一夜の悪魔(後編)

 上からの流れに押し流されて、泡混じりの水が排水溝へと消えて行く。
 島崎夏彦は水を止め、タオルで顔を拭いて眼鏡を掛けた。普段なら用が済めば早々に狭苦しい洗面所を立ち去るところだが――今日はそうしなかった。
 島崎は洗面台の鏡に映る自分自身の姿を静かに見つめる。
 鏡に映る男はまるで他人のようだった。呆然としながら、島崎は自分自身を細部まで観察した。
 少しうねった黒髪。黒縁眼鏡の下の、やや大きめの目。滑らかで主張の少ない鼻、端が少し切れた唇。髭を剃ったばかりの色味の薄い肌には、学生時代の事故で出来た傷が右頬に薄く残っている。
 目が充血しているのは、きっと慣れないコンタクトレンズを装着したまま眠ったからで、唇が切れているのは――乾燥のせいか、昨夜の出来事のせいだ。
 昨夜の出来事を想起させるものは他にも残っている。首元や左肩や腹に残された小さな赤い痣は、きっと鏡に映らない場所にもある筈だ。
 パーツを一つ一つ辿りながら、島崎は鏡が映す真実を受け入れていった。
 鏡に映っているのは自分以外の何物でもなく、一晩の情事を楽しんだだけの、何の変哲もない二十七歳のサラリーマンの男で、全てはもう終わってしまったのだと。
 そう、終わったのだ、全て。
 島崎はあの素晴らしかった夢から醒めてしまった。
 そしてもう二度と、あんな気分を味わうことは出来ないのだ。





 昨夜、島崎は友人の家で酒を飲んでいた。家主を含めて参加者は五人。全員同じアマチュアバンドのメンバーだった。
 隔週金曜の夜は普段ならレンタルスタジオか、ドラム担当の身内が持っている地下室で練習をするのだが、その日は生憎どちらも借りられなかった。それで、今後について話し合い、ついでに親交を深めるという名目で飲み会をすることになったのだ。
 飲んでいるうちに、家主でありリーダーでもある男が、真面目な顔でバンドの方向性について意見を言い始めた。曰く、今の状態を脱し、新しいことに挑戦してみたい、と。
 以前彼が同じことを言い出したときは、オリジナル曲の作成やCDの販売、メンバーの増員といった提案がなされ、最終的に概ね採用された。プロを目指しているわけではなく、あくまで趣味の範囲ではあったが、活動を発展させていくことに異を唱える者はいなかった。
 それなりに真面目な話し合いが一体どこで軌道を外れてしまったのか、今となってはよく分からない。『ビジュアルを変えてみるのはどうか』と言い出したのは、リーダーだっただろうか。少なくとも島崎でないことは確かだった。
 都合のいいことに、以前アパレル店に勤務していたリーダーの家には大量の服が眠っていて、近くには100円均一を併設したドラッグストアがあり、リーダーには名のあるコスプレイヤーだという同棲相手がいた。それで、島崎たちはリーダーの同棲相手の監修を受けつつ、雑誌のビジュアル系バンドを真似て化粧をし、服を着替え、リーダーの同棲相手が持っていたカラーコンタクトやウィッグを買い取って装着し、おまけに恰好に似合うよう派手な香水も振り撒いて、華々しい変身を遂げた。
 素面なら一笑に付すだろう実験の結果に、五人はそれなりに満足した。素面の女性一人はそうではなかったが、彼女はすぐに夜勤に出掛けてしまった。
 残された五人は酒盛りを再開し、変身を遂げた自分自身や他のメンバーを眺めて冗談を言い合い、話のネタにして遅くまで楽しんでいた。
 そして――気付くと、最寄り駅の最終の電車が出る十分前だった。リーダーとその近所に住む一人を除いた三人は慌てて家を飛び出した。島崎もそのうちの一人で、もちろん化粧を落としたり服を着替えたりする余裕はなかった。
 何とか電車に乗り込み、自宅近くの駅で降りた後、駅の駐輪場に預けていた自転車を置いて、島崎は近くに住むメンバーの一人と家まで歩いて行くことにした。そのときはまだ、島崎も連れもまだアルコールが抜けていなかった。

