吊るされた男 前編

 白い部屋の天井に、一匹の蛇がぶら下がっている。
 蛇はうねり、鱗をきらめかせながら太く長い自らの体で輪を作り、そして動かなくなる。
 しなやかな体からみるみるうちに光沢が失われ、蛇は乾いた麻縄に変わっていく。
 縄の近くには台があり、その上には男が一人、裸足で立っている。
 俯いた顔。白髪交じりの黒髪。乾いた唇。縛られた両手と両足。
 男が僅かに顔を上げると、落ち窪んだ目が前髪の間から覗いた。
 恐怖と絶望に彩られた瞳……。
 男は何か強い力に引き寄せられて、縄で出来た輪の中に自らの頭を差し込んだ。
 そして次の瞬間、白い部屋にあるのは男と、その魂と、縄だけになった。
 男の足は地を離れ、一瞬重力が消え去ったようにふわりと宙に浮かび――
 そして首に掛かる圧倒的な力で、男は完璧に破壊される。
 吊るされた男の体がゆらゆらと揺れ、やがて動かなくなった。
 俯いて床を見下ろす男の目に、もはや命の光は宿っていない。
 白い部屋には魂が抜け落ちた体と、それを吊るす縄だけがある。
 ただそれだけで、他には何もない。
 何もない……。
 何も。



「山下さんって、謎多いすよね」
 そう声を掛けられ、山下は半分夢を見ながら書いていた業務日誌から顔を上げた。声の主は少し離れた隣の椅子に座っている、同僚の静岡だった。
「過去も謎っすけど、今現在も謎じゃないですか。休みの日にどっか行くとか、そういうの聞いたことないし。あー、そういや飲み会も来たことないっすよね」
 山下の一つ下、二十四歳の静岡は、肉がついた太めの指で器用に携帯のパズルゲームをプレイしつつ、タブレットの画面に映るアニメをちらちらと見ている。片手間の会話だった。山下は何も答えず、無表情に手を動かしながら、自分に向けられた同僚の関心がパズルゲームかアニメに移されるのを待った。だが静岡の方はそう簡単に話を流すつもりはないようだった。
「しかもモテそうなのに恋愛に興味ないっぽいし、ていうか無趣味っぽいし、まだ二十五なのに雰囲気落ち着き過ぎてるっていうか。ホント、休日とか仕事終わった後とか、何やってるんですか?」
「別に何も」
「ええー、マジですか? あっ、もしかして意外と風俗通いにハマってたり? たまーにいるんすよね、黙ってても女の子が寄ってきそうなタイプなのに、物凄い風俗狂いで彼女作らない人って。どうっすか、当たり?」
「興味ない」
「ええー……じゃあホント、何やってるんですか? 二十五年間生きてきて、全く完全の無趣味ってことはないすよね?」
「別に。どうでもいいだろ」
「ええ? そんな、冷たいなぁ」
 静岡は笑ったが、声は全く面白くなさそうだった。山下が素っ気ない態度を続けたことが気に障ったらしい。
「……自分のこと全然話したがらないの、もしかして触れられたくない過去があるから、とか? ……昔何かやらかしてて、実は前科があるとか、そんなことないですよね?」
 山下は手を止めた。そして同僚の目を見ると、無表情で「そうだって言ったら?」と尋ね返した。
「えっ……、本当ですか?」
 怯えた声だった。山下は暫く静岡を見つめた後、業務日誌に目を戻し【お客様からの声】欄を埋め始めた。
「奨学金の返済が残ってんだよ。だから金使わないように仕事終わりも休みの日も家で寝てる。つか、もし前科持ちならあの店長が雇うわけないだろ」
「ああ、確かに……って、俺今マジにビビりましたよ! もう、脅かさないでくださいよ。山下さんの冗談、ちょっとブラック過ぎてキツいですってホント」
 緊張から解放されてホッとしたらしく静岡は馴れ馴れしく山下の肩を叩いたが、山下はそれに構わず業務日誌を書き上げ、席を立った。
