1.再会(前)

「……嘘だろ」
 その姿を視界に捉えた瞬間、俺は喉の奥からひどく間抜けな声を漏らしてしまった。
「なに、どーした?」
 悠木は携帯の画面から顔を上げて不思議そうに俺を見る。前の席の椅子を反対に向けて俺の対面に座っていたので、俺の呟く声が否応なしに耳に入ったのだ。
「……いや……別に」
「『別に』? いまスゲー目ぇ見開いてんじゃん。カズがそんな顔してんの見るの、今世紀初なんだけど」
「見開いてねぇし」
「どれどれ、可愛い子でも見つけたか?」
 誤魔化そうとするも時すでに遅し。悠木は俺の視線が向けられていた場所を追って、窓の外に目を向けた。
「何だ、野郎かあ。ガッカリした」
「だから何もねえって言ってんだろ」
「つかあいつデカくねえ?」
 人の話を聞けよ。
 悠木は閉まった窓ガラスに鼻を押し付ける勢いでその人物に興味を示している。俺も気の無い振りをしながら横目で窺う。ここは三階の窓際。真下からは少し離れた中庭の方で動いている人間の表情までは――残念ながら読み取れない。
「うおー、よく見たら超絶イケメンじゃん。彫り深っ。眼の色青とかマジかっけぇハーフかな?」
「ここからよく見えるな」
「俺両目2.0だから。親友の視力くらい把握しといてよね~」
「そっちはしてんのか?」
「カズの? 右0.8、左0.7っしょ?」
「……」
 脱色し緩くパーマをかけた髪と言動のせいで誤解されることが多いが、実のところ悠木の頭はかなり性能がいい。俺、中西一也本人すら曖昧にしか覚えていないようなことまで細かく記憶している。しかしこんな無駄知識をどこで役立てるつもりなのか謎だ。
「あっ行っちゃったイケメンくん」
「イケメンくんじゃなくて山崎流星くんだよ。新入生の」
 俺たちは二人して声の主の方へ顔を向ける。隣の席の女子だ。艶やかなロングの黒髪、きつめに整った容姿が特徴的な……名前は申し訳ないがまだ覚えていない。一年のときは別のクラスだったし、二年で同じクラスになってまだ間もない。席替えで隣の席になったのはたった二週間前のことだ。
「田上さん、もうチェック済み?」
 話し掛けて来た女子――田上さんに、悠木はからかうような声で尋ねた。田上さんはちらりと片眉を上げ、肯定とも否定とも付かない小さな溜息を吐く。悠木は気にした様子もなく会話を広げようとする。
「リュウセイって、漢字どんなの?」
「流れ星って書いて流星だって。良い名前」
「へぇ。名前も洒落てる憧れる~あんな男になってみてぇ」
「悠木もわりといい方じゃないの? 顔は」
「えっ、マジ? どれくらい? 芸能人になれるくらい? 田上さん俺いける? ここだけの話クラスの何人くらい俺に惚れてる?」
 悠木に詰め寄られた田上さんは、携帯を操作していた手で悠木を押し返した。
「黙って立ってたらモデルにはなれるんじゃない。でも悪いけど私含めて悠木に惚れてる子はゼロ」
「何で!?」
「そういうとこ。あとオタクはちょっと」
「えーーー俺そんなオタクじゃないって。アストレアが好きなだけ。てかアストレア超女神じゃん!? ほら!」
 悠木は携帯の待ち受け画面を田上さんに向ける。そこには確か、悠木が好きなアニメのヒロイン『アストレア』が映っていた筈だ。田上さんは一瞥もしなかった。
「知らないし。キモオタ乙」
 悠木は俺の机に顔を伏せて撃沈した。
「カズ~女子が苛めるよお~」
「少なくともオタクなのは間違ってないだろ」
 見ていた限り、田上さんと悠木が会話らしい会話をしたのは確か今日が初めてだった。
 席が近いだけで大して交流もない彼女に趣味を知られているのは、鞄にジャラジャラと付けたアストレア関連のマスコットだけでなく、人目も憚らず俺にアストレアへの愛を語るオープンな振る舞いも理由として挙げられるだろう。
 だが田上さんが言ったように、見た目はいいのだ。手入れされ、毎日セットされた髪、二重の大きな垂れ気味の目、それを引き締めるような太めで形のいい眉、高い鼻。背は平均を何センチか上回っていて、股下が長く、すらりとしたスタイルは同じ制服を着ている奴らに残酷な現実を突きつけている。
 多少癖はあるものの、俺からすると中身の方もなかなかだと思う。しかし女子受けはこの通り、あまり良くないらしい。
 わざとらしい嘘泣きを始めた悠木の頭をぽんぽんと撫でながら、俺は密かに気になっていたことを聞き出すため、何でもない風に切り出した。
「田上さん、さっきの山崎流星って一年、結構有名なヤツ?」
「んー、見た通り目立つから。でもこの辺の中学出身じゃないらしいよ」
「へぇ」
「だから知り合いになるの難しそうなんだ。もし万が一、中西くんが流星くんとお近づきになることがあったら、その時はさりげなく私を紹介してね」
「……まあ、機会があったらな」
「うん、よろしく」