「俺、服はいいけど化粧とカラコンはやだな~」
 連れの男――田中がぼやいた。島崎は彼が手の甲で頬を擦っているのを見て苦笑した。家では文句ひとつ言っていなかったが、どうやら塗りたくられたファンデーションが気に入らなかったらしい。島崎の五つ下、二十二の彼がそういう仕草をすると、童顔も相まって高校生のように見えた。
「俺も。あとカツラ脱ぎたい」
「あー、蒸れる?」
 問答無用でウィッグを被せられた島崎と違い、田中は自前の金髪をセットしていた。
「蒸れるっていうか……違和感が凄い。あと目立つから」
「夏くん、目立つのあんま好きじゃないよね~。普段は格好も地味だし。え、何でバンドやってんの?」
「皆と演奏したいから。ていうか……これはいくら何でも目立ち過ぎ。真っ赤って、全然俺のキャラじゃない」
「まー確かに。電車の中とか罰ゲームみたいだったし。つかこれ、本当に今度からやるのかな?」
「いや、無いんじゃないかな」
「あ、やっぱ夏くんもそう思う?」
「だって、無いだろ?」
「うん。無いね」
 二人は笑った。何でもないようなことだったが、酔っ払い二人は長いこと笑っていた。
 ――笑うことに少し夢中になり過ぎたのか、注意散漫になっていた田中は、数歩先にある階段を視界に入れていなかった。そして一歩後ろを歩いていた島崎は、田中の状態に気付いていなかった。
「あ」
 田中と島崎は同時に声を上げた。それは田中が足を大きく踏み外した瞬間だった。
 島崎は反射的に手を伸ばし、田中が背に負っていたバッグを掴んだ。だが田中の体はもう落下の体勢にあった。十段ほどの階段は急勾配の石造りで、手すりは届く位置にはなく、階段の下はコンクリートだった。
 そのままでは二人とも階段を転げ落ちるだけだ。島崎は力強く手を引いた。それで田中の体は階段の上へと引き戻されたが、島崎は体勢を崩し、田中とは反対の方向へと投げ出された。
「! 夏く――」
 島崎は為す術もなく階段を転げ落ちていく――筈だった。
 だが島崎を待ち受けていたのは、肉を裂き骨を砕くような強い衝撃ではなかった。勢いがついた体は何者かの腕にしっかりと抱きとめられ、何度か揺れた後、共倒れになることもなく落ち着いた。
 男の腕の中、島崎はいつの間にかきつく閉じていた目を開けた。心臓が信じられないような速さで鼓動を打っていた。島崎は何度か息を吐いた後、男の肩から恐る恐る顔を上げた。
「…………」
 目が合った瞬間に男が目を見開いたのは、毒々しい化粧のせいだと島崎は思った。島崎の方も予想以上に近い場所にあった男の顔――どこか見覚えのあるその顔に驚いていたのだが。
「……あの、ありが――」
「綺麗だ」
 男の呼気からは酒の臭いが漂った。
「……え?」
「君、凄く綺麗だ」
 男はそう言った後、ふと気付いたように腕の力を弱め、島崎が体勢を整えるのを手伝った。不安定な状態だった島崎は、ようやく両足のつま先から踵までを地に着けた後、階段を下りた。
 ……どうやら男はちょうど下の道を歩いていたか、階段を上ろうとしていたころで、島崎が落下しようとしていたのに気付き、階段を駆け上って手すりを掴み、反対の腕で島崎の体を抱きとめ、そのままその場に踏み止まってくれたらしい。
 スーパーマンみたいだ、と島崎は思った。だからこの親切な人が変なことを口走るわけがないし、さっきは何か聞き間違えてしまったのだろう、と。
「夏くん!」
 田中が我に返ったように声を上げ、駆け下りてきた。
「だっ、大丈夫? えっ、どっか怪我とかしてない!?」
「いや……大丈夫。この人に助けてもらったから……」
 男も階段を下りていた。受けとめられた直後は人並み外れて逞しい男だと思ったが、こうして並んでみると目線は島崎とあまり変わらず、体つきも平均の範囲内から大きく外れているわけではなかった。運か男の反射神経、どちらかが少しでも悪ければ男を下敷きにし、自分自身だけではなく善意の人間にも大怪我を負わせてしまっていたかもしれない。
「ご迷惑お掛けしてすみませんでした! ありがとうございます!!」
 田中は男に向けて深々と頭を下げて礼を言ったが、男はそれに全く構わず、島崎をじっと見つめていた。島崎も急いで頭を下げた。
「本当にありがとうございました。あの、そちらはお怪我ありませんか」
「ああ。どこも怪我してない」
「よかった……って、あの……?」
 島崎は思わず困惑の声を漏らした。それも無理もない、男が島崎の手を取り、足元に片膝を突いたのだから。
「君は……とても素敵だ」
 男は島崎を熱の入った目で見上げ、島崎の手を己の手で優しく包み、恋人への贈り物のようにその言葉を口にした。