「お疲れ」
「あ、お疲れーっす」
 休憩室を出て更衣室に移動し、手早く着替えて店を出た。安さと無料の昼食だけが売りの汚いネットカフェは、看板もどこか薄汚れている。山下は自分に似合いの店だと思いながら駐輪場に移動した。
 時刻は朝の七時――原付バイクに乗る前に携帯を見ると、不在着信が二件、メッセージが十七件、メールが二件入っていた。着信は一件折り返し、メッセージは二件、メールは一件だけ返信した。その後数分のやり取りで今日の夕方と夜、そして明日の予定が決まった。
 山下は一度だけ目を閉じて溜め息を吐き、帰途に就くため原付バイクに鍵を差し込んだ。


 その日最初の男とは、街ビルの男子トイレで会った。定期的に清掃が入っているトイレは比較的清潔だが、公衆トイレ独特の臭いがした。山下は男と会って数分でそのトイレの床に膝を突き、男の股ぐらに顔を埋めていた。
「……もっと舌を使ってくれよ、出来るだろ、そう、そうだ……もっと……」
 男は囁くように言い、山下の舌遣いを暫く楽しんだ後、山下の頭をぐっと手で引き寄せて喉の奥にペニスを押し込んだ。山下はその男の絶頂に近付いたときの癖を知っていたので、さして驚きはしなかった。だが生理的な反応を抑えることまでは出来ず、涙目になってえずいた。その様子を見て男は更に興奮を煽られた様子で、山下の咥内を洗いもしていないペニスで使い捨ての玩具のように蹂躙し続けた。
 やがて事は済み、男は唾液にまみれたペニスをトイレットペーパーで拭くと、跪いたままの山下に千円札を三枚投げて声も掛けずに個室を出て行った。山下は男が完全にトイレから姿を消したのを音で確認した後、三千円を拾い個室を出た。それから洗面台の方で口をすすぎ、顔を軽く洗った。
 そのタイミングで携帯が震えた。次の男からだった。
『今日は家に来い』
 山下はその言葉の意味を知っていた。いつもより酷くするということだ。


 ラフなプレイにも対応します――そう言って集めた『客』たちの中で、その男は最も暴力的な人間だった。山下の見る限り、その男は人間の皮を被った悪魔以外の何物でもなかった。
「遅かったな。はした金でまた他の男のチンポでもしゃぶってたのか?」
 家に入るなり男は空き部屋に山下を連れ込み、山下の口の中に太い親指をねじ込みながら尋ねた。山下が頷くと、男は間髪入れずに山下の顔を平手で叩いた。一度山下の鼓膜を破ったことがあるその手には、今回も容赦のない力が込められていた。
「どんな男だった?」
「……四十代前半の、体臭のきつい、下腹が出た男です。職業は知りません」
「下の方は大きかったか?」
「普通でした」
「そいつの精液も飲んだんだろ?」
「飲みました」
 男は山下の髪を掴んで跪かせ、見下ろした顔に唾を吐いた。
「お前ぐらい堕ちて、まだ生きてる奴の気がしれねぇな」
 今年五十になったその男の体は、一時間前に会った男よりも遥かに壮健で、活気に満ちていた。だが獣にも劣るその人格はその目に色濃く表れ、どんよりと鈍い光を宿した瞳は対峙するものに本能的な恐怖を抱かせた。
「脱げ」
 山下は男の言う通りに裸になった。男ほど逞しくはないが、決して貧相ではない、鍛えられた体だった。肌は滑らかでしみ一つなく、色も体毛もやや薄い。だからだろう、あちこちに付いた痣が目立った。
「縛るぞ」
 男が手に取った麻縄は固く、肌に喰い込むほどきつく縛られると痛みが走った。男は自分が付けた痣の上に躊躇いなく縄を走らせ、山下を拘束した。山下は部屋に敷かれたブルーシートに片頬を埋め、男が自身の太い腕にオイルを塗りつける姿を見上げながら、いつか自分はここで死ぬのかもしれないと思った。


