25.勉強会

「えっ、嘘! えっ、嘘だぁ! ホントに流星くん!? 嘘!!」
 土曜日。流星を迎えに玄関までやってきた奈央は、扉の先から現れた待ち人を見て叫び声を上げた。
「久し振り。嘘じゃないよ」
 流星は苦笑しながら奈央に挨拶する。奈央は両頬に手を当て、口を開けて流星を見つめるばかりで、声を発することすら出来ない状態だった。俺は靴を脱ぎ、玄関に立ち塞がる百五十五センチ大の荷物を抱え上げて中に上がった。
「ギャッ! 何すんの兄貴! 離せ!!」
「邪魔」
「いやー! 痴漢! 人さらい! シスコン!!」
 喚く奈央をリビングのソファに置き、玄関に立ったままの流星を迎えに行った。
「悪い」
「人さらいの現場を見せたこと? 相変わらず仲良いね」
 俺はあえてノーコメントで返し「スリッパはそれ」とだけ言って、玄関に一番近い部屋のドアを開けた。それが俺の部屋だった。流星は笑いながら靴を脱ぎ、綺麗に揃えて置いて中に入った。
 ――と、そこでインターフォンが鳴った。俺は流星に部屋へ入るよう言い、自分は玄関の方に戻った。
「奈央、出ろよ」
「頼み方~?」
「悠木」
「早く言ってよ兄貴」
 インターフォンの近くにいた奈央はソファから飛び降り、受話器を上げて応対する――ワントーン高めの猫被りな声が後ろから聞こえた。
 玄関を出て階段を下りていく。途中で悠木と出会った。うちがある三階まで、悠木はいつもエレベーターを使わずに階段でやってくるのだ。目が合うと悠木はパッと満面の笑みを浮かべた。
「おはよーございます!」
「はよ」
 悠木は両手に膨らんだビニール袋を抱えていた。手を伸ばし、重そうな方を一つ勝手に取った。
「何持ってきたんだよ」
「え? おやつとおやつと、あとおやつとココア!」
 土産は持ってこなくていい、と再三言っているのだが、悠木は自分が食べたいからと聞かない。実際悠木は持ってきたお菓子をよく食べるので、最近はもう好きにさせている。
「流星は? もう来てる?」
「来てる」
「うわぁ!」
「うわぁって何」
「すげー感動ってこと!」
 そんな会話をしながら三階に上がり、家に入る。奈央は玄関に舞い戻っていた。
「お邪魔しま~す!」
「どうぞどうぞ~。今日は夕方までお母さんいないよ」
「うん、カズから聞いてる。俺うるさかったら言ってね」
「慧くんはうるさくても壮絶にかっこいいから全然OK問題なし」
「マジ? これ賄賂ね」
「わーい!」
 悠木は奈央に奈央用の土産を手渡した後(今日はクッキーらしい)、俺の部屋に勝手に入っていった。
 座布団の上に正座していた流星の横に、悠木は素早く駆け寄っていく。
「流星! 久し振り!」
「おはようございます」
 悠木の扱いに少し慣れてきたらしい。二日前の木曜日に三人で昼食を取ったばかりたったが、流星は微笑みながらさらりと挨拶を返した。
 話し出した二人を置いてグラスを取りにキッチンへ行くと、奈央が人数分用意しているところだった。
「慧くんは?」
「例の持ってきた。けど多分後で飲むだろ」
「あの甘ーいやつ?」
「あの甘いやつ」
 俺が悠木から取り上げた袋には、一リットル紙パックのミルクティーと地方の特産品らしい六個入りパッケージのプリンが入っていた。もう一つの買い物袋にはおそらく大量のお菓子が詰め込まれていることだろう。それら全てを悠木が自腹で購入したわけではない。奈央へのお土産など一部を除いて、殆ど全てがバイト先の客からの貢物――もとい、贈り物なのだ。
 初めは悠木も断っていたのだが、オーナーの奥さんの勧めもあり(受け取ってあげた方が喜ぶのよ、お友達と一緒に食べなさい、という風に言われたらしい)、そのうち方針を変えた。今では悠木を孫のように可愛がるご年配のご婦人たちや、息子のように可愛がるご年配の紳士たちから、細々した菓子類、旅行土産や出張土産などを貢がれている。お返しはもちろん、笑顔と元気だ。
