嘘つき二人・前編

「記憶喪失?」
 男は訝しげな声で尋ね、それから一拍置いてその顔に大きな笑みを浮かべた。大き目のパーツがバランスよく収まった顔は、自信に満ち溢れたプライドの高い青年実業家といった印象から一転、人懐っこい犬のような愛嬌のある印象に変わった。
「君が冗談を言うところ、初めて見たな」
「それが、冗談ではないんです」
 僕が答えると、男は「うんうん」と頷き、ちらりとテーブル上のメニューに目を落としたかと思うと、すぐに店員に向かって手を挙げた。そして日替わりのケーキと紅茶のセットを頼み、そのセットの十五分後に<春のいちごパフェ>も持ってきて欲しい、と付け加えた。
 男――土谷はいつも通りに素早く注文を済ませると、僕の方に顔を戻し、頬杖をついた。
「それで、どのくらいの記憶がないの?」
「ここ数年の記憶が無いんです」
「全く?」
「はい。事故直後は自分が誰かも分からなかったので、大分落ち着いた方なんですが」
「事故?」
 土谷はそこでその顔から笑みを消し、じっと僕を見た。
「いつ?」
「ひと月前の今日です」
「そう……じゃあ、俺と会った後か。体は大丈夫?」
 土谷は冗談か本気か、測りかねているのだろう。躊躇いがちに、しかし本気で心配しているのだと分かる声音で尋ねた。
「はい。元々酷い事故ではなかったのでもう痛みも目立った傷もありませんし、残っているのも記憶障害だけです。なのでどうぞ、ご心配なく。僕自身もそれほど気にしていませんから」
「でも、治療中なんだろ?」
「治療?」
「記憶喪失の」
「定期的に検査は受けますが、特に治療は受けていません。戻るかもしれないし、戻らないかもしれないという事で、あとは様子を見ようと言われました」
「そんなものなのか」
「僕の場合はそのようです」
 土谷は安堵したようにほっと力を抜いた。
「どんな事故だったんだ?」
「聞いた話によると、歩いているところを曲がり角から現れた車に撥ねられたそうです」
「車に? 酷い事故じゃないか」
「スピードが出ていなかったので……記憶障害が出たことを除けば、擦り傷程度でした。そもそも、僕じゃなかったら撥ねられてもいなかったと思います」
「ああ……あっ、いやいや、何にしろ車が悪いだろ。君なら信号無視なんてしないだろうし」
 土谷は一瞬納得したように頷きかけ、慌てて誤魔化した。
 僕が良く言えば『おっとりしている』もしくは『優雅』なタイプで、悪く言えば『とにかくとろい』タイプである事を彼は知っている。歩くのも遅ければ話すテンポも遅く、おまけに外界の刺激に対して反応がかなり鈍い。その為、僕に対する人の評価は主に二つに別れる。あなたといると毒気を抜かれる、癒されるといったプラスの評価、もしくは無性に苛々して仕方なくなるからもう少し何とかしろ、といったマイナスの評価のどちらかだ。
 目の前に座る土谷は前者だろう。実際、君と会うこの時が唯一の癒しの時間だと言われた事がある。
「それにしても……、記憶喪失なら、俺がここに座ったとき困っただろう。いきなり知らない男が向かいに座ってきたんだから。まぁ、どっちにしろ今更別のテーブルに移る気は全く無いんだけどな。いいだろ、いても?」
「構いませんよ」
 実際、構わなかった。僕はこのカフェに入る前から、彼がこのテーブルまでやってくる瞬間を心待ちにしていたのだから。
「ありがとう。……でも、俺の事は本当に全然覚えてない?」
「覚えていません」
「そうか。じゃあ俺たちがどんな関係か気になる?」
「そうですね」
 そこで注文の品がやってきた。土谷が訪れるほんの少し前に頼んでいた僕のケーキセットと、土谷のそれだ。この店は紅茶はそれぞれポットで提供するが、最初の一杯だけは目の前でカップに注いでくれる。僕は喉を潤し、土谷はケーキを半分ほど食べてからまた話し始めた。
「出会ったのは一年前。君はその前からの常連客で、俺は一年と少し前に偶然この店に入って気に入って……三回目に君からナンパされた」
「ナンパ?」
 土谷は悪戯っぽく笑いながら、「そう、ナンパ」と答えた。
