5.必然

「カズくんもお弁当なんだ。おばさんが?」
 体育館裏、後ろのフェンスとの間のスペース。体育館を囲むコンクリートの道は、人一人が楽に歩けるくらいの幅がある。
 教室や食堂は人目が多過ぎ、そう広くない中庭には先客がいて他に適当な場所がなかったので、俺達はそこに並んで腰を落ち着けた。
 体育館の壁に背を凭れて座った俺達の前には狭い砂利道が横に通り、その先は数本の木とフェンスがあるだけだ。体育館は解放されている時間帯だが、入口から正反対のここにわざわざやってくる物好きはそうそういない。つまり喧騒は聞こえても、顔を見ることも見られることも滅多にないのだ。悠木と何度かここで過ごしたことがあったので知っていた。
「いや、俺が」
「カズくんが?」
「三人分作ってる。大体週二でだけど。流星は?」
「父さんが。こっちに来てから俺と二人、当番制で作ってるんだ」
「……おじさんと流星だけ?」
「うん。俺だけ父さんの転勤に付き合ってこっちに来たから。母さんと詩音と琴音はあっちの方がいいって」
 シオンとコトネ。双子の名前はどこか懐かしく、そして少しだけ悲しく息苦しい感覚を俺に齎した。俺の記憶の中でまだ幼い顔をした二人は、俺が打ち捨てた過去を象徴する存在の一つだった。
「カズくんの、美味しそうだ」
 流星は蓋を開けたばかりの俺の弁当箱を見ながら言う。その声音と表情から判断するに、欲しいとねだっているわけではなく、ただ純粋に感想を述べただけのようだった。
「昨日の余りものと冷凍食品が半分」
「手作りなのは?」
「卵焼きとマカロニサラダ。ウィンナーは焼いただけ。……何か食う?」
 俺は流星の弁当をちらりと覗いた。開ける前から分かっていたことだが、サイズはそれほど大きくない。俺のものと比べると一回り大きいくらいだ。体型から考えるとそれで足りるとは思えなかった。
「うん、じゃあ卵焼き一つ、貰ってもいい?」
「いいよ」
「ありがとう。じゃあ俺のも何か一つ――」
「いや、俺はいいよ。そんなに腹空いてねぇし」
 トレードなら分けた意味がない。流星は「そっか」と頷いて卵焼きを食べ始めた。
「美味しい」
「普通だろ」
「いや、美味しいよ」
「どうも」
 それから弁当を食べ終わってしまうまで、俺たちは一言も喋らなかった。本当に、ただの一言もだ。
 その上ここに来るまでに交わした言葉と言えば「この学校、結構校則が緩いんだね」「そうだな」、「体凄いけど、何か運動やってんの?」「あっちでは近くの道場で柔道やってたよ」たったこれだけだ。
 俺達二人の間には明らかに不自然で奇妙な、居心地の悪い空気が流れていた。
 殆ど同時に食べ終わって弁当箱を包みに戻し、ペットボトルのお茶を何口か飲んだ後。
「……気まずい?」
 流星が口火を切った。そして俺と流星は同時に顔を合わせた。澄んだ青い瞳が俺を見つめる。
「……ごめん」
「何が?」
「今までのこと全部。連絡しなかったことも、引っ越す前に言ったことも」
「カズくんにはカズくんの事情があったんだって、今は分かってるよ」
 優しく穏やかな口調で言う流星に、俺は胸が締め付けられた。
「本当にごめん。悪かった」
「そんな顔しないで。申し訳ないとか自分が悪いとか、ずっと思って欲しくない。これで終わりにしよう」
 だけど、と口を開きかけて、俺は自己満足にしかならないその言葉を飲み込んだ。謝罪の言葉をいくら重ねたところで、やってしまったことは何も変わらない。
「それに……今更、小学生の時のことを蒸し返すつもりはないから。だから安心して」
「……安心って?」
「まだ恋人のつもりでここにいるわけじゃない、ってこと」
 俺は――ほっと安堵すると同時に、どこか失望し、胸が沈むのを感じていた。
 きっと俺はまだ流星の特別でいたかったし――もしかすると、まだ流星が俺のことを好きでいてくれている、そう期待していたのかもしれない。流星にした仕打ちのことを考えれば、そんなことを考える資格などあろう筈もないというのに。
「……そっか。分かった」
「だけど友達にはなりたい。……なれるかな?」
 幼さが削ぎ落とされた大人びた体で、流星は不安げに俺をじっと見つめながら言う。
「そんなの……当たり前だろ」
「よかった」