 俺がミルクティーとプリンを冷蔵庫に仕舞う間に、奈央はグラスに烏龍茶を注ぎ終わって俺の部屋に向かっていた。部屋はそう広くなく、奈央は流星と話したがるだろうと思ったので、俺は奈央が出てくるまで洗濯物を干しながら待っていた。
 奈央は洗濯物を干し終わるか終わらないかぐらいに出てきて、俺のいるベランダの出入り口に顔を出した。
「流星くん、すごーくかっこよくなってたね! 昔は天使みたいだったのに……何かすごい!」
「惚れるなよ」
「いいじゃん惚れても!」
「お前悠木も好きだろ」
「それが何かぁ? 付き合うってなったらマズいけど、好きになるだけならいいでしょ。奈央の心は鳥のように自由なんですー」
 鳥のように自由な心の妹はソファに戻り、テレビを観始めた。俺も中に入り、自室に戻った。
「…………」
 中に入ると、悠木と流星は二人で写真を取っているところだった。
 ――正確に表現するならば、悠木が流星にぐっと体を寄せ、流星は少し悠木側に体を傾ける形で近付き、悠木の携帯で悠木がツーショット写真を撮っている最中だった。
「……あっ! カズ! カズも来いよ!」
「あ?」
「いーからいーから! ほらっ、ここに座れって!」
 悠木は素早く立ち上がり、自分が座っていた場所を指した。
「座れって何で」
「いーから!」
 何がいーから、なのか分からないまま流星の隣に座らされる。悠木は許可も取らずに撮影を始めていて、プロカメラマンさながらに指示を与え出した。
「もっと近付いて! そう! もっと! カズは何か違う!」
「違うって何がだよ」
「何か違うの! 流星は~、そう! そういう感じ! それでカズの方に少し視線やってもらえる?」
 流星は言われるがまま俺を見る。俺も流星の方を見ると、悠木は「そのまま! そのまま!」と叫びながら、横に移動したり跪いたり椅子に立ったりと忙しくポジションを変えて写真を撮り出した。
「……何だこれ?」
 何故写真を撮られているのか理解出来ずに呟くと、流星は軽く吹き出した。
「分からない」
 楽しげな声。悠木にとって幸いなことに、流星はこの状況を楽しんでいるらしい。
「あー流星その顔良い! すげー可愛い!」
「いや何だよこれ」
「何って撮影会。あーこっち見んな! 流星の方見てろって!」
「勉強会だろ」
「もーちょっとだけ! あともーちょっとだけだから! ほらっ、カズ、流星の方に顔向けろってば!」
 ……抵抗するだけ長引きそうだったので、従うことにした。至近距離で見つめ合う俺と流星の写真を撮って何が楽しいか分からなかったが、悠木にはきっと意味があることなのだろう。
 流星はその顔に微笑を浮かべ、俺を静かに見つめている。ほぼ金に近い薄めの茶色の睫毛で覆われた、灰色がかった青い目――湖のように澄んだ美しい目。穏やかで優しく、知的な印象を与える目だ。あまりに隙のない整い方をしている顔立ちは、ともすれば近寄りがたく見える作りではあるが、薄らとピンクがかった肌とその目のお陰で、冷たい印象は全くない。
 綺麗な目だ、と俺は心の底から思った。出会ってから何度も心の中で呟いた言葉。
「――おーっし! おしおし! ベストショットが撮れたぁ! これで完璧! 最高!」
「……もういいか?」
「おっけ~!」
 俺と流星はほぼ同時に顔を逸らした。
「あー……いい写真が撮れた~~~」
 悠木はそう言って俺たちの対面に座り込み、そのまま背を倒して横になった。そして両手で持った携帯をうっとりと見つめ出した。
「悠木」
