嘘つき二人・後編

 俺は彼を助手席に乗せ、車を走らせた。いつもより安全運転で進めているのは彼を万が一にでも事故に遭わせたくないが為で、普段はかなりぎりぎりの速度、しかも少し強引だと言われるやり方で運転している。今日のように興奮した状態なら、もっと危ない運転になっていたかもしれない。
 興奮しているのは――これまで距離を詰めあぐねていた男、矢萩を家に連れ込むからだ。
 矢萩はどこか浮世離れした男で、男臭さの欠片もない、清潔感とおっとりとした雰囲気の漂うお坊ちゃまだ。彼は貧困家庭に育った俺とは違い実家がかなり裕福で、両親や兄弟に愛されて育った。雇われた経験もないせいか世間の荒波に呑まれた跡がなく、整っているわりに柔らかい印象の容姿を裏切らず人畜無害の善人、年も実年齢より若く見えた。
 あまり懐が大きくない上に性格が悪い俺は、生まれた時から金に恵まれている人間には反感を抱き、マイペースな人間を不快に感じるタイプだが、何故か矢萩といて少しでも嫌だと感じた事は一度もなかった。彼が俺好みの美形だからだろうか。バイセクシャルで面食いの自覚はあるが、それだけではないような気がする。会うたびに強く惹かれていくのを感じたのは、彼が初めてだった。
「散らかっててごめんな」
「いえ」
 そう答えた矢萩は本当に気にしてない風に見えたが、車内は自覚するほど汚い。まさか今日、彼を車に乗せるとは思っていなかったのだ。
 この車が綺麗だったのは購入して一か月までで、あとはボックスティッシュだの、枕だの、コミックセットだの、雑誌だの、毛布だの……果ては自転車や釣り竿、ゴルフセットまである。家はおおむね綺麗にしているものの、昔から車の中は片付けられない性質だった。起業したての頃、家賃滞納で追い出され車に寝泊まりしていたせいだろうか。何でも車に置く癖がついて、いまだに直せていない。
「賑やかでいいですね。こんなにたくさんあると」
 少しずれた矢萩のコメントに思わず笑ってしまう。嫌味ではなく、彼は本気で言っているのだ。
「今日は横に君もいるしな」
「僕も賑やかしになりますか?」
「花が咲いたみたいだよ」
 矢萩はよく分かっていない顔をしながら、特に否定するでもなく喜ぶでもなく「そうですか」と言った。
 いつも通りだ。いつも通り過ぎて、記憶喪失かどうか本気で分からない。どちらなのだろう。
 出来れば嘘であればいいと思う。軽症とはいえ事故ならあとあと後遺症が出てこないとも限らない。彼の気まぐれな冗談の方がいい。
 だが――もし、本当だったら。本当なら、チャンスかもしれない。そう思ってしまったのは、店を出た彼が本当に車に乗り込んできたからだ。いくら知り合いらしいとはいえ、実質初対面の男の車、密室の空間に入ってきたのだ。隙だらけで、まるで喰ってくださいと言わんばかりではないか。
「途中、何か買って行くか? 家にはビールと烏龍茶とコーヒーしかない」
「お気遣いなく。ああ……でも、気になっていたんですが」
「なに?」
「僕たちは友人同士なんでしょうか?」
 友人同士。そう、多分そうだろう。それくらいには親しい筈だ。俺は赤信号を見つめながら、そうだと答えようとした。だが実際に口から出てきたのは別の言葉だった。
「そうじゃないとしたら?」
「そうじゃない?」
「もしそうじゃないとしたら、何だと思う?」
「分かりません」
 信号が青に変わる。矢萩はすぐ隣にいるのが飢えた獣だとも知らず、いつも通りに何を考えているのかよく分からない顔で大人しく助手席に座っている。その手は品よく彼自身の太腿の上に置かれ、足は綺麗に揃っていた。俺は車を飛ばして今すぐ彼を手籠めにしたい衝動を抑えながら、思わず口にしてしまった意味深な言葉の始末をどうつけるか必死に考えた。
「じゃあもし、恋人だったらどうする?」