 ――今度こそ、間違いなく、どう考えても。『聞き間違え』なんかじゃない。

「えっと……」
 島崎は助けを求めてちらりと横を見たが、田中は口をぽかんと開けて固まっていた。頼りにはなりそうにない。
「……あの、一之瀬さん……ですよね?」
 島崎がその名を呼んで反応したのは目の前の男ではなく、田中の方だった。
「あっ、えっ? ああ、何だ。この人、夏くんの知り合いなんだ?」
 謎の変質者ではなく友人の知り合いだと分かり、いくらか緊張が解けたらしい。それでも声の感じから、田中がこの状況に酷く戸惑っているのは明白だった。
「知り合いっていうか……多分、一之瀬さんだと思うんだけど……」
「何それ?」
「えーっと……ちょっと待って」
 今は友人への説明よりも優先すべきことがあった。
「あの、とりあえず……、立ってもらえますか?」
 島崎が軽く男の手を引いて促すと、意外なことに男は「ああ」と答えてあっさりと従った。だがそのせいで顔と顔の距離が近付いてしまい、島崎は余計に困ったことになった。
「……手を、離してもらえますか?」
 小声で頼むと、男はそれにも従った。島崎はほっと息を吐いた。男が手に触れている間、ろくに息も出来なかったのだ。
 男は――いや、もうその時点で島崎には男が一之瀬だという確信があった――一之瀬は、叱られた仔犬のように眉尻を下げた。
「申し訳ない。いきなり戸惑わせるようなことを言ってしまって……許してもらえるだろうか」
「あ、いえ……はい、大丈夫です」
「夏くん、えっと……」
「あ、うん。大丈夫」
 島崎はどこか怯えた顔をしている田中に頷いてみせ、それから道路を挟んで真向いにある小奇麗なアパートに目をやった。それが田中の家だった。
「先、帰っていいよ。俺、この人と帰るから」
「えええ? で、でもさ……」
 島崎は田中の腕を引いて一之瀬から少し離れ、耳打ちした。
「大丈夫。あの人、俺の友達の兄貴。会うの久々だから、気付くのにちょっと時間かかったけど」
「あ、え? そうなんだ」
「酔うといっつも口説き魔になるんだよ」
「え、酔ってるの、あの人」
「うん。でも実害ないから」
「そっか、じゃあ……俺、本当に帰るよ? あ、着替えとか……」
 田中はバッグを下ろそうとした。家を出る時、島崎の着替えを預かっていたのだ。
「いや。明日取りに行ってもいい?」
「あ、うん」
「じゃ、また明日」
「うん……」
 手を振ると、田中は迷いのある足取りでアパートに向かい始めた。完全には納得していないらしく、『本当にいいの?』という顔でちらちらと振り返ったが、島崎はその度に頷いてみせた。
 そしてついに田中が視界から消えた後、島崎は一之瀬の方を振り返った。何か合図を送っていたわけでもないのに、一之瀬はまるで本当の連れのような自然な佇まいで島崎を待っていた。彼はふわりと微笑み、小首を傾げてこう言った。
「じゃあ、行こうか?」
 島崎は頷いた。