「その日、俺と君は殆ど同時刻に店に入った。その日は珍しく混んでて……俺は満席だと言われたんだが、君は予約していたから二階のこの席に案内されようとしていたんだ。君は俺が追い出されるのを哀れに思って、同席を申し出てくれた。で、俺は遠慮しないタイプだし、君は一緒にいて不快になるようなタイプじゃないと一目見て分かったから、ありがたくその申し出を受けた。うん、今日のケーキも絶品だな」
 土谷は満足げに笑みを浮かべた。この店は紅茶が売りの店だが、彼は紅茶にはそれほど興味がなく、毎日この店で手作りしているというケーキやスコーンといった洋菓子を楽しみにしている。舌が肥えた彼を満足させてくれる貴重な店なのだという。
 僕もケーキを一口、口に運んだ。甘酸っぱい苺ソースのタルトは、なかなかに美味しい。
「その日、君と同席してあまりに楽しかったんで、テーブルの空きがあった次も俺は君に声を掛けて、一緒させてもらった。それからだな。隔週日曜の15時に来る君に合わせて、俺も同じ日の同じ時間に来るようになった。今日と同じようにな。たまに仕事が立て込んでて来れない時もあるが、君は携帯を持ってないし、そういう時は連絡しなくていいと言っていたから、先々週行かなかったときも連絡はしなかったな。……そういえば、君は今日どうしてここに? ここ数年隔週で通ってた、って記憶はないんだろ?」
「家に来られた配達の方から教えて頂いたんです」
「配達の人から?」
「記憶のない荷物だったから、事故の事を話してみたんです。その荷物は毎年この時期に野菜を送ってくれる親類からだったので、彼はいつもこの時期に送られてくる荷物だと教えてくれたんです。そして、『そういえばいつもカフェに行かれるとかで、留守にされてる時間がありますよ』と」
「彼がこのカフェの事を知ってたのか?」
「いえ。彼から聞いた後、電話帳に載っていたそれらしき名前のカフェの番号にかけてみたんです。そうしたら、店の方が僕の事を覚えていらっしゃって」
「それで来てみたんだな」
「はい。電話に出られた方に、実はあなたの事も伺いました。いつも同席になる方がいると」
「なんだ。来ることは分かってたのか」
 分かっていたのは、店に電話をする前からだ。僕はそう思ったが、口にはしなかった。
「君はおっとりしてるから、君が記憶喪失になってるなんて、少し話したぐらいじゃ気付かないだろうな」
「よく言われます」
「よく?」
「父とは何度か話しましたが、いまだに気付いていませんし、母方の祖母は信じていません」
 土谷はくっくっ、と肩を震わせて笑った。
「正直に言うと、俺もどっちか分からない。今日がエイプリルフールじゃなかったら、無条件に信じたんだろうが。ごめんな」
「いえ。でも、どうしてなんでしょうか」
「そりゃ、君が困って見えないからだろ。しかも気にしてないなんて言うし」
 確かに、納得出来る理由だ。でも。
「気にしてないっていうのは、実は嘘なんです」
「そうなのか? そうか、仕事もあるからな」
「仕事は問題ありません。ちょうど完成していて、あとは受け渡しだけの状態でしたし、顧客とのやり取りはメールで行っていましたから」
 僕はそれほど売れてはいない、しかし職業として名乗れる程度には仕事をしている画家だ。住んでいる家は実家の持ち物で、いつの間にか僕のものになっていた土地の収入もあり、金銭面で問題があった事はない。ゆっくりと仕事をし、何となく生きている人間だ。
「じゃあ、主に何で困ってるんだ? 俺が手伝える事なら何でもするぞ」
「いいんですか?」
「ああ。そのケーキを半分貰えるならな」
 日替わりのケーキは三種類から選べる。彼はミルフィーユを、僕はタルトは選んだ。ちなみに僕が食べたのは一口だけで、彼の方はというと既に皿が綺麗に空になっている。崩れやすく食べづらいこの店のタルトを、彼は器用に食べ切った。
「どうぞ」
「本当にいいのか? 半分だぞ?」
「構いません」
「君はいつもそう言うよな」
 そうだ。僕はいつも半分で満足して、あとの半分は少し無理をして食べていた。二回目に席を一緒にした際に、彼に美味しいかと聞かれて正直に答えて以来、僕が頼んだ半分はいつも彼の胃に消える事になっていた。
