一夜の悪魔(前編)

 馴染みのある柔らかな感触と匂いに包まれて、一之瀬正嗣の意識はふわふわとシャボン玉のように浮上した。

 ――ここは……どこだ?

 その問いを抱いた次の瞬間には、一之瀬は頬を緩めていた。自らの体を包んでいるものの正体に気付いたのだ。
 自身の体臭が染み込んだ毛布は間違いなく、自宅のソファベッドに置きっぱなしにしているもので、つまりここは愛すべき我が家だ。居酒屋のトイレでも道路でも電車の中でもない。
 顔の半分から下をすっぽりと覆っている毛布は頬や手足を擦り付けると心地よかったが、アルコールで体温が上昇した体には少し暑かった。一之瀬は緩慢な動きで毛布から抜け出し、目を閉じたままソファベッドから降りて、下に敷いていたカーペットに身を横たえた。ひんやりとした空気が一之瀬の火照った体を撫でる。今日はスーツではなく普段着なのだし、このまま眠ってしまおうか、という無精な考えが頭をよぎり、それを実行に移そうとしていたときだった。
「起きました?」
 至近距離から、男の声がはっきりと聞こえた。
 一之瀬は弾かれたように目を開け、身を起こした。
「だ……」
 見知らぬ男が立っている。それも、手を伸ばせば届きそうな距離に。
「誰だ、お前……」
 一之瀬はそう喉の奥から声を絞り出した後、目だけを動かして素早く辺りを見回した。
 角に傷が入った液晶テレビ、同じ台の上に載っている据え置きのゲーム機、重たげなガラステーブル、その上には携帯ゲーム機とコンビニの袋とカップ麺の空とアダルト雑誌、上部にチープな質感のバスケットゴールが取り付けられたゴミ箱、シャツや靴下や下着やタオルが積み上げられた洗濯籠……。
 それらが、一之瀬が今朝家を出た時と全く同じ配置でそこにあった。
 間違えようもない。ここは一之瀬が三年前から住み着いている賃貸マンションの一室で、特に不潔でも清潔でもない三十過ぎの男の臭いが染みついた1Kの部屋には、何もかもが正しく存在している。
 ――目の前の男を除いて。
「誰って……もしかして、覚えてないんですか?」
 一之瀬の防衛システムから明らかな異物と判断されたその男は、ただ一之瀬の記憶にない人物であるということを脇に置いても、かなり奇異な感じのする男だった。
 薄い幾何学模様が入った白のシャツに、血が飛び散ったような柄のネクタイを合わせ、上下揃いの黒のレザージャケットとレザーパンツを着こなす痩せ形の体。燃えるような赤い髪。長い前髪からは黒に縁どられた目が――薄い青の瞳が覗いている。美しいがどこか不穏で、異様な目つきだった。年は角度や見る場所によって十代にも、二十代にも、三十代にも見える。確かなのは男の人種がアジア系ということだけだ。
 一之瀬にとっては少々刺激が強過ぎるスタイルだった。それも街中ならともかく、自宅で起き抜けに出会ってしまったのだから。
「そんな顔、されるなんて」
 男は苦笑し、屈んで一之瀬と目線を合わせた。
「俺をここに連れ込んだの、そっちの方なのに」
 炎のような色の髪、美しいが冷たく攻撃的な目つき。少し低めの澄んだ声。漂ってくる微かなアルコールの臭い、そしてふいに鼻を掠めた魅惑的な香水の香り……。
 一之瀬は男の圧倒的な存在感に、言葉を失ってしまった。
「聞いてます?」
 男は首を傾げた後、手に持っていたロックグラスを口元に運び、中に入っていた赤い液体を一口飲んだ。一之瀬は一瞬それを血液だと思ったが、どうやらワインらしい――と分かったのは、男がグラスを一之瀬の口元に近付けてきたからだ。
「とりあえず、一之瀬さんも飲みましょうよ」
 グラスが唇に触れ、一之瀬は後退って逃れた。
「な、名前……、何で知って……」
 最後まで言葉を発することが出来なかったのは、男がじっと瞬きもせずに一之瀬を見つめていたからだ。一之瀬は完全に気圧され、冷汗までかき始めていたが、男はふっといきなり吹き出し、笑い出した。
「何でって! そりゃあ知ってますよ。だって俺、悪魔だし」
「あ……悪魔?」
「うん、悪魔」
 男は頷き、微笑んだ。ワインで唇が濡れていたのもあり、一之瀬の目にそれは妖艶で凄みのある、邪悪な笑みに見えた。
「さっき契約したじゃないですか。それも覚えてない?」
 それも、どころか、この男に関わることは何一つ覚えていなかった。一之瀬の記憶は会社の飲み会の後、数人の同僚と共に二軒目に移動し、更にその後三軒目に移動した辺りで途切れてしまっている。それからの記憶――ついさっき毛布にくるまった状態で目覚めるまでの記憶はすっぽりと抜け落ちて、今はとても取り出せそうになかった。
「覚えてない、みたいですね。まぁいいか。どんな契約したか聞きます?」
 目の前にいるのはただの酔っ払いか、酔っ払いを装った泥棒か、異常者か、本物の悪魔か。一之瀬には判断がつかなかった。ただの酔っ払いなら追い出せば済むかもしれないが、泥棒か異常者だった場合、下手に刺激すると殺されかねない。そしてもし本物の悪魔なら――お手上げだ。
 一之瀬は悩んだ挙句、頷いた。
「あのですね。一之瀬さんは俺と一晩過ごす代わりに、残りの人生全てと魂を俺にくれることになってます」
「……は?」
「ですから。一之瀬さんは、俺に自分の残りの人生全てと、魂を捧げるって言ったんです。俺とここで一晩過ごす代償に」
「……俺、が……?」
「そう、一之瀬さんが。素敵でしょう?」
 一之瀬は目を瞬いた。
「一晩って……」
 男は一之瀬の手に自身のそれを重ねた。男の指は骨ばっていて長く、その手の平は熱を持っていた。
「俺と何がしたいですか? 何でもいいですよ。今夜は一之瀬さんが望む通りのこと……何だってしますから」
 含みのある言葉に、囁くような声。触れたままの手から熱が伝わってくる。一之瀬は息を止め、ごくりと唾を飲んだ。背筋が震えたのは怖気からだったのだろうか。早鐘を打つ心臓が胸を内から叩くのを感じながら、一之瀬は喉の奥から声を絞り出した。
「何でも、なら……契約を破棄するとか、ここを出て行って欲しい、ってのは……?」
 男はワインをまた一口飲み、残念そうな溜め息を吐いた。
「契約は契約ですから。一之瀬さんは代償を支払わなきゃならないし、俺は一晩ここで過ごさなきゃならないんです。……ねぇ、本当に飲まないんですか? これ、結構美味しいのに。一口だけでも飲みません?」
 一之瀬は首を横に振った。悪魔を名乗る怪しい男から(あるいは本物の悪魔から)飲み物を勧められて、素直に喜んで受け取る人間がどこにいるだろうか?
 勧めを二度も断ったことで男が逆上するかもしれないと思ったが、どうやらその様子はないようだった。一之瀬はそっと男の手から自身の手を引き抜き、男を刺激しないよう静かに立ち上がり、それから慎重に距離を取っていった。
 男は離れていく一之瀬を不思議そうに見ながらもその場を動こうとはせず、一之瀬は無事、部屋をでてすぐ右手にあるトイレへと逃げ込むことが出来た。


