吊るされた男 epilogue


「まさか山下さんが乗ってくるとは思わなかったなー」
 静岡はお通しの料理をつまみながら、ぽつりと言った。
 予想よりは粘ったものの結局いつかの会話通りに閉店の日が告知された後、『最後に飲みに行きませんか』と静岡は山下に誘いを掛けてきた。山下は誘いに乗り、二人が同時に入る最後のシフトをこなした後、店から少し離れた場所にある居酒屋に入ったのだった。
「もしかしてですけど、俺と会えなくなるのが悲しかったから?」
「そっちだろ」
「わはは、バレましたか。あ、あざーっす」
 料理が二皿届き、会話が一時中断した。静岡がまた口を開いたのは、から揚げを五つ頬張りポテトの山を胃に詰め込んだ後だった。
「俺ね、山下さんのこと結構好きでしたよ。山下さんは俺のことアニオタのやかましいデブだと思ってたでしょうけど。……あっ、好きって恋愛とかそういう意味じゃないっすよ。俺ホント二次元以外駄目なんで」
「知ってる」
「何か、雰囲気あるじゃないですか山下さんって。ネカフェの店員は表の姿で、実はめちゃくちゃハードボイルドな世界の住人っぽそうっていうか。難事件を裏ですげー解決してそう」
「何だよそれ。アニメの見過ぎだろ」
 山下は笑った。
「そんなイメージだったんですよ! でも最近はちょっと丸くなった感じしますよ、なんか」
「丸くなった?」
「俺と飲み付き合ってくれたりとか。彼女出来たのかなーって思ったんですけど」
「別に」
「うーん、でも何か雰囲気がそれっぽいんだよなぁ……あっ、もしかして……もしかしてですけど、彼氏が出来ました?」
 山下は目を細め、ビールグラスの先にある静岡の目を見つめた。そして、そういうことなのだろうかと思った。あの人と自分は恋人と呼べる関係なのだろうか?
 少し迷って、山下は結論を出した――いつから始まったのかは覚えていないが、きっとそうなのだろう、と。
「……そうだって言ったら?」
「おめでとうございますって返します」
 静岡は事も無げに答えた。
「じゃあ出来た」
「おめでとうございます。よし、じゃあ俺にも幸せ分けてくださいよ」
「は?」
「うーん、具体的にはこの『今日のお勧め 大漁盛り海鮮丼スペシャル』ってやつですかね。俺はこれで幸せになると思います」
「……頼めば」
「やった」
「つか、今日は全部俺の奢りでいいよ」
「えっ、マジですか。いや俺別に脅したりしませんよ。性格悪いけど、そこまで屑じゃないです」
「分かってる」
 そして静岡は一キロはありそうな海鮮丼を幸せそうに堪能し、残り五分の一になったところで思い出したように喋り始めた。
「そういや山下さん、介護の仕事始めたんすよね。閉店の話が出る半年以上前だったから……あれ、もう一年近くになるんでしたっけ?」
 山下は頷いた。シフトが減ったネットカフェの店と掛け持ちの状態で、もう十か月半になる。それまで全くの未経験だった山下はすぐに順応し、ネットカフェが閉店した後は正社員として登用されることが決まっていた。
「そっちの転職先は?」
「俺? あー俺はもう近所のコンビニの夜勤でいいかなって。今と時給そんなに変わらないし、立地的に超暇そうだし……でも山下さんが頑張れって言ってくれたら、従兄から『人手が足りないからお前も来い』って言われてる会社の警備員の仕事、受けてみますけど」
「何でだよ」
「山下さんに言われたら何となく頑張れそうな気がするから」
「……頑張ってみれば?」
「じゃあ頑張ります。仕事が決まったら次は俺が奢りますから。ってか俺の連絡先消さないでくださいね。寂しいから」
 イクラを真剣な顔つきで箸に挟みながら言う静岡が、制服を着てどこかの会社で『頑張って』いる姿が頭に思い浮かぶ――山下は、本当にあるかも分からない『次』を楽しみにし始めている自分に気付いた。


 二週間後の朝、山下はネットカフェでの最後の勤務を終え原付を走らせていた。行先は自宅ではなくあの日児嶋と見た海だった。穏やかに波打つ海の匂いを嗅ぎながら海岸線を走り、浜辺近くの駐車場に停め、林の中に歩いて行った。
「晴道くん。早かったね」
 あの開けた場所に座っていた児嶋は、気配で気付いたらしく振り返って言った。