 土谷は僕のフォークでケーキを半分に切ると、「それではありがたく」と言って半分を一口で食べた。
「それで……何に困ってるんだ?」
 土谷はさりげなく僕のカップに紅茶を注ぎながら尋ねた。僕はそのカップから紅茶を一口飲み、少し考えてから答えた。
「あなたと少し話してみて、ずっと前から知っているような気がしました」
「へぇ」
「そしてとても好ましい方だと感じましたが、一緒に過ごした記憶が無いので困っています」
「…………うん? ああ! なるほど、俺がこんなに良い人で一緒に過ごしてて楽しいのに、一緒に過ごした記憶が無いのが寂しいって意味?」
「そういう事です」
「なるほどな」
 そこで、僕からすると胃に入る事自体が驚きのサイズのパフェを持った店員が二階に上がってきた。二階には三つテーブルがあり、そのうち二つは空きの状態なので、もちろんそれは土谷の注文したパフェに他ならない。
 通常このパフェにはスプーンがテーブルの人数分提供されるが、僕たちの事を熟知している店員は土谷にだけスプーンを渡した。
 土谷は食べ始める前におしぼりで手を拭き、パフェに刺さっていた三角形の薄いクッキーを手に取って、僕の方に差し出した。
「あーん、して」
 僕は言われた通りに口を開いた。彼は手にしたそれを僕の口の中にそっと差し入れ、にこりと笑った。
「食べていいよ。俺たちはいつもこうしてるんだ」
 そう、僕はいつも彼にこうやってこのクッキーを食べさせてもらう。まるで恋人同士のように。
 僕は咀嚼し、呑み込んだ後、彼をじっと見つめながら尋ねた。
「どうしてですか?」
「君がああやって、ぱかっと口を開くのが可愛いから」
 僕がクッキーを一つ食べ終わるまでに、土谷は巨大なパフェの五分の一を既に消してしまっている。これでもゆっくり食べている方だと言うが、ケーキを一つと半分既に片付けた後でこの速度は、十分早食いの部類に入るだろう。
「俺との記憶が無くて寂しいなら、俺の事を知りたいって思ってる?」
「はい」
「どれくらい?」
「とても」
「そうか」
 それで、土谷はパフェを食べながら、僕に彼自身の事を語った。
 曰く、彼はアクセサリー販売会社の社長である事。今指にしている指輪は彼の会社が作ったものだが、実は彼自身はそれほど装飾品に興味は無いという事。僕と同い年の三十三歳で、独身、彼女はいないという事。この店から車で一時間ほどの場所に本社があり、住んでいるマンションは十五分ほどの所にあるという事。ジムで毎日一時間は泳いでいて、今はそれなりに引き締まった体つきだが、子どもの頃は肥満体形だったという事。仔犬を一匹飼っていて、写真を見て可愛いと言った僕に見に来ないかと家に誘い、アレルギーがあるからと断られた事があるという事。その仔犬は姪っ子にねだられた上、仕事が急に忙しくなり散歩が疎かになってきた為、今は姉夫婦の家で飼われているという事。そして土谷はその仔犬に会いに週一で姉夫婦の家に訪れる為、姪っ子はかなり懐いているが、姉には煙たがられているという事……。
 そんな話をしているうちにパフェグラスが空になり、土谷が追加で頼んだ春野菜のグラタンも彼の胃に消えた頃、彼はふとこう尋ねた。
「記憶喪失の人によくあるイメージなんだけど、こういう風に話してて、疲れたりする?」
「いいえ」
「そっか。何か思い出した?」
「何も」
「残念だな。それで……俺の話を聞いて、満足した?」
 僕が首を横に振ると、土谷は少し考えるように窓の外に目をやって、それから冷めた紅茶を一口飲んだ。
「じゃあこの後、俺の家に来ないか?」
「家に、ですか?」
「ああ。ゆっくり話せるだろ? それに一昨日ハウスクリーニングに入ってもらったから、犬の毛も落ちてないだろうし」
「いいんでしょうか」
「俺は大歓迎だよ。君の家でもいいけど、三十分はかかるって聞いてたから……どうする?」
 それで、僕は彼の誘いに応じる事にした。
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