殺意・前編

 その日は夕方から雨が降った。
 天気予報を見ていたおかげで傘を持参していたのは良かったが、ちょうど一緒に職場を出るところだった同僚が傘を持っていなかった。彼女は徒歩通勤で、こちらは車だった。しかも彼女はこちらに恋愛感情を抱いている節があった。車に乗せ家まで送り届ける流れになる前に親切面で傘を貸した。職場恋愛は御免だ。
 少し濡れた髪を車内に常備しているタオルで拭いた後、車を出して帰途に就いた。
 勢いを増し始めた雨粒がフロントガラスを叩く。雨は嫌いじゃない。煩わしい部分もあるが、静かで冷たく容赦のないところは好ましい。世界が暗く沈むところも。
 途中、贔屓にしている料理屋に寄り、昼に電話予約していた弁当を受け取りに行った。その店の駐車場は立地の関係で店から少し遠い場所にあったが、車には予備の傘を置いているので問題はなかった。無事に受け取り駐車場まで歩いていたとき、背後に人の気配を感じた。
 微かな気配だった。だが雨に濡れた足音は確かに聞こえた。それもただの足音ではなく、こちらに気取られないよう意図された足音が。
 足を止めると、その音も少し遅れて止まった。
 振り返ろうとしたそのとき、濃紺のレインコートを着た男がすぐ右隣に立った。
「なぁ、あんた」
 男は白のマスク越しにそう言って顎をしゃくり、こちらの視線を誘導した。レインコートのポケット――そこから覗く左手――その手に握られた刃物の鈍い光。
「財布と命、どっちが大事だ?」
 答えるまでもない質問だった。
「……金だけにしてもらえないかな? カードとか免許証の類は手続きが面倒なんだ。警察に届けを出されるのはそっちも嫌だろ?」
「いくらある?」
「七万」
「なら札だけでいい」
 フードを深く被っているせいで表情を窺うことは出来ないが、やけに冷静な態度だった。慣れているのか、あるいはこれを大した仕事だとは考えていないのか。
 財布から七万とおまけの五千円を取り、男に差し出した。
 男は右手で金を受け取って包丁とは反対側のポケットに仕舞った。額を確かめる様子は無かった。
「――何なら、これも持っていくか?」
 弁当の入ったビニール袋を軽く上げてみせた。
「いや。……あんた、やけに冷静だな」
 それはこちらの台詞だ、と胸の内で呟いた。
「一応言っておくが、警察に届けたらあんたを殺す。分かったか?」
 タイヤが水溜まりを踏む音が聞こえた。近付いてくる。
「……ああ、分かった。だけど、どうするんだ?」
「どうするって?」
「どうやって殺すんだ? こっちの名前も知らないだろ?」
「…………」
 男は黙り込んだかと思うと、ふいに隣から正面へと移動した。その視線はまっすぐこちらに向けられた。男はじっとこちらの目を見つめた。
「あんたの顔を覚えた」
 ぞくりとした。冷たく静かな眼差しに、明確な殺意が見えたからだ。
「あんたの顔を覚えたよ」
 男はそう繰り返してポケットから両手を出すと、雨の中を走り去っていった。


 次にその男と顔を合わせたのは、三か月後の同じ曜日、同じ時間帯の、同じ雨の日だった。
 強盗にあった日にも行った料理屋で弁当を出してもらい、駐車場に戻ったとき、車のフロントガラスにコンビニの袋が置かれているのに気付いた。一見するとただの迷惑なゴミだったが、中身を見てみると折り目のない万札が八枚、綺麗に揃えて入れられていた。
 車を離れて五分も経っていない――犯人はまだ近くにいる。
 ゲートのない簡素な駐車場には普通車を二十台収容出来るスペースがあり、そのうち入口近くの二台分が弁当を買った料理屋の割り当てだった。他は近隣の店の分か個人の契約なのだろう。まばらに十一台、車が止まっていた。
 車に弁当を置き、封筒はジャケットのポケットに入れ、傘だけ手に持って一台ずつ手前から確認していった。中に人がいたのは最後の車だけだった。