「んー……」
「勉強は?」
「おー……」
 悠木の意識は完全に写真の方へと向けられている。このまま待っていても埒が明かなそうだ。
「……先に始めるか」
 不思議そうな目で悠木を見ていた流星は、少しそのまま観察を続けた後、「そうだね」と頷いた。
 かくして俺と流星は勉強道具を持ってリビングに移り、テーブルにノートや参考書や教科書を広げて真面目に勉強を始めたが、悠木は完璧な一枚とやらにすっかり心を奪われてしまったらしく、なかなか俺の部屋から出てこようとしなかった。結局悠木が現実世界に戻ってきたのは三十分後の事で、悠木は俺の部屋から焦った顔で飛び出してきた。
「……えっ? あっ? もう始めてた?」
 向かい合わせに座っていた俺と流星は、手を止めて目を見合わせた。
「始めてた」
「始めてました」
「マジかぁ。ごめんなさい」
 悠木は真剣に申し訳ないと思っているらしく小さくなって謝り、ノートや参考書の類とおまけの菓子を持ってきて、空いた場所に腰を下ろした。対面に座る俺と流星の両方から見て斜め横の席。俺と流星の隣にもう一つずつ席があるので、おそらく流星の横に座るだろうと思っていた。少し意外だった。
 俺たち三人はそれから二時間ほど真面目に勉強を続けた。途中からは悠木が流星に勉強を教える形になり、俺は提出用ノートを見直しつつ、悠木が人に物を教えるときに使う独特な言語――AからCに飛ぶ、あるいはAもBもなくいきなりCから話し始めると言った、途中の過程や理由を無視しがちな話し方を時折通訳する形で、何度か二人の間に入った。暫く経つと二人は互いの思考の癖を理解し合ったらしく、俺なしでもスムーズに話をするようになった。
「これはこの解法を使うってことですか?」
「ん、そう。そういうこと。じゃあさっきの問題もいけるよな」
「……はい。同じやり方で判別してから、それぞれの解法を当て嵌める形でいくということですよね」
「うん」
「ありがとうございます。やっと理解出来ました」
「良かった。俺の方こそありがとう」
 流星は不思議そうな顔をした。礼に礼を返されるような事に、思い当たる節は無かったからだろう。実際、ここ暫くの間の流星は悠木から教えを受けていただけだった。
 俺と流星の微妙な間に気付いたのか、悠木は目を瞬いた。
「え? 存在してくれてありがとうって意味」
「……唐突過ぎるだろ」
「そう? でも俺ずっと思ってたし。つかカズの方はひと段落ついた?」
「あ? まぁついた」
「お腹空いたよな、流星?」
「空いたのお前だろ」
「でも流星も空いたもん」
 なー、と悠木は流星に同意を求めた。流星は笑いをかみ殺したような顔で「そうですね」と頷いた。
「分かったよ。じゃあ昼飯な」
「わーい! よろしく!」
「俺、何か手伝えることある?」
 最初から用意してもらう気満々の悠木と違い、流星は健気だ。
「いや、大丈夫。キッチン狭いし」
「そっか、分かった。お願いします」
「おう」
 元々、二人には昼食を持ってこないように言っていた。昨日母さんから明日食べるようにと焼き鳥を買ってもらっていたからだ。俺はその焼き鳥を温め、冷凍のピザを焼き、キャベツを切ってドレッシングをかけただけのサラダと焼きおにぎりを作った。
 奈央の部屋のドアを叩くと、電話を耳に当てた奈央が顔を出した。
「ごはん? 電話の合間に食べるから持ってきて。奈央は手が離せないから。友達と電話中だからね」
 と言う奈央の目は、何年か前に流行った恋愛映画が流れるテレビに釘付けだ。通話状態でテレビを観ながら昼食を取るつもりらしい。行儀が悪いと説教をするほど俺自身行儀が良いわけでもなかったので、自分で取りに来いとだけ言ってドアを閉めた。どうせCMの間に渋々取りに来るだろう。