 次の日に会った男は、山下の『客』たちの中で最も異質で、最も哀れな男だった。
 本名か偽名か児嶋と名乗ったその男は、山下をいつも安ホテルで待っていた。そして温かな笑顔で迎え、まるで山下を恋人のようにもてなした後、ベッドで山下を丸裸にし、自身は上半身裸になって、まるで子どもでもあやすような声で喋りながら愛撫する――そう、こういう風に。
「大丈夫、すぐ終わるからね。痛くないようにするよ。大丈夫、大丈夫……」
 声とは裏腹に児嶋の目はぎらぎらとした肉欲にまみれ、興奮は手のひらに滲んだ汗や、スラックスを下から突き上げる昂ぶりに表れている。
 山下は人形のように静かに横たわって愛撫を受けながら、痩せた中年の男の、肉の薄い肩を見つめた。皮膚も薄いらしく、色白の肌には血管が浮き出て見える。
「気持ちいいかな? 気持ちいいだろ? 大丈夫、別に悪いことじゃないんだよ。自然なことなんだ……」
 児嶋は山下にそう囁きながらベルトを外し、スラックスと下着を下ろしてペニスを露出させると、荒い息を吐きながら山下の上に覆い被さった。山下はそこで初めて、「嫌だ」と言葉を口にした。
 児嶋の動きが止まった。その顔からは笑みが消え去り、目は冷たく、唇は苛立たしげに歪んだ。
「ここまでやめるなんて、そんなのないだろ?」
「でも……」
「黙れ。大人しくしてろ」
 また何か否定の言葉を発しようとした山下の口を、児嶋は荒っぽく手で塞いだ。
「大人しくしてないと、悪いことが起こるぞ。お前が想像してるよりずっと悪いことがな。分かるか?」
 山下が頷くと、児嶋はベッド際に置いていたガムテープで山下の口を塞いだ。それから山下の体を横向きにし、閉じた太腿の間にローションを垂らして、そこにペニスを挟み込んだ。
 山下は児嶋が虚ろな目をしながら腰を振るのをじっと見つめていた。手できつく押さえつけられている太腿が少し痛んだが、他の男との行為に比べれば殆ど無いに等しい痛みだった。
「あ、う、う……っ!」
 児嶋は呻きながら達し、天井を仰いで目を閉じた。射精が終わって数秒の後、児嶋は山下からゆっくりと体を離した。
 山下は目を閉じて小さく息を吐いた。自分が児嶋の出した要望を完璧にこなしたことを知っていたが、これで全てが終わったわけではないことも分かっていた。目を開け、ガムテープを剥がし、ティッシュでざっと精液を拭き取って児嶋に向き直った。児嶋は裸でベッドに膝立ちになったまま、凍り付いた顔で荒く息を吐いていた。
「児嶋さん」
 無反応。いつものことだった。
「風呂、入りましょう」
 山下は児嶋の腕を取ってベッドを降り、児嶋の歩行を手伝いながら浴室に向かった。浴槽にあらかじめ湯を張っていたので、中は十分に温かかった。山下は鉛がついたように重くなった児嶋の体を器用に支え、シャワーで軽く汗を流してやった後、温めの湯船にゆっくりと半身を沈め、両腕を浴槽の縁に置き、膝を適当に曲げて体勢を安定させてやった。
 一仕事終えた山下がシャワーを浴び始めても、児嶋は一言も喋ろうとしなかった。意思と感情が抜け落ちた顔には半月型の濃い隈が浮かんでいる。瞬きを忘れた暗い目は人形のそれというよりも、穏やかさとは縁遠い場所で命を落とした、まだ生温かさの残る死体を思わせた――山下はその目を、他の場所でも見たことがある。

 魂が抜け落ちた体……
 他には何もない。

 二人が関係を持ち始めた三年半前は、山下は児嶋の変化を、金で男を買ったことを後悔しているか、そうでなければただ単に金を払うのを渋っているのだろうと思った。最中と比べると言葉数が極端に少なくなり、まともに目が合わなくなるなど全体的に反応が鈍くなってはいたが、今ほど衰弱はしていなかったし、客の態度が急変するのは特段珍しいことでもなかったからだ。