 運転席のガラスを軽く叩くと、中で缶コーヒーを飲んでいた男が缶に口を付けたままこちらを見た。思っていた以上に若い男だった。繊細な作りをした、整った顔立ち。清潔感もある。だが愛想は全くない。
「五千円多かったよ」
 封筒を出して見せると、男はガラスを半分下げた。あの冷たい、自分はこの世界の何にも期待していないとでも言いたげな眼差しに、微かな戸惑いが見えた。こちらの真意が読み切れないのだろう。警察がどこか物陰に隠れていると思ったのかもしれない。
「俺のじゃない」
「どうして? 君が入れて、僕の車のフロントガラスに置いたんだろ?」
 男はそうだとは答えなかったし、頷かなかったが、否定もしなかった。
「あんたの物だよ」
 男は封筒に手を伸ばす素振りすら見せない。あまり長く出していても侮辱と受け取られるだけだろうと思い、ポケットに仕舞った。
「もし迷惑料のつもりだっていうなら、五千円じゃ足りないな」
 男は目を細めた。
「……あといくらなら満足するって?」
「金を足すより、食事に付き合ってくれよ」
 男は暫く黙っていた。
「……あんたそういう趣味の奴か?」
「さぁね」
「体で払えって言ってるつもりなら断る」
「体? 食事に付き合ってくれって誘っただけだよ」
 男は溜め息を吐いた。そして缶コーヒーを一口飲み、投げやりに「いつ、どこで?」と尋ねた。


 今日これから、君の好きなところで――そう答えると、二キロ離れた場所にある市民公園に連れて行かれた。雨が降っているせいか公園に人の姿は見当たらなかった。
 濡れた草を踏みながら歩いて行き、奥の奥、木々の影を濃く受ける一角の、薄暗い東屋で男は足を止めた。
「ここで」
 それだけ言うと男はビニール傘を閉じ、公園に行く途中に寄ったハンバーガー店の袋をテーブルに置いた。
「……いつもここで?」
「たまに。あんたはそれ?」
 男はちらりと弁当の袋を見て言った。
「いや。僕の分もあるならそっちを貰う」
 男が頷いたので弁当の袋は脇に置き、男の対面に座った。木の椅子もテーブルも雨のせいで湿り気を帯びていた。
 手渡しまでしてくれるほど親切ではないらしく、男は袋から自分の分だけ取り出し、残りを無造作にこちら側へと押しやった。「ありがとう」と礼を言って袋を受け取り、見たこともない店のハンバーガーを手に取った。
 食事中、男は一言も喋らず、風景を眺めながら黙々とハンバーガーを齧っていた。美味しいとも不味いとも思っていないような顔――味わう気分になれないだけだろうか?
 それほど間が持つような食べ物でもないので、ものの数分で二人とも食べ終わってしまった。向こうの方がいくらか早く、男はこちらが食べ終わるまで頬杖をつき、外を見ながら待っていた。
「なかなか美味しかった」
 感想を言ったが、無反応だった。男の目は相変わらず外と向けられている。放っておけば何時間でもそうやって雨を眺めていそうだった。
「ところで、封筒の中身のことだけど」
 そう切り出すと、男は『まだ足りないのか』とでも言いたげな視線を寄越した。
「七万五千円は受け取らないことにするよ。もう僕のものじゃないから」
 ポケットから取り出した封筒から五千円だけ抜いて財布に仕舞い、残りが入ったままの封筒を男の前に置いた。
「何言ってんだよ。あんたの金だろ」
「いや、君のものだ」
「いらない」
「いらないなら自分で捨てろ。この中身は君に責任がある」
「責任?」
「君に渡した時点で僕はその金を自分から切り離した。だから今は君の金ってことだ。そして僕は人に金を恵んでもらうような真似はしないから、君は僕にその金を渡すことは出来ない」
 男は明らかに気を害していた。目つきに不穏なものが混じり、瞬きが減って、纏う空気が冷たさを増す。動きは必要最低限になる……。
 敵意が見える。明確な敵意が。
 男は口を開いた。
「……なら、五千円は?」
「迷惑料は貰ってしかるべき金だ。恵んでもらうものとは違う」
 男は暫く黙っていた。こちらをじっと見つめながら。吠える犬は噛まないという。ならその反対は?
