吊るされた男 後編


『山下晴道さんのお電話でしょうか』
 見知らぬ番号から電話がかかってきたのは、児嶋との一件から半年後のことだった。
 その電話の主は児嶋と名乗った。随分と若い声の男から話を聞くと、どうやら山下の知る児嶋の弟にあたる人物らしかった。
『兄は、二か月前に亡くなりました』
 自ら命を絶ったのだと男が話しても、山下はさほど驚かなかった。どこかで予期していたからだ。
 だが男が、遺産の受取り人の欄に山下の名前があると話し始めたときは、さすがに戸惑った。固辞する山下に男は食い下がった。せめて会って話してから決めて欲しい、と。
 結局山下は男に押し切られ、休みに合わせて会うことになった。


 四日後。
 待ち合わせ場所に提案されたのは、洒落たカフェの個室だった。スーツ姿の男――児嶋幸広は、まず初めに名刺を差し出し、次に身分証明書を見せた。それで男が確かに児嶋幸広という人物であること、そして弁護士資格を持って働いている身元のはっきりした人物であることが、二人の共通認識となった。遺産絡みの詐欺もよくあるんですよ、と児嶋は真面目な顔で言った。
「俺のことは、どこまでご存じなんですか」
 二杯分のコーヒーの注文を受けた定員が下がると、山下は男が鞄から書類を取り出している間に尋ねた。
 全体的に清潔感があり、兄とは違い意思が強そうな――そして誠実そうな目をした児嶋は、特に動揺した様子もなく答えた。
「お名前、お電話番号、ご住所、生年月日ですね。兄の携帯電話の連絡帳と遺言書に記載されていたので」
 下の名前も、住所も、生年月日も、一切教えた覚えがなかった。免許証の類も『仕事』のときは持ち歩かないようにしていた筈だった。探偵でも雇って調べさせたのかもしれない、と山下は思った。遺言書を作るためにやったのだろうか?
「身元調査みたいなものは、これからしないんですか」
「身元調査? さきほど免許証を見せていただきましたが」
「そういうことじゃなくて……俺がどういう人間かってことです。お兄さんの遺産を受け取る資格があるかどうか」
「ご本人であれば、資格はありますよ」
 児嶋は事も無げに言い、鞄から取り出した書類をテーブルに置いた。
「今後、手続きに伴って色々とご用意していただく必要があるのですが――」
「電話でも言いましたが、俺は何も受け取れません。欲しいとも思っていません」
 児嶋は山下を真っ直ぐに見つめ、少し躊躇ってからこう尋ねた。
「……それは、山下さんと兄の関係が理由ですか?」
 山下は、薄々感付いていたことを確信に変えた――児嶋は目の前にいる男のことを、兄の恋人かそれに類する関係だと捉えている。
「いえ。関係ありません」
 ノックが聞こえ、店員がコーヒーを置いて行った。
「……もし受け取らないという場合でも、手続きはしていただく必要があります。……最終的な決定をされる前に、説明させていただいてもよろしいですか」
「分かりました」
 児嶋は兄の遺した財産について、ごく事務的に説明を始めた。
 曰く、生き残っている親族は弟の晴彦一人で、遺言書で指定されていた名前も弟と山下二人だけだという。遺産は自宅と別荘、銀行口座に残った多額の金で、弟には家と預金の半分、そして山下には残りの半分が割り当てられていた。
「別荘についてですが、近日中に取り壊すことになっています。費用の支払いは既に済んでいます……」
 それまでは動揺や悲しみを全く感じさせなかった児嶋の顔が、急に強張った。
「兄は、そこで亡くなったんです……どうして……どうしてあんな死に方をしななきゃならなかったのか……僕にはどうしても、分からなくて……」
 児嶋の瞳に浮かぶ涙の層がみるみるうちに厚みを増す――山下は児嶋の目から涙が零れ落ちる瞬間を目撃した。
「あっ、あんな、ひどい終わり方を、選ぶなんて、ぼくは、僕は……」
 児嶋は唇をきつく引き結んだ。嗚咽を堪えようとしたのか口元を覆った右手を、後から後から流れ出す大粒の涙が濡らしていく。
「す、すみま……すみません、僕、こ……な、泣い、泣き出したりして、迷惑、に、ごめ、ごめんなさ……い……」
 山下は首を振った。児嶋がいきなり泣き出したことに多少驚きはしたが、それほど意外には思わなかった。それまでが冷静過ぎたのだ――たった一人の兄を亡くして間もない人間が、その兄の死をまるで他人事のように扱いながら、平気な顔で他人に兄の財産を渡す話が出来るだろうか?