「こんな真夜中に、君みたいに綺麗な人と出会えるなんて思わなかったよ。それも、あんな形で。もしかするとこの出会いは運命かもしれないね」
 並んで歩き始めて十秒もしないうちに、一之瀬は生まれついてのプレイボーイさながらに、そんな歯の浮くような言葉を口にしてみせた。
 島崎は一之瀬と目を合わせないようにタイミングを計り、横をちらりと窺った。
「一之瀬さん、で合ってますよね?」
「ああ。どうして俺の名前を?」
「何で、って……一之瀬さん、今、かなり酔ってます、よね?」
「いや?」
 足取りはしっかりしていて、人助けをする余裕さえある。内容はともかく言葉は明瞭で発声も問題ない――だが、明らかにおかしい。
「じゃあ、飲んでましたか?」
「ああ。飲んでたよ、ついさっきまで。たくさん飲んでた」
 間違いなく酔っ払いだ、と島崎は確信を持った。それも素面のような顔で酔う厄介なタイプだ。
「俺を助けてくれたとき、家に帰ろうとしてるところだったんですよね?」
「ああ」
「なら、俺が今どこに向かってるかも?」
「さぁ。俺の家と同じ方向だけど……」
「そうです。一之瀬さんの家に向かってるところです。俺、送りますから」
「子どもじゃないよ」
 一之瀬は面白そうに笑う。
「分かってます。でも、助けていただいたので……」
「それは気にしなくても……って、あれ? 住所はもう君に教えたんだったかな」
「いえ。でも最初から知ってます」
 一之瀬は不思議そうに「うーん?」と唸った。
「でも俺は、君の兄の友人じゃないと思うよ。俺は友人の実家で飲んだことはないから」
 驚きのあまり、島崎は一之瀬の方をまともに見てしまった。一之瀬は『君の視線が得られるなんて光栄だ』とでも言いたげに微笑んだ。
「……聞こえて、たんですか」
「耳は良い方なんだ」
 そう、島崎は田中に嘘を吐いた。
 確かに兄はいるが酒は飲まないし、酒を飲める年になってから実家に友人を連れてきたこともない。島崎が一之瀬と会うのは『久々』などではなく、島崎は一之瀬が口説き魔らしいということを今日初めて知った。田中に耳打ちした内容は殆ど全て嘘だった。
 どうしてあんな嘘を吐いてしまったのだろう? 島崎自身にもよく分からなかった。衝動的にそうしてしまったのだ。
 そして結果的に、一之瀬と二人きりになった。
「一之瀬さん……俺のこと、分かります?」
「勿論。魅力的な人だってことはよく分かるよ」
「……名前とかは?」
「『夏』だろ? 彼がそう呼んでた」
 彼。田中だろう。
「じゃあ、俺の住んでる場所は分かりますか? 大体でもいいので」
「さっぱりだ。教えてくれるかな」
 島崎は答えなかった。
 一之瀬にとって自分が全くの他人であることに、少なからずショックを受けていたのだ。島崎の方は、一之瀬の顔も名前も覚えていたのだから。
「悲しそうな顔だね」
「いえ」
「俺の勘違い?」
「そうです」
「君はそんな表情をしていても綺麗だ」
「俺、男ですよ」
「それは分かるよ、さすがにね。女性のようだとか、男らしくないと言ってるわけじゃない。ただ……」
「……ただ?」
「心に浮かぶんだ。君は綺麗だって」
 安い恋愛ドラマの台詞でも聞けそうにない、甘過ぎる馬鹿げた賛辞でも、不思議なことに軽薄な響きはなかった。上辺だけではなく、本当に心の底からそう言っているように聞こえるのだ。
 だから田中は怯えていたのだろう。冗談でも単なる勢いでも悪意からでもなさそうな本気の振る舞いが、余計に不気味だったのだ。
 島崎は自分の鼓動が早いのも同じ理由だと思った。きっと自分はこの男を恐れているのだろう、と。
「それに、とても悪魔的で……」
「悪魔的?」
 島崎は聞き返した。――悪魔的、とは一体何を指しているのだろう。自分には一番縁遠い言葉だ。
 一之瀬は立ち止まり、島崎もつられて足を止めた。
「悪い意味に取ったのなら申し訳ない。そういうつもりじゃないんだ。ただ……君が凄く魅惑的で、人とは違う何かを持っているように思えたから」
「そんなもの……俺、持ってないのに」
「いや。持ってるよ」
 一之瀬が足を踏み出し、ふっと二人の距離が近付いた。一之瀬の手が島崎の髪に触れる――正確に言えば、島崎が被った偽物の赤い髪に。
 その瞬間、島崎はようやく思い出した――今の自分は、格好だけなら普段とは全くの別人なのだ。親兄弟ですら分からないかもしれない。何故忘れていたのだろう。この仮装並みの自身の変貌を忘れるほど、何かに気を取られていた?
「君の目を見ていると、自分がどこにいるのか分からなくなるんだ。君のことしか考えられなくなる。不思議な目だ……」
 一之瀬の手は髪から離れ、そっと頬に触れた。島崎は触れられた場所が火を灯されたように熱くなるのを感じた。
 街灯に照らされた一之瀬の顔を、島崎は見つめ返す。少し太めの眉、一重だが存在感のある目、高い鼻、やや厚い唇、笑うとえくぼが出来る頬。瞳は潤み、眼差しは情熱的で、まっすぐに島崎だけを映している。まるでこの世に存在している自分以外の人間は島崎ただ一人で、そして自分はそのたった一人の人間に熱烈な恋をしているのだとでも言っているような、そんな目だった。
 ……そんな目で見られたのは、島崎にとって生まれて初めてのことだった。他の誰も、そんな目で見つめてきたことはなかった。他の誰も。
 体が熱い。動悸が収まらない。
「いつもは……違うんです。今日だけなんですよ、こんなの」
「こんなの?」
「全部。全部です」
 一之瀬は微笑み、頬に触れていた手を下ろして島崎の手を取った。
「ということは、君は今夜だけ、俺の為に姿を現してくれた悪魔なのかな? いいよ、君と今夜過ごせるなら、俺はどんな契約だってする」
 息苦しくて、わけもわからず涙が出そうになる――島崎はそんな状態にある自分と、そんな自分に愛を囁く男をおかしく思った。馬鹿げた話だ。ほんの少し前までろくに会話もしたことが無かった自分たちが、道端で恋人同士のように見つめ合って、片方は砂糖菓子よりも甘い言葉で相手を口説き、もう片方は相手を拒絶するどころか――その男に、心を揺さぶられているのだから。とても正気の沙汰とは思えない。
 ――全部、冗談だろ? 島崎は胸の内で呟いた。
 何もかもが冗談だ。自分のこの恰好も、一之瀬も、こんな夜も。
「俺の残りの人生でも、魂でも。好きなようにしてくれていい」
「……代わりに、何を望むんですか?」
 島崎が苦笑しながら尋ねると、一之瀬は優しく微笑んでこう答えた。
「今夜、君と二人だけで過ごしたい。ただそれだけだよ」
 今夜。
 二人だけで。
 そして二人の間に何が起こることを一之瀬が期待しているのか、深く考えるまでもなかった。
 島崎は本当にそれが起こったなら、どんな気分だろうと考えた。よく知らない相手に、一晩、体を預けるのは? 島崎には同性との恋愛経験も性経験も無かった。それどころか、女性と刹那的な関係を楽しんだこともなかった。それはどんなものなのだろう? どんな違いがあるのだろうか? 気になった相手と何度かデートをして、当然そうなるだろうという過程を踏んでベッドに入り、ごく普通のセックスをするのとは?
「でも、君がそれを望まないなら、それでもいい。君と出会えただけでも、俺にとっては信じられないくらいの幸運だったよ」
 一之瀬はそう言って島崎の手を解放し、体を離した。そしてくるりと背を向け、そのまま歩き去ろうとする。
 島崎は一瞬にして全身が麻痺するような怖ろしい感覚の後、酷い喪失感に襲われた。

 ――あれほど熱烈に口説いておいて、そんな風にあっさりと諦めてしまえるような、それくらいの気持ちしかあなたの中には無かったのか?

