殺意・後編

 それから半年ほど経った、ある雨の日。
 携帯に見知らぬ番号からの着信が残っていた。折り返してみると、電話の主は半年の間全く音沙汰が無かった人物からだった。
『夕飯は食ったのか』
 挨拶も名乗りもなかった。「いや、食べてない」とだけ答えた。
『何時に帰る?』
「十時までには帰るよ」
『分かった』
 通話が切れた。
「今日、例の店に一人分で予約入れてなかった?」
 携帯をポケットに戻していると、近くで作業していた同僚が声を掛けてきた。昼間、弁当の予約を入れるときにも傍にいた五十代の女性だった。
「入れてましたね。今日も一人だと思っていたので」
「もしキャンセル入れるなら私が代わりに買いに行っていい? さっき、旦那から急に飲み会に行くことになったって連絡が入ったのよ」
「ああ、じゃあお願いします」
「ありがとねぇ」
「いえ、こちらこそ。助かります」
「彼女さんと仲良くね」
「ええ。……ちなみに、どうして彼女からだと?」
「だって、笑ってたから。それにしてもびっくりだわ。うちに入った独身の女の子は皆一度はあなたの事を好きになったのに、だーれにも靡かないもんだから、仕事が恋人ってタイプなのかと思ってたのよ」
 生活に彩りがあるっていいことよねぇ、と言って彼女は笑い、作業に戻っていった。間近に迫った特別展の最後の仕上げを今日中に済ませる予定なのだ。長々と無駄口を叩いている暇は彼女にもこちらにもない。
 職場を出るまで常盤の事は考えなかった。


 常盤は十時ちょうどにやってきた。半年前よりも日に焼けた肌をしていて、スーパーの袋を持つ手がやや逞しくなっていた。シャワーを浴びて着替えも済ませてきたらしく、赤っぽい茶色に変わった髪と体からは清潔な香りがした。
「久し振り」
「……どうも」
 『どうも』? 妙な感じだった。常盤はこちらからすっと視線を外し、さっさとキッチンの方へと歩いて行く。途中、抽象画から風景画に変わった壁の絵と、買い替えたパソコンの方を一瞥したのが分かった。
「僕は風呂に入ってるから」
 返事はなかった。別に許可を求めたわけではなかったので気にせずに浴室へと向かった。
 風呂から上がり髪を乾かしてから戻ると、ちょうど常盤が配膳をしているところだった。
「驚いたな」
 テーブルには華やかな料理が所狭しと並べられていた。海老とアボカドのサラダ、タコときゅうりの酢の物、焼き鳥、鯛の刺身、アスパラベーコン巻き、焼き飯……。
「酒は?」
「僕は飲まないんだ。君は好きにしたらいい。キッチンの棚に貰い物の日本酒とビールがある」
「あんたが飲まないならいい」
 テーブルに就いて食事を始めた。料理の出来は客観的にもなかなかのレベルで、素直に美味しかった。
「焼けたな。外で働いてるのか」
「工事現場」
「料理の腕はどこで上げたんだ?」
「夜は居酒屋で働いてる」
 どうやら掛け持ちで働いているらしい。
「疲れるだろ」
「別に。どうせ明日で辞める」
 院を出てからはずっと同じ職場で働いているこちらと違い、常盤は職をめまぐるしく変えているらしい。髪の色と同じように飽きてしまうのだろうか。
 相変わらず早食いの常盤は話の合間にも皿を次々に片付けていった。そしてあっという間に食べ終わるとソファに片足を立てて横たわり、何をするでもなく天井をじっと見上げて黙り込んだ。
「今日は泊まっていくか? 明日も仕事なんだろ」
 常盤は答えなかった。