 シャツにジーパンという軽装にナイフを隠す場所はあるだろうか? ――無さそうに見える。だがもしこの男が誰かを傷付けようと考えたとき、そこにナイフがある必要はない。細身だが服の下には引き締まった筋肉があるように見えるし、手足は長く、俊敏そうだ。年の頃は広めに見ても十代後半から二十台半ばくらいか――おそらく二十代前半くらいだろう。武道の心得があるわけでもない三十代の男を引き倒し、殴りつけるくらいは容易な筈だ。
 不思議なのは、この男がそれなりに賢そうな目をしていることだった。高等教育は受けていないとしても地の頭はそう悪くはなさそうで、理性に欠け衝動だけで生きるような輩には見えない。
 強盗に走るほどの額の借金か酷いギャンブル癖でもあるのだろうか? あるいはちゃちなヤクザの下っ端構成員か、恋人が予想外の妊娠でもしたか……。
「なら俺がこの金をどう使おうと俺の勝手ってことだよな」
 予想外の言葉だった。馬鹿にしてるのか――とでも返ってくると思っていたのだ。あるいは金を雨の中に放り投げて、唾でも吐かれるのかと思っていた。
「そうなるんじゃないか」
「じゃ、あんた、欲しいものは?」
 そうきたか。
「金で買えるものなら自分で買うよ」
「だろうな」
 男は鼻を鳴らした。自分たちの経済格差は明らかだった。
 また暫くの間男は黙っていたが、今度はこちらではなく外の雨を見ていた。殆ど霧のような細い雨。もうじき降り止みそうだ。
「なら、七万五千円分働いてやるよ。使い走りでも、靴磨きでも、あんたの気に入らない誰かの顔面を殴るでも何でも、あんたが自分ではやりたくない事をやってやる」
 思わず笑い出しそうになった。
 『何でも』だって? そんな言質が得られるとは思ってもいなかった。よほどこちらの侮辱が気に入らなかったらしい。『人に金を恵んでもらう』立場でいるより、不快な男の言いなりになって不快な思いをしながらも、七万五千円を正当な対価として受け取る方がましだと考えたのか。
「君、料理は出来るのか?」
 男は面食らったような顔をした。
「……肉を焼くくらいは」
「十分だ。明日の夕食から頼めるかな」
「……俺に、あんたの飯を作れって?」
「そう、それと君の分も。二人分の食事を作ってもらう。材料費と調理の手間賃を引いていって、七万五千円に達したら終了。一回で全部使い切ってもいいし、そうじゃなくてもいい。君の裁量に任せるよ」
 男は半分口を開いたまま考えていた。
「……あんたと一緒に食えってんなら、その分の迷惑料も引く。料理があんたの舌に合わなくても作り直しはしない」
「構わない。じゃあ明日、材料を持って僕の家に来てくれ」
 仕事用の名刺に住所と個人的な連絡先を書き、男に渡した。男は無言で名刺を受け取り、封筒と一緒にポケットに仕舞い込んで、こう言った。
「あんた、頭おかしいんじゃねーの」
 雨が止んだ。男の目からは敵意が消えていた。


 あくる日の夜七時、男から電話が掛かってきた。すぐ近くのスーパーにいるとのことだった。在宅であることを告げると、男は十分もしないうちにマンションのインターフォンを鳴らした。
「ようこそ」
「常盤大和」
「君の名前?」
 男は億劫そうに頷いた。トキワヤマト。それが彼の名前らしい。何故か本名だろうと思った。
「……あんた、一人暮らしだよな」
「じゃなかったら君を上げてない」
 一人暮らしには広過ぎる家に見えるのだろう。高給取りと思われたかもしれない。本職以外の株や不動産取引で少し儲けただけで、広い家は自分以外の誰かの為でも見栄の為でもなく、部屋を探していたときに希望の立地と条件で空いていたのはここだけだったのだ。結果、余った部屋は物置になっている。
「キッチンは好きに使ってくれ」
 常盤はアイランドキッチンに入り、少しの間辺りを見回し、冷蔵庫や棚を開けた。
「塩も無いのかよ」