 トイレに入ると一之瀬は素早くドアを閉め、鍵を掛けた。少なくともこれで暫くは身を守れるだろう。鍵付きのドアを一枚挟んだだけではない。トイレの位置的に、男が玄関のドアから外に出て行こうとすれば必然的にこのドアの前を通ることになり、その時はドアに開いた換気用の穴から足が見える筈だ。ドアを開けて追うか、それとも見過ごして男が出ていくのを待つか、それは一之瀬次第というわけだ。勿論、男が近付いてくる前にドアを開けて玄関から一之瀬が逃げる、という手も取れる。
 ――と、ひとまずの安心は得られても、事態が解決したわけではない。一之瀬は依然として男の正体どころか、彼がこの家にいる理由さえも思い出せないでいるのだ。
「ああ……くそ、飲み過ぎなきゃ良かった……」
 一之瀬は深く後悔していた。記憶を無くすほど飲んでしまったのはこれで七度目で、今回は間違いなく過去最悪の結果を引き当ててしまった。
 これまでは自分のいる店の全員の会計を支払おうとしたり、帰りのタクシーの中で延々と歌ってみたり、別れた恋人に連絡を取ってみたり、連れに下手な物まねや手品を披露したりといった平和的な迷惑行為を行うだけで、飲酒運転や器物破損、異性に無理に迫るといった犯罪行為に手を染めたことはなく(記憶はないが少なくとも周囲の証言ではそうだった)、反省している振りをしながらもどこか笑いごととして処理していた。
 一度、当時付き合っていた恋人に『いつか絶対に心から後悔するときが来るから』と予言されたことがあったが、今日までただの一度も真剣にその言葉を受け取ったことはなかった。まさに心から後悔するそのときになるまで、一度も。

 ――せめて三軒目に入る前に帰っていれば、お前はこんな目に遭うことも無かったんだぞ!