「客用のベッドも布団もないんだが、廊下の収納の下段の棚に新品の毛布と枕を置いてる。歯ブラシは洗面台の横の棚に買い置きがある。他に必要なものがあったら好きなようにしていい」
 常盤は無言のままだった。彼が再び口を開いたのは、こちらが食事を終え、片付けも済ませた後の事だった。
「あれ、いくらだったんだ」
「あれ?」
「……パソコンと皿と絵」
「聞いてどうする? 弁償でもする気なのか?」
「金なら持ってきた」
 そう言って常盤は体を起こし、ジーンズのポケットから封筒を取り出した。
「それなら受け取る理由のある金だろ……足りない分は今度持ってくる」
 差し出された封筒を開けてみると、三十万入っていた。三十万――あのパソコンはソフトを含めて十七万、皿は七千円、絵は二万円だった。
「足りないな」
「あといくらだ?」
「迷惑料も含めて二十万」
「……分かった」
 封筒に金を戻し、常盤に差し出した。訝しげな顔をする彼に、
「五十万円分の労働と料理で埋め合わせてくれ。前の分はそろそろ使い切っただろ」
 そう言うと、常盤は暫く封筒を持つ手を見つめた後、無言で受け取った。
「じゃあおやすみ。僕より後に出るなら鍵を閉めて行ってくれ。合鍵はそこの棚の一番上のケースに入ってる」
 返事を待たずに洗面所に行き、歯磨きを済ませてそのまま寝室に入った。常盤の顔は見なかったが、音と気配で判断するに出て行った様子はなかった。
 翌朝目覚めてリビングに出ると、ダイニングテーブルの上に朝食が置いてあった。目玉焼きとベーコンに、レタスとミニトマトだけの簡単なサラダ。既に常盤の姿はなく、合鍵もそのままの場所にあった。
「宿代のつもりか?」
 朝食を取るのは久し振りだった。出張に出ている時以外に食べるのは数年振りかもしれない。
 コーヒーを入れてゆっくりと食事をし、仕事に出た。


 常盤はそれから一か月、ほぼ毎日やってきた。十時過ぎに食事が終われば泊まり、それ以前に片付けば泊まらずに帰った。朝は早く、ただの一度も顔を合わせなかった。シャワーを済ませてからやってくる上にトイレを使う様子もないので、常盤が借りるのはソファと毛布、それに歯ブラシだけだった。
「一部屋空けようと思うんだ」
 ある日の夜、食事をしながら切り出した。
「あける?」
「君の部屋にどうかと思って」
「……俺の部屋?」
「毎日通うのは面倒だろ。ここに住めば少しは楽になるだろうから」
 常盤は言葉をなくしているようだった。箸を持つ手が止まっている。
「それに、もうすぐ五十万を使い切る頃だろ? 家賃と光熱費と水道代は僕が負担するから、君は食事を作ってくれ」
「…………」
 常盤は呆然とした表情で固まった後、何やら考え込み始めた。向こうがそんな様子だったので、珍しくこちらが先に食べ終わってしまった。さてどうするか、と迷い、常盤が食事を終えるまで向かいで待つことにした。
「……何だよ」
 視線に気付いたらしい常盤が、手を止めて言った。
「何って、君を待ってる」
「風呂にでも行けばいいだろ」
「食べてすぐに? 消化に悪い」
「仕事でもすれば」
「今日はしない」
「……どうでもいいから……、見るな」
「どうして?」
 常盤は答えなかった。じっと見つめ合い続け、先に目を逸らしたのは彼の方だった。彼はまだ中身が残ったままの皿を重ね、席を立ち、キッチンのゴミ箱に残飯を捨てた。
「勿体ないことをするんだな」
「あんたのせいだろ」
 思わず口元を緩めてしまう。気付かれただろうか。いや、常盤は食器洗浄機に皿を入れるのに忙しい。