 呆れた声だった。高価な調理器具やグリル付きのコンロ、オーブンレンジに食器洗い洗浄機まで揃っていて、料理をしている気配が一切ないというのは、確かに呆れられても仕方のない状態だった。しかも実際、三年前にこの家に越してから誰かがこのキッチンで料理をしたことは、今に至るまでただの一度もない。
「僕がやりたくないことをやってくれるんだろ?」
 常盤は作業台にスーパーの袋を置きながら「あの金の分はな」と呟いた。
「出来たら声を掛けてくれ」
 アイランドキッチンの向かいにあるリビングダイニングのテーブルでノートパソコンを開き、横に資料を置いて論文の制作作業を始めた。常盤は――手を洗いながらこちらを見ている。県立博物館の学芸員職に就いていることは名刺にも書いてあることだ。見られたところで別段困ることはない。
 調理中、常盤は一言も喋らなかった。煮込みに入ったらしく手が止まっている間も、キッチンの棚に寄りかかって大人しくしていた。何かを考えているのか、こちらの様子を窺っているのか――論文の方に集中していたので、実際どうなのかは分からなかった。
「出来た。そこで食うのか」
 カレーの匂いが漂っている。常盤はレンジでパックの白米を温めているところだった。
「ああ、ここで。すぐ片付ける」
 宣言通りすぐに片付けると、期待を裏切らずカレーが盛りつけられた皿が運ばれてきた。常盤は向かいに腰を下ろし、さっさと食べ始めた。
「美味そうだ。いただきます」
 肉以外の具材はかなり小さくカットされていて、やたらと入っている肉の存在感が大きい。味は普通のカレーだ。肉だけは良いものを使ったらしく柔らかかった。常盤は若者らしく二杯平らげたが、鍋には五食分のカレーが残った。
「捨てるのはルール違反だな」
 常盤は何も言い返さなかった。
「二人で食べるしかないんじゃないか」
「今から?」
「いや。明日、昼食と夕食で二回食べる。君もそうしたらいい。ごちそうさま、美味しかったよ」
 二人分の皿を取って立ち上がった。備え付けの食器洗浄機には既に鍋以外の調理器具が入っていたので、片付けはすぐに済んだ。
「……持ち帰れるような容器、この家に無いだろ」
「なら食べに来たらいいじゃないか。僕は明日一日、ここにいるよ」
 常盤は不機嫌そうな顔でこちらをちらりと見た後、無言で去っていった。


 翌日の夕方、常盤は前日と同じ時間に電話を掛けてきた。カレーは残っているかと尋ねられて、残っていると答えた。前の夜と同じように向かい合ってカレーを食べた。常盤は三食平らげ、鍋は空になった。
「明日は仕事がある」
 常盤は少し苦しげな顔で言った。カレーを無理して腹に詰め込んだからだ。
「何の?」
「イベントの設営」
 あっさりと答えが返ってきて拍子抜けした。『あんたには関係ない』そう拒まれるものとばかり思っていたのだ。
「だから次は明後日でいいだろ」
「ああ」

 そして翌々日、常盤は三度目の電話を掛けてきた。頭が黒髪から明るめの茶髪に変わっていた。顔が整っているせいか浮いた印象はなく、ワックスで整えた短髪はシャープで洒落た感じがした。
「似合うよ」
 常盤はこちらをじろりと見て、一瞬不快そうに顔を歪めた後、勝手に家の奥へと入っていった。
「今日はステーキ」
「君は肉が好きなんだな」
 返事はない。常盤は黙々と作業を始めた。こちらも黙々と論文の続きを書き始め、出来上がったと声を掛けられるのを待つことにした。
「――出来た」
 二十分後のことだった。前と同じようにテーブルを片付け、皿が運ばれてくるのを待った。メニューは簡素なビーフステーキに豆腐の味噌汁、既製の漬物と白米だった。肉は外側が少し焦げていて、中の火の通りはまばらだった。塩と胡椒だけのシンプルな味付け。牛脂にまみれた肉はそれなりに美味しかった。
「仕事はどうだった?」
「どうって何が」
「良かったのか悪かったのか」
