だった。
「噂通りの味でした」
 プレートにはチーズケーキだけが残っている。持田は唐桑に顔を向けた。
「採算度外視らしいですよ」
「そうでしょうね。この値段で利益を出すには、手間も暇も掛かり過ぎると思います」
「元シェフの血が騒いだ時に作るらしいです。俺は三年前からほぼ毎週ここに来てますけど、口に出来たのは両手で足りるくらいだし」
「じゃあ私はかなり運が良かったんですね。初めて来て、その日に口に出来たなんて」
 唐桑はフォークで丁寧に切り分けたケーキを口に運び、顔を綻ばせた。
「店自体も初めてだったんですか?」
「ええ。酒が飲めないので、付き合い以外でバーに足を運ぶ事がまず無いんですよ。料理を出すところもありますが、大抵はつまみ程度でしょう」
「全然飲めない?」
「持田さんが飲まれているものなら、一杯までなら楽しく飲めます。二杯目でいきなり動けなくなります。持田さんはお強そうですね」
「俺はワクですね。酒の味は好きですけど、胃の容量の限界まで飲んでも素面と変わらないタイプ」
「私としては羨ましい限りですが……」
「飲ませても何も変わらないんで、つまらないと言われますよ」
 唐桑は笑った。歯は手入れをしているのか白く、並びが綺麗だった。持田はふいに、その歯の間に指を差し込んで、甘噛みされてみたいと思った。
「……一杯までなら楽しく飲めるんでしたっけ?」
「ええ、でも本当に一杯までですが」
「その後は? 気分悪くなります?」
「いえ、大丈夫です」
「翌日に残る?」
「少しだるくなるくらいです」
「車で来ました?」
「分かりました。飲みますよ」
 質問の意図を悟ったらしく、唐桑は少し困ったように笑った。
「無理しなくていいですよ?」
 唐桑は「大丈夫」とでも言うように手を上げ、それから立ち上がった。
「持田さんは何か飲まれますか」
「ラムをロックで」
「銘柄は」
「言ったら分かってもらえます。貴大さんのは俺に付けといてくださいね」
 唐桑はグラスを持って戻った。唐桑の分は何を注文したのかと思って見てみれば、南国ムードの漂うやけにご機嫌なカクテルだった。オレンジの香りがする明るく鮮やかな色の液体の上に、瑞々しいフルーツと生花が惜しげもなく飾られたそれは、ぱっと華やかで美しい。唐桑は苦笑していた。
「ラムベースの飲みやすいものを、と言ったら甘いものは好きですかと聞かれて、頷いたらこれが出てきました」
「マスターでしょ? たまにそういうお茶目な所を出してくるんですよ。でも味はちゃんと美味しいですから、安心してください」
 一口飲んで、唐桑は確かにと頷いた。唐桑とその酒の見た目が合っているかとどうかで言えば否だが、口には合ったようだった。グラスの中の明るい液体は、みるみる内に嵩を減らしていく。唐桑はグラスから落ちかけた花を手に取り、親指と人差し指で弄びながら、ふと何かに気が付いたらしく、目を瞬いた。
「――持田さん、もしかしてかなりお若い方ですか」
「二十四です」
 よほど意外だったのか、唐桑はぽかんと口を開いた。
「年齢不詳だってよく言われるんで、唐桑さんも多分三十くらいだと思ってたんじゃないかなぁと。唐桑さんは三十代半ばでしょ? 敬語なんて使わなくていいですよ」
「三十八ですが、そういうわけには」
「まず俺からして大分砕けてるし。使いたかったら使っててもいいですけど、俺は使われない方が楽ですよ」
「……正直、三十二くらいだと思ってたよ。あんまり落ち着いてるから」
「髭があるからですかね。髪は汚い金髪なのに……汚いから老けて見えるのかな?」
「いや。汚くないし、似合ってるよ」
「根元黒いですよ?」
「少なくとも、無精でそうしてるようには見えないな。そういうファッションに見える。髭も似合ってるしね」
「やった。褒められた」
 笑うと、唐桑も微笑んだ。
「やっと年相応な所が見られたな」
「髭、剃ってきましょうか」
「こだわりなんだろ?」
「そうでもないです」
「そうでもないのか」
 どうやら笑い上戸らしい。カクテルと同じようにご機嫌に頬を緩めた唐桑に、持田は魅入られた。頬杖を突き、年上の男をじっと見つめる。
「何?」