「明後日が休みなんだ。午前中のうちに片付けてしまうから、明後日の夜は部屋で寝られるよ。注文したベッドもその日に届く」
 キッチンから返事は聞こえてこない。それでも、常盤がずっとこちらに耳を澄ましていたのは分かっていた。
「もしその部屋が気に入らなかったら、君の好きなところで寝てくれて構わない。あのソファでも、どこでも」
 常盤は黙ったままで、食器洗浄機が動き出す音も聞こえなかった。
「じゃあおやすみ。良い夢を」
 洗面台に向かう道すがら、キッチンに立っている常盤にちらりと目を向けた。常盤は水に濡れた自分の片方の手の甲に目を落としていた。俯いたその顔から表情を読み取ることは出来なかった。


 二日後の夜、常盤は家に来なかった。三日後も、四日後も、その次の日も連絡すらしてこなかった。
 六日後の夜、家に帰ると玄関に常盤の靴があるのに気付いた。常盤の為に空けた部屋のドアは閉まっておらず、薄暗い部屋の中で、整えておいたベッドの上に彼が横たわっているのが見えた――そしてベッド横の旅行用鞄も。
「ただいま」
 天井を見つめていた目がこちらを向いたかと思うと、彼は音も立てずに身を起こし、部屋から出てきた。半袖の黒のシャツに、スウェット生地のズボン。シャワーを浴びたらしく、髪が少しだけ湿っていた。
「もう出来てる」
「へぇ、嬉しいな」
 常盤は二人分の食事を温めた。デミグラスソースのオムライスにオニオンスープ、ロメインレタスのサラダ――最近では、常盤の料理はその辺りのレストランで出ている料理と遜色ないものになっていた。食事の間、常盤は一言も喋らず、一度もこちらに目を向けようとしなかった。そしてこちらが半分片付けたところで食べ終わり、いつものように片付けに入って、その後はソファに座ってこちらが食べ終わるのをじっと待っていた。
 こちらが皿を片付けにキッチンに立ったところで彼も立ち上がり、部屋に戻っていった。すぐに出てきた彼は洗面所で歯磨きを済ませ、また部屋に戻っていった。一旦ドアが閉まると、部屋からは物音一つ聞こえてこなかった。

 常盤が部屋から出てこないので、ドア越しに「おやすみ」と声を掛け、照明を消して自分の寝室に入った。家はとても静かで、すぐに眠気が襲ってきた。
 それから――どれくらい経った頃だろうか? ふと目を開けると、ドアが開いているのが見えた。そこには男が立っていた――常盤だ。
 殺しにきたのか、それとも。本気で判断に迷った。だが、別にどちらでも構わなかった。
「おいで」
 ベッド脇のライトを点け、薄い橙色の光の中で彼が近付いてくるのを待った。
「ベッドの上に来るくらい、君にだって出来るだろ?」
 まず左膝が、それから右手がベッドに乗った。右手を取って引き寄せる――抵抗は殆どなかった。間近で彼の顔を見ると、アルコールでも入っているのかと疑うほどぼんやりとした覇気のない表情で、思わずはっとするほど無防備な目をしていた。
 『あんたの顔を覚えた』――そう言った彼の姿とは決して重ならない姿。まるで別人のような顔。
 その体を押し倒しても、常盤は逃げ出そうとはしなかった。服を脱がしても抵抗一つ見せず、唇を重ねても全く反応が無かった。その口からようやく声が漏れたのは、脚の間、きっと誰も受け入れたことがなかっただろう場所に、やや荒っぽくペニスを押し込んだときのことだった。