「別に良いも悪いもない」
「それは残念だな」
「残念? あんただってそうだろ」
 フォークを持つ手が思わず止まりそうになる――見透かされた気がした。常盤は思っていた以上に賢い男なのかもしれない。
「僕は良い仕事だと思ってるよ。まぁ骨を埋める気はないけどね」
 常盤はこちらの二倍の速さで皿の上を片付けていく。あまり噛んでいないし、味噌汁や水で流し込んでいる。決して優雅な食べ方ではない……味わって楽しむということを知らないのだ。目の前にいるのが彼の恋人だったとしても、同じように無愛想な顔で胃に食べ物を押し込むだけだろうと思った。
「……あんた、食うの遅いな」
 先に食べ終わって片付けも済ませた常盤が、手持無沙汰なのか気まずそうに呟いた。
「作るのは作ったし一緒に食ったんだから、もう帰っていいだろ」
「君がそうしたいなら」
 常盤は立ち上がった。
「だけど、いてくれると僕は嬉しい」
 間髪を入れずにそう言うと、常盤はこちらを見た後、顔を歪め、すぐに目を逸らした。
「……あんたの前に座って、ただじっとしてろって? あんたを喜ばせるために?」
「食べ終わるまでは好きに過ごしてくれて構わないよ。テレビもあるし。ソファもご自由に」
 テーブルの横にはくつろげるスペースがあり、二人掛けのソファと小さなローテーブル、録画機能つきのテレビを置いている。常盤はちらりとそのスペースを見た後、
「別料金」
 と素っ気なく言った。そしてローテーブルの上の考古学雑誌を取り、ソファの上に胡坐をかいて深く腰掛けた。雑誌をぱらぱらとめくり始めた常盤の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
 ページをめくる音と、常盤の微かな息遣いや身動ぎの音をBGMに、ゆっくりと残りの料理を片付けた。常盤は文句一つ言わず、こちらが声を掛けるまで静かに待っていた。
「ごちそうさま」
 家を飛び出していくかと思っていた常盤は立ち上がりもせず、空になった皿をちらりと見た。理解しがたい、とその目は言っていた。
「美味いものを食おうと思えばいくらでも食えるくせに」
「美味しかったよ」
「舌が馬鹿なんだろ」
「いや、味覚音痴だと言われたことはないな」
「じゃあ何かのプレイ? 年下の男に料理を作らせて楽しむってそういう事だろ?」
「さぁ。少なくとも食べながら興奮はしてないよ」
 皿を食器洗浄機に入れながら答えた。常盤は雑誌を元の場所に置いて立ち上がった。出て行くのかと思って見ていると、廊下ではなくキッチンの方へと歩いてきた。そして洗って濡れた手を拭いているこちらの横に立った。
「今は?」
 タオルを置いて、向かい合った。常盤の目線はこちらより少し低く、目と目を合わせると必然的にこちらを見上げるような形になる。その目に映る男を挑発して、常盤は何を得ようとしているのだろう?
 答えずにじっと見つめ返していると、驚いたことに常盤はより距離を詰めてきた。
「あんたに突っ込んでやろうか」
 ――どうせ本気じゃない。そう思ったのも束の間、常盤の手がこちらに伸びてきた。その手はシャツの裾を引き出し、中に入ってきた。インナーシャツの上をその手が滑り、腰を掴む……。
「経験があるんだな」
 常盤の細い腰に手を回した。抵抗はなかった。
「突っ込んだことは」
「……好きなのか?」
「俺が? 違う。向こうがだよ。抱いてくれって頼み込んできたから、そうしてやっただけ。別の奴に口でやらせたこともある」
「それも頼まれて?」
「じゃなきゃそうする理由がない。あんたも抱いてくれって頼むんなら抱いてやるよ。その分はあの金から引かせてもらうけどな」
 もし本当に頼めば、常盤はそうするつもりなのだろうか――ここで男娼のように金で買われて男を抱くつもりなのか? それとも本気にしたのかと鼻で笑って家を出て行くのだろうか? 