「男前だと思って」
「口説く相手を間違ってる」
 持田は笑う唐桑の手から花を取った。どうするつもりなのか、と唐桑の視線が自分の行動を追っているのを感じながら、花を見つめ、軽く口付けてみせた。そしてそのまま手を開いてパッとテーブルの上に落として見せる。
「……ああ。落とすのに言葉はいらない、って事か?」
「花相手ですからね」
「人間相手でも、君なら黙ってても寄ってくるだろう」
「それは貴大さんの方でしょ」
 実際、持田は特に美形というわけではない。上背があり、落ち着いた雰囲気で、スタイルは良い方なので、モテないと言えば嫌味になる程度にはモテた。だが、唐桑のような正統派の美形に言われてそうだと頷くほどではない。
 唐桑は曖昧に微笑んだ。肯定も否定もしない。
「あと一押しが足りないとよく言われる」
「一押しって?」
「何だろうな?」
 唐桑はグラスの底に沈みかけているチェリーに目を落とした。処遇に迷っているらしい。今度は持田が唐桑の動向を見守っていると、唐桑はひょいとチェリーの茎を持って、実を自分の口の中に入れた。
 ――その瞬間、持田は自分の中で、何かが電流のように駆け抜けるのを感じた。痛みは無い――一瞬の衝撃と、後に残る痺れだけだ。
「……でも、引きは強い」
「引き?」
 唐桑の問いに持田は答えず、グラスの中身を煽った。
「二軒目。どうですか?」
 そして、誘いを掛けた。唐桑は笑った。
「いや、折角だがもう飲めない」
「カラオケかダーツかビリヤードかバッティングセンターかゲーセン。どれがいいです?」
「……俺みたいなおじさんと行って楽しいところなのか、それは」
「そうですよ。さぁ、どれにしますか?」
「行かないっていう選択肢はないのか」
「ない」
「明日が休みかどうかも聞かれてない」
「明日、休み?」
「休みだが洗車に行くつもりなんだ」
「カラオケも駄目ですか?」
「……二番目にきついところを推してきたな」
「一番目は?」
「最後のところだ」
「じゃ、ゲーセンに行きます?」
「勘弁してくれ。浮くどころか不審者だろう。あんな若い子ばかりの所にはいけない」
「じゃ、カラオケで。熱唱してください」
「音痴なんだが」
「気にしませんから」
 会計の為にカウンターの方を見ると、マスターがすぐに気付いた。唐桑は持田の分も払おうとしたが、持田は唐桑に飲んでもらった一杯を理由に断った。唐桑が持田に付けるように言うわけがない。なら、一杯奢ってもらったようなものだ。
 会計を済ませ店を出た後、エレベーターに乗り込んだ。乗客は二人だけで、隣に並んだ唐桑は持田より僅かに目線が下だった。
「俺と変わらないくらいか……いや、君の方が高いな」
 唐桑は百八十センチか、やや下程度だろう。持田がそれよりも幾分高めというだけで、唐桑も十分長身の部類だ。
「貴大さんは姿勢が綺麗ですね。何か、凄く上等そうな感じがする」
「上等?」
 唐桑は不思議そうに尋ねた。褒め言葉と捉えていいものか測りかねたらしい。
「そう、上等そうな感じ。高級品っていうか。人だけど。大人の男の理想像? そういう感じがします」
「褒められて嬉しいが、歌はそのイメージが崩れるくらい下手だぞ、本当に。……やっぱり行くならダーツにしないか?」
「ダーツは得意?」
「一度ハマって、家に置いていた事もあるんだ。壁に穴を開けて怒られたが」
「奥さんに? それとも彼女に?」
「別れた妻に」
 唐桑はあっさりと答えた。口調に未練は全く感じられなかった。
「悪癖が蘇って今住んでる家の壁が穴だらけになっても困るだろうし、やっぱりカラオケにしましょう」
「何でそうなる。持ち家だから今は誰も困らないぞ」
 そうか、持ち家なのか。会ったばかりの男の為に時間を使うくらいだから、おそらく同居している恋人はいないだろう。マンションだろうか、それとも一軒家だろうか? ――持田は一瞬で想像した。暗く照明が落ちた家に帰り、片手で玄関の照明のスイッチを入れ、玄関で靴を脱いだ唐桑が、気を抜いて溜め息を吐き、ネクタイを緩めようと結び目に指を差し込む様を。ネクタイをするりと解いたその指は、そのままシャツのボタンに掛かるのだろうか?