 一之瀬はそう自分自身を罵りながら、ポケットから携帯電話を取り出した。バッテリーの残りは二十パーセント弱。警察に電話を掛けて助けを求めるには十分な残量だ。
 だが、問題が二つ。
 果たして警察は、午前二時過ぎの『酔って家に帰ってうたた寝をして、目覚めたら自宅に見ず知らずの怪しい酔っ払いがいました』というバカげた通報に、真剣に取り合ってくれるものなのだろうか?
 二つ目の懸念は、あの男が泥棒らしくないということだった。泥棒にしては目立ち過ぎる容姿だし、武器らしきものも持っていない。部屋も荒らされた様子がない。揃ってアルコール臭を漂わせた二人は、傍からはもしかすると、不似合いな友人同士にすら見えるかもしれない。
 と、そこまで考えて、一之瀬は三つ目の問題の存在に気付き、自身の愚かしさを呪った。

 本当に友人同士であるという可能性も、もしかするとあるかもしれないのだ。


 一之瀬はトイレで長いこと考え込んだ後、ドアの前に誰も経っていないことを確認し、そっと鍵を開け、深呼吸してから静かにドアを開いた。ドアの横で待ち構えていた怪物に襲い掛かられることも想定していたが、現実にはならなかった。
 今にも口から飛び出そうな心臓を宥めつつ、素早くトイレの斜め向かいにある台所に向かい、鍋の蓋を取って(武器にも防具にもなりそうだという咄嗟の判断だった)部屋の方を窺う。
「…………」
 男はソファベッドに身を横たえ、一之瀬がそうしていたように毛布にくるまっていた。一之瀬から顔を背けているので眠っているのかどうかは分からない。油断させておいて、いきなり襲い掛かってくる可能性もある。一之瀬は鍋の蓋を構え、音を立てないよう注意を払いながらソファベッドの方へと近付いて行った。
 鍋を盾にしてそっと顔を覗き込む。どす黒い目元にぎょっとして一瞬身を引き、それからぐっと恐怖心を抑えてまた男を見下ろした。
 男は両目を閉じて、寝息を立てていた。
 ……どうやら本当に眠っているらしい。
 一之瀬は男から離れ、息を吐いた。そして自分の財布と通帳、印鑑、カードの類を全て調べ、手を付けられた様子が全くないことを確認した。
 つまり――と、一之瀬は結論を出した。見た目と言動は怪しいが、こいつはただの酔っ払いだ。
 おそらく三軒目の店か帰り道のどこかで意気投合して、家に連れ帰ってしまったのだろう。男の妙な言動はアルコールのせいで、朝になればきっと正気に返り、どういう経緯でここに来ることになったのか、もしかしたら説明してくれるかもしれない。
 問題は、それまでどうするか、ということだった。警察に連絡するような事態ではないし、かといって酔っ払いを外に放り出すわけにもいかない(うっかり死なれでもしたら困る)。プロ以外の助けを呼ぶにも、こんな時間に上手く対処してくれそうな友人や知り合いはいない。
 ということは、男を起こし住所を尋ねて家に帰すか、このまま朝まで寝かせておくしかない。いや、もしかしたらそれ以外の道もあったのかもしれないが、酔いが完全には冷め切っていない一之瀬の頭に、その二つの選択肢以外は何も思い浮かばなかった。