 男三人の食事は十五分も経たずに済み、俺は皿の片付けに、悠木は奈央がいつの間にか押し付けていた宿題の添削に、そして流星は『自分も何かやらせて欲しい』と俺の手伝いに入った。身長百八十を超えた男二人でキッチンに立つと狭苦しくはあったが、料理中ほど左右の動きが激しいわけでもない。手持無沙汰にさせるよりは、と申し出を受けたのだ。
「この後はどうするのかな?」
 俺が皿を洗い、流星が泡を流して乾燥機に入れていく――その作業を始めて少し経った頃、流星がふと気になったらしく尋ねてきた。俺はキッチンの向こう側にいる悠木に目をやった。
「悠木?」
「はいはーい?」
「この後は?」
「この後? 勉強再開か映画鑑賞会の二択」
 流星の顔を見る。
「……らしい。どっちがいい?」
「俺が選んでいいの?」
 頷くと、流星は少し迷ってから「じゃあ映画でいいかな?」と答えた。
「おっ、やったね! さすが流星! 俺の天使! 分かってるなぁ~! やっぱり流星は最高!」
 流星は面白そうに微笑んでいる。悠木の大袈裟な賛辞を冗談だと受け取ったらしい――本当に冗談なのかは悠木だけが知っている。
 それから何事もなく皿洗いと宿題の添削作業が終わり、俺たちは予定通り映画の鑑賞会を始めることにした。俺の部屋にはバイト先の先輩から譲り受けたテレビ――大型だが、画面の上部分に長い傷が入っている為に二束三文で買い取られそうになり、それなら誰かにあげた方がマシだという事でペットボトルの炭酸飲料一本と交換したもの――があったので、俺の部屋で観ることにした。


 映画は悠木が事前に用意していたもので、前日に入ったレンタル店で初めに目が合った店員のお勧めを聞き出し、タイトルも見ずに借りてそのまま持ってきたものだという。運命的なものを重視する悠木らしい選び方だ。
「ジャンル指定とか、年代指定もせずに選んでもらったんですか?」
「うん。でもえっちなのはないよ。グロ過ぎるのとか、下品過ぎるのもない。そういうのは無しで、ってお願いしたから。流星と観るのに不健全なものは宜しくないからさ」
「俺は大丈夫ですよ」
「俺がダメなの。汚してる気分になる」
「慧さんの中の俺って、そういう綺麗なものなんですか?」
「うん。綺麗だよ、流星は」
 テレビのついでに貰った古いブルーレイレコーダーにディスクを入れていた俺は、思わず二人の方を振り返った。
 二人は並んで座っている。悠木は背後のベッドに軽く凭れ、流星を上目遣いにじっと見つめていた。
 そして流星は悠木を見つめ返し、悠木の言葉を待っている。
「流星は顔も、体型も、声も、喋り方も、考え方も、性格も、全部綺麗だよ。芯があって、それなのに柔軟で、優しくて、強くて、清廉で、落ち着いてて、誠実で、勇気があって……俺が持っていないものを全部持ってる。初めて喋った時からそう思ってた。今は確信してる。流星は世界一綺麗だって。ああ、ホントにすげー綺麗な目、空とか海っていうより湖みたいな、静かで冷たくて、綺麗な目なんだよな……すっげぇ綺麗」
 悠木の目は言葉以上の賛辞を流星に与えていた。今目に映るものより美しいものはこの世には存在しない――そう物語る目は真摯で、静かな情熱に満ち満ちている。冗談でも嘘でもなく、真実だけを口にしている者の目。
 流星は身動ぎ一つしない。笑い飛ばすことも、礼を口にすることも、軽く流すことも、拒絶することもせずに、俺が振り返った時のまま、僅かに口を開いたまま悠木を見つめ返すだけだ。さすがの流星も返す言葉を無くしているようだった――俺も何も言えなかった。
「カズだってそう思うよな?」
 ――いきなり話を振られて、思わず持っていた空のパッケージを落としそうになった。