「折角だし、朝まで歌います?」
「勘弁してくれ。体力と持ち歌が続かない」
 エレベーターを降り、バーのあったビルを出て、すぐに斜め向かいのビルに入る。チェーンのカラオケ店。持田はバーを出た帰りに一人で利用する事がある。受付はスムーズに済んだ。VIPルームを選んだのは初めてだったが、VIPと表現する程のものでは無い事は知っていた。実際入ってみたVIPルームは通常よりも幾らか清潔で、煙草の臭いも薄く、備品は綺麗に整えられていたものの、ソファもクッションもそう高級なものではなかった。持田は物珍し気に辺りを見回す唐桑を奥に座らせ、自身は二人分の間を空けて出口寄りの席に腰を下ろした。
 意外なことに、唐桑はカラオケ機器の扱いに慣れている様子だった。カラオケ店自体には慣れていないようだったので訳を尋ねてみると、たまに足を運ぶスナックにカラオケがあるのだという。
 トップバッターは持田が取ることにした。数年前に日本でも流行った海外ロックバンドの曲を歌い始める。途中で受付時に頼んだドリンクを持った店員が入ってきたが、中断はしなかった。唐桑は烏龍茶を飲みながら静かに歌を聴いていた。
「……上手いんだな。先に歌ってしまえば良かった。君の後じゃ恥ずかしい」
 はにかみながらマイクを取った唐桑に、持田は微笑を返した。歌声を聴けるならどんな曲でもいいし、歌う彼の横顔を見られるのなら音痴でも構わない。
 唐桑はいざ曲が流れだすと覚悟を決めた顔で口を開いた。謙遜していたが、決して音痴ではなく、むしろ上手い部類に入る腕前だ。半年ほど前によく聞いたCM曲を歌う彼の低い声と、テレビ画面に照らし出されるその横顔は、持田をぼうっと夢見心地にさせた。手にしたロックのウィスキーが回りでもしたように、思考が緩やかになる。
「……そんなに下手だったか?」
 曲が終わると、唐桑は苦笑しながら持田の方を見た。
「どうして? 凄く良かった。もうずっと歌ってて欲しいくらい。俺は歌わなくていいから」
「頼むから歌ってくれ。一人だけ恥ずかしい思いをさせないでくれ」
 マイクと選曲機器を手渡されて、持田は仕方なく自分の曲を入れた。
 それから何順かした頃、延長を尋ねる電話が入った。持田は唐桑に意向を聞かずに断り、最後に昨年流行った男性デュオのバラード曲を入れた。
「歌えます?」
 まぁ何とか、と唐桑は答えた。そして油断していたと続けた。自分の出番は終わったとばかり思っていたらしい。まさかデュエット曲を振られるなんて、と。
 自分で入れておきながら持田はうろ覚えだったが、つっかえる事もなく歌い切った。唐桑もだ。二人の息はなかなかに合った。持田は曲の途中で唐桑が楽しげに微笑んでいるのを見た。
 マイクを置くと、唐桑は残った烏龍茶を飲み干し、最新曲の宣伝を流し始めたテレビ画面にぼんやりと目をやった。
「行きましょうか」
「ああ……そうだな」
 立ち上がった持田に続いて唐桑が立つ。
 会計でここくらいは払わせてくれとカードを出した唐桑に、持田は少し考えてから甘えることにした。レジ横の飴をついでに買って欲しいと頼むと、唐桑は面白そうに笑みを浮かべ、買ってもいいが、自分も後で一つ欲しいと言った。

 二人は店を出た。外の空気は冷たい。だがどこも明るく、居酒屋の呼び込みもそこそこに立っていた。
「楽しかった」
 そう呟いたのは唐桑だった。
「本当に……でも何だか、不思議だな。初めて出会った一回りも下の男と、二人でカラオケに行くなんて。……何でこうなったのか全く分からないんだが」
 ふと我に返ったらしい。唐桑は本当に不思議そうに言い、持田の方を見た。
「……引力」
 持田をじっと見つめながら、唐桑は言う。
「俺じゃなく、君にあるみたいだな……いや、変な意味じゃない。口説いてるわけじゃない」
「分かってますよ」
「でもうちの営業に欲しいな」
「やっぱり口説いてますか?」