「……一之瀬さん!」
 怒りからか、悲しみからか、絶望からか、それともそれ以外の感情からか、島崎はそう叫んでいた。一之瀬はすぐに立ち止まり、振り返った。その顔に笑みが浮かんでいるのを見て、島崎は自分が罠に掛かってしまったことを知った。

 そこから一之瀬の住むマンションまで、ほんの数分の距離しかなかった。歩いて行く間、二人の間にはあまり会話もなく、肉体的な触れ合いもなかった。エレベーターに乗って、一之瀬の部屋がある五階にたどり着き、一之瀬が鍵を開けるのを見ているとき、島崎にはまるで現実感というものがなく、さながら神経毒に侵されながら捕食者の巣に連れ去られる、哀れで儚い小動物のように無抵抗だった。
 開いたドアの中に招き入れられて、ドアが閉まる音を聞いた――と思った瞬間、島崎は一之瀬の腕に抱かれていた。力強い腕だった。島崎は自身の中を、もはや疑いようも否定しようもない感覚が突き抜けるのを感じた。

 ――俺はこの人と、恋に落ちてしまった!

 それも、階段から落下しそうになったとき、抱き締められ、見つめられ、賛辞を捧げられたとき、既に島崎は恋をしていたのだ。
 照明が点いて、一之瀬の瞳と目が合ったとき、島崎は強い欲望が起こるのを感じた。

 ――この人が欲しい。どうしても、何をしてでも。この人が欲しい!

 心を読んだように、一之瀬の唇が近付いてきた。島崎は目を閉じ、それを甘受した。一之瀬が自分を覚えていないことも、一之瀬が欲している男は普段の自分ではなく今夜限りの偽物であることも、今は気にならなかった。むしろ――好都合だと思った。一之瀬が自分を知らないなら、自分は今夜一番限り、全くの別人になれる。考えたこともなかったこと、信じられないようなことに身を任せてもいい。一之瀬だって今夜一晩の為に何を捧げてもいいと言ったのだから、それを与えるなら、自分には今、唇が触れ合い擦れ合う感触と、熱い息遣い、熱の塊のような二つの体が密着する心地よさを味わう権利があるのだ、と。
 島崎は自分が本物の悪魔になったように感じた。刹那的な快楽を享受し、誘惑的で無責任な自分を楽しみ、一人の男の命を――限りある人生の中の数時間を貪ろうと考えるのは、意外にも悪い気分ではなかった。

 息が上がるほど長い間キスを楽しんだ後、二人は体を離した。それから大急ぎで靴を脱いで、一之瀬は島崎の両手を取って中に上げた。玄関を上がってすぐに広めのキッチンがあり、一之瀬は島崎をそこにある小さな棚の上に座らせた。
「ワインは好き?」
「え?」
「とっておきのがあるんだ」
 島崎が頷くと、一之瀬はどこか奥の方からワインボトルを取り出し、コルクを引き抜いた。
「ああ、そうだ。ワイングラスが無いんだった……普通のグラスでも?」
 島崎がまた頷くと、一之瀬はロックグラスを一つ取り出し、それにワインを注いだ。血のように赤いワインの芳醇な香りが辺りに広がる。
「飲んで。君に飲んでほしいんだ。俺の特別な人に」
 勿論、島崎は言う通りにした。それまでに飲んだワインの中で一番の味だった。
「俺はベッドの用意をしてくるよ。ここで待ってて」
 一之瀬は島崎の頬に口付け、キッチンの先の扉を開けて、その中に入っていった。扉が閉まったので、島崎は大人しく座ったまま待っていた。シャワーを借りるべきかとも思ったが、その間に相手の気分が盛り下がってしまっても困るし、そうするように言われていないのだから、その必要はないのだろうと思った。
 島崎は男同士でどうやって『する』のか詳しくは知らなかった。ただ、向こうはまず間違いなく知っている。でなければ見ず知らずの男を家に連れ込まないだろう。
 だから自分は流れに身を任せていればいい。きっと素晴らしい経験になる筈だ――そんなことを島崎が考えていたのは、グラスの中のワインが無くなり、二杯目も丸々すべて腹の中に収まってしまうまでのことだった。
 一之瀬はいつまで経っても島崎を迎えには来なかった。扉の向こうに引きこもったまま、声すら掛けてこない。
 頃合いを見て自分から行くべきなのだろうか? そう思い、島崎は扉を開けて中に入った。
「一之瀬さん……?」
 返事はなかった。暗い部屋の奥でベッドが膨らんでいるのが見えた。
 間取りは知っていたが、それほど綺麗に片付いた部屋では無さそうだったので、踏んではいけないものを踏んでしまないよう照明を点けた。そして期待半分不安半分で、ベッドの方へと近付いて行った。
「……え?」
 期待は無残にも裏切られてしまった。
 一之瀬は毛布にくるまって、平和に寝息を立てていたのだ。