「…………、つかお前、人の部屋でいきなり流星口説くなよ」
「え? 口説いてねーし」
「いやどう考えても口説いてたんだけど」
「本当の事をただ口にしただけで?」
「死ぬほど褒めてただろ」
「え~? いやいや、褒めただけで口説くとイコールにはならないっしょ。カズじゃあるまいし」
「……何で俺が出てくんだよ」
「何でってカズが天然タラシ野郎だからに決まってんじゃん。おっ、始まった!」
 すっかり存在を忘れていたレコーダーがやっと読み込みを終え、タイトル画面に入る前の予告CMを流し始めた。録画機能が壊れ、今やプレーヤーとしての機能しか果たせないレコーダーから聞こえていた小さな異音は、悠木が音量を上げたせいで完全に掻き消されて聞こえなくなった。
 俺は二人の後ろ、ベッドに腰を下ろし、壁に背を預けた。テレビの方に顔を向けた二人の後頭部が見える。ベッドに向かう途中、横目に見た流星の顔――一見いつも通りの表情。だが誰かに心を強く揺さぶられたとき、人はあんな目をするのだと俺は知った。
「カズっ! 電気! パチッとお願いしま~す」 
 照明を落とした。とうにカーテンが閉め切られた部屋を、テレビの明かりがぼうっと照らす。
 映画本編の再生が始まった。登場人物たちの顔や言葉が記号的に頭の中に入ってくる――内容は殆ど理解出来ない。派手なアクションにも、気の利いた会話にも、心が躍らない。
 俺の意識は一部を残して俺から切り離され、俺の手の届かない所で何かを感じ、何かを考えていた。残された俺の意識の一部はその負荷に耐えつつ、俺が気付いてはいけない何かに決して気付いてしまわぬよう、雑音を拾い上げては俺の中に放り投げて、真実を覆い隠した。



「――二本目行く?」
 尋ねられて、一本目の再生が終わっていた事に気付いた。悠木は尋ねておきながら返事を待たず、さっさとディスクを入れ替え、持ち込んだお菓子を流星や俺に分け与え、自分も齧り始めた。
「カズ~、喉乾いた」
 テーブルにはグラスと烏龍茶のボトルがある。ボトルにもグラスにもまだ残っている――つまり、ミルクティーを注いで持ってこいという意味だ。お前は王様か。
「流星も飲む? カズが美味し~いロイヤルミルクティーを入れてくれるよ」
「いや注いでそのまま持ってくるだけだから」
 流星は微笑んだ。まるで映画前の一件など無かったかのような、自然で落ち着いた余裕のある表情だった。
「いただいてもいいですか?」
「OK! さぁカズ! 俺の分はホットな! あとプリンも!」
 分かったよ、と頷いて立ち上がった。そして同じく腰を上げようとした流星を手で制し、一人部屋を出た。

 二人分のミルクティーと三人分のプリンを盆に入れて戻ると、部屋は明るく照らされており、ベッドの占有権は悠木に奪われていた。ごろんと寝転び、人の枕をぎゅっと胸に抱いて俺を見上げる様はまるで猫だった。猫にしては大きいその生き物は、ぱっと花咲くように笑った。
「カズにゃん帰ってきた!」
 わーいわーい、と悠木は勢いよく体を起こし、俺というより俺の持ってきた物を歓迎する。ご機嫌で盆を取り、テーブルに置いてスプーンやプリンを配っていく。
 最初に悠木が座っていた座布団に腰を下ろし、テレビの方を見る。二本目のディスクはトップページで止まっていた。さほど時間は掛からなかった筈だが、予告編が短かったか、そもそも入っていなかったのだろう。