 俯き、肩を震わせ、嗚咽を漏らして泣く児嶋を山下は、冷めた――というより心理的に一歩引いたところから眺め、いつ泣き止むだろうかと考えながら、コーヒーカップを児嶋から離し、児嶋の手に触れるようにハンカチを差し出した。児嶋は断って自らのハンカチを取り出そうとしたが、上手く取り出せず、最終的に山下のハンカチを受け取った。
 ハンカチを顔に押し付けて泣く児嶋の手の指に指輪は見当たらない。他に悲しみを分かち合える家族もなく、一人で抱え込んできたのだろう。もしかすると――山下は思った。この男は、兄を亡くしてから今日初めて泣いたのかもしれない。
 肩の震えが落ち着いたのを見計らって、山下は児嶋に声を掛けた。
「日を改めますか」
 児嶋は顔を上げた。涙に濡れた顔は児嶋よりも幼く見えたが、最後に一度ハンカチで拭われた後は三十歳の男の顔に戻った。
「……すみません……、せっかくお時間をいただいたのに、取り乱してしまって」
「こっちのことは気にしないでください。俺の方は時間がありますから」
「本当にすみません。どうかしてるんです。兄の死から……自分がちゃんと、地面の上に立っている気がしないんです。何かがおかしくて……」
 ふいに児嶋は山下の目を見た。
「山下さんは……優しい方ですね」
 児嶋は山下の目をじっと見つめて言った。どうやら本心からのようだった。山下は児嶋が泣き止むのを待っていたときよりも居心地の悪い思いをした。
「兄は……」
 児嶋は手に持ったハンカチに目を落とした。
「もしかして、あなたを傷付けたんでしょうか」
「……傷付ける?」
「あなたを……ひどく裏切ったり……」
 裏切り――その表現と声音から、セックスのことを指しているわけではないと、山下は瞬時に理解した。
「いえ、俺は――」
「もし、山下さんが兄の遺産を受け取ったとしても、それは兄の謝罪を受け入れることにはならないと思います。もし、もしそれを気にしていられるのでしたら――」
「違います」
 遮られないように少し強めの声で否定すると、児嶋は顔を上げた。
「肉体的にも精神的にも、お兄さんに傷付けられたことはありません」
「そう……ですか……」
 懸念が晴れて安堵した――という風には見えなかった。どこか落胆しているようにさえ見えた。
 山下はふと、この男は兄との繋がりを失うことを恐れているのではないか、と思った。兄が遺産の半分を渡そうとするほどの感情的な繋がりがあった人間――たとえそれが見ず知らずの男であっても、兄に繋がる最後の糸のように見えるのかもしれない。その糸を掴んでいる間は山下を通して兄の存在を感じ、喪失の悲しみに押し流されずに済むのだ。
「児嶋さん」
「はい」
「遺産のことですが、やっぱり受け取ることにしてもいいですか」
 そのとき児嶋の顔に浮かんだ表情を見て、山下は自分の見立てが正しかったことを確信した。
「ええ、もちろん」
「すぐに全額寄付するとしても、ですか」
 山下は『副職』で得た金を生活費にあて、アルバイトで得た給料は目についた募金箱に突っ込むか、適当な慈善団体に匿名で振り込むことが多かった。趣味もなく貯金をする気もない。大金を貰ったところで使い道はないのだ。
「使い道は山下さんの自由ですから」
 二人は冷め始めたコーヒーを飲み、山下は児嶋の勧めで軽食を取りながら児嶋の話を聞いた。
 話がひと段落すると、児嶋は二杯目のコーヒーを頼むかと山下に尋ねた。山下が頷くと、児嶋はコーヒーより紅茶の方が美味しいのだと言った。山下は児嶋に合わせて紅茶にした。
「お兄さんのお墓は、どちらにあるんですか」
 関わりを持つ以上、一度は線香を上げに行くべきだろうと思い、山下は尋ねた。
「兄の骨は、散骨したんです。生前、そのようにしてくれと言われていたので」
「散骨?」
 聞き慣れない言葉だった。
「はい、兄の場合は海ですね。墓に入る代わりに、海に遺骨を撒きました」
「……そういう場合は、どういう風に……供養するものなんですか?」
 児嶋は少し間を空けて、こう答えた。
「普通はどうするのか分かりませんが、僕は遺骨を撒いた海を見に行きます。……もしよければ、今度お連れしましょうか?」
 来て欲しい、とその目が言っていた。少なくとも山下の目にはそう映った。
「じゃあ、お願いしてもいいですか」
「はい。兄も喜ぶと思います」