 それから島崎はキッチンに戻り、またワインを飲み始めた。
 そうする以外、どうすればいいのか全く分からなかったのだ。
 ベッドにいる一之瀬を叩き起こして続きをする? ――眠気を堪えながら服でも脱ぐのか? そんなの興醒めだ。
 なら、ここから出て行く? ――貴重品は身に着けている。すぐにでも出て行って、自分の家に帰ってもいい。でもそうしたくはなかった。本当にこれで終わりだと思いたくはなかった。
 だから、島崎はワインを飲んだ。悲惨な結末を迎えようとしている夜に、アルコールの分厚いベールを掛けた。醒めかけていた酔いは元通り以上に島崎の体を回り、島崎は自分が一之瀬の目覚めを待っているのか、それともただ、クライマックスを前にして砕けてしまった夢の残り香にしがみついているだけなのか、すぐに分からなくなった。


 何杯目か数えるのをやめ、グラスを持ったまま眠気に任せて目を閉じようとしたとき、物音が聞こえた。どれくらいの時間が過ぎたのだろう? 島崎はぼんやりと考え、音のした方に目を向けた。どうやら音の主は一之瀬らしい。目覚めたのだろうか?
 島崎の顔に笑みが浮かんだ。面白いことが起こるかもしれない――いや、起こせるかもしれない、と思った。一之瀬はどんな反応を示すだろうか? 失態を詫び、また誘ってくるだろうか? それとも我に返って、こんな男を連れ込んでしまったことを後悔するだろうか? どんな反応が返ってくるとしても、見てみたいと思った。それは復讐心というよりは好奇心、物語の結末を見届けたいという欲望だった。その欲望を満足させる為なら、何でも出来ると思った。文字通り、何でも。
 それに、もしかしたら――島崎は立ち上がりながら思った。
 可能性は低いが、彼はもう一度、あの目で、あの声で、あの熱を帯びた顔で、愛を囁いてくれるかもしれないのだ。


 島崎は一之瀬をからかい、誘惑し、一度掛けられた罠を掛け返して――その後は、起こるべきだったことが起こった。一之瀬が記憶を無くしていたこと、こちらをまるで不審者のように扱ってきたことには驚いたが、その後は意外にも上手く進んだ。
 島崎にもどうしてそうなったのかは分からない。ただ、一之瀬の中で何かが起こったのだ。ベッドの中で一之瀬は島崎を何度も綺麗だと言い、人あらざるものに魅入られたような目で見つめ、宝石でも扱うかのような手つきで触れてきた。
 美しい夢を見るには狭過ぎるベッドで、島崎は目を開けたまま、見たことのない夢を見た。欲望の対象にされること、崇拝されること、体を開かれること、求め合うことで、島崎はその夢を見ることが出来た。一之瀬が見せた夢だ。その夢の中では不思議なことに、体の奥深くに感じた痛みすらも幸福の形をしていた。




 島崎は夜明け前に一之瀬の家を出た。別れは言わず、眠る一之瀬を起こしもしなかった。それから自宅に戻り、軽く仮眠を取った後、シャワーを浴びて顔を綺麗に洗った。
 そして夢から醒めてしまったのだ。
 もう二度と、自分があんな振る舞いをすることはないと知っていた。あれはたった一度きりのことなのだ。どれだけ飲んでも、同じことは出来ない。
 一之瀬も――きっとそうだろう。
 だからあれが最初で最後だ。
 幸いなのは、どうやら二日酔いにはならずに済んだということだった。最悪な気分で目覚めたなら、美しい想い出も台無しになってしまうところだった。多少体は怠く、あちこち痛むが、耐えられないほどでもない。
 島崎は田中に連絡を入れた。昼過ぎに向こうの家へと出向き、預けたままの荷物を受け取りに行くことにして、また仮眠を取った。

 昼過ぎ、駅に自転車を取りに行った後、約束した通りに顔を見せると、田中はあからさまに安堵の表情を見せた。
「わー、良かった。あれから夏くんがお持ち帰りされてたらどうしようって、ずっと心配してたんだよ」
「ずっと?」
 田中の髪には酷い寝癖がついていた。化粧は綺麗に落とされているが、口元には涎の跡らしきものが残っている。
「まぁ正直、家に帰って化粧落としてから速攻布団に入って、さっきまでずっと爆睡してたけど……夢の中でもちゃんと心配してたから!」
「分かった分かった」
 受け取った荷物の中から眼鏡ケースを取り出し、予備の眼鏡と交換しながら言う。
「じゃあまた」
「え、もう帰んの? 中入ってかない?」
「やめとく。顔に『まだめちゃくちゃ眠いです』って書いてるから」
 田中が不思議そうな顔で昨夜のように自身の頬を擦り始めたので、島崎は笑いながら田中に差し入れのドリンクを手渡し、「おやすみ」と言って立ち去った。

