5.清める
次に信治が目覚めたとき、男は一メートルほど離れた場所に腰をおろして信治をじっと見つめていた。
「おはようございます」
男は相変わらず柔らかい頬笑みをその顔に浮かべている。信治には叫び声を上げる気力がなかった。
「お、はよう、ございます……」
泥のように眠っていたせいか、頭痛は消えていた。信治は体を起こし、不快な湿り気を帯びた髪を後ろに撫でつけるようにした。もう何日も入浴していない。
「喉は渇いていませんか?」
男が立ち上がって差し出してきたペットボトルを、信治は少し迷ったあと、受け取った。喉の渇きは酷く、男に対する恐怖心と拒絶感は大分落ち着いていた。ラベルを剥がし、一通り細工の跡がないのを確認すると、キャップを外した。
「何も……入ってないんですよね」
「はい、もちろん」
信治は無色透明の水を数秒見つめ、男の顔をちらりと見た後、口をつけた。起きぬけに喉を通る水はひんやりとしていて、恐ろしく美味だった。そのまま一気に飲み干し、男に空のボトルを返した。
「何か召し上がりますか?」
少し考えた。この数日でかなり消耗している。鏡があれば、伸びかけの似合わない髭と深い隈が刻まれた病人のような顔が見られるだろう。
「……缶詰、を」
「分かりました」
「あと」
ドアの方に向かい始めた男は振り返った。
「……ウェットッティシュとか……濡れタオルとか」
「濡れタオル?」
「体がべたべた……してるので、だ、駄目だったらいいです」
「分かりました」
男が出ていくと、信治は体力の消耗を感じて横たわった。男と話すと、ひどく疲れる。緊張するせいだろうか。あまり元気のない筋肉は不意を突かれたときに備え、目は男と視線が合わないように彷徨いながら動向を窺う。男から見れば、信治は神経質なモルモットのように見えたかもしれない。籠の中で右往左往する、無力な生き物。
十数分で男は戻ってきた。両手に大きなプラスチックの籠を抱えている。その籠をテーブルの横に降ろし、中から缶詰を何個か取り出して抱え、信治の方へと近付いてきた。
「桃と、ミカンと、サバ煮込みと、ツナと、ビスケットです」
そう言いながら男は一個一個信治の前へと置き、最後に缶切りとスプーンを信治に差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
バラエティ豊かな缶詰は、信治の食欲をそそるラベルが貼ってあった。間違いなく市販品だ。買い置きをしていたのだろうか。信治が差し出されたものを受け取ると、男はテーブルの方へと戻り、流しに近い方の収納棚を開けた。観音開きになるタイプの戸であったため、正面からでなければ中は窺えない。信治は何度かその中に仕舞われているものを想像してみたことがある――例えば肉を切り刻むナイフ、骨を断つ鋸、血に濡れた皿。心臓が破裂しそうなほど高鳴り、スプーンと缶切りを握る手に力が入る。とうとう実力行使に出ることにしたのだろうか。しかし男が取りだしたのは、銀色に光る鍋ひとつきりだった。男はその鍋を流しで軽く洗ったあと水をたっぷりと注ぎ、火にかけ、それから椅子に座り、テーブルに手をのせて信治の方へと顔を向ける。信治はさっと目を逸らした。
「信治くん、開け難いですか?」
「……えっ、あ、いや」
缶切りを握り締めたままだったのを勘違いしたのか、男は信治が缶を開けられずにいるのだと思ったようだ。大丈夫です、と信治は慌てて缶を手に取った。一応缶に細工がされていないかを確認する。五つのうち三つは缶切り不要のタイプで、いずれも開封された形跡はない。少し迷った後缶切りとスプーンをツナの缶の上に置き、ビスケットの缶を取った。上部にある少し浮いた輪に指を入れて引っ張る。中には小分けされたビスケットの袋が三つ。封を開けると小麦の匂いが鼻腔に届き、ぐっと食欲を刺激された。麻痺しかけていた欲望は、久々に目にするまともな食料に眩暈がしそうなほど強く蘇る。思い切って一枚口に入れると、あとはもう止まらなかった。男の視線も気にならないほど夢中で食べる。咀嚼の仕方を忘れていたせいで途中むせそうになるのを堪え、あっという間に一缶食べきってしまった。縮んでいた胃が動き始めると痛みすら感じたが、信治は続けて桃の缶を手に取った。うまく力が入らないのに苛立ちを感じながら缶切りを動かし、完全に開き切る前にスプーンを突っ込んだ。シロップで光る白桃は柔らかく、舌の上で甘く崩れた。四切れの桃をすぐに平らげ、シロップまで飲み干して缶を置き、その中にスプーンを入れて溜息を吐いた。これ以上食べると吐き戻してしまうかもしれない。体は万全の状態ではなかった。
男の方をちらりと窺うと、鍋の方を覗きこんでいるところだった。男は中を見ると軽く頷き、火を止めた。それから持ってきた籠の中から大きめの青いバケツを一つ取り出し、その中から更に厚みのあるタオルの山と布のようなものを取り出して、バケツを流しに置いた。水を注ぎ、その中へ鍋の湯を入れる。温度を確認するためかその中に手を数秒差し込んだあと、男はバケツを取り上げ、タオルと布を反対の手に抱えて信治の方へと歩いてきた。
「始めましょうか」
男は後ずさりする信治のパーソナルスペースを侵す距離まで近付いて膝をついた。持ってきたものを傍らに下ろし、男はタオルを一枚手にとってバケツの中へ入れた。