 諸々の手続きが済んだ翌々週、二人は児嶋の車で海に向かった。児嶋は弁護士然としたスーツではなく、普段着らしいラフな格好をしていた。車は庶民的な価格帯のもので、それなりの清潔感があり、フロントミラーから親指大の木彫りの人形が下がっていた。聞くと、弁護士として働き始めた頃、顧客から貰ったものだという。
「精霊が守ってくれるのだそうです」
 児嶋の運転は穏やかで、人一人の命を預かっているということを考えてもかなり慎重だった。人形がなくとも事故に遭う確率は低いだろう、と山下は思った。
 車の中で、児嶋は兄との思い出を語った。年の離れた二人の兄弟は事故で早くに両親を亡くし、兄の方が成人するまでは遠い親戚のもとで育てられ、兄が成人し翻訳家として働き始めてからは、その少し前に亡くなった祖父母の家に移り住み、兄が親代わりとなって弟の面倒を見ていたらしい。
「兄は自分の持ち物をほぼ全て処分していました。家は、僕が過ごした家でもあったから残してくれたんだと思います」
 児嶋は兄が遺した家に住むことにした、と続けた。裕福だった祖父母――そして兄が遺した家は一人暮らしには広すぎるが、処分するには忍びないから、と。
「それにもしかしたら、いつか一緒に住んでくれる人も見つけられるかもしれませんから」
「見つかりますよ」
 本心から山下が言うと、児嶋は「そうだったらいいんですけどね」と自信なさげに苦笑し、それから少し間を置いてこう尋ねた。
「山下さんにとって兄は……どういう人間だったんでしょうか?」
 暫く前から人通りも車の通りも少なくなっていて、今ようやく海が見え始めてきた。かなり辺鄙な場所らしい。
「分かりません。……それほど親しいわけじゃなかったので」
「そう……だったんですか?」
「はい」
 はっきりと『あなたのお兄さんは男を買っていました』と言う気は、山下にはなかった。わざわざ『優しかった兄』の幻想をぶち壊すようなことを言うこともない。恋人や一生を考えるようなパートナーだった、という振りをすることは出来ないが、せめて肉体関係のある友人程度に考えてくれればいいと思っていた。
「……兄は昔から、心に何か葛藤を抱えている人でした。長い間カウンセリングや投薬を受けていましたし、三年前に婚約者と別れた後は、仕事も殆ど出来ないくらいに落ち込んでいました。僕には兄の悩みが何なのか分かりませんでしたが、生きているうちに弟として何か出来たんじゃないかと、よく考えるんです。兄がああなる前に……」
 山下の脳裏に、遠い昔から呪いのように取り憑いてる光景が蘇った。