 田上さんは携帯に視線を戻し、綺麗に手入れされた爪が光る指でそれを操作し始めた。もう少し聞きたいことがあったのだが、彼女はもう俺に意識を向けていない。しつこく話しかけるのは躊躇われ、もう誰もいない中庭に目をやる。
「カ~ズ~~」
 机に顔を伏したまま、悠木が間延びした声を出す。
「なに」
「お菓子~~」
「ガムならあるけど」
「ガムじゃないお菓子を食いたいんだよ~~クリームとフルーツがたっぷりのったデラックスプリン~~」
「……お前それ、お菓子っつーか食堂のデザートだろ」
「うん」
「今からかよ……」
 腰を上げながら溜め息を吐く。昼休みは既に半分過ぎていて、もちろん俺達もとっくに弁当を食べた後だ。悠木の気まぐれは今に始まったことではなく、これくらいのことは日常茶飯事といってもいい。悠木は俺をちらりと見上げ、何だよと視線を返した俺にニッと笑ってみせてから立ち上がった。
「カズは何だかんだいって付き合い良いよなあ」
「だろ。早く行かないと食堂閉まるぞ」
「おっけ~……じゃあ走るか! 青春だ!」
「は?」
 止める暇もなく、悠木は教室を飛び出していった。俺が追ってくるのを確信しているような走りだ――実際、俺は追う。トロトロと歩いて行ったら、先に到着した悠木にしつこく文句を言われるに決まっているからだ。
 クラスメイトの視線を感じながら、俺は全力疾走しているらしい悠木の背中を追って走り出した。



「はっ、はっ……おま、お前なあ、悠木……」
 教室からはそこそこの距離がある食堂まで、ただの一度も足を止めずに走ったせいで呼吸が乱れに乱れていた。悠木はというと、食券を食堂のおばちゃんに出した姿勢のままでぜいぜいと喘いでいる。帰宅部同士であの速度は無茶と言うものだ。
「いい、……運動になった……っしょ……」
 青い顔で言われても。
 消化しきっていない弁当の中身が腹の中で踊っていたのは俺だけではなかったらしい。
 結局待っている間はお互いろくに会話も交わさず、受け取ったプリンを持って空いたテーブルに腰掛け、やっと落ち着いた。ちなみにプリンを受け取ったのは俺だが、俺はプリンを買ってない。代わりに自販機で買ったペットボトルの烏龍茶を一口飲んで、ぐったりしている悠木に差し出した。
「お前バカだろ」
 悠木は言い返さずに烏龍茶を飲み、半分ほど減らしてから俺に返した。
「おい」
「バカだから加減が分かりませんでした」
「……つーか、大丈夫か?」
「う~ん、多分……おそらく……きっと大丈夫? ……かもしれない」
「どっちだよ」
「昨日の徹夜が祟ったのかも」
「……ああ、またアストレアか」
 悠木は頷き、ふう、と息を吐いてから背を伸ばしてスプーンを手に取った。
「それがさあ、昨日カズと別れてから先週出た新刊を読み返してたらまた既刊が読みたくなって、一巻から読み返してたら上手い具合に点と点が繋がって、伏線を伏線と気づいた瞬間に俺は何て言うか単なる物語という枠を超えて人生の深遠なる謎と同時に啓示を得たわけで……」
 プリンの効果か、それともアストレアを語る喜びからか、悠木の顔はみるみる内に生気を取り戻していく。興奮で頬を赤らめているさまを見ていると、人気が引いた食堂で、残った数人の生徒と食堂のおばちゃんたちの生暖かい視線を感じつつも、相槌を打つくらいはしてやらねばならないような気がしてくる。
 たとえ、アニメ全24話、原作のラノベ既刊12冊、コミカライズ既刊7冊をまるで聖典のごとく扱う悠木のもっとも親しい友人でありながら、未だにアストレアの何が悠木を魅了しているのかさっぱり分からない、としてもだ。
「――それからアストレアが……」
 喋り続ける悠木の声。
 ふいに、視界の端に一人の人間が現れる。それが誰なのか、はっきり認識する前に俺は息を呑んだ。
「……カズ?」
 食堂の出入り口へと向いた俺の視線を追って、悠木は振り返った。
「山崎流星、じゃん」
 そう言った悠木の声はどこか遠くに聞こえた。
 俺たちだけでなく、食堂に残っていた数人の視線を一身に集めているその人――短めの金髪、灰色がかった青の目、アジア人のものではない色白の肌を持ったその男。身長は明らかに成人男性の平均を超えている。日常的に運動をしているのか、服の上からでも筋肉質の体つきをしているのが分かった。
 ああ、随分変わった、と俺は胸の内で呟く。ほんの数年で、まるで別人のような姿に変わってしまった。だが俺は、その大男にかつての姿を容易に重ね合わせることができた。
 そいつは俺の目の前で足を止めた。暫し俺の目を見つめ、そして口を開く。
「――久し振り。カズくん」
 その声は低く、俺が知っているものとは随分と雰囲気が違っていた。俺は喉の奥から声を絞り出した。
「……久し振り、流星」
 山崎流星は五年前に決別した、俺の幼馴染みだ。
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