「幸広さんこそ」
「早く目覚めたんだ。せっかくだし、ゆっくりしていこうかと思って」
 山下は児嶋の横に座った。二人は暫くの間、一言も喋らずにじっと海を眺めていた。初めて二人でこの海を見た日から何度もこうやってここで会っているが、二人がここで挨拶以上の言葉を交わすことは稀だった。
 海は静かで、光を受けた美しい青がどこまでも続いているように見えた。微かに潮の香りを含んだ風が山下と児嶋の髪を優しく撫でる。児嶋は靴を脱いでいて、砂と草に裸足の足を置いていた。山下は手のひらで児嶋と同じ感触を味わった。
「そろそろ行こうか」
 いつものように児嶋から声を掛け、二人は立ち上がった。山下は原付に、児嶋は車に乗り、原付が車を追う形で来た道とは別の細道を走り始めた。
 十五分ほどで小さな田舎町に辿り着いた。町の中心部から少し離れた場所で車は止まり、やや遅れてきた山下もそこで止まった。その駐車場は広々とした――ただしひどく荒れた庭付きの古い洋館の敷地内にあり、児嶋が兄から受け継いだその家が二人の目的地だった。
「何か飲む? 冷えてるよ」
 先に家へと入っていた児嶋は、山下を居間に迎え入れた。何もかも古びた風景の中に真新しい冷蔵庫がぽつりとあった。
「冷蔵庫、買い替えたんですか?」
「動かすと事故になりそうだったから」
 児嶋の祖父母が元々住んでいたという家は、あちこちが派手に傷んでいた。兄の方は心を病む前から家の手入れにはあまり関心がなく、仕事に熱中すると他のことには構わなくなる性質で、仕事で多忙の弟は兄の世話で精一杯だった。長年放置された結果、弟の手に渡る頃には半分廃屋と化していた。
「水か、ソーダか、オレンジか、烏龍茶か、ビール。どれがいい?」
「じゃあ烏龍茶をお願いします」
 児嶋はグラスに入れた烏龍茶を山下に渡し、自分はペットボトルの水を一息に三分の一ほど飲んだ。
「今日は書庫の掃除をしようかと思って」
「二階の……階段を上がって右から三番目の部屋ですか?」
「うん。お願い出来るかな」
「はい」
 十分に喉を潤した後、二人は書庫に移動した。書庫は入口のドアが常に開け放たれているおかげで黴臭さはなく、空気も淀んでいない。だが中は本以外にも埃やごみがあちこちに落ちていて、まるで嵐にでも遭ったような荒れ具合だった。
 児嶋は兄からこの家を受け継いだ後、暫くの間この家を放置していた。住むことにした、と言いながら重い腰を起こしたのはここ半年のことで、腐った床や割れた大きな窓ガラスや鏡の撤去と取り換え、屋根の水漏れ修理、異常のある水道管や電気の配線の修理、害虫やネズミの駆除など、大掛かりな仕事は業者に依頼し、半廃屋から何とか人が住める家にまで改善してから(ちなみに児嶋はその作業に受け取った遺産の三分の一を費やした)、ようやく細々した修理や掃除を始めた――それが三か月前のことだ。
 そして、その話を聞いて山下が児嶋に手伝いを申し出たのが二か月前。
「とりあえず……本をまとめた方がいいかな。どこに置こうか」
「先にテーブルを綺麗にして、その上に載せた方がやりやすいと思います」
 書庫には壁を覆うようにして立つ本棚と、本を取る為の台、読書用のテーブルと椅子のセットがあり、本棚の位置以外はどれも滅茶苦茶だった。二人は人が通れる道を作り、カーテンと窓を開けてからテーブルと椅子をざっと掃除し、適切な位置に置いて、床に散らばった本をテーブルの上に移動させた。それから床や棚の掃除に一時間――昼食は児嶋が用意していた出来合いのものを居間で食べ、少し休憩をしてまた作業に戻った。
 二時間ほど経つと二人は別室で少し仮眠を取り、昼過ぎから始めた本の補修作業を再開した。『補修』といっても派手に折れたページを一枚一枚丁寧に戻したり、ページと頁の間に入り込んだ埃やごみや蜘蛛の死骸を払ったりするだけの、地味で単純な果てしない作業だ。二人は手を動かしながら話をした。
「ここに移る用意をやっと済ませたよ」
「いつから住むんですか?」
「実は昨日から」
 山下が驚いて本から顔を上げると、児嶋は悪戯っぽい顔で笑った。
「向こうの家はまだ完全に引き払ってはいないんだけどね。荷物はもう殆どこっちに持ってきてるんだ」