 唐桑は「少しな」と笑みを浮かべて言い、持田が袋から取り出した飴を受け取った。
「今日は俺も楽しかったです。貴大さん、全然音痴じゃなかったし」
「そうか? なら良かった」
 空車のタクシーが近くを通る。どちらも手を上げなかった。
「駅ですか?」
「いや、歩きだ」
「近いんだ」
「二十分くらいかな。外食した日は健康の為に歩く事にしてるんだ。君は?」
「ここから徒歩十分のところです。と言っても弟の家ですけどね」
「今から? ああ、ルームシェアしてるんだな」
「いや、短期留学中なんで、観葉植物と熱帯魚の世話を頼まれてるんです。……ああ、じゃあ俺はここで。コンビニに寄るので、ここで失礼します」
「そうか。今日は楽しかった。ありがとう」
「こちらこそ。電話するので、また飲んでください」
「ああ。……ああ、ちょっと待ってくれ。プライベート用の携帯の番号を渡す」
 唐桑は鞄から手帳を取り出し、空きのページに素早く番号を書き込んで、破いたそれを持田に渡した。
「それじゃ、また」
「また」
 持田は歩き出した唐桑に手を振り、少し見送ってからコンビニに入った。手に持ったままの紙を口元に寄せ、軽く口付けてからポケットに入れた。
 雑誌と明日の朝食用にパンを買い、店を出て夜の街を歩き出す。大通りから外れた小道を暫く歩いて、単身者用のマンションに入った。そこには唐桑に話した通り、留学中の弟の部屋がある。
 熱帯魚に餌をやり、倒すとベッドになるソファに寝転んだ。
 ポケットから紙片を取り出す。縦に長い字。数字の横に『貴大』とある。
「貴大さん」
 持田はベルトを緩め、ジーンズの前をくつろげた。下着の中にゆっくりと右手を差し込む。
「貴大さん」
 紙片に口付ける。汚さないように、近くのローテーブルに置いた。目を閉じ、名前を呼んだ男の顔を思い浮かべる。手入れの行き届いた滑らかな肌、はっきりとした輪郭。形の良い高い鼻。身体の奥にまで響くような声を思い出す。楽しげな笑みを、歩く姿を、グラスに寄せた唇を、飲む時の喉の動きを頭の中で繰り返し繰り返し再生する。その吐息、微かに鼻を掠めたフレグランスの香り、グラスを持つ長い指を、心で味わう。別れたばかりの男の記憶は次第に熱を帯び、色に濡れて、やがて持田を誘う大人の男の顔になる。持田の中で、唐桑と性愛が結びついて離れなくなる。

 ――奪って欲しい。

 奪って欲しい。そう思った。唐桑に奪われたいと思った。あの均整の取れた身体の重みを自分自身の体で味わい、欲の滲んだ目で見つめられながら、翻弄されたいと思った。
 年上の美しい男を想いながら、持田は欲望する。欲望される事を欲望する。
 下着の中のそれはとうに芯を持って張りつめ、先端の穴からは粘液がとろとろと漏れていた。ぬめりを親指で周りに塗りつけながら扱いていく。腰が浮くほど気持ちが良い。持田はもう一方の手をTシャツの下に潜り込ませ、腹筋が浮いた腹を撫で、その上の乳首を指で引っ掻いた。普段は柔らかく目立たない形をしているそれは、今は性器と同じように芯を持ち、立ち上がって、弄るのにちょうどいい形に変化していた。親指と人差し指で軽く乳首をつまんでは爪を立て、甘い痛みを味わう。口を開け、舌を覗かせ、それから唇を噛む。膝を立てて手の動きを速める――
「あっ、ああ……」
 呆気なく達して、持田は精を吐き出した。手の中から漏れたそれが腹を少し汚したが、気にしなかった。持田は暫く余韻に浸りながら、夢でも見ているような目をして、荒い息を吐き出していた。

 ――あの人が、そうだ。
 彼ならばきっと夢を叶えてくれるだろう。幻想を現実に変えてくれる筈だ。

 生まれて初めて抱く予感と確信に持田は微笑んだ。そして期待と冷め切らぬ欲望が滲んだ溜め息を吐き――自分は今夜、運命の人に出会ったのだと思った。
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