 男子高校生三人にしては優雅なティータイムにご機嫌の悠木は、プリンとミルクティーを楽しみながら一本目の映画について殆ど一人で語り尽した。有名なアクションシリーズの三作目であるその映画は、二作目までのキャスティングとはがらりと変わったため、同じ題材、同一世界の話でありながらも、雰囲気がかなり違っていた。そこから悠木は、アストレアがもし別の女神だったなら、物語にどんな変化が生じたかという考察に繋げてみせた。ギリシャ神話の女神をモチーフの一つとした作品のファンだけあって悠木は神話の神々に造詣が深く、そのまま本でも出せるのではないかと思うほどの知識量をもって俺と流星を圧倒した――放置されたブルーレイレコーダーがガコッ、と妙な音を立てるまで、そのまま永遠に喋り続けるのではないかと思ったほどだった。
「……おっ、ごめんな! 忘れてた忘れてた」
 悠木は我に返り、レコーダーの機嫌を窺ってから再生ボタンを押し、また照明を消してベッドに戻った。
 派手な一本目とは違い、今度はホラー要素のあるシックな作品らしかった。そういえば一本目の時は悠木が「わあ」「すげえ」「まじ?」「うおっ!」と声を上げていたような気がするが、今回は静かだった。よほど真剣に見ているのか――そう思ってふと後ろを振り返る。流星も俺につられてか振り返り、俺の目にしたそれを同じく目にした。
「…………」
 俺は流星と目を見合わせた。お互いに何も声に出さなかったのは、ベッドの上にすやすやと寝息を立てている人間がいたからだった。
 寝てる? と流星が口の形だけで尋ねる。俺はもう一度悠木を見て頷いた。流星は微笑み、リモコンを取って停止ボタンを押した後、悠木に目を戻した。
 悠木は壁に接している側とは反対側の端、つまり俺たちに近い方の端で、こちらに体を向ける形で横になり、猫のように背を丸めている。神経質なまでにセットされた髪は少しだけ乱れている上、少し開いた口に軽く左手の指先を含んでいるせいで、年齢以上に幼く見えた。
 流星はそんな悠木をじっと眺めていた。テレビ画面の光が照らす、知り合ってまだ日の浅い先輩の甘い目元を、はっきりとした眉の形を、高い鼻を、僅かに覗く唇と唇の間の隙間を、整った輪郭のラインを、露わになった耳の下から鎖骨までの滑らかそうな肌を。
「……俺も、昼寝しようかな」
 流星は微かに聞き取れるくらいの小さな声で言った。そして俺に顔を向け、
「大丈夫、ベッドには乗らないから」
 と悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。壊れちゃうかもしれないしね、と声を出さずに続ける。
「……いや。結構丈夫だから」
 そっか、と流星は呟いた。
「なら、一緒に寝てもいいかな」
「……いいんじゃね」
 流星は少しの間、黙って悠木を見つめていた。それからそろりとベッドに乗り、悠木の向こう側に身を横たえる。物音は殆ど立てなかった。しかしベッドが僅かに揺れたせいか、悠木は「ううん」と小さく唸りながら寝返りを打って仰向けになり、それから流星側にごろりと向きを変えた。
 俺は何となく目を逸らした。悠木の向こうにいる流星は目を閉じているのかもしれないし、それともまだ悠木を眺めているのかもしれない。気にはなったが、確かめる代わりに二人に背を向け、携帯に入れている単語暗記アプリを開き、十五分集中コースをこなした。
 ……それが終わると、他にやることもなくなる。眠気はない。勉強を再開するには暗過ぎるし、かといって照明を点ければ二人が起きてしまいそうだ。居間で暇を潰そう、と立ち上がった。
 見るつもりはなかったのに、ベッドの上の二人に目が勝手に吸い寄せられた。
 二人は向かい合う形で横になっている。俺一人が使うには十分なベッドも、それなりに身長がある二人が並べば余裕はあまりない。必然的に距離が近くなる――だからだろう、と思った。だから流星の手は悠木の腰に回っているのだ。手足を伸ばすのに十分なスペースがないから。あるいは、悠木がベッドから落ちてしまわぬように。