 呻き声を漏らした口はすぐに彼自身の手によって塞がれ、その下で唇をきつく噛んだのか全く何も聞こえなくなった。ただ、鼻から漏れる息は彼が強い痛みを感じ、それに必死で耐えていることを教えてくれた。
 彼はこちらを見ていなかった。顔を背け、羞恥心も快楽も怒りも恐怖もなく、ただ痛みだけを感じようとしていた。
「したくないなら……どうしてここに来たんだ?」
 答えはない。腰を動かして彼の体を揺らしても、常盤は顔を背けたままだった。
 動きを止め、彼の口から手を引き離した。
「こっちを見ろ」
 はっきりと告げると、彼は自信なげに瞬きをした。その顔には汗が浮いていた。
「僕を見ろ」
 そして、常盤はやっとこちらの方へ顔を向けた。視線がかみ合う――常盤は一瞬、パニックに陥ったような目をした。まるで自分がどうしてここにいるのか、どうして体を貫かれているのか――現実を受け止めきれずに、恐慌状態に陥っていた。だがそれは一瞬のことで、ごくりと唾を飲み込んで瞬きを一度した後、彼は自分の置かれている状況を完全に理解した。そしてそれが自分の招いた事態であることも。
 常盤の額から汗が流れ落ちる。濡れた前髪が邪魔そうだったので、手で後ろに流してやった。常盤はじっとこちらを見つめ続けていたが、目つきからは敵意や強い意思は感じられなかった。ただ視線を外すことが出来ない為にそうしているように見えた。
 キスをした。ゆっくりと、優しく唇を重ねた。常盤は目を開けたままで、無反応だった。一度唇を離し、至近距離で見つめた後に、また唇を重ねた。何度も何度もそうしているうちに、彼は反応を示し始めた。体が浅く波打つように動き、その手はこちらの耳や、後頭部、肩に触れた。彼はすがりつくものを探していた。
 顔を離して、頬を撫でる。上気した肌は滑らかで、汗で光沢を帯びていた。
「僕を見てるんだ。ずっと、終わるまで。出来るだろ?」
 繋がったままの場所に潤滑油を足し、濡らした指で限界にまで広がった縁を撫でた。そうしながら彼の膝に口付け、引き締まった腹筋や胸、肩を隅々まで目で堪能した。美しい体だった。汗ばんだ、日焼け跡のある体。その体の持ち主は、今自分が鑑賞されていることを感じている。
 ゆっくりと腰を動かし始めると、常盤は痛みを感じたらしく眉間に薄く皺を寄せた。しっかりと反応を示している彼のペニスを擦ってやれば、すぐに快楽が痛みに勝ったらしく、今度は口から濡れたような吐息が漏れた。唇を噛もうとした彼にキスをして、手のひらで押さえることも出来ないように手首を押さえた。体重を掛けるつもりはなかったが、もう一方の手は彼のペニスを愛撫しているところだったので、結果的にそうなった。
 終わりが近付くと、常盤は泣き出しそうな顔をした。不安げな目つき――だがこちらから目を逸らすことはなく、最後の瞬間も目が合ったままだった。彼は自分の奥深くで脈打つペニスと、手首を掴む手の感触、見下ろす視線、顔に吹きかかる吐息、汗ばんだ二人の体のにおいを感じながら達した。掴んでいない方の手はシーツをきつく握り締めていて、彼の瞳からは涙が流れ出た。
 常盤の中はまるで精液を吸い取ろうとするかのように動き、ペニスをきつく締め付けていたので、彼が落ち着くまで待てなかった。まだ震えている彼の体を何度か揺さぶって、彼の体の中に――もちろんコンドーム越しにではなるが――熱を吐き出した。
 荒く息をしている常盤の体を、顔を見下ろし、ゆっくりとペニスを引き抜いた。血は出ていなかったが、常盤はやや苦しげに息を詰めた。