 流星は白い歯を見せて笑う。俺はあの頃の流星の面影をそこに見た。俺はその笑顔が大好きだった。胸に温かいものが広がり、俺は思わず口元を緩めてしまう。
「さっき歩いてるときに思ったんだけど、ちょっと見ない内に結構伸びたんだね、カズくんも」
「そうか?」
「背、百八十ある?」
「ジャスト。流星は?」
「プラス四センチ」
 そしてその筋肉だ。俺も暇なときは軽く筋トレをするのでモヤシではないが、流星の体は日常的に激しい運動をしている者のそれだ。
「すげぇ育ったなぁ。部活は? それだけタッパあれば勧誘来ただろ?」
「うん。けど中学では殆ど毎日道場に行ってたから帰宅部だった。部活より多分俺に合ってたし……こっちでもそうしようかなって思ってる。でも勉強があるから週一に減らすつもり」
「へぇ、そっか」
「カズくんは?」
「俺はバイトがあるから」
「何やってるの?」
「コンビ二。いつもは大体火曜と土曜に入ってる」
「そっか。偉いね」
「別に。稼いだ分は丸々自分の懐に入るから」
「今度こっそり仕事中のカズくんを見に行こうかな」
「こっそりじゃなくて普通に来いよ。何か奢るし」
 流星は微笑み、「うん、ありがとう」と頷いた。そして何かを考えるように少しの間黙り込んでから、ふいにまた口を開いた。
「カズくん……俺、実は昨日からずっと気になってたことがあるんだけど」
「なに」
「悠木さんとは、いつからの付き合い?」
「ああ。中一から」
「同じクラス?」
「そう。中二と高一では別だったけど」
 そう答えた後、俺は何気なくペットボトルに口を付けて、
「そっか。じゃあもしかして、悠木さんと付き合ってる?」
 ――お茶を噴き出しそうになる。それを何とか瀬戸際で押し止めようとして、気管にいくらか液体が流れ込んでしまった。
「カズくん。……もしかして、気管に入った?」
「いや、……だっ、……大、丈……っ……」
 そう何とか返事をしたものの、すぐに堪え切れなくなって俺は酷く咳き込み出した。俯いて口元に手をやると、その手に持っていたペットボトルがそっと抜き取られ、次に温かく大きな手が背中に触れた。流星の手だ。だがそれでもこの苦しみから逃れる術は無く、俺はただひたすらに呼吸が正常になるのを待ち、やがて胸の痛みと酸素不足で涙ぐみながらも顔を上げた。
「…………」
 クリアになっていく視界。薄い桃色を帯びた白い肌が見えた。そしてはっきりと目を開けると、澄んだ青の瞳は驚くほど近くにあった。五年前と何も変わらない灰色がかった青。それは俺の視線を吸い込み、抗う間も与えずに思考を止める。
 流星の方も俺の目をじっと見つめ返し――俺たちは少しの間、息が触れ合う至近距離で見つめ合っていた。だが髪と同じ色の睫毛を揺らして流星が瞬きをすると、俺はふっと我に返った。
「……悪い」
「……もう大丈夫?」
「大丈夫。むせただけだから」
「そっか。これ返すよ」
「サンキュ」
 流星は預かっていたペットボトルを俺に返し、元の位置に座り直した。
「……なぁ、その、悠木とは別に付き合ってない。仲は良いけど」
「友達?」
「そう。友達。……つか何で俺とあいつが付き合ってる、なんて思ったんだ?」
「何となく」
「何となく?」
「悠木さん、凄く優しくてかっこいい人みたいだから」
 本人が聞いたらさぞ喜ぶだろう言葉を、流星は真顔で言う。
「……そういう流星の方は? 付き合ってるヤツとか」
「いないよ。引っ越してきたばかりだし、向こうでも色々忙しかったから」
「そっか」
「カズくんは?」
「今は誰とも。中学の時は……彼女がいたけど」
「そんな感じがした」
「した?」
「うん。した。凄くした」
 茶化すような悪戯っぽい声で流星が言うので、それほど気まずくならずに済んだ。
「カズくんにまた彼女が出来るまでに、一緒に遊べたらいいな」
「当分誰かと付き合うつもりないし……出来ても流星と遊ぶつもりだけど」
「誘ってくれる?」
「誘う」
「本当に?」
「本当に誘う」
 流星は小さく声を上げて嬉しそうに笑った。体が大きくなっても相変わらず可愛い笑顔を横目で見ながら、こんな風に笑う流星を自分はずっとないがしろにしてきたのだと思う。
「今誘ってもいいなら誘うけど」
「うん」