 男二人が狭い場所で寄り添っていれば、普通はむさ苦しく見えるものだ。これが修学旅行か何かで、寄り添っているのがこの二人でなければ、今頃笑いものになっている。そういう図だからだ。見苦しいんだよ、お前らラブラブかよ、と散々面白がられて卒業まで弄られる羽目になるかもしれない。
 流星と悠木は――そういうものとは、何かが違った。雰囲気がある、と言うのだろうか。
 上背があり、しっかりとした筋肉を全身に纏っていながらも、横たわる姿にどこか優雅さが漂う流星と、ファッション誌から抜け出してきたような完璧さで細身の長身を飾る悠木。目を閉じて寄り添う二人は、とても知り合って間もない先輩と後輩には見えなかった。
 まるで――恋人同士だ。それも横やりを入れようという気すら起こせない、完成された世界を持った恋人達。美しい二人。

 頭の芯が麻痺している。訳も分からないまま居間に出た。ソファでは奈央が昼寝をしていた。
 ぱかんと開いた口からよだれを垂らす間の抜けた顔を見ているうちに、ふと夕飯を作ろうと思い立った。

 悠木と流星が部屋から出てきたのは、夕飯の支度と片付けがすっかり済んだ頃の事だった。
「カズ!? 何で起こさなかった!?」
「気持ち良さそうに寝てたから」
「起きたら目の前に流星の顔があって心臓止まるかと思ったんだけど!?」
「すみません、驚かせてしまって」
 横にいた流星が即座に謝ったので、悠木は「いやいやいや流星のせいじゃないから!」と慌てて首を横に振る。
「それには驚いたけど心がまっすぐ天国に行った。ありがとうございます!」
 悠木は流星に深く頭を下げ、それからはっと思い出したように顔を上げた。
「って俺行かないと! じゃあまたなっ、俺がいない間に二人は思う存分親交を深めてな! よろしく! お邪魔しましたっ! 奈央ちゃんも!」
 ソファで眠たげな顔をした奈央が、ばいばーい、と手を振る。悠木はそれに手を振り返し、流星に「素敵な時間をありがとう」と微笑みかけ、何故か最後に俺にぐっと親指を立ててみせた後、慌ただしく家を出て行った。
「慧さんの携帯が鳴って起きたんだ。時間が早まったんだって」
 流星が言う。それで悠木が理由も説明せずに去った理由が分かった。元々悠木は早めに引き上げる予定で、その後は中学生時代に世話になったという友人の引っ越しの手伝いをするのだと言っていた。開始の時間が遅いのは実際の引っ越しではなく梱包の手伝いだからで、悠木は相手の仕事の都合に合わせて時間を取っていた。当初の予定の時間より早く出て行ったのは、大方、相手の仕事が予想より早く終わりでもしたからだろう。
 残された俺と流星、そして奈央は、悠木が置き去りにしていった映画を居間で鑑賞することにした。奈央は当然ソファに留まり、隣に流星を呼んで座らせた。二人掛けのソファに無理矢理割り込むほど勇者ではない俺は、奈央の前の床に腰を下ろし、後ろに凭れて座った。
「この兄貴図々しい! 奈央の足を背もたれにするなんて!」
「お前の足じゃなくてソファに凭れてるだけだろ。むしろお前の足邪魔。どけろよ」
「やだ。兄貴のが邪魔」
 何度か蹴られたが、無視していると諦めたのか俺の肩を足置きにして落ち着いた。図々しいのはどっちだと思いながら、払い除けるのも面倒でそのままにした。流星は「本当に仲良いね」と笑っていた。

 エンドロールが流れ始めてすぐ、母さんが帰ってきた。流星の変わりようが衝撃的だったらしく、奈央までとはいかないものの、目を瞬かせて驚いていた。
「お父さんの転勤でこっちに来たんだって?」
 我に返った母さんは、上着をハンガーに掛けながら流星に尋ねた。