 山下は児嶋に最初の取り決め通りの金額を要求し、児嶋は無言でそれに応じて、二人は別れた。そういう関係が一年ほど続いた後、山下はある日、シャワーを浴びて帰ってもいいかと児嶋に尋ねた。児嶋は無反応だったが、山下はそれを了承と取り、次の客の為にシャワーを浴びた。
 浴室を出た山下が見たのは、ホテルの床に倒れ、涙と脂汗を流しながら震えている児嶋の姿だった。
 それから山下は、児嶋と共に過ごす時間を引き延ばすようになった。児嶋がそうしてくれと頼んだわけではないし、そうしなければ児嶋が救急車で運ばれるような危険な状態に陥るというわけでもなかったが、山下は児嶋との予定を入れるときはいつも多めに時間を取り、その時間で児嶋の回復を待つようにした。
「――また、増えたんだね」
 山下は頭と体を洗い終わり、特に何をするでもなく椅子に座っていた。だから児嶋の声がはっきりと耳に入ったし、児嶋が何を指して言ったのかも分かっていたが、山下は児嶋の方に顔を向けただけで何も言葉を返さなかった。
「傷と痣だらけだ……」
 児嶋は山下の体を見つめていた。もはや死者のものではなくなったその目には、明確に三つの感情が現れていた。悲しみ――そして罪悪感と後悔。
「児嶋さんじゃないですよ。児嶋さんが付けた傷は一つもない」
 山下は無意味だと分かっていながら言った。実際、児嶋の気持ちを和らげるには無意味な言葉だった。児嶋はその顔を両手で覆い、震えながら泣き始めた。
「どうして……どうしてなんだ……」
 嗚咽の合間に紡がれる言葉は、世界の終わりのように絶望的な響きを持っている。
「こんな……こんなこと……こんなことは……あっちゃ、いけない……」
 ホテルの床に倒れていたとき、児嶋には言葉を発するほどの余裕は残っていなかった。今はいくらかましな状態だ。だが今の状態が正常なのかと問われれば、山下は答えに窮するだろう。児嶋は山下を犯した男たちの全ての罪を自らのものとして引き受け、それに小さな心臓を押し潰されそうになりながら、一人涙を流しているのだから。
 山下は児嶋の『発作』が落ち着くまで静かに待っていた。そしてそのときがやってくると、児嶋に手を貸して湯船から上がらせ、一緒に浴室を出た。
 その後はもう、児嶋は一人で歩くことも自分で服を着ることも出来るようになっていた。だから山下の方もむやみに手を出すような真似はせず、児嶋がひどく疲れた顔をしていても、大丈夫かと声を掛けることもしなかった。
 児嶋はいつものようにペットボトルの水を飲んだ後、鞄から封筒を取り出し、山下にそれを手渡した。
「ありがとう」
 児嶋が本当に口にしたいのはその言葉ではないのだと、山下は知っていた。
「いえ、こちらこそ。じゃあまた」
 封筒には児嶋が口にしなかった言葉が入っている。山下は封筒から中身を取り出すとき、いつからかその言葉が聞こえるようになった。
 許してくれ――と。


 山下が客を取り始めたのは十四のときだった。
 初めての相手は近所に住んでいた主婦で、当時の山下とそう変わらない年の息子がいたが、それなりに若々しく、美しいと表現しても嘘にはならない程度には整った容姿の女だった。
 彼女は山下に声を掛け、巧みに家へ誘い込み、若々しい体に触れ、山下で己の欲望を満たした後、これで髪でも切りなさいと言って山下のポケットに数枚の札を滑り込ませた。関係は何度か続いた。山下は彼女に好意も欲望も感じたことがなかったが、触れられれば体は上手く機能した。彼女は山下を秘密の恋人として扱い、時には奴隷として扱った。時折試すように空のポケットのまま山下を帰すこともあったが、高価な贈り物をしてくることもあった。山下は彼女がどう出ようと彼女の望むまま振る舞い、彼女を満たした。