「部屋は……」
「昔と同じ部屋にした。高校まで僕の部屋だった場所。……後で見に来る?」
「引っ越しの段ボールだらけの部屋を?」
「意外と面白いかもしれないよ。段ボールの中には色んなものが詰まってるから」
「それって宝探しをしてもいいってことですか」
「……宝ってほどのものがあるかは見方にもよるかな。でもいいよ。荷解きを手伝ってくれるなら、どんな箱でも開けてみていいよ」
 児嶋は何か含みのある声で言った後、折れを直した本を持ち上げた。
「この後、重しをしたら直るかな」
 本棚から飛び出していた本の殆どはひどく歪んでいて、開いたまま戻らないものもあった。
「多分。カビが生えてなくて良かったですね」
「うん、生えてたらもっと大変だった」
「破れたページはどうするんですか?」
「専用のテープと接着剤を買ったから、重しで形を綺麗にしてから直してみようと思ってる」
 山下は頷いた。

 二人は夕方まで作業を続け、あらかたの仕事を終えてしまった。テーブルの上に本をまとめて置き、重しをすると、あとは一日か数日で形が落ち着くのを待ち、破れたページを補修するだけだった。
 一仕事終えて手洗いに行った山下は書庫に携帯を取りに戻ろうとしたところで、児嶋がまだ書庫の中にいることに気付いた。児嶋は椅子に腰を下ろし、読書用の眼鏡を掛けて膝の上で本を一冊開いていた。
 山下は声を掛けずに一階に降り、手洗いに行く前に勧められていたシャワーを借りることにした。
 児嶋は時折、兄との思い出に浸っていることがある。書庫は『昔、兄がよく過ごしていた場所なんだ』と児嶋が言っていた場所だ。手にしていた本にも兄と過ごした思い出が残っていたのだろう。
 この一か月の間、児嶋が涙を見せることは全くなかった。寂しげな顔で兄との記憶を思い返している様子を見せることはあっても、暗く沈んだままの顔で無理に笑顔を作り、自分に言い聞かせるように大丈夫だと繰り返すこともなくなった。
 『晴道くんのおかげだ』と児嶋は言う。だが山下はそれが全てではないと分かっていた。悲しみと後悔は、過ぎ去っていった時間と古く傷んだ家の果てしない補修作業の中で、少しだけ受け入れやすい形に変わっていったのだ。

 シャワーを浴びて出ると脱衣所には着替えが用意されていて、棚には携帯が置いてあった。
 児嶋が入れ替わりにシャワーを浴びる間、山下は庭に出て軽く散策をした。夕暮れどきの庭はそれまでよりいくらか風情があるように見え、美しく手入れをされていたときの面影を感じさせた。
 山下は雑草が薄い場所を探しながら歩いた。児嶋はこの庭をいつか綺麗に整え、幼い頃そうだったように、草木や花を楽しめる場所にしたいと話していた。昔はどこかのお城のものかと思うような素晴らしい庭園だったのだ。山下は庭で二人並んで本を読む兄弟の写真を見たことがある。
 家の裏手には森が広がっていて、見える範囲に他の民家は一つだけ、その家には七十代の穏やかな姉妹と老いた雑種犬が住んでいる。時折姉か妹のどちらかが犬の散歩をしているのを見掛けることもあるが、基本的には密な近所づきあいをするような距離ではなく、話し声や鳴き声が家から聞こえてきたこともない。耳に入るのは木々のざわめきと、虫たちの鳴き声と、草を踏む山下自身の足音だけだった。
 庭には忘れ去られたままのシャベルやバケツやじょうろ、ぼろきれのようなタオル、あちこち破けたビニール袋が落ちていた。山下はその一つ一つに物語を感じた。それは兄弟も使ったことがあるものなのか、それとも老夫婦が使っていたものなのだろうか――山下は一人用の小さなブランコの傍に辿り着いた。二本の鎖のうち一本が外れ落ち、鉄は錆びて、とっくに使えなくなったブランコの傍に。いつかそのブランコに弟が乗って兄がその背中を押してやったことや、兄弟のうちどちらかがそこに座って、広々とした美しい庭を眺めていたこともあったのだろう。山下は立ち止まって、少しの間ブランコを眺めていた。
 ふと、視界の端で何かが不自然な動きをした。山下がそちらに目を向けると、何か紐のようなものが草の間でゆっくりと動いていた。

 ――蛇。

 山下はその場から一歩も動かず、瞬きもせず蛇の動向を静かに窺っていた。