 魂が抜け落ちた体……
 他にはなにもない……

 そして白い部屋の天井からぶら下がった死体の顔が、あの哀れな男に変わる。弟を一人残し、恋人ですらなかった男に大金を遺したあの児嶋の顔に。その目は、何か言いたげに山下を見つめた。
 山下は児嶋が抱えている葛藤の正体を知っていた。
 もし出来ることがあったとしたなら――山下は海に目を向け、実際には死体の幻影を見つめながら思った――それは、自分がやるべきことだったのだ。
 たとえばあの電話を受けた日に。
「お兄さんは、俺のせいで死んだのかもしれません」
「どうしてですか?」
「最後にお兄さんと連絡を取った日、お兄さんが傷付くようなことを言ったから」
「……どんな、ことを?」
 あの日のことを、山下は今になるまで深く思い出すことはなかった。『人を殺した』――自分がそんなことを口にした理由を、考えてみることもなかった。
 どうしてそんなことを言ってしまったのだろう? 冷静に考えてみれば、自分が児嶋に受けた仕打ちが、人殺しに相応しい罰なのだと言っているようではないか?
 ――そしてどうして、彼が欲しがっていた言葉を一度も与えなかったのだろう?
「俺は人殺しで、だからあなたのような人間の相手をしているんだと……そういうことを言ったんです」
 児嶋は少しの間、黙っていた。そしてゆっくりと口を開いた。
「もしそれで兄が深く傷付いて、死を選ぶことになったのなら……兄はあなたに遺産を渡そうとは思わなかった筈です」
 浜辺が見えた。児嶋は近くの駐車場に車を停めた。
「兄の死で山下さんが負うべきことは、何もありません」
 二人は車を降りた。


 児嶋は砂浜から少し離れた林の中に入った。数分歩くと、少し開けた場所に出た。足元にはまばらに生えた草の間に砂が見えていて、やや下ったところに小さな岩場と海が広がっていた。
 児嶋がそこに腰を下ろしたので、山下も同じように座った。人気はなく静かな場所だった。 
 二人は暫くの間、一言も喋らずに海を見ていた。そのうち山下は奇妙なことに、自分たちが気の知れた友人同士であるかのように錯覚した。ほんの数回会う機会を持った他人同士には不似合いな繋がり、連帯感のようなものがあるように感じたのだ。それは山下に長い間、友人らしい友人がいなかったからかもしれない――だが児嶋の方も、初めて会ったときのような他人行儀な振る舞いは見せず、山下と同じように肩の力を抜いて、じっと海を眺めていた。
 その目は兄の死体を見たのだろうか、と山下は思った。安置された死体ではなく、別荘で首を吊った――あるいは薬を飲んで倒れた兄の死体を、見てしまったのだろうか。見ていなければいい、と思った。
 児嶋は山下の意識が自身に向けられていることに気付いたのか、ゆっくりと山下の目を見た。
「……児嶋さんが、お兄さんを見つけたんですか」
「……いえ。近所を散歩されていた方が通報されて、警察が発見しました」
 児嶋は指先で砂を撫でた。続きを話すべきか迷っているようだった。山下は無言で待った。
「兄が亡くなったのは、正確には別荘ではなく、別荘の側にある物置小屋でした。出入り口は完全に閉め切られて、中から鍵がされていたそうです。兄はそこで……」
 山下はふいに、話の先に何か恐ろしいものが待ち受けているような気がした。とぐろを巻いた蛇が闇の中で息を潜めている……
「……兄はそこで、亡くなったんです」
 児嶋は明らかに言葉を選んだ。山下にとって最も衝撃が小さいであろう言葉を。
 山下は児嶋の顔を見つめたが、児嶋は山下と目を合わせようとしなかった。
「俺には」
 山下は無意識に口を開いていた。
「知る権利がないんですか」
 そう口走った後、はっと児嶋の胸中について思い至った。兄の陰惨な死について語ることを、果たして弟は望むだろうか。傷を深くするだけに違いない。
「すみません、無神経なことを……すみません。忘れてください」
 児嶋は悲しげな顔で「いえ」とだけ答えた。
「……兄は、長い時間を掛けて、自分自身を傷付けた末に……亡くなりました」
 『あんな、ひどい終わり方』――初めて会った日、児嶋は兄の自死そのものではなく、そのやり方について表現したのだ。
「詳細は……聞かない方がいいと思います」
 山下は首を横に振った。それこそが自分が手を伸ばすべきものだという気がした。心臓が少しずつその鼓動を高めていく音がする……。
 児嶋は躊躇い、山下の様子を見ながら、ゆっくりと語り始めた。