「はい。高校からです」
「お母さんたちは? 向こうで元気にしてる?」
「三人とも元気です」
「それが一番よね。流星くんも元気そうでよかったわ。高校卒業までこっちにいるの?」
「はい。父もちょうど三年こちらにいる予定なので」
「大学は? 向こうで?」
「まだ決めてません」
「そうなの。もしこっちに残るんだったら何でも頼ってね。一也は好きに使っていいから」
「そうそう。兄貴そこそこ体力あるし、掃除もするし、料理出来るし。たいして上手くないけど」
「あ?」
 唐突に喧嘩を売ってきた奈央を睨む。
「目つき悪くて性根がねじ曲がってるけど、流星くんの為なら自分の腎臓くらい平気で売って尽してくれると思うし!」
「どういう状況だよ」
「状況っていうかー、兄貴的に流星くんと慧くんと奈央の三人はそういうカテゴリだよね」
 意味不明な上、さりげなく図々しい。だが母さんは「そうかもねぇ」と頷いた。
 それから俺たち四人は同じテーブルで夕食を取った。流星と悠木が寝ている間に作ったカレーだ。食事の間、母さんと奈央は(主に奈央が、だが)流星を質問攻めにし、流星はそれに嫌がる顔一つ見せずに答えていた。ただ、俺に会いたくて父親に付いてきた、ということだけは言わなかった。嘘は吐いていなかったが、父親に付いてきたら偶然俺と再会した、と取れるような言い方をしていた。
 カレーを食べ終わって少し腹が落ち着いた頃、流星を下の駐輪場まで送っていった。勉強会とは名ばかりの時間になってしまった事を謝り、真新しい自転車で走り去る流星に手を振って、家に戻る。
「最近まで全く連絡取ってなかったんだって? 電話くらいしてあげれば良かったじゃない。あれだけ仲が良かったんだから」
 帰るなり、ソファで仕事の書類を片付けていた母さんがそんな事を言ってきたので、俺は思わず絶句した。
「連絡先も教えてなかったの?」
「……母さんが言ったんだろ、もう二度と会うこともなくなるって」
 だからそういう別れ方をしたのだ。言った本人だから覚えている筈なのに、母さんはあからさまに驚いた顔をした。
「もう二度と会うこともなくなるって……一也と流星くんが?」
「そうだよ」
 怒気を孕んだ自分の声に驚いた。俺は冷蔵庫から烏龍茶を取り出し、コップに注いで一気飲みした。
「そんな事、本当に?」
「言った」
「……そう。ごめんね。お母さん、あの頃は必死だったから」
「……別に。再会出来たんだからもういいだろ。俺から連絡取ろうと思えば取れたんだし」
 母さんに謝られると居心地が悪くなる。苦労してきたことを知っているからだ。
 離婚の原因は親父にあったのに、母さんは親父から一切の金を受け取らずに俺と奈央を育ててきた。見知らぬ土地に移り住み、友人の口利きでそれまでやったこともなかった保険の営業を始め、両親すらもろくに頼らずに生活を立て直して、ここまでやってきた。
「一也と奈央には迷惑を掛けちゃったね。今度、久し振りに三人でご飯でも行こうか?」
「別に――」
「はいはいはい! 奈央焼肉食べたいっ。高級なお肉を死ぬほど食べたい!」
 テレビに映る健康番組の真似をして床に寝そべり、ダイエットに効くという奇妙なポーズを取っていた奈央が、素早く身を起こして会話に入ってきた。
「お前……」
「兄貴、奈央から美味しいもの食べるチャンスを奪わないで」
「ダイエットしたいのか太りたいのかはっきりしろよ」
「ダイエットしながら美味しいもの食べたいの」
「いいよ。じゃあ今度焼肉ね」
 母さんが言うと、奈央は「わーい、やったぁ!」と喜びの声を上げた。
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