 後処理を終えてすぐ、常盤はベッドを降りて部屋からも出た。浴室の方からシャワーを使う音が聞こえてきたので、さっとシーツを変え換気の為に窓を開けた。五分ほどして、足音から判断するに浴室からキッチンへと移動した男と入れ替わりにシャワーを浴び、着替えてリビングの方へと出た。
 常盤はソファに腰掛けていた。グラスを両手で持っている。日本酒かと思ったが、飲み方から判断するに単なる水のようだった。
「酒は飲まないのか」
 冷蔵庫で冷えていた炭酸水を持ち、普段食事を取るときに使う椅子をソファの方に向けて座った。常盤はゆっくりとこちらに視線を向け、すぐに顔を背けて俯いた。
「……俺一人で飲んでどうするんだよ」
「酔った君がどうなるのかが分かる。気になるな」
「絶対飲まない」
「残念だ」
 カラン、と常盤のグラスの中の氷が音を立てる。喉が渇いていたらしく、水は殆ど残っていない。
「注いでこようか?」
 常盤は軽く首を横に振った。その顔を見て、何故かまた泣き出すかもしれないと思った。喚き散らすような泣き方ではなく、奥底から溢れた涙が目からじわりと漏れ出してくるような泣き方……。
「さっき、君が来たとき。僕を殺しにきたのかと思った」
 カラン。また音が鳴った。常盤は何も言わなかった。
「そろそろベッドに戻ろうか。おいで」
 常盤は顔を上げた。表情を見る限り、終わった筈の行為を蒸し返すような言い方をしたことに神経を逆撫でされたか、子ども扱いされたことに腹を立てているかのどちらかだった。
「……あんたは、いてもいなくても……殺してやりたくなる」
 いてもいなくても。それだけ切り取れば突き放すような言葉だが、今は情熱的な響きを持った言葉として耳に響いた。
「会わなかった時期も、僕のことを考えてたのか」
 立ち上がって椅子を元通りに戻した。常盤はまだ立ち上がらない。
「……そうだよ。ずっとあんたのことを考えてた。別にそうしたくてそうしてたわけじゃない。あんたが頭から離れなかったから……」
 常盤に手を差し出した。振り払われるかもしれないと思ったが、常盤はその手を取った。立ち上がらせて、腰を取り、キスをした。
「あんたのことを考えるのが嫌なんだよ」
 唇を離してすぐ、常盤はそう小さく呟いた。
「一緒にいてもいなくても君の気分を害するっていうんなら、僕にはどうしようもないな」
 常盤は溜め息を吐いた。疲労と諦念がその目に見えた。指先で軽く髪を梳くように彼の頭を撫でた後、手を引いて寝室に戻った。常盤は従順で、ベッドに横たわって掛け布団の下に収まったが、朝起きると姿を消していた。彼がいた筈の場所は冷たく、夜のうちに抜け出していたのは間違いなかった。

 消えた同居人はリビングのソファで丸くなっていた。毛布の下にはいたが眠ってはおらず、近付いてみるとはっきりと開いた目でこちらを見上げた。白目が充血していて、目の下にはうっすらと隈が出来ている。昨夜の疲労がそのまま残っているようだ。
「眠れなかったのか」
 常盤は返事の代わりに溜め息を吐き、一拍置いてから体を起こした。
「すぐ作る」
「いや、今朝はいいよ。コーヒーは? デカフェの豆があるんだ。僕の分のついでに君の分も淹れていいか?」
 答えが無かったので、勝手に淹れた。といっても九割九分の工程をコーヒーメーカーに任せたのだが。
 マグカップに入れたコーヒーをソファ横のローテーブルに置き、立ったまま自分の分のコーヒーを飲み始めた。常盤は暫くしてコーヒーを取った。