 児嶋は――兄の方だ――発見されたとき、殆ど白骨化しかけていた。小屋の中は血だらけで、児嶋自身の指紋が付いた赤黒い針や釘や刃物が落ちていた。直接触れれば肌を溶かしてしまう強い溶剤を使った跡や、骨にまで残る刃物傷もあった。死体は木材用のウィンチとそのリモコン、ロープによって逆さ吊りにされていて、死体の顔には鼠が齧った痕跡があった。損傷が激しいせいで死因ははっきりしないが、生きているうちに喰われた可能性もあるという。
 もし小屋の中にあったビデオカメラに、本人が自らの苦痛に満ちた死を予告する動画が残されていなければ、間違いなく事件性ありと判断されていただろう状態だった。
 話を聞き終わったとき、山下はひどく打ちのめされていた。
 ほんの少し山下を傷付けただけで消耗し、泣いていたあの男が、それほど凄惨な自傷行為の末に亡くなったとは、にわかには信じられなかった。だがそれが現実に起こったことなのだ。
「山下さん……大丈夫ですか? 車の方に戻りましょうか?」
 黙り込んだ山下を心配に思ったのか、児嶋が声を掛ける。山下はそれで少しだけ冷静さを取り戻し、頷いた。児嶋は先に立ち上がり、山下に手を差し出した。神妙な顔つきだった。
「やっぱりこんな話、するべきじゃありませんでした」
 山下は児嶋の手を取りながら首を横に振った。
 二人は車に戻り、帰り道を走り出した。児嶋は気を遣ったのか、うるさかったら言ってください、と前置きをして行きには掛けなかったラジオを小さな音量で流した。だが陽気な話し声も音楽も山下の耳には何一つ入ってこなかった。
 気付けば車は止まっていて、山下は自分が今いる場所が、住んでいるアパートの前だということにようやく気付いた。
「気分が優れませんか?」
 心配げな顔をそう言った児嶋に「いえ」とだけ答えて、山下は車を出ようとした。だが力が入らない――立ち上がるどころか、車のドアを開けることすら出来なかった。
「……もう少し、車でゆっくりされていく方がいいと思います。近くの駐車場に停めますね」
 児嶋はアパートの横のコインパーキングに車を移動した。五分ほど経ったところで、山下は児嶋に迷惑を掛けるわけにはいかないと思い、無理矢理ドアを開けて体を外に出し――そこで嘔吐してしまった。児嶋は山下を介抱し、病院に連れていこうとしたが、山下が家で休みたいと言うと躊躇いつつも了承した。
 山下は肩を借りて部屋に入り、部屋の中でも手を借りて畳の上に腰を下ろした。そして山下から渡された水を飲み、体を横たえた。それでも暫くは、世界がぐるぐると回っているような感覚が続いた。その間児嶋は必要最低限の言葉だけを口にするだけで、殆ど口を動かさず静かに山下を見守っていた。
 山下は自分がどうしてこれほど動揺しているのか理解出来なかった。残酷なことには慣れているつもりだったし、死んだ男は友人でも恋人でもなかった。
 それに山下はもっと親しい人間の死に触れたことがある。やつれきった母親は、ある日階段を滑り落ちて死んだ。発見者は山下だった。奇妙に折れ曲がった母親の体を、光が消えた瞳を見た。そのときでさえ、これほどまでに強い反応は起こらなかった……。
 身体に合わない酒で悪酔いをしたときのような酷い吐き気の中で、山下は天井からぶら下がる死体を見た。何千回も、何万回も繰り返し見た夢の中の死体だ。
 同時に、その死体が自分の想像の産物であることを山下は完全に理解していた。実際にはそんなものを見たことは一度もないのだ。白い部屋も、蛇が縄と化すさまも、男がその縄に吊るされて死ぬ姿も。全て想像の産物だ――男の正体を除けば。