 軽い口調で――冗談っぽく聞こえる声で尋ねた。そしてしまった、と胸の内で呟く。こんなところで彼を警戒させるような言葉を口にするつもりではなかった。折角初めて店から連れ出す事が出来たのだ。これを足掛かりに、少しずつ少しずつ距離を詰めるつもりだった。彼の中にもっと食い込んで、離れるには惜しいと思うようになってもらってから、恋愛対象として意識してもらう。そのつもりだった。少なくとも、店を出るまでは。本気で今日、家に連れ込んだ彼を犯すつもりなどなかった。
「あなたが僕の恋人だったら……」
「仮にね」
 ポーカーフェイスを装いつつ運転を続けているものの、内心かなり動揺していた。まずい。かなりまずい。頭の中でサイレンが鳴り響いてる――お前はヘマをやらかした。
 矢萩はこれまで誰とも付き合った事がない――あくまで彼が言うには、だが。お試しで付き合った事もないという。誘われてもその気になれず、その気になるだろうと思った事もないという。森に囲まれた家で絵を描いて、ときどきカフェで紅茶を飲み、友人たちと数か月に一度会って、ゆっくりと暮らしていくだけで幸せなのだと言っていた。いい年だが、結婚願望どころか恋愛願望もなさそうに見える。
 『あなたが僕の恋人だとは思わない』『嘘つきの家には行けません』『あなたには興味がありません』……そんな事を言われてしまったら、立ち直れない気がする。
 矢萩はおっとりしていても無神経ではない。だからあからさまに傷付くような事は言わないだろうが、それに近い事を言われただけでも自分が傷付くだろうことは分かっていた。分かっていて、どうしてこんな事を口にしてしまったのか。
 後悔の時間がたっぷり取れる間を置いてから、矢萩はやっと答えた。
「きっと、とても楽しいでしょうね」
「た……のしい?」
 予想外の答えに、喉が引き攣って妙な声が出る。
「あなたが恋人だったら、嬉しいです」
 ――あまりに驚き過ぎて、曲がるべき場所を通り過ぎてしまった。
「本当は、どうなんですか?」
 彼が尋ねる。俺は真っ白になった頭でどうやってかルートを修正しながら、こう答えた。
「君が動揺するかと思って黙ってたんだが……恋人だよ」
 たった今、この瞬間から。
「そうだったんですか。ご迷惑をお掛けするかもしれませんが……これからもよろしくお願いします」
 彼の柔らかく落ち着いた声が、俺の心を抉る。
 そして同時に、これはチャンスなのだと、俺の狡猾で醜い部分が囁いた。

 俺の家に入った矢萩は、俺が案内するまま中に進み、勧められるままソファに腰を下ろした。そして俺がコーヒーを入れて戻った時は、失礼にならない程度にゆっくりと辺りを見回していた。
「どうぞ。インスタントだけど」
「ありがとうございます」
 L字型のソファの、矢萩から二人分の間を空けた場所に腰を下ろし、自分の分のコーヒーに口を付けようとしたとき、彼は手渡されたカップを近くのテーブルに置き、腰を上げた。突然の動きに動揺しつつ彼を見上げる。彼はなんと俺のすぐ隣――肩が触れ合いそうな程近くに腰を下ろした。
「な……なに?」
 思わずそんな間の抜けた問いを投げ掛けてしまう。コーヒーを零しそうになって、慌ててテーブルに置いた。
「恋人同士だと聞いたので」
「あ……ああ。うん」 
「何か間違ってますか?」
「いや……うわっ!」
 声を上げてしまったのは、彼がいきなり俺の手に自身の手を重ねてきたからだ。整えてはいるがごつごつと骨の目立つ俺の手と違い、繊細で美しい彼の手。その手の感触を、俺は今日初めて知った。その素晴らしい肌の感触は――俺が声を上げると同時に離れてしまった。
「すみません」
 そこで、俺の欲望は理性に敗北した。
「謝らなくていい……謝らなくていいんだ。悪かった……」
「何がですか?」
「嘘なんだよ。分かってるだろ? ……いや、分かってないんだよな。もしくは、分かってて俺を傷付けまいと合わせてくれてるのかもしれないけど」
 罪悪感で目を合わせられない。俺は頭を抱え、溜め息を吐いた。
「……僕たちが恋人同士だというのが、嘘なんですか?」
 俺は頭を抱えたまま頷いた。馬鹿だ。どうせ嘘を吐くなら吐き通せば良かったものを。
 矢萩以外が相手ならもっと上手く立ち回れる筈なのに、やっと回ってきたチャンスを自ら潰してしまった。正直なところ泣きそうだった。最悪だ。