「今日は仕事か?」
「午後から面接」
「何の?」
「塗装」
「そうか」
 常盤はコーヒーを三口ほど飲んだ後、自分の部屋に引きこもった。眠っているかもしれないと思ったので、声を掛けずに家を出た。


 共同生活は、常盤との関係を考えればそれ以上望めないほど上手くいった。
 常盤はあれこれ文句を言う性質ではないらしく、こちらの習慣やリズムを変えるような事を指図してきたり、仕事の疲れをぶつけてきたりすることもなかった。仕事でこちらが家に戻らないときも友人を連れ込んだり羽目を外したりする様子はなく、むしろ家事や宅配便の応対を進んでこなし、家を普段の状態に保ってくれた。
 仕事がないときは大抵自室にこもっているかソファに寝転んでいて、後者であっても自分からリビングのテレビを点けることは滅多になかった。誰かと電話をしたり、以前そうしたように大音量でゲームをしたりすることもなく、借りてきた猫のように静かで大人しくしていた。
 初めは無理をしていた部分もあったのだろうか? もしそうだったとしても、半年経った今も出て行かずにいるということは、多少は慣れたということだろう。
 食事について――夕食は必ず用意された。手間をかけたものもあればそうでないものもあり、出来立てのときもあれば前日の作り置きのこともあったが、常盤は律儀に毎日用意してくれた。朝食と昼食はそれぞれ週に一回程度、気まぐれに出されることがあった。
 他の家事は互いに好きなようにやった。洗濯に関しては乾燥機付きの洗濯機の使用時間帯を決めればいいだけだったし、掃除は元々気分転換に週一でやっていたのが、常盤も同じように週一回するようになったので計二回に増え、他の雑事は手の空いている方がやる、という感じだった。
 常盤はおおむね理想的な同居人だったが、ただひとつ、同居人としての資質を客観的に評価した場合に大きなマイナス点になりそうな部分があった――真夜中の訪問だ。
 週に一度か二度、平均的な人間ならとっくに眠っている時間に、ふと小さな音が聞こえる。夢うつつの中、開いたドアの先を見る。そこに立っている男を見るたび、今度こそ殺しにきたのだろうかと思う。その男は呼ぶとやってきて、従順に体を開き、殺すどころか随分と気持ちよくしてくれる。その体は温かく、引き締まっていて、無駄がない。常盤は完璧だった。だから朝目覚めて、彼の体がとうの昔にベッドから抜け出してしまっていることに気付くたび、心から残念に思った。
「たまには」
 ある日、彼が抜け出す気配を感じて目を覚まし、ベッドから降りてしまう前に手を掴んだ。時計の針は二時を指していた。
「朝までいてもいいんじゃないか」
 軽く引っ張ると、常盤は大人しく戻ってきた。引き寄せて腕に抱いてみても突き放されはしなかった。だがその体には力が入っていて、とても今から寝直すような雰囲気ではなく、こちらを見る目は大きく開いたままだった。
「僕は寝相が悪いか? いびきでもかいてたなら謝るよ」
 常盤は何も答えない。ライトを点けた。薄暗い光が常盤の顔をぼんやりと照らし出す……。
「それとも、あんまり一緒にい過ぎると僕を殺したくてたまらなくなるから?」
 常盤は暫くの間黙ったままだった。もうこのまま寝てしまおうかと思っていたとき、ようやく口を開いた。
「あんたに出会いたくなかった」
 茶色に、赤に、黒に、金に、そしてまた茶色に変わった髪を軽く撫でた。常盤の髪は少し傷んでいる。心はどうだろうか?