 ――父さん。

 山下の父は、家族経営の小さな運送会社の専務として働いていた。良き父、良き夫、良き友人……周りからはそう思われていたし、山下もそう思っていた。少なくとも、事件が起こる前は。
 事件前、山下の父はアルバイトとして働いていた大学生と浮気をしていた。継続的な関係ではなく、彼女の本就職先が決まるまでの期間、ほんの数回の間違いだった。だが彼女は妊娠し、彼女の弟はそれをネタに山下の父を脅した。山下の父は何度かその要求に応えた後、かつての愛人の弟をゴルフクラブで殴り殺し、犯行を目撃した被害者の友人を血の付いたゴルフクラブで殴打した後、絞殺した。
 死刑になる、と言ったのは誰だっただろうか。山下の当時の同級生だったかもしれない。山下はいつからか死刑を執行される父の夢を見るようになった。住む家を追われ、引っ越しを繰り返し、母と二人で不安定な生活をしながら、何千回も、何万回も、繰り返し繰り返し見た。
 実際には死刑判決は下らず、山下の父は獄中で病死した。それからも夢は続き、山下はいつか夢の中の人物は本当に父親なのだろうかと思うようになった。父親の顔は上手く思い出せなくなっていた。夢の中の人物は思い出の中の父よりも、鏡の中の自分に似ているように見えた。
 そして山下は、罪を償わずに死んだ父の代わりに、自分や家族がその罪の報いを受けることになったのだと思った。それはごく自然なことのように思えた。全財産をかき集めて賠償金を払い終わった後も苦痛に満ちた人生を送るしかなかった母親のように、ただ生きて苦しみ続けること、そしてその末に無残な死を遂げること。その運命を山下に思い知らせるために、夢は繰り返すのだと思った。
「山下さん……大丈夫ですか……」
 囁くような声が聞こえ、手に温かいものが触れる。山下はぼやけて歪んだ視界の中に、自身を見下ろす児嶋の顔を捉えた。その顔は見る見るうちに痩せこけ、肌は瑞々しさを、瞳は光を失い、髪には白髪が混じっていく。二人の兄弟の顔の造形は、それほど似ているわけではない――だがいつの間にか、弟の顔は兄の顔に取ってかわっている。山下は児嶋が立ち上がり、首を吊った父親――あるいは山下自身の幻影に重なるのを見た。

 魂が抜け落ちた体と、それを吊るす縄だけがある……
 ただそれだけで、他には何もない……

 天井からぶら下がる児嶋の死体を、山下は見つめ続けた。見つめ返してくる虚ろな目が山下の意思を奪い、目を逸らすことも閉じることもさせなかった。

 他には何もない……

 世界が回る。山下は自分が床に横たわっているのか、それとも天井に張りつけにされているのか分からなくなった。転覆した船の真下で、なんとか浮かび上がろうともがきながら、反対に海の底に向かって泳いでいるような感覚もあった。世界は回り続け、山下の思考と感覚をばらばらにかき混ぜていく。
 やがて回転が止まったとき、山下はなおも天井からぶら下がっている死体を見た。だがその死体は首ではなく足から吊るされていて、全身が生々しい血にまみれていた。逆さ吊りになった児嶋の顔……飛び出した眼球が山下を見つめている。唇を鼠に食い千切られ、歯が剥き出しになった口は、どこか笑っているように見える……グロテスクで滑稽な笑みだ。
 それを目にした瞬間――山下は恐怖した。
 己が自分自身をどのように扱ってきたかを、その末路を、無残な死体の中に『見て』しまった。山下はこれまでも、自分が何をやっているかは分かっていたつもりだった。だが今この瞬間までは、本当に分かっていたわけではなかったのだ。
 それに気付いた瞬間、山下の中で何かが崩れ落ちた。それはもう二度と同じ形を取り戻せないほど粉々になって、児嶋の死体と共に消え去ってしまった。

