epilogue - 美しい世界

 ラグの上に横たわって、暖炉の灯を見つめる。カーテンを閉め切ったままの部屋で偽物の炎は本物らしい顔をして波打ち、周りを暖かみのあるオレンジ色に染めている。
 唐桑はその光に照らされながら、この家で経験した別離も、彼女が打ち捨てた場所に留まり続ける事で開いたままになっていた傷も――それ以外の何もかも、これまでの人生で経験した全ての傷が完全に癒されたのを感じた。全てとっくに乗り越えたつもりでいたが、癒されて、やっとそこにあった微かな痛みに気付かされた。
 汚れを洗い流した身体はまだ重い。だが心は満たされて、凪いでいる。生まれ変わったような気分だった。特別な存在に。本当に価値がある、素晴らしいものをその内に持っている人間に。
 これは一時的な感覚だろうか? 夜が明ければ消えてしまうような、儚い幸福なのだろうか? 
 唐桑は自身に問い掛け、その顔に微笑を浮かべた。――さぁ、どうだろう。分かっているのは、もう二度と元の自分には戻れないという事だった。
 ゆっくりと振り返る。そして背後で寝息を立てている男の顔を見た。確かに眠っているようだ。
 よく眺めてみたくなって、ブランケットの下で体を動かし、向かい合う形になった。
「…………」
 髪も肌もさらりと乾いている。嗅ぎ慣れたシャンプーの香りと、持田自身が持つ微かで好ましい体臭を嗅ぎ取る事は出来るが、汗と体液の生々しい匂いは全く残っていない。
 夜更けまで睦み合った後、二人で風呂に入った。持田は唐桑の身体を隅々まで洗い、そしてまた少しだけ汚して、もう一度洗ってくれた。二階の寝室の始末は後回しにし、一階のリビングの暖炉前で横になる事を提案したのは唐桑の方だったが、すぐに寝息を立て始めたのは持田の方だった。
 唐桑は額と頬に掛かる金髪を指先でそっと払い、眠る恋人の顔を見つめる。
 髭がよく似合う、男らしい顔立ち。肌は若いが、髭のせいか角度によって二十歳にも三十代後半にも見える。左側に小さな黒子が一つある頬骨の位置は高く、鼻は大振りで形がいい。口はやや大きく、整った口髭と相まって不思議な色気を醸し出していた。
 今は閉じている瞼には薄い二重の線があり、瞼の下に隠れた瞳には、泰然と流れる河を思わせる光が――静かに輝く水面のような美しい光が宿っている。その河は信じられないほど広く、底には何が眠っているか分からない。覗き込むのに夢中になっていると、知らぬ間にその深みへと呑み込まれてしまう。
 そして呑み込まれた先には、息をするのも忘れるほど鮮やかで美しい世界が広がっているのだ。
 唐桑が見た事も無かった世界――持田と出会うまでは想像する事も無かった世界。
 そこに、持田は唐桑を連れて行ってくれた。
「ん……」
 唐桑が腰を抱くと、持田は鼻から息を漏らし、ゆっくりと瞼を開けた。ぼんやりとした目が唐桑を捉え、その顔に微笑が浮かぶ。
「……起きてたの?」
「さっき起きたんだ」
「寝苦しかった?」
「いや。自然に目が覚めたんだ……まだ眠いだろ? 昼まで寝てたらいい」
 持田は首を横に振って唐桑に顔を寄せ、唇を重ね合わせた。穏やかで、静かで、愛情深いキス。
 唇が離れると、持田は唐桑の目を見つめて溜め息を吐いた。
「……どうした?」
「貴大さん、ちょっと寝てる間にまた綺麗でかっこよくなってる」
 あんまり真剣な声で言うので、唐桑は思わず目を瞬き、それからふっと笑って、持田の髪を指先で梳くように撫でた。
「まだ夢の中にいるのか?」
「……そうなのかも」
 持田は熱っぽい目で唐桑を見つめ、もう一度唇を合わせた。
「夢の中……俺と貴大さんしかいなかった」
「二人で、何をしてたんだ?」
「手を繋いで……キスをしてた」
「……こんな風にか?」
 唐桑は持田の髪に触れていた手を下ろし、持田の手を取って指を絡ませると、軽く唇と唇を触れ合わせた。だが持田は首を横に振った。
「……夢の通りにしてもいい?」
 どんな夢を見たのだろう。同じものを見てみたくなって、唐桑は頷いた。
「夢の中では、二人とも裸だったんだ」
 持田は唐桑の寝間着のボタンに指を掛けながら言う。その指はブランケットの下で器用に動いてゆっくりと一つずつボタンを外し、肩から服を下ろし、その下の素肌を撫でる。ズボンと下着は一緒に引き下ろされて、唐桑は裸に剥かれる。
「二人とも、なんだろう?」
 持田の服は唐桑が脱がせた。そして二人とも夢の通りになった。
 二人はブランケットの中で手を繋ぎ、キスをした。途中で持田は唐桑の腰を抱いて体を密着させた。持田のそこは硬く勃起していた。
「それから……? この後は?」
 唐桑が優しく尋ねると、持田は溜め息を吐いた。
「夢でも、同じこと聞かれた。でも答える前に目が覚めた」
「どう……答えるつもりだったんだ?」
「答えたら、叶えてくれる?」
「……俺に叶えられるなら」
 持田は腰を抱いていた手を、唐桑の後ろにゆっくりと滑らせる。その手は尻を撫で上げ、双丘の間に潜り込む。
「また……貴大さんの中に入りたい」
 指先が襞に触れる。散々広げられたそこは閉じているが、まだ少し柔らかい。痛みは無かった。じんと痺れて――欲しくなる。
「それで、ずっと入れっぱなしにして、貴大さんの中を、俺の……」
 唐桑は持田に、ソファの背もたれの下の隙間の秘密を――そこに、二人が繋がる為に必要なものを隠していた事を教えた。
 二人はゆっくりと繋がって、抱き合った。
「泰河は……こんな風に男を抱くんだな」
「そうだよ……」
 俺以外には、教えないでくれ――そう囁いた唐桑に、持田は口付ける。
「……俺は全部、貴大さんのものだよ」
 繋がったままキスをして、抱き合って、汗ばんだ体から境界線が消える。
 持田は、唐桑の中に取り込まれていくようだと言った。心も体も奪われて、溶けていくようだと。
 唐桑はその時、持田の目を通して、その内的世界がそれまで以上に鮮明に見えるのを感じた。
 淫らで、優しく、幻想的な世界。二人の息遣いと触れ合う音、一つになった鼓動だけが聞こえる。
 その美しい世界で、唐桑は恋した男の愛しい体を抱き締めた。
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