 用は済んだので、あとは家に帰ってゆっくり過ごすつもりだった。昼寝をしてもいいし、夕食の為に何か手の込んだ料理をしてもいい。ギターかピアノを弾いてもいいだろう。日常に戻るのは別に難しいことでもない筈だ。昨夜まではそうやって過ごせていたのだから。
 結局昼寝をして、夕方になって買い出しの為に外に出た。スーパーで用を済ませた後、ついでに払い込みを済ませておこうと家の近所のコンビニに入ったとき、島崎は思わず声を上げそうになった。
 忘れようとしていた男の姿が――一之瀬の姿がそこにあったのだ。
 声を上げはしなかったが、入口付近で硬直したことで注意を引いてしまった。島崎は一之瀬が財布から自身の方へと視線を向けようとするのに気付き、急ぎ背を向けた。そうするより素知らぬ顔で店内に入るべきだったと後悔しながら、コンビニを離れて振り返りもせずに家に帰った。

 玄関のドアを閉め、それを背にして島崎はずるずると座り込んだ。まさか、まさか自分がこんな反応を示してしまうとは思っていなかった。すっかり動転して、怪しい行動を取ってしまった。気付かれただろうか? いや、目が合う前だった。それに、見たとしても同一人物だとは分からないだろう。それに分かったとしても――何が起こるわけもでない。何も起こらないのだ。
 島崎はそう自分に言い聞かせた。もう何も起こりはしない。何も。
 だが、そうはならなかった。
 玄関の呼び鈴が鳴ったのだ。ピンポン、と鳴るのがはっきり聞こえた。島崎は思わず立ち上がった。
 中の物音が聞こえたのか、それとも迷っていたのか、二度目の呼び鈴が鳴るまでには間があった。島崎は二度目を聞いた後、覗き窓を覗き込んだ――一之瀬だ。
 無視しようか? 何か言葉を発するのを待っていようか? 散々迷った挙句、震える手でドアを開けた。
「…………」
 どうやら一之瀬は驚いているようだった。ドアが開いたことに驚いたのか、それともそこにいたのが島崎だったことに驚いたのか。だがその表情は長くは続かなかった。島崎は一之瀬の目を見て、一之瀬が自分を昨夜の情事の相手だと理解したことを本能的に悟った。
「……入り、ますか?」
「……君が構わないなら」
 島崎は頷き、一之瀬を部屋に招き入れ、小さなテーブルセットの椅子を勧め、コーヒーを二人分出した。
「俺だって、分かったんですか?」
 一之瀬は曖昧に頷いた。
「確信はなかったよ。だけど、あんな風に逃げるなんてどう考えても怪しいだろ? だから会計を済ませた後、追い掛けたんだ。まさか君が……」
「自分の隣に住んでる男だとは思わなかった?」
「……俺と同じマンションに入っていくとは思わなかった」
 そう、蓋を開けてみれば単純な話だ。
 二人は隣同士に住んでいて、顔を合わせれば挨拶を交わす程度の面識があった。だから島崎は一之瀬の名前も、顔も、住んでいる場所も知っていた。
 といっても出勤時間も帰宅時間も微妙にずれているらしく、ひと月に一度すれ違えばいいくらいの頻度で、おまけに島崎はマスクをしていることが多かった。一之瀬が島崎の名前も顔も全く覚えていなかったのも無理はない。
「最初は俺の部屋に行くのかと思ったよ。でも俺は鍵をちゃんと持ってたし、コピーを取られたとは思わなかった。だから君もこのマンションの住人なんだって、追い掛けながら理解した。だけど途中で見失って……でも君が俺の顔と名前を覚えてたってことは、君が天才並みに記憶力のいい人間か、俺と距離の近い部屋に住んでるんだろうと思ったんだ。後は年恰好と勘で絞った」
 最初の呼び鈴の前に、近くで音が鳴るのは聞こえなかった。ということは、一之瀬は一発目で当たりを引いたのだ。
「その……体は? 大丈夫だった?」
 体。二日酔いのことを聞いているのか、それとも。どちらにしても答えは一緒だった。
「大丈夫です」
「昨日は……本当に申し訳ないことをしてまった」
「何で謝るんですか?」
 島崎は自身の声の攻撃的な響きに驚き、次に続けた言葉は意図して柔らかい口調で言った。
「一之瀬さんが謝るなら俺も謝らないといけないと思います。それに俺は……楽しかったですよ。あれはあれで……いい思い出になりました」
 別に一晩の関係以上のものを求めているわけではないのだと、さりげなく伝えたつもりだった。二人の物語はもう完結していて、ある筈もない続きを望んでいるわけではないのだと。
 一之瀬は複雑な感情が入り混じった奇妙な表情をしていた。島崎はあまり目を合わせることが出来なかったが、困惑と自己嫌悪だけは分かった。