「いつが空いてる? 俺は来週なら水曜か木曜の放課後か、日曜が空いてる」
「日曜は悠木さんのところだよ」
「悠木のところ?」
 流星は不思議そうに首を傾げる。
「悠木さんのバイト先に、俺とカズくんの二人で遊びに行くんじゃなかった?」
「…………」
 そんな話を流星や悠木にした覚えはないし、話を聞いたのもこれが初めてだった。だが九十九パーセントの確率で悠木が勝手に予定を決めて流星に話していたのだろうということは、経験から即座に理解出来た。
「じゃあ日曜はあいつのところで……何時からって言ってた?」
「『三時半くらいにおいで』って言われたよ。四時上がりだからって」
「三時半か、じゃあ――」
「『それまでは二人でデートしてきなよ』って」
「デートって……」
「昔のこと、悠木さんに話した?」
「いや話してはない……」
 今朝のことを思い出す。悠木はもしかすると俺達のことに勘付いているのかもしれない。
 ――いや。ただ茶化して言っただけだろう。
「……デートじゃねーけど、早めに会ってどっか行く?」
「行く」
 即答。
「どこ行く? 昼飯は?」
「カズくんの家は?」
「あー……、その日は奈央が友達連れてくることになってる。そっちは? どっか店に食いに行ってもいいけど」
「うちがいいな。父さんも会いたがってたから」
 それから少し話し合った結果、待ち合わせの場所は流星の家の最寄り駅に決まった。学校からも俺の家からもやや離れたところだ。時間は十一時。昼は流星の家で取ることにした。
 おじさんは昼から仕事があるそうなので、数時間は流星と二人きりということになる。
「何か緊張するな」
 呟くように言うと、流星は笑って、
「緊張することなんて何もないよ。あっちの家にはよく遊びに来てたんだし」
 と答えた。
「緊張するもんは緊張するんだよ」
「顔には出てないよ?」
「表情筋が死んでるから。……ってよく言われる」
 いつからだろうか。感情が薄い、とよく言われるようになった。中学の時に付き合っていた彼女と別れることになったのは、俺が彼女の前でも本当の感情を出さないとか、本音を言わないとか、そういう印象を与えてしまったことで彼女の信用を失ったからだった。
 人並みとは言わないまでも、俺もそれなりの感情を持った人間なのだが、実際自分でも何を感じ何を思っているのか分からないときがある。だから他人が俺を無感情で無感動な人間だと思うのは多分、当然のことなのだ。
「でも、昔の癖はそのままだね」
「癖?」
「うん。職員室に入る前とか、嘘を吐く前とか、人に謝りに行く前とか……、こうやって顔をほんの少し上げて、瞬きせずに前を見ながら鼻から息を吸い込んで、三秒くらい息を止める癖。緊張してるとき、カズくんいつもやってたよ」
 実践してみせる流星の横顔を見ながら、俺はいつかトランプゲームで負け続きだったとき、流星にそういう癖があると指摘されたことを思い出した。
「……忘れてた。よく覚えてたな、そんなこと」
「記憶力、良い方だから」
 流星は微笑み、「俺そろそろ行くよ」と言って立ち上がった。
「日直だから、次の授業の資料を取りに行かないといけないんだ」
「ああ、うん。また連絡する」
「うん」
「流星」
 俺は立ち上がり、柄ではないと分かっていながら、言うべきことを言う為に口を開いた。
「あのさ。こんな風に偶然またお前と会えるなんて思ってもみなかったけど……、俺、本当にまた会えて嬉しいと思ってるから」
 笑ってくれると思った。俺も、と返してくれるのだと思っていた。
 だが流星は俺をじっと見つめ「違うよ」と小さく言った。そして次の瞬間――俺は、流星に抱き締められていた。
 厚みのある体が押し付けられ、力強い腕が俺を強く引き寄せる。まだ真新しい生地の香りが残ったブレザーのジャケットから、俺の鼻腔は微かに懐かしい匂いを嗅ぎ取った。胸を締め付けるようなそれは――流星の匂いだ。
「偶然じゃない。偶然なわけない。会いに来たんだよ。カズくんに会いに来たんだ。僕、ずっとカズくんに会いたかった」
 流星は俺を抱き締めたまま、泣き出しそうな声でそう言った。
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