 一之瀬は鍋の蓋を戻しに台所へ戻った。そして先程は目に入らなかったワインボトルの存在に気付いた。
「おい……嘘だろ」
 封が開けられ、五分の四ほど中身が減ったワインは、一之瀬が棚の奥に仕舞い込んでいたものだった。
 普段ワインを飲まない一之瀬がそのワインを買ったのは、二年ほど前、付き合いで上司と行ったワインショップだった。わけもわからないまま雰囲気に流されて高価な買い物をしてしまったのだが、その後で自分にはワインを飲む習慣はなく、喜んで飲んでくれそうな恋人もいない、ということを思い出した。そしてそのワインは料理に使うには高価過ぎた上、そもそも一之瀬に手の込んだ料理を作る趣味はなかった。
 というわけで、そのワインボトルはいつか特別な機会が回ってくることを祈られつつ、大事に仕舞い込まれ――そして今日、持ち主のあずかり知らぬところで開封された挙句、おそらくその中身の大半が怪しげな酔っ払いの胃の中に消えてしまったのだった。
「…………」
 無言でワインボトルを手に持った一之瀬は、残りをぐっと飲み干した。味の良し悪しはよく分からなかったが、覚えのない味だということだけは分かった。舌にも残っていなかった味だ。眠り込む前に男と一緒に飲んだ可能性は限りなく低い。
 一之瀬は途方もない疲労感を覚え、部屋に戻った。相変わらず人のソファベッドを占領している男を見ても恐怖や怒りはもはや感じず、起こして家に帰そうという気力も湧かなかった。一之瀬はテレビ台の引き出しの奥から煙草とライターを取り出し、カーペットに腰を下ろして、テーブルの上に置かれたグラスを見つめながら煙草に火を点けた。
 半年ほど禁煙していたせいか、一口目で軽くせき込んでしまった。仕切り直して二口目に口を付けようとしたとき、一之瀬は自身に向けられている視線に気付いた。
 男はうつ伏せで横になったまま一之瀬の方に顔を向け、じっと一之瀬を見ていた。二つの視線は一時の間かみ合い、二人は無言のまま互いの目を見つめ合っていた。
「……何もしないんですか?」
 男は不思議そうな声で尋ねた。
「……するって、何を?」
「一之瀬さんがしたいって思ってたこと」
 しないの? と男はまた尋ねた。
「……悪いんだけど、何も覚えてない」
「全部?」
「全部。君のことも、君と出会ったことも」
「何もかも?」
「何もかも。……もし酔ってる間に俺が何かしてたのなら謝る。俺は君か君の連れに何かしたか?」
 もしかすると酒代やタクシー代を払わせたり、靴や服に吐いたりしたかもしれない。一之瀬はそう思って尋ねたが、男はこんな答えを口にした。
「キスされました」
「……は?」
「俺、一之瀬さんにキスされました」
 男の唇が柔らかな微笑みの形に変わる。それで一之瀬には、男がその『キス』を不快な出来事だと捉えていないことが分かった。
 ということは、男の話が嘘であれ真実であれ、一之瀬は知り合ったばかりの男に無理矢理迫り、トラウマを負わせたわけではないらしい。最悪な夜の唯一の救いだと一之瀬は思った。犯罪者にまでは堕ちなかったのだから。
 だが、依然として問題は残っている。一之瀬は煙草の火を消し、息を吐いた。
「……どういう流れでしたのかも覚えてなくて、本当に申し訳ないんだけど……俺はゲイじゃない。多分、悪ふざけだったんだと思う」
 だから俺に期待しないでくれ、と一之瀬は言外に伝えたつもりだった。どんな経緯でこの部屋に連れ帰ったのか覚えてはいないが、君とはもう何もする気はないのだと。
 一之瀬は男から目を逸らしていたが、視界の端で様子を窺っていた。
 それで、男がぐっと猫のように伸びをするのが見えた。そしてその肩が毛布の中から露出するのも。一之瀬はぎょっとして男に顔を向けた。

 ――この男は服を脱いでいる!