 どちらにしろ、抱いてくれと頼むつもりなどなかった。
「有り難い話だけど、僕は抱かれるよりも君を――」
 言い終わる前に常盤はこちらを突き飛ばし、素早く体を離した。
「――そっちは駄目なんだな」
 抱くのは良くても抱かれるのは嫌なのか。常盤は必死に無表情を取り繕い、動揺を悟られまいとしていたが、毛を逆立てた猫のような目をしていた。
「誰が……やらせてやるって言ったよ。俺は誰にも……、特にあんたは……あんたには……もう帰る」
 そう言って常盤は本当に家を出て行った。その背中を見送ったが、常盤は一度も振り返らなかった。


 次の日、常盤は十時近くになって電話を掛けてきた。開口一番に飯は食ったのかと尋ねてきたので、正直に食べていないと答えた。すぐにインターフォンが鳴った――常盤だった。マンションのエントランスにいたらしい。
「遅くなったのは、僕が怖かったからか?」
 玄関に入ってきた常盤にそう尋ねると、常盤の目の奥に強い怒りが燃え上がるのが見えた。しかしその炎は彼自身の手によって強引にねじ伏せられ、口から飛び出す筈だった罵倒の言葉はごく短い言葉に変わった。
「仕事」
 常盤はさっさとキッチンに入り、手を洗って食事の支度を始めた。横を通った彼の体からは爽やかなシトラスの香りがした。その香りについて考えながらいつものようにパソコンを立ち上げ、ブックマークに入れた情報サイトを開いて、今同じ家にいる男に比べれば全くもってつまらないニュースに目を通し始めた。
 その日の夕食は肉炒めだった。具材は豚バラ肉とキャベツ、味付けは焼き肉のたれだ。椎茸とかまぼこの吸い物らしき汁が添えられ、小皿には海苔と漬物が載せられていた。常盤の皿からは例のごとく一瞬で食べ物が消え失せ、自分の分の片付けを済ませた常盤は前日と同じようにソファに向かった。
 よく味わい、昨日よりもゆっくりと食事を楽しんでいるうちに、気配で常盤が苛立ち始めたのが分かった。昨日と同じ雑誌を荒っぽく開いては閉じてみたり、それを投げるように置いてテレビを点け、チャンネルを忙しなく変えてみたり、携帯でゲームをやったり(覗き込んでもいないのにそうしていると分かったのは、彼が嫌がらせのような音量でプレイしていたからだ)……そうしてとうとう耐え切れなくなったらしい常盤は、雑誌もリモコンも携帯も投げ捨て、口を開いた。
「あんた、いつまで時間掛けるつもりだよ」
「もう食べ終わるよ」
 そう言って最後の一切れを口に入れた。ごちそうさま、と言うと、常盤は荒っぽい動作で立ち上がった。
「今日は泊まっていけばいい」
 常盤は信じられないものを見る目でこちらを見た。その目はこう呟いていた――こいつは何を言ってるんだ? あまりに分かりやすい反応に、思わず笑ってしまいそうになる。
「別に何かする気はないよ。ただもう遅いから、うちでゆっくりしていけばいいと言ってるだけだ。僕が怖くないなら、同じ家の別の部屋で寝るくらい別になんてことないんじゃないか」
「……あんた、俺のことを馬鹿だと思ってるんだろ」
 低い声。安っぽい挑発に乗るような男だと――小学生相手でも使わないような論法で主導権を握れる相手だと見なしているかと、その目は問い掛けていた。
「いや。君は馬鹿をやるけど、馬鹿な人間じゃないってことは分かってるよ」
「あ? 勝手に分かった気になってんじゃねーよ」
「なら、分かるように君のことを教えてもらえるかな」
 常盤の胸の動きが大きくなる。息が荒い。それに気付かない振りをして、空いた皿をキッチンに持って行った。皿を食器洗浄機に入れ、スイッチを入れる。水の噴き出す音が、耳を楽しませていた常盤の息遣いを消してしまう――だからまたよく聞こえるように、音の元へと歩み寄った。
 腰を抱いても、常盤は抵抗らしい抵抗をしなかった。だがその体は固く、まるでこちらを受け入れようとはしていなかった。それにその目はこちらをきつく睨みつけていて、瞳の奥には暗い色で燃える炎があった。そしてその炎には、至近距離で眺めるには刺激が強い感情が――強烈な殺意が見え隠れしていた。
「君は――どうして強盗なんかしたんだ?」
 常盤は二呼吸分時間を置いて答えた。
「金が無くて、あんたが金を持ってそうに見えたから」
「だけど、必要のない金だったんだろ?」
「その時は必要だった」
「君に?」
「……違う」
「そうか。じゃあ家族……いや、彼女……違うな。友達……そうか、友達に必要だったんだな」
 至近距離で向かい合っていると反応が読みやすい。『友達』という言葉を口にしたときだけ、常盤の表情に微かな変化が見えた。
「それで、友達がどうしたんだ?」
「……事故に遭った」