「俺がどう思ってても……あんたは気にしないし、どうだって構わないんだろ」
「今はどう思ってるんだ?」
 返答までにかなりの間が空いた。しかも、ようやく聞こえてきた声は音というより吐息に近かった。
「……あんたに飽きられたくない」
 その言葉を口にしたことで、常盤は魔法がとけてしまったと感じたようだった。これで全て終わりだと、二人の間にあったもの全てが崩れ落ちてしまったのだと。
 泣いてはいなかった。だが常盤の中で何かが壊れてしまったのは分かった。それは彼の矜持や信念、これまでの人生の中で築き上げてきた自己像だったのかもしれない――今、彼は誰かを憎悪し殺したがっている男ではなく、自らの死の宣告を受けた哀れな男のように見えた。
「本当のところを言うと」
 常盤は耳を傾けているだろうか? ――少なくとも耳を塞いではいない。
「僕が生まれたのはごく最近のことなんだ」
 暗い瞳の中に、微かな困惑の色が見えた。ふざけていると思ったのかもしれない。
「もちろん、肉体的に生まれたのは三十六年前だ。だけどずっと生きてる感じがしなかった。生を与えてくれと誰かに頼んだ覚えも、生きたいと願った覚えもないのに、自分がこの先何十年も存在し続けるだろうってことを、子どもの頃から少し不思議に思ってた。何を見ても心から感動したことはなかったし、誰かに愛着を持つことも、悩みらしい悩みを抱くこともなかった。大抵の人間がそうしてるのを見て、意味が分からないと思っていた」
 その後に続ける言葉を考えて、自虐的に聞こえるだろうかと少し迷った。だが目の前にいる男が自分を蔑むような人間ではないことを、常盤は十分に知っているだろう。
「多分僕には虫かトカゲくらいの意識しかなかったし、感情もそれくらいだった。共感も、未来に対する期待も過去に対する後悔もなくて、ただその瞬間に存在していただけだった……そのときそのときで目に留まったものに気まぐれに手を伸ばすことはあっても、愛すことはない。犯罪らしい犯罪に手を染めたことはないが、やろうと思えば罪悪感もなく人を殺せる人種だと思う。大抵のことは人並み以上に出来たから見掛けを装うことは簡単だったけどね。僕は普通の人間じゃなかった。君も僕を見てそう思ってただろ?」
 話している間、常盤は殆ど瞬きもせずにじっとこちらを見ていた。濃く立ち込める霧の先に――話の終着点に、最後の力を振り絞って目を凝らしているようだった。そこに希望を見出そうとしているわけではなく、それがどんな場所であれ、常盤は自分の行き着く先を見届けずにはいられない。
「君と初めて目が合ったとき、僕は多分、初めて何かに心を動かされた。そしてこう思った――君に殺されてみたいと。その時、僕は自分の生を初めて実感した。君に殺されると思って初めて、自分が生きていることに気付いたんだ。だって生きてなきゃ殺されはしないから。……だけど君はきっと、僕を殺すことはないだろうね。たとえ僕が君に飽きて捨てたとしても。君はやらないし出来ないんだって、最近ようやく分かったよ」
 常盤は少しだけ苦しげに息を吐いた。痛みをやわらげる為に、その髪を手の平で一撫でした。
「それでも、君と暮らして毎日のように君の作った料理を食べて、君と食事をして、恋人のように体を合わせるのは楽しかった。君は美しいし、これからもずっとそうだと思う。一緒にいられて幸せだったよ。だから――」
 別れの言葉が続くと思ったのだろうか。常盤の目が微かに揺れた。
「これからも僕とずっと一緒にいて欲しいんだ」
 これが映画なら、相手の女性は泣き出しそうに目を潤ませる。彼女は相手の口にした言葉は真実なのか、自分がその言葉を不用意に受け入れれば裏切られる結果になるのではないかと思う。そして激しく動揺した彼女はベッドを出て行こうとする……。
 だが常盤はこの場所から離れて行こうとはしなかった。だから逃げ出そうとする恋人の手を掴み、抱き寄せてキスをする必要も、君を愛していると叫ぶ必要もなかった。
「君は僕とずっと一緒にいたい?」
 常盤は答えられないようだった。彼の中で複雑に絡み合った感情が、相反するものでありながらどちらも真実である感情が、彼の舌を麻痺させている。一緒にいたい、出会わなければ良かった、求めたくない、飽きられたくない、愛している、殺してやりたい……。