「ちょっ、ちょっと待て。おい、何で脱いでるんだ!?」
 思わず後退ると、男は怪訝そうな顔をした後、自身の体に目を向けた。
「え? ああ……いつもの癖で。俺、寝るときはいつも下着一枚なんです」
「寝るときって」
「眠るときですよ。服を着てると窮屈でよく眠れないから」
 一之瀬は溜め息を吐いた。
「くそ、本当に、もう勘弁してくれよ……」
 男はそんな一之瀬の様子を面白そうに笑いながら見ていた。一之瀬はとっくにお手上げの状態だが、男の方には余裕があるらしい。
「一之瀬さん、寒くないですか? 俺と一緒に毛布に包まれません?」
「包まれない。……ゲイじゃないって言ってるだろ」
「せっかくの機会なんだし、流されちゃえばいいじゃないですか」
「勘弁してくれ」
「じゃあ、俺にここから出て行ってほしい?」
「……出て行ってくれるか?」
「うーん、まぁ出来なくはないですけど、本当にそれでいいですか?」
 一之瀬が頷くと、それまでのやり取りは一体何だったのか、男は「わかりました」とあっさり答えた。
「では、契約は破棄ということで」
 男はそう言って体を起こし、テーブルからグラスを取った。その拍子で毛布が腰まで落ちる。着痩せするたちらしく、意外にも体つきは服の上から見たときよりもしっかりして見え、その肌はアルコールでしっとりと上気していた。
 グラスに残っていたワインが男の口の中に流れて行くのを、一之瀬は呆けたような顔で眺めていた。喉仏がごくりと動くのが妙にいやらしく見えたのは、それまで性的なアプローチを受けていたからだろうか。
 男はグラスを置き、毛布の下に敷いていたらしい服を着始めた。まるで事後のような雰囲気に一人気まずくなり、一之瀬は目を逸らした。
「それじゃあ、行きますね」
 男がそう言って立ち上がると、一之瀬は慌てて近くから紙とペンを取り、自身の電話番号を書いて立ち上がった。男は目線の位置が一之瀬と殆ど変わらなかった。
「もし何か他にも迷惑を掛けてたなら、出来る限り償う。……その時は連絡してくれ」
 差し出された紙片を、男は受け取らなかった。
「いえ、結構です」
「でも」
「いいんです。だって俺、悪魔ですから。必要ないですよ」
 動作はしっかりしていたが、もしかするとまだ酔っているのかもしれない。このまま追い出してもいいものだろうか? いや、きっと大丈夫な筈だ。
「……君の名前は?」
 男は微笑んだ。
「悪魔に名前なんて聞かない方がいいですよ」
「だけど」
「それに、もう二度と会うこともないんですから。名前なんて知る必要ない……今日のことは忘れます。さよなら」
 そして離れて行こうとする男の腕を、一之瀬は無意識に掴んでいた。
「あ……」
 自分がどうしてそんな行動に出てしまったのか理解出来ず、一之瀬は混乱した。
「一之瀬さん?」
 男の冷たく無機質な瞳は、じっと一之瀬を見つめている。作り物の、あるいは魔性の、人あらざるものの輝きが一之瀬の思考を麻痺させる。瞬く間に心臓の鼓動が、呼吸が乱れて、息苦しさを感じる。血が沸き立ち、視界が開けて、ふいに一之瀬の頭にある奇妙な考えが浮かんだ。

 ――何を犠牲にしても、この男を離してはいけない。

「行かないでくれ」
 一之瀬は自身の口から零れ落ちた言葉に耳を疑った。行かないでくれ――だって? ほんの数分前まで、お前は全く正反対のことを望んでいたじゃないか。
「今夜はここにいて欲しい」
 まるで体が、心が、頭が何かに乗っ取られていくようだった。
 やめろ、今すぐにこの男をこの家から追い出せ! ―ーそう自分に言い聞かせようとする理性の声は遥か遠くに聞こえ、早鐘を打つ心臓の鼓動で掻き消えてしまう。
 男は何も言わなかった。ただ、一之瀬から言葉以上のものを引き出そうとでもするかのように、その瞳でじっと見つめ返すだけだった。
 一之瀬は男を引き寄せ、恋人のように腰を抱いた。男は笑い、一之瀬の首の後ろに両手を回した。
「……ここにいたら、何が起こるんですか?」
 吐息は甘く、誘うようだった。男の纏う香りが一之瀬を包んでいる。一之瀬はそれ以外の全てのことを忘れて、男の唇に自身のそれを重ねた。柔らかな感触、男を強く引き寄せて体を密着させる。唇を深く味わっているうちに、一之瀬は男をベッドの上に横たえ、自身はその上に乗り上げていた。
 これからここで何が起こるかは明白だった。だがどうしてそうなったのか、一之瀬には分からなかった。
 男は一之瀬の頬に手を当て、その戸惑いを読み取ったかのように微笑んだ。
「俺が悪魔だからですよ」
 照明が消える。
 薄暗がりの中、一之瀬は組み敷いた男の中に悪魔を幻視した。その恐ろしい悪魔は笑いながら一之瀬の手を引き寄せ、黒い霧が晴れるように美しい男の姿に戻って、一之瀬に甘い口付けをねだった。
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