誰かの神様

 家から外に出るなり、冬の夜の冷たい空気が頬を撫でた。僕は思わず体を震わせ、家の前に止まっている車の方へと急ぎ歩いて行った。
「あけましておめでとう。今年もよろしくお願いします」
 車の助手席に乗り込んで、運転席の人間に声を掛ける。
「よろしく」
 素っ気ない返事をするのは、僕の恋人――青葉翔太だ。たった四文字で済ませられたのは、決して機嫌が悪いからではないことを僕は知っていた。ただこういったお決まりの挨拶を面倒がっているだけなのだ。
「神社の近くにコンビニがあるよ。他に車を停められそうなところないから、そこに置いとこう」
「そこから徒歩何分?」
「二分くらい」
 車が動き出し、いつもより少し明るい住宅街を進んでいく。
 普段ならとっくに静まり返っていてもおかしくない時間帯だが、新年を迎えてまだ数分の今はあちこち明かりが点いたままだ。皆、家族で年越しのテレビ番組でも観てるんだろうか。
「次は?」
「左。それからはずっとまっすぐ」
 こんな夜中に何をしているのかというと、僕たちは二人で近所の神社へ初詣に行くところだった。
 と言っても元々は翔太とではなく、実家の家族と行くつもりだった。新年、日付が変わってすぐの時間に家族四人で近所の神社に歩いて行く――僕が物心つく前から続いている、毎年の恒例行事だった。何故なのかと聞いたことがある。父さんの答えは、うちは皆信心深いほうじゃないから、それを逃すとなんだかんだと理由をつけて行かなくなるんだよ――だった。
 今年翔太と行くことになったのは、僕以外のメンバーが全員出席不可になったからだ。
 母さんは食あたりでダウン中。祖母は足腰が悪く就寝が早いため元々不参加。柚花はつい昨日風邪が治ったばかり。父さんは母さんと柚花が部屋に籠っているのをいいことに、テレビを独占しながらの晩酌で潰れてしまった。
 ということで、母さんからの『私の分も一年の挨拶とお願いをよろしく』という指令を一人でこなすことにした――と三十一日の夜、青葉家で過ごしている翔太に電話で話すと、一緒に行くと言い出して、急遽二人で行くことになったのだ。
「電話でも言ったけど、本当にすぐ済むよ」
「ふーん」
「おじさんとおばさん、元気だった?」
「特に変わりなし」
「アキも?」
「昼間ずっと遊んでやってたからバテて寝てる」
 当初、青葉家の飼い犬のアキは僕たちの引っ越し先に付いてくる筈だったのだが、引っ越し先で隣になった家族の犬と相性がすこぶる悪く、考慮の末、実家に戻っておじさんたちの庇護下に置かれることになった。以降、おじさんのダイエットのサポーターになっているのだという。
「お前の言ってたコンビニってあれ?」
「うん」
 コンビニの駐車場はがらがらだった。翔太は神社に行く前に、喉が渇いたといってコンビニでカップのホットコーヒーを一杯買った。
 目的地の神社は近所の人間くらいしか来ることもない小さなところで、常駐の神主はおらず、参拝者の列も出来ないところだった。コンビニから歩いていく途中、その神社に向かっているらしき人間は一人も見掛けず、神社の中にはちょうど入れ替わりで出ていこうとする六十代の夫婦がいるだけだった。夫婦は神社のすぐ手前にある家に消えて行った。
「つか誰もいねーじゃん」
「まぁ、車で十五分のところに大きな神社があるしね」
「あっちは毎年うざいくらい人いた」
「行ってたの?」
 少し驚いて、横を歩く翔太の顔を見た。
「中学高校のとき。付き合いで」
「ああ……」
 カミサマなんて、もしいたらぶっ殺してやる、と言っていたときの、翔太の声と表情をまだ覚えている。その時の憎悪の炎が今も翔太の中で燃えているわけではないとしても、わざわざ会いに行って頭を下げたいと思うほど心変わりもしていないことを、僕は知っていた。
 今日一緒に行くという話が出た時、大丈夫なのだろうか、と思った。別に翔太が行く必要は無いし、僕も絶対に行かなければいけないというわけでもなかったから、やめようかとも検討したのだ。それでも翔太が行くというので折れたのだが――大丈夫ならよかった。安堵しながら、短い階段を上っていく。
 神社はしんとしていて、冷たく、臨時で設置されているらしい照明の場違いな明るさが目についた。奥の少し手前には参拝の為の場所があり、脇におみくじの箱が置かれていた。翔太はそこまで僕と一緒に歩いて行ったが、参拝する気はないらしく、近くの柱に背を預けてコーヒーを飲み始めた。
 隣に翔太が並ばなかったことに何故か少しほっとしながら、賽銭箱に母さんから預かった千円を入れ、自分の財布から小銭を投げた。六年ほど前から鳴らなくなった鈴の紐を適当に揺らすと、今年は微かに鈴の音が聞こえた。