 体を起こしてベッドから降り、窓際の収納棚から小さな袋を取り出した。振り返ると常盤はベッドの中からこちらを見つめていた。袋から取り出した小さな箱を持ってベッドに戻って常盤の横に腰掛け、彼の左手を取った。小さな傷跡がいくつか残る、少しかさついた厚めの皮膚の感触……その長い指の一つに指輪を滑らせた。細身のシンプルなシルバーのリングは彼の薬指に違和感なく収まり、薄暗がりの中できらりと光った――なかなかに似合う。
 対のリングを自分の薬指にはめ、箱はゴミ箱に落とした。
「映画でも観ようか。酒でも飲みながら」
 指輪をはめたばかりの手を引いて、常盤の体を起こした。頬に軽く口付けた後、そのまま手を繋いでベッドから降りる。常盤は従順だった。
「……映画って?」
「さぁ、君が選んでいいよ。僕のタブレットからストアにあるもので何か見繕ってくれ」
 リビングのソファに常盤を座らせ、キッチンの方からシャンパンとグラスを二つ、つまみのチーズと苺を取って戻った。薄い金色の液体と泡でグラスを満たした後、テレビを点けて部屋の照明を消した。タブレットと接続したテレビの画面に、ほんの最近まで劇場で公開されていたスパイ映画のタイトルが映し出される。
 映画を観ている間、常盤は自身の指にはめられた指輪に何度も目を落としていた。一体何を思っていたのだろう? 喜んでいいものか迷っていたのだろうか? それともその小さな輪っかに、自分の人生そのものを締め付けられているように感じていたのだろうか? これを投げ捨てる勇気はあるのだろうかと己の胸に問い掛けていたのかもしれない。
 エンドロールが流れ始めても、その指輪は常盤の指にはめられたままだった。常盤はふとこちらを見て、この後はどうするつもりなのかと目で問い掛けてきた。
 シャンパングラスを置き、常盤の手からも取ってテーブルに置いた。そして常盤の左手を取り、薬指の付け根に口付けた。ひんやりとしていた筈の指輪には、常盤の体温が移っていた。
 それから今度は唇に口付けた。常盤はいつものように控えめに応える。曖昧な態度――初めの頃は『お前のことを求めてなどいない』という意思表示なのかと思っていたが、今では本当のことが分かる。意地を張っているのではなく、キスの先がなかったときに備えているのだ。
 こちらが望んでなければ常盤はそれを読み取ってすぐに動きを止める。そうでなければいくらでも従順に受け入れる。キスの先があるのかどうかを決めるのはこちらであり、常盤ではない。常盤はいつもこちらが自分を求めているかどうか探っている。自分に今どんな感情と欲望が向けられていて、どんなものが向けられていないのか、その反抗的な目の奥で必死に見極めようとしている。
 だから――おそらく常盤はとっくに知っているのだろう。目の前にいる男が、自分がその男を愛しているようには自分を愛していないし、これからも永遠にそうすることはないのだと。
 この胸の中にある気持ちが何なのか、自分でも分からなかった。絵画を所有するように常盤を所有したいと思っているだけかもしれないし、慣れ親しんだものとして離れがたさを感じているだけなのかもしれない――自分にはまだ何かが欠けたままで、それはずっとそのままだろうと思う。常盤と同じようには感じないし、これからも感じないだろう。恋人が感じている痛みの一かけらさえ自分のものとして感じることが出来ないのに、彼への思いを愛と呼ぶことは出来るのだろうか?
「昼過ぎに起きて、二人でドライブでもしよう。天気予報じゃ晴れだって言ってたし、久々に僕も君も丸一日休みだろ」
 キスの合間に、ふとそんな誘いの言葉を口にした。
「……飯は?」
「サンドイッチの材料は?」
「ある」
「じゃあ頼むよ。車の中で食べたい」
 常盤を膝の上に載せ、またキスをする。欲望を追うような種類のものではなく、時折唇を離して見つめ合い、また唇を合わせて、ゆっくりと互いの唇の感触を楽しむような、穏やかな口付け――それを続けているうちに、常盤は全身に入っていた力を抜いてこちらに体を預けてきた。
 唇と唇が触れ合う感触は永遠に続けても構わないと思うほど素晴らしく、触れ合った場所から感じる彼の体温や、膝にかかる重みはとても心地よかった。
 彼を愛しているのかどうかは分からない。だが分かっていることもある。自分が味わっているものの名前は、幸福というのだ。
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