シーソー・ゲーム Prologue
「貴方がこの世に存在しなかったら、僕はきっと今とは全く違う人間になっていたんでしょうね」
下はボクサーパンツ一枚、上はワイシャツのボタンが外れたままという姿で、高岡は持ち上げたグラスを見つめながら呟いた。グラスの先にはベッドに一人気怠げに座る瀬川の姿があった。少し引いてみると、微かに揺れる赤い水面にまるで生首が浮かんでいるように見えた。
「似たようなことを言ってた女がいたよ。表情も今のお前と全く同じで、心底癪に障った」
「僕の知ってる人ですか?」
瀬川は鼻を鳴らした。
「知ってるだろうな、お前なら」
「大和さんが想像しているよりは知らないと思いますよ」
「どの口が」
「最初に結婚した女性ですか?」
「違う。どうあがいても俺とは結婚なんか出来ない女」
瀬川は新しい煙草に手を伸ばした。瀬川の手元で小さな火が揺らめき、吸い込まれ吐き出された煙が寝室の空気の中に混じっていく。高岡はそれをワイングラス越しに眺めていた。上半身裸で壁に背を凭れ足を広げてベッドに座っている瀬川はまるでこの部屋の主のようだった。
「俺がこの世にいなかったら、なんて残酷な言い方してくれるよな。どうせお前も全部俺のせいだって言いたいんだろ?」
高岡は答えない。元々不機嫌だった瀬川は更に気を害したらしく、舌打ちをした。
「だけどあいつもお前も、俺がいなくても遅かれ早かれ自分の本性に気付いただろうよ」
「本性?」
「――救いようのない淫乱」
酷薄な笑みを浮かべる瀬川に対して、高岡は感情らしい感情を面に出してみせようとはしなかった。怒りも悲しみも、ほんの僅かな不快感さえもその整った顔から窺うことは出来ない。
高岡はグラスに残ったワインを静かに飲み干し、腰掛けていた椅子から降りた。空いたグラスを灰皿の横、ナイトテーブルに置き、瀬川へと近付いていく。
瀬川は煙草をふかしながら高岡に目を向ける。侮辱を受けた後で何をするつもりなのかと訝しみ、その視線の奥に微かな期待を滲ませながら。
ベッドに乗った高岡は片足で瀬川の足を跨ぎ、膝立ちで瀬川の顔を見下ろした。頬に手を当て、伸びかけの髭を撫でる。間接照明の橙色を拾う瀬川の瞳の奥は黒よりも暗い。高岡は微かに目を伏せて瀬川に口付けた。軽く食むように唇を動かせば、瀬川はそれ以上を返し始める。濡れた音――舌と舌が絡み合い、唇と唇がぶつかり合う。
瀬川は煙草を持っていない方の手を腰に近付け、高岡を引き寄せようとした。だがそうする前に高岡の手が瀬川の手を取った。口付けが途切れる。高岡は瀬川の手を自らの腹に導いた。手の平を上から重ねて腹から胸へと滑らせ、さあ愛撫してくれと言わんばかりの目で誘う。
「……貴方と」
首に、肩に噛み付かれながら、高岡は囁くように言う。瀬川は高岡の乳首に爪を立てた。
「同じことを、僕に言った人がいました。その人は貴方と違って……、僕の事を愛していた」
肩に出来た歯型から血が浸み出す。その血を舌でぬるりと舐め取られて、高岡は呻いた。瀬川は笑い声を上げ、高岡の肩からシャツを剥ぎ取った。
「けどお前の方は違ったんだろ」
「……彼のことは、好きでしたよ。……だからずっと距離を、置いていました。そうした方がいいと……思ったから」
「ああ、そりゃよかったな」
まだこのくだらない話を続けるつもりなのかと思い始めたのか、瀬川は急に気のない返事をする。その声の響きはあからさまだったが高岡はさして気にした様子も見せず、口も閉じなかった。
「僕はいつもそうするんです……セックスをしていた相手と別れたら、もう二度と会わない。だけど」
「おい充、いい加減に――」
黙れと声を上げようとした瀬川は、しかし、その言葉を最後まで紡ぐことは叶わなかった。高岡がその手の平で瀬川の胸を突いたからだ。瀬川の顔に浮かんだ驚きが怒りに変わるその前に、次の攻撃が素早く腹部に放たれる。
「――――!」
二回目の攻撃は一回目の攻撃より遥かに激しく、遥かに凶悪だった。悲鳴を上げ体を折って激痛が走る腹を押さえる瀬川を、高岡は無感情な目で見下ろす。その手にはスタンガンが握られていた。
「仕方なかったんです。その人は貴方が怒らせた人と凄く親しかったんですよ……こんな偶然って、あるものなんですね」
高岡は蹲る瀬川の太腿に三回目の攻撃を食らわせた。改造が施されたスタンガンの突起部分から流れる強烈な電流が神経網を素早く駆け巡る。瀬川は反撃に出るどころか立ち上がって逃げる事すら出来ない。
高岡は呻き声を上げる瀬川を静かに座って見下ろした。意識はあるようだった――まだ、今は。
「ねぇ大和さん。貴方がこの世に存在しなくなったら、僕は今とは違う人間になれると思いますか?」
四度目の攻撃――左腕から長時間流れ込んだ電流は、瀬川の体の自由を完全に奪った。
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