 ――そして滞りなく参拝が済んで、僕は振り返った。翔太はずっと僕を見ていたらしく、視線がすぐにかみ合った。
「終わったよ」
「全部終わり?」
「うん、全部終わり。行こうか」
 翔太は頷き、僕にコーヒーのカップを差し出した。受け取って一口貰ってみる。残りは三分の一といったところだった。
「願い事は?」
 神社を出るなり、翔太はそんなことを尋ねてきた。
「願い事?」
「さっきしてただろ?」
「え、ああ……うん。母さんの代理で、今年も家族みんな健康に過ごせますように、って」
「代理? お前のは?」
「ああ……うーん。忘れてた……」
「はぁ? 戻るのダルいんだけど」
「うん、いいよ。特に何か考えてたわけでもないし」
「ふーん」
 翔太は意外そうな顔をした後、僕の手からカップを取り返してコーヒーを飲み、空になったカップを僕の手の中に戻した。
「今から二人でどこか行こうか?」
 翔太は首を横に振り、あくびをした。
「朝早いから帰って寝る。お前の顔、見に来ただけだし」
「……それだけの為に、こんな夜中に車運転してきたんだ?」
「そうだけど、何か文句でもあんの?」
 僕は首を横に振った。
「ないよ。僕も翔太の顔見たかったし」
 片方の手袋を取り、翔太の冷えた手を取った。コンビニまであとほんの数十メートルだったが、そうしたかったのだ。翔太は僕の手を握り返した。
「明日、っていうかもう今日だけど、何する予定?」
「初売り行って、映画。お前は?」
「あー……母さんと柚花の付き合いで初売り。二人に外に出る元気が無かったら、代わりに福袋を買いに行かされる、かな」
「は? パシリかよ。だっせー」
「翔太だって、初売りとか全然興味ないくせに」
「見たい映画はあるからいいんだよ」
 コンビニに着くと僕たちはどちらからともなく自然に手を離した。それから僕はお土産用に肉まんを、翔太は自分用に炭酸を買って車に乗り込んだ。
「そういえば、三日と四日はどうしようか?」
 僕の勤める会社は七日まで正月休みだが、翔太の勤める写真スタジオは五日が仕事始めなので、僕たちは三日の昼過ぎに自分たちの家へと帰り、残りの休みを一緒に過ごすことにしていた。
「どうするって?」
「久し振りに遠出する? 日帰りで温泉とか。僕が運転するよ」
「いい」
「じゃあ家でゆっくり?」
 翔太は答えなかった。ちらりとその整った横顔を窺ってみると、『何だよ』とでも言いたげな視線が返ってくる。僕は気付かない振りをした。
 それからは特に会話もなく、明らかに行きよりも暗くなった住宅街に入り、程なくして僕の家の前に辿り着いた。照明は殆ど消えていた。
「じゃあ……おやすみ。送ってくれてありがとう。寝坊しないように気を付けて」
「徹夜する。寝なきゃ寝坊もしないだろ」
「またそんなこと言う……映画館で寝落ちするよ」
 鼻で笑われてしまった。僕は車を出ようとドアノブに手を掛け、少し考えて、翔太の方に向き直った。無言で僕を見つめ返す翔太に身を寄せ、その白い頬に手を伸ばして顔を僕の方に向け、軽いキスをした。離れる前に翔太が二回目のキスをする。
「……なぁ、悟。帰ったら……」
 唇に翔太の吐息が触れた。
「帰ったら?」
 僕が尋ねると、翔太は甘えるように鼻を擦り付けてきた。
「四日の夜まで、二人でずっとセックスしてたい」
「……うん。分かった」
 三回目のキスをして、体を離した。それから僕が唇の端を上げると、翔太もにやりと笑った。
 二回目の別れの挨拶はしなかった。外に出て、視界から車が消えるまで見送ると、僕は家に戻った。


 一人で起きていた柚花に肉まんを奪い取られた後、自分の部屋に戻った。自分の部屋、といっても家を出てからは半分物置になっている部屋だ。バスケットボール大のふくろうの置物に躓きそうになりながらベッドに向かい、部屋着に着替えて横たわった。 
 電気を消し、目を開けたまま翔太とのやり取りを思い出す。
『二人でずっと――』
 そして頭に思い浮かぶのは、二人の家の玄関に立っている翔太の姿だ。長い指が鍵を回し、ドアを開いて、僕の腕を掴む。僕たちは吸い込まれるようにして中に入る――。
 ドアが閉まるなり、翔太は僕を壁に押し付け、唇と唇を重ねてくる。だがその唇はすぐに離れて行き、欲情しきった黒い目が僕を見下ろすのだ。
『悟……』
 翔太の掠れた声が僕の体をぶるりと震わせる。ああ、早く――今すぐにでも翔太の中に入りたいと思う。
 場面が切り替わって、僕たちは暖かい部屋で裸になっている。抱き合って、キスをして――僕の顔は少しずつ下に降りていく。鎖骨に唇を落とし、乳首を甘噛みして、薄い腹に何度も口付ける。翔太のほっそりとした腰を撫で――白い太ももの付け根に移動すると、翔太の足がシーツを引っ掻く。
 それからどうなるだろう?