「なるほど、治療費か。君は給料日前で、まとまった金が無かったんだな」
 常盤の息はますます上がっていた。
「だけど、本当に必要な金でも無かったんじゃないか?」
 常盤は答えない。
「必要そうには見えなかったし、本当に必要な金なら――突発的な事故の治療費なら、工面する方法は他にあった筈だ。君ならもっとまともでリスクの低い方法を一つは思いつくだろう? だから君にとって重要なのは金じゃなかった。目的は別にあったってことだ」
 そう、例えば。
「君はあの店の駐車場に僕がまた現れるのを待っていた。あそこ以外に僕が現れる場所を知らなかったからじゃない。僕があの店の常連で、強盗に遭った後でも平気で通い続けるような人間だと知っていたからだ。僕のことを前から観察してたんだろ? 前にあの近くで仕事でもしていたのかな」
 常盤は目を逸らしたそうにした。だがそうしなかった――あるいは、出来なかった。
「僕はあの日初めて君を見た。だから言葉を交わしたり自然と視線が合ったりするような仕事じゃない。そういえばあの店の近くに小さなビルが一つあった……そこで働いてたのか? でも君はオフィスワークに精を出すようなタイプじゃないな。内装工事か配線工事の業者か?」
 唇を噛んだところを見ると、どうやらそうらしかった。正確には違うかもしれないが、少なくともあのビルに数週間から数か月出入りしていた業者だったという線で、ほぼ間違いないようだ。
「僕を知ったのは、多分友達が事故に遭う前だろう? 君はずっと前から僕を見ていたんだ。つい目に入ったんじゃなく、僕を観察してた。僕の事を。どうして僕だったんだ? どうして僕を選んだ? あの店に出入りしてた一人客なら他にもいただろう?」
 今度は口を閉じ、常盤が答えるのを待った。その口から答えを聞きたかったのだ。
「……あんたみたいな人間からなら……奪ってもいいと思ったから」
「必要もない金を?」
「必要だった」
「違うな。君の目的は金じゃなかった」
「何が……言いたいんだよ」
 君だって本当はとっくに知ってる筈の事だ、と胸の内で呟いた。だが君は認めたくないんだ、どうしても。
「君はあの日、僕に声を掛けたかったんだ。僕の声を聞いて、僕と話をして、僕と関わりを持ちたかった。それが君の目的だった。その目的を果たす為だけに、あんな馬鹿な真似をするなんてな」
 ついに常盤は息を止めた。その薄い胸の中で、心臓が大きく跳ねた音が聞こえたような気がした。
「君は自分が僕を憎んでると思ってる。僕を見てると無性に腹が立つんだろ? 僕の一挙一動が君の勘に触って、君は不快になる。それなのに僕のことが気になって仕方ないし、僕を自分から切り離すことも出来ない。夜も上手く眠れないほど僕の事を考えてしまう。まるで恋をしてるみたいに……」
 腰を抱いているのとは別の手を、常盤の顔に伸ばした。片頬を手のひらで包み、指先で軽く撫で、唇に親指で触れた。親指を唇と唇の隙間に差し込むと、濡れた感触がした。
「本当は、突っ込んで欲しいのは君の方だろ? いいよ、僕の方は構わないから。最初はこの口にしようか、それとも――」
 腰を抱いていた方の手を、そっと下に滑らせた。
「――こっちに突っ込んで欲しいのか?」
 その瞬間――顔面に強い衝撃が走った。後ろに倒れ込みこそしなかったが、やや体勢を崩して何歩か後退した。殴られたのだ、とすぐに分かった。鼻の奥から水っぽいものが流れる感触がして、鼻の辺りに触れてみると溢れ出てきた血で指が汚れた。
「死ねよ」
 常盤は握り拳を作ったまま、低い声で言った。
「死ね」
 常盤はそう繰り返した。その目には明確な、疑いようのない殺意がみなぎっていた。怒りは常盤の額に青筋を立たせ、鮮やかな色で肌を彩り、世界から常盤という存在を縁どる。その存在のあまりの大きさと純粋さに思わず見惚れてしまった。常盤は今これ以上ないほどに強烈な存在感を放つ、魅惑的な一枚の絵だった。それも、呼吸し、刻々と変化し、枠を飛び出してこちらを焼き尽くそうとする絵だ……。
 ――自分が笑っていることに、常盤の顔に浮かんだ表情で気付いた。
「あんたは……」
 その続きを聞くことは出来なかった。常盤はきつく下唇を噛み、前に立ちはだかるこちらの体を荒っぽく押し退けると、リビングの棚に置いていたパソコンと焼き物の皿を床に払い落とし、廊下の壁に飾った額縁の絵を拳で叩いて家を出て行った。
 後に残されたのは壊れたパソコンと割れた皿、血濡れの絵だけだった。
 そして常盤からの連絡は途絶え、あの店の駐車場でまた顔を合わせることもなくなった。
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