 三か月ほど続いた彼女との関係が山下の引っ越しで終わり、高校と新しい土地に慣れた頃、山下はアルバイト先の店長と関係を持つようになった。初めのうちその男はただ親切だったが、やがて理由をつけて山下の体に触れたがるようになり、山下がろくに抵抗を見せないことが分かると二人きりのときには露骨に触れてくるようになった。山下はいずれ何かが起こることを感じ取っていたが、それでも抵抗しなかった。
 体をまさぐる手がベルトを外すようになり、卑猥な言葉を紡いでいた唇が山下の体に触れるようになった。そして関係が始まってから一か月後、閉店後の事務所で山下は男に抱かれた。
 男は山下の体を貪ることに夢中になり、事務所で、トイレで、閉店後の店の床で、車で、ホテルで、自宅で、行動範囲内のありとあらゆる場所で山下を抱いた。男は山下に直接金を渡すことはなかったが、山下の給与には身に覚えのないボーナスが入っていることがよくあり、山下は従業員の誰よりも多く昇給して、高校生の短時間のアルバイトには決して見合わない額を受け取っていた。
 半年ほど続いた男との関係は、男の転勤という形で終わった。
『左遷だろうね』
 山下と同じ時間帯に入ることが多かった同僚の一人は、訳知り顔で、そして含みのある口調で山下にそう言った。その男は山下と気まぐれに何度か関係を持ったが、一度も金は払わなかった。
 高校を卒業し大学に入学すると、山下は見知らぬ男たちと会うようになった。SNSで知り合った男たちと関係を持つうちに、山下はどうやら自分には恋愛感情というものがが無いらしいということ、そしてそれがあるように振る舞う器用さも持ち合わせていないことを理解していった。そして女よりも男が、抱くよりも抱かれる方が、そして無償よりも有償の方がいくらか具合がいいことに気付いた。友人にも恋人にも発展し得ない関係だと互いに了解していれば後々面倒が少なかったし、誰かの内側に迎え入れられるより後ろから圧し掛かられて犯される方が性に合っていた。
『ラフなプレイにも対応します……』
 そう宣伝するようになったのは、客の一人に相手を選ぶよう忠告を受けた後のことだった。その男は、もし相手を選ばなければ――暴力的な客を避ける手段を取らなければ、いつかきっと後悔する筈だと言った。君が今、何も考えずに手を突っ込んでいる箱の中には狡猾な蛇がとぐろを巻いていて、襲い掛かるときを窺っているのだ、と。
 山下は愛人契約の話をし始めた男の声を聞きながら、その蛇には、きっと餌をやる誰かが必要なのだろうと思った。蛇が箱を抜け出して外に出ることがないように、危険を冒して蛇の飢えを満たしてやる誰かが。
 そしてその役目を引き受ける『誰か』になること――それは山下にとって、遥か昔に運命づけられていたことのように思えた。


 休日が終わり、山下は薄汚れたネットカフェの仕事に戻った。静岡はどうやら二日前の不穏な会話を誰かと共有することも、自分一人で掘り下げてみることもなかったらしく、店は何もかも普段通りに見えた。
「山下さん、聞きました? この店、そろそろやばいらしいっすよ」
 事務所で二人きりになるやいなや、静岡は声を潜めて山下に話し掛けた。
「あっ、今経営がやばいのはいつものことって思ったでしょ。違うんですよ。今回は本当の本当にやばいって。オーナーと店長が店の裏で話してたのちょっと聞いたんです。多分年は越せないだろうって。やばくないですか?」
「今のうちに次見つければいいだろ」
「うわぁー、やっぱ山下さんドライだな~。俺は結構この店好きだから、何とか持ちこたえて欲しいんですよね。あーあ、次探すの嫌だなぁ」