「それは知ってました」
 平然とした声で彼が言う。俺は顔を上げた。
「…………知ってた……?」
「はい。最初から」
「なら……やっぱり、記憶喪失っていうのは嘘だったのか」
 矢萩は俺を見つめながら首を横に振った。
「本当ですよ。でも、嘘は吐きました」
「どういう……?」
 どこでどんな嘘を吐かれたのか全く見当がつかなかった。俺と恋人同士だと嬉しいと答えたところでなければいいと、切に願う。
「嘘というか……あなたの事を知らない振りをしたのは、演技です」
「……記憶喪失の期間か?」
「いえ、それも本当です」
「なら、何でだ?」
「日記に書いてあったんです」
「日記?」
「僕が十歳の頃から書いている日記です。あなたと会った日の事も書かれていました。思い出す事が出来ない最後の日から事故の前日までの日記を、僕は全部読んだんです。だからあなたと話した事は殆ど知っています」
 にわかには信じがたいが、もはや疑う意味もない話だった。
「俺の事を知らない振りをした事以外に……嘘は?」
 矢萩は考え込むような顔をして、こう答えた。
「いつか言った、犬アレルギーだというのも嘘です」
 絶望的な答えだった。つまり彼は、俺の家に上がりたくないが為に嘘を吐いたのだ。
「そう、か……」
「本当は小型犬が怖いんです」
「え?」
「昔、血が出るまで噛まれた事があって」
「……本当に?」
「本当です。しかも、あなたが飼っていたのと同じ犬種でした。可愛いと思ったのは本当でしたが、噛まれるのは怖かったんです。僕の身体が緊張していると犬にも緊張が移るせいか、小型犬にはよく吠えられるし、最初に噛まれた犬以外にも何度か噛まれました。でも犬が怖いというと、大抵うちの犬は大丈夫だからと言われるんです。だから僕は犬アレルギーだと嘘を吐くようになりました」
「俺は……無理矢理会わせたりしない」
「分かってます。でも、いつもそう嘘を吐いていましたから」
 俺と二人きりになるのが嫌で嘘を吐いたわけではないらしい――少なくとも、矢萩は俺にそう思って欲しいと考えている。
 彼は少し不安げな様子で俺をじっと見つめた。
「怒っていますか? もう嘘はありません」
「いや……まさか。怒るわけない。俺は君に腹を立てた事なんてない」
「良かった」
 矢萩は微笑み、もう一度俺の手に自身のそれを重ねた。今度は両手を。
「僕はあなたの事が好きです」
「そう……俺もだよ」
 一瞬都合のいい意味に捉えかけて、友人としてという意味だと思い直し、そう答える。どちらにしろ答えは一緒だったのだが。
「本当の恋人になって欲しいという意味です」
「……俺にとって?」
「いえ、僕の好きの意味です。あなたにとってもそうであればいいと思っています」
 これは夢なのか、現実なのか。俺は全く回らない頭で彼をじっと見つめ、それから慌てて頷いた。すると彼はゆっくりと俺に顔を近付け――そっと俺にキスをした。
「隔週水曜日だけ、僕の日記はとても長くなって、そこにはあなたの事ばかり書かれているんです。僕はあなたと過ごした時の事を覚えていませんが、とてもよく知っています。あなたがどれほど僕に優しく、どれほど魅力的で、どれほど僕を惹きつけていたのか。今日あなたに会うより前に、僕は日記の中のあなたに恋をしていました。そして今日あなたと実際に話して――僕は、日記の中の僕が感じていたように、あなたが僕の恋人だったらいいのにと思いました」
 言葉を無くした俺に、矢萩はゆっくりとそう愛の言葉を紡いだ。
「……恋人だ」
 感極まって俺の目から一粒流れた涙を、彼がそっと拭う。格好を付けたいのに涙まで流してしまった事が恥ずかしくて笑うと、彼も優しく笑った。
「今日の日記にもそう書いておきます」
 忘れる事はありませんが、と付け加えた彼の声も、その表情も、手の温もりも、俺はきっとこの先ずっと、忘れる事は決してないだろうと思った。
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