 だがその蛇は一度も頭をもたげず、静かに地を這って、森の方へと消えて行った。
 山下は暫くの間呆然としていたが、やがて我に返り、暗くなった庭を歩いて家に戻った。そしてちょうど髪を乾かし終わったところだった児嶋と二人で簡単な料理をし、ゆっくりと夕食を取った。
 皿の片付けが終わると二人は二階のバルコニーに出た。空には丸い月と、信じられないほどの数の星が光っていた。
「今日は本当にありがとう」
 ソーダで乾杯をした後、児嶋は山下に柔らかな眼差しを向けて言った。
「俺がやりたいだけですから」
 毎度のやり取りだった。山下にとっては苦でもないことを、児嶋は毎度こうやって有り難がるのだ。
 児嶋はソーダを一口飲んだ後、星に目を移した。
「家のことだけじゃないよ」
「他には何もしてません」
「そうかな」
 手すりの前で隣同士に立つ二人の背丈は同じくらいで、視線を向けていなくとも互いに相手の動きがよく分かった。山下が星から児嶋に目を移すと、児嶋はすぐに気付いて微笑み、それからじっと山下を見つめ、少しだけ唇を開いた。山下はソーダの瓶を手すりに置き、児嶋に身を寄せて腰を抱いた。二人はどちらからともなく顔を近付け、唇と唇を合わせるだけのキスをした。
 唇が離れると児嶋は山下の髪に手をやり、指でゆっくりと梳き始めた。児嶋の目は書庫での思い出から離れて、今は山下だけを見つめている。山下はこの少し年上の男の目が好きだった。美しく澄んでいて、力強く、内なる感情を鮮やかに映し出すその目が。
「君が好きだなって、毎日思うよ」
 児嶋の目には言葉通りの感情が浮かんでいた。君のことが心の底から愛しいのだと、山下にまっすぐに告げていた。二人の関係が、知人や友人という括りから、より親密なものに変わっていこうとしていた頃――交わす視線の中に熱が混じり始めた頃にあった戸惑いや躊躇いは、今はどこにも見当たらない。
 山下は、感謝をするなら自分の方だと思った。誰かにそんな目で見られること――嘘もごまかしも脅しもなく、ただまっすぐに愛情を向けられることが――それも、隠してきた何もかもを打ち明けた上でなおその愛情を与えられることが、これほど心地よいものだとは知らなかったのだ。それに、自分がそんな愛情を受け取ることが出来るのだということも。
「クリスマスか誕生日の贈り物みたいだ」
「何がですか?」
「晴道くんとこうしてることが」
 児嶋は山下から少し離れ、瓶の中に虫が入り込んでいないことを確認した後、ソーダを一口飲んだ。幸福そうな瞳の中に一瞬だけ悲しげな色が混ざったように見えたのは、兄のことを想ったからだろうか、と山下は思った。
「同じこと、俺もたまに思います」
 きっと児嶋の兄は、弟と山下が惹かれ合うことを意図していたわけではないだろう。ただ結果的にそうなっただけのことだ。
 児嶋は手すりの瓶を取って山下に差し出した。山下が受け取ると、今度はポケットから何か小さなものを取り出した。見覚えのある形の鍵だった。
「本当は見つけてもらおうかと思ってたんだけど……勿体ぶってるみたいだと思って。使うかどうかは晴道くんに任せるよ」
 山下は児嶋の手のひらの上にある鍵を見つめ、少し迷ってから手を伸ばした。拾い上げた鍵には児嶋の体温が移っていた。
「もうそろそろ中に入ろうか」
 そう言ってソーダを飲み干した児嶋の真似をして、山下も瓶を空にした。鍵はポケットに入れた。
「幸広さん」
「ん?」
 空の瓶を山下の手から受け取っていた児嶋は、顔を上げて山下を見た。山下は児嶋を抱き締めた。
「ありがとうございます」
「……こちらこそ」
 ふいに山下は、胸から何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それは山下の瞳に厚い膜を張り、目尻を濡らして、静かに頬を零れ落ちて行った。数秒の出来事だった。
 山下はそっと自らの頬を拭い、体を離した。そして微笑んでいる児嶋の顔を見て、自分はこれからこの人と共に生きていくのだと思った。
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