 山下はふと、職を変えるたびにやつれていった母親のことを思い出した。白髪交じりの髪、年よりずっと老けてみえる顔……。
「あれ、山下さん。もしかして実はショック受けてました?」
 面白がっている目で顔を覗き込んできた静岡に、山下は「そうかもな」と素っ気ない声で返し、事務所を出てトイレに向かった。清掃中の札をドアに下げ、少し前にポケットの中で震えていた携帯を出した。
 数人の客からの卑猥なメッセージ――そして児嶋からの着信が一件。仕事中なので後で電話します、とメッセージを送った。少し待って返事が無かったので、携帯を仕舞って業務に戻った。
 退勤後、山下は駐輪場で児嶋に電話を掛けた。留守電のアナウンスが流れ始めたとき、児嶋はようやく電話に出た。
「今終わりました。お待たせしてすみません」
 しかし途切れ途切れの息遣いが聞こえてくるだけで、児嶋はなかなか声を発しようとしなかった。山下は呼び掛けることはせず、相手の出方を窺った。
『……いや、こちらこそ……申し訳ない」
「……児嶋さん? 大丈夫ですか?」
 他の男なら向こうで自慰でもしているところかと思うところだが、児嶋はそういった遊びを楽しむような悪趣味な人間ではなかった。
『ああ。……今日もし、会えたらと……思って』
「今日ですか。はい」
『……いいのかい?』
「大丈夫です。これから会いますか?」
『そう、だな……』
「……児嶋さん?」
 暫くの間、児嶋のくぐもった息遣いだけが聞こえた。泣いているのだろうか――山下は思った。どこかの壁に半分倒れるように寄りかかって、顔を溢れる涙で濡らし、体を小刻みに揺らしている児嶋の姿が頭に浮かんだ。
 原付を押して歩きながら声が聞こえてくるのを待っていると、息を肺の奥まで吸い込むような音が聞こえた。
『……君は、こんな、こんなことには……、ふ、相応しくないんだ』
 やはり泣いていたらしい。しゃくりあげるような声だった。
「児嶋さ――」
『君は、や、優しくて、いい子だから……、駄目なんだよ、駄目なんだ……』
 ――優しい?
 山下は自分がそんな人間だとは全く思わなかった。今この瞬間でさえも、児嶋に対して何の感情も抱いていないのだ。
 温かな感情とは無縁の人間――山下の胸を流れる冷たい血は、思考と感情とを切り離す川だ。
「大丈夫ですよ。俺は児嶋さんが思ってるような人間じゃないですから」
『どう、どうして……そ、そんなことを、い、言う……言うんだ?』
 山下は少し考えて、こう答えた。
「俺、人を殺したんです」
『……、え……?』
「前科があるんです。だから、いいんですよ」
 近くの壁に寄りかかって携帯に目を落としていた高校生くらいの少女が、ぎょっとしたように顔を上げて山下を見た後、すぐに目を逸らした。彼女は山下が通り過ぎると別方向の道を足早に歩いて行った。
『君は……』
 ショック療法が効いたのか、児嶋は泣き止んでいた。
『君は……、誰かを傷付けるような……そんなことをする子じゃ、ない……君は、違うんだ。君は……、――』
 ふいに声が遠くなる。
「……児嶋さん?」
 聞こえますか、と尋ねようとしたとき、通話が切れた。
 すぐに掛け直してみたが、留守電に繋がってしまった。一度切って児嶋が掛け直してくるのを待っても、間を空けてメールやメッセージを送ってみても、児嶋からの連絡は一切なかった。

 一人暮らしのアパートに帰り着いたとき、山下は確信していた――もはや二度と、あの人と会うことはないのだと。
 そして実際その日の電話が、二人の交わした最後の会話になった。
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