「俺が一番後悔してるのは、自分で君を誘っておいてキッチンに放置して、起きたら何をしたのかすっかり忘れてたことだよ。ショックだったろ?」
 島崎は苦笑した。
「それはまぁ、そうですね」
「本当に申し訳なかった」
「謝らないでくださいって。今は気にしてませんから」
 島崎は苦笑してコーヒーを一口飲んだ後、ある可能性に気付いた。
「……あの、もしかして思い出したんですか?」
「大体は」
「結構……やっちゃいましたね?」
「そうみたいだ。もう酒はやめるよ」
 一之瀬が笑ったので、島崎もほっとして笑った。これで話は終わったも同然だ。一之瀬が玄関を出れば、二人はきっと他人に戻る。
「ああいう恰好は、普段から?」
「え? ……ああ、昨日の格好のことですか? まさか。そういうキャラでもないですから。昨日だけの悪ふざけですよ」
「ああ、だから一晩だけだって……」
「そうです。一回だけの話なんです。だから俺はもう二度とあんな風に……」
 島崎は、はっとして言葉を止めた。自分は何を言おうとしていたのだろう?
 気を害してしまったかもしれない。反応を窺う為にちらりと目を向けると、一之瀬は島崎の方をじっと見つめていた。目が合った瞬間、彼の顔には柔らかな微笑みが浮かんだ。
「俺は君のことを、悪魔みたいだなんて言ったけど……素顔の君は、どちらかというと天使的だ」
 島崎はぽかんと口を開けた。
 ――今、この人はなんと言ったのだろう?
「あの、今なんて」
「天使的だって言った。君は眼鏡を掛けてるのに、目に感情が出やすいみたいだ。近視?」
「……これは……、乱視矯正用で……」
「カラーコンタクトも合ってたけど、こっちも似合ってる。優しい顔つきに合うデザインで、素敵だ」
「……あの、ふざけてるんですか? それとも……酔ってる?」
「いや? ふざけてないし、一滴も飲んでない」
「なら、何で?」
「何でって、君が綺麗だから」
 当然だろ? という口調だった。そんなわけがない。
「あの……あの? まさか、その……昨日、俺を凄く褒めてたのって、素だったんですか?」
「いや、あの時は酔ってた。素じゃさすがに跪いたりはしないし、あんな大袈裟な言葉は使わない。素面ならよっぽど相手に頭がいかれてるときだろうな。……それでもあのとき、君を綺麗だと思ってたのは確かだけど」
「……ゲイじゃないのに?」
「それは関係ないだろ? 男好きだろうが女好きだろうが、普通、綺麗なものは綺麗だと感じるものだ」
「そう……ですか?」
「そうだよ。君は綺麗だ」
 一之瀬にはどうやら相手の目をじっと見つめる癖があるらしい。わざとか、無意識かは島崎には分からなかったが、どちらにしろ厄介だった。
「でも……口説いてますよね?」
「ああ。口説いてる。素面で、かなり勇気を出して、君を一生懸命口説いてる」
「……どうして?」
「運命だと思ったから。それに……」
「それに?」
「昨日、悪魔と契約したんだよ。一晩を一緒に過ごす代わりに、残りの人生と魂を捧げるってね」
「……へぇ」
 島崎もよく知っている話だ。
「だから本当は悪魔に魂を抜き取られて人生が終わる筈だったんだ。でも彼が何も取っていかなかったから――」
 一之瀬は両手を広げて、お手上げのポーズを取った。島崎はコーヒーカップに口を付けながら、話の行方を見守った。
「今は正直、時間を持て余してて」
「……じゃあ、俺は暇潰し?」
「いや、おまけの人生なら、好きなように生きようと思ったんだ。でもまぁ、見方によってはそうなるか」
「酷いですよ、そんなの。暇潰しだなんて」
「申し訳ない。悪かったよ」
 島崎は『天使的』に寛大さを示そうとしたが、そうするより一之瀬が立ち上がる方が早かった。
「長居しちゃ悪いから、そろそろ退散するよ。コーヒーをありがとう。それじゃあ」
 そう言ってあっさりと部屋を出て行き、キッチンを通って玄関へと向かっていた一之瀬の背中に、島崎は立ち上がって「一之瀬さん」と声を掛けた。
「……コーヒー。まだ飲み終わってないですよ」
 島崎は勝利者の笑みが返ってくることを覚悟した。わざわざ自分から罠に掛かりに行ったのだ。敗北は甘んじて受け入れるつもりだった。
 ……だが驚いたことに、振り返った一之瀬の顔にあったのは安堵と喜びだった。そして一之瀬は、ゆっくりと島崎の方へと戻ってくると、島崎の足元に跪き、そっと手を取ってこう言った。
「やっぱり君は天使だったんだな」
 島崎は耳まで赤くした後、耐え切れなくなって笑い出した。
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