 ――次に見えたのは、僕の上にいる翔太の姿だ。翔太は僕の左腕と腹筋に手を置いて、腰を揺らしながら僕を見下ろしている。カーテンの隙間から入り込んだ光が翔太の余裕無げな顔を照らし出す。上気した顔から滴り落ちた汗が僕の胸を濡らすのが見える。心拍数を上がり、息も上がっていく。もうすぐ、もうすぐだ。翔太の中が締まる。
『悟、ああ、悟、悟、悟……!』
 翔太は何度も何度も僕の名を呼び、僕の腕と腹に爪を立てる。翔太の体が痙攣する――腹に温かな感触が広がっていく。そして僕は倒れ込んできた翔太の体を抱きとめながら、翔太の中で達するのだ。
 ……その先は?
 多分、今度は翔太が僕の下にいる。僕は翔太の足の間にいて、ゆっくりと動いている。僕たちは一度目よりも緩やかに事を進めようとしていて、時折動きを止めてはキスをしている。翔太の体は手足の先まであたたかく、中は柔らかく解れて僕を受け入れている。
 僕たちは静かに、少しずつ、ゆっくりと登りつめ、一度目よりも長く深い快感を二人で味わう。僕は震えている翔太の体を抱き締めながら、翔太への思いで胸がいっぱいになっている。自分はこの腕の中の存在を誰よりも深く求め、そして心の底から愛しているのだと思う――。

 暗闇の中、僕はふっと息を吐いた。
 そして今、このベッドの上にいるのは僕一人だけだということを思い出した。想像の中で抱いた体は遠く離れた場所にあって、僕の傍にあるのは冷たい空気だけだ。
 どれだけ時間が経ったのだろう? 翔太はもう家にたどり着いた頃だろうか? 僕は上がり過ぎた体の熱を誤魔化す為にそんなことを考え、すぐに逆効果だということに気付いた。
 何度も溜め息を吐き、体の向きを五回ほど変えた後、やっと睡魔がそろりそろりと僕の部屋に忍び込んできた。その睡魔が僕の瞼に手を伸ばそうとしたとき、僕はふと神社のことを思い出した。
 ……そういえば僕自身は、一体何を願おうとしていたんだっけ?
 し忘れた願い事を頭のどこかから拾い上げようと暫く静かに奮闘して、僕は元々そんなものが無かったことを思い出した。
「……ああ、そっか」
 願い事など何も無い――どころか、僕はもう何年もあそこに祀られている神が僕の為に何かしてくれるとは思っていなかったし、期待してもいなかった。
 一体いつからだろう? 翔太と出会ってから? それともその前から? 分からない。
 確かに『神様なんている筈がない』と感じていた時期があった。だが、どうして僕にこんな仕打ちをするんだと呪ってみたこともあったし、なりふり構わず縋り付いて懇願したこともあった。
 今はどうだろう? 全く信じていないのだろうか――それとも。

 少し考えてみて、僕は自分なりに答えを出した。
 僕は神を信じているともいえるし――信じていないとも言える。
 僕にとって彼は(あるいは彼女は)遥か遠い場所にいて、僕のことなど知りもしないし、僕を気にかけてもいない。そして僕も彼のことを何も知らない。それは僕の神様ではなく、知らない誰かの神様、そう、僕じゃない誰かの神様なのだ。
 何故なら僕がそばにいて欲しいと願い、決して裏切らないと誓いを立て、永遠に心の中に住まわせる存在は一人だけで――。
 そこまで考えて、僕は一人静かに笑った。それからゆっくりと目を閉じ、待ち構えていた睡魔に身を任せた。
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