 幻が消えると、世界が現れた。
 鮮やかで、温かみがあり、そこにある何もかもがそれぞれに存在感を持った――現実の世界。初めからそこにあった世界だ。
 そこには男が一人いた。その男は山下のすぐ傍に座っていて、山下の手をそっと握り、山下を静かに見下ろしていた。その目、その唇、その息遣いで、児嶋が心の底から自分を案じていることを、山下は本能的に理解した。そして山下は生まれて初めて、心の底から誰かを美しいと思った。
 二人は暫くの間見つめ合った。やがて児嶋は山下の意識がはっきりと己に向けられていることに気付いたらしく、少し狼狽えたように目を瞬いた。
「……具合はどうですか?」
 山下は答えるかわりに、体を起こした。児嶋はふと思い出したように山下の手に重ねた己の手を見た後、そっとその手を離した。
「水は飲みますか」
 山下は児嶋からコップを受け取った。ぬるめの水はするりと喉を通り、体の奥底にまで染み込んでいった。
「……すみません、ご迷惑お掛けして」
「いえ、そもそも僕があんな話をしたせいですから……それより、もう少し横になられていた方がよろしいんじゃないかと思うんですが……」
 幻に囚われていた間、外からはよほど様子がおかしく見えていたらしい。山下は児嶋の顔色を見て、もう何も心配ないと答えても説得力はないだろうと思った。それに実際のところ、自分でも本当に大丈夫なのか分からなかった。
 促されるままもう一度横になり、何かが足りないような気がして左手を見た。山下の視線を追って児嶋も同じように山下の左手を見た。少し間があって――児嶋は山下の手に己の手を重ねた。山下が児嶋を見ると、児嶋はぎこちなく微笑み、手を離そうとした。山下は反射的にその手を掴んだ。
「…………」
 どうしてそんなことをしてしまったのか、うまく説明する言葉が見つからなかった。山下は「すみません」とだけ言って掴んだ手を解放した。
「大丈夫ですよ」
 児嶋は微笑み、穏やかな声でそう答え、今度は両手で山下の手を包んで自身の膝の上に載せた。山下が他人にそういう風に触れられるのは、父親が二人の人間を殺めて以来のことだった。
「……もう少しここにいてもらっても、いいですか」
「はい。僕でよければ、いくらでも」
 それは兄の死の詳細を語ってしまった罪悪感からなのか、単なる優しさからなのか――もしかすると疑われているのかもしれない、と山下は思った。死んでしまった兄の後を追うつもりではないか、と。
 もしその死を知らずにいたなら、山下はそう遠くない未来、同じように自分自身を完全に破壊し尽くしてしまっていたかもしれない。傷と痣だらけの体を嬲られているうちに、ふっと最後の一線を飛び越えて、物言わぬ骸となっていたかもしれない。山下はそうなってもおかしくないような生き方をしていた――多分心のどこかで、そうなることを願っていたのだ。苦痛の末の無残な死、それが山下の願いだった。幸福からどこまでも遠ざかって、陰惨な人生を歩み、誰からも惜しまれずに逝くことで、自分はやっと十分な報いを受けることになる――報いを受ける方が、何もなかったかのような顔でのうのうと生きていくよりも、ずっとましだった。
「お兄さんは……多分、罰されたかったんだと思います」
「……山下さんに、ですか?」
「そうかもしれません」
 児嶋が願っていたものは、本当は赦しではなく罰だったのだと、山下は今になって理解した。罪を暴かれ、その罪の罰を受けること。それこそが児嶋の願いだったのだ。山下は無意識にそれを与えてはいたが、十分な罰ではなかった。児嶋は、心を粉々に砕かれてしまうような――そして生きることさえ出来なくなるような、そんな罰を求めていた。
「だから……あんな死を選んだんだと思います」
「……そうですね」
 果たして児嶋は、罰を受けるべき罪を犯したのだろうか? 誰かを実際に傷付けたことはあったのだろうか? きっとこの優しい弟を手に掛けたことはなかった筈だ。山下との行為ですらあれほど消耗していた男が愛する弟を傷付けたなら、自ら死を選ぶことも出来ないほどに、完璧に壊れてしまっていただろう。
「でも、もしお兄さんが、自分は罪を犯した人間だと思っていたのだとしても……あんな死は、相応しくなかった」
 児嶋は少しの間黙っていた。山下は児嶋の手の温もりを感じながら、自分の中で何かが決定的に変わってしまったことを理解した。今までは他人の体温に価値を感じたことなど、一度たりともなかったのだ。
「……兄は、笑っていてもどこか悲しげで、何か思い詰めているように見えることが多い人でした。でも、凄く幸せそうに見えたこともあったんです。兄の婚約者はとても美しい人で、僕にも優しくしてくれました。彼女のことを遠ざけたのは兄で、僕はそんな兄をずっと理解出来ずにいました。……今でもそうです。兄があの家で彼女と幸せに暮らす姿を、僕はずっと見ていたかった……」
 弟が思い描く兄の幸せな姿――もはや二度と叶うことのない夢。
 それを語る声を通して、物悲しく美しい夢を山下も垣間見た。そして、そうであればよかったと心から思った。
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