「……何を、ですか」
困惑して問いかけた信治に男は首を傾げた。
「体を拭くのでは?」
確かに濡れタオルが欲しいと頼んだが、信治が想像していたのとは少し違う。バケツからは湯気が立ち、真新しいタオルはふわふわとしていかにも触りごこちが良さそうだ。濡らした雑巾か何かを渡されると想像していたため、男がバケツを持って近付くのを見たとき、それで拷問を受けるのかと冷や汗をかき始めたというのに。しかしこれまでの男の振る舞いを考えると、食人鬼らしからぬ親切さはむしろ自然だった。
「ああ……あ、これで体を拭くって事なんですね、あの……えっと」
「はい。服は自分で脱げますか?」
質問の意味を一瞬捉えかねた。しかし男が自分のシャツに手を伸ばそうとするのを見て、やっと男が世話を焼こうとしているのに信治は気付いた。ただ用意するだけではなく、自らの手で信治を清めようというのだ。
「ちょ、ちょっと待って」
信治はぐっと後ずさった。
「どうしたんですか?」
「ど、どうしたっていうか……俺自分で」
「やり辛いでしょう」
「い、いや、大丈夫です、俺自分でやります」
自分を監禁し、喰おうとする男に触れられることへの嫌悪感や恐怖も確かにあった。しかしそれより強いある感情によって、信治は必死になる。近付いてほしくなかった。肌や髪、汗を吸った服から漂う不快な臭いを嗅がれたくなかった。排泄物の処理はされている。しかしそれとこれとではまた話が違う。こんな極限の状況で臭いを気にする自分を滑稽だと思いながら信治は羞恥に顔を赤くした。
「信治くん、大丈夫ですよ」
男は頑なに拒む信治に微笑んで見せた。自由を奪われた体では逃げようもない。信治の顔は赤から血の気の引いた真っ青に変わり、恐怖と羞恥と混乱で心臓は激しく脈打っている。僕に任せてください、という男の声が遠くに聞こえる。気付けば薄汚れたシャツのボタンに手をかけられていた。
「大丈夫です」
まるで幼児に話しかけるような優しく穏やかな声で男は言った。鼻が利かないのではないのかと疑ってしまうほどその顔に変化がない。頬笑みは一瞬も崩れなかった。手つきは滑らかで、固まっている信治の体からするすると服を脱がしていく。しかし手首の拘束のせいで完全に取り払うことは出来ない。男は上着のポケットから小さな鋏を取り出し、それで厄介な部分を切り落とした。その一連の動きは計画されていたような素早さで行われたため、信治には声を上げる暇もなかった。鋏は元の場所へ、用済みのシャツは男の背後に置かれた。
「頭から始めますね」
男はバケツの中に沈めていたタオルを取り上げ、ゆるく絞った。そしてそのタオルを信治の頭に載せて、ゆっくりと拭き始める。タオルはじわりと程良く熱い湯を信治の頭皮に落としていく。拭く、というより濡らすのが目的なのか、髪はじわじわと水分を含み始めた。それから男は頭皮を優しく撫で始めた。信治は男が頭にタオルを載せた瞬間から無意識に目を固く閉じていたが、心地よさから眼輪筋を少しずつ緩めていった。べたついて不快な髪が清められていくのは気持ち良かった。男は長いタオルを器用に動かし、汚れをふき取っていく。五分ほどそうしていただろうか、男はタオルを下ろして背後に置くと、また新しいタオルをバケツに沈め、今度は固く絞って同じように拭いていった。その間、信治は薄く眼を開いてなされるがままにしていた。最後に乾いたタオルで全体から水を吸い取る。その作業はその前の工程より丁寧に行われた。男は信治の頭を片手で押え、もう片方の手でタオルをゆっくりと動かしていく。無駄なく滑らかな作業だったが、頭を支える方の手が左耳の上に降りたとき、ふいに男の手が止まった。信治は男の顔をちらりと見やった。男は放心したような表情で固まっていた。
「……お兄さん」
思い切って声をかけると、男はゆっくりと顔を動かし、信治と目を合わせた。男の焦げ茶色の瞳は信治の目を映していたが、同時にどこか別の場所を見るようにぼんやりとしていた。信治は心地よさから緩んでいた心が緊張を取り戻すのを感じたが、数秒後、男は何事もなかったかのように作業に戻った。あとは順調に事が進み、数分後には完了した。べたつき不快な臭いを放っていた頭は随分とさっぱりし、額に張り付いていた数本の髪は拭われ痒みも消えた。
男はまた新しいタオルを取り、バケツの湯で濡らして固く絞って開いた。
「顔を拭きますね」
男は顎を引いて逃げようとした信治の顔をまっすぐに見ながら、頬に手を置いた。男の手は湯を扱っていたせいか暖かく、長い指はしっとりとしていた。その感触に信治はぞくりと鳥肌を立て、一瞬叫び出したくなるような気持ちになったが、熱いタオルが額に当てられると衝動は収まった。擦るというより撫でるような力の加減で、男はタオルを動かしていく。額から瞼へ、目の周りを拭って鼻へ、左頬から右頬へ、髭がまばらに生え始めた口周りに、そして額に戻ってもう一度同じように拭く。信治は甘い匂いを嗅いだ。果物のような、青林檎の果汁に似た匂いだった。男の柔らかそうな栗色の髪から漂うその匂いを、信治は鼻腔に吸い込む。男は殆ど瞬きをせずに信治の顔を熱心に清めている。目が合わないように信治は斜め下の自分の肩を見つめ続けた。
タオルは輪郭をなぞり、自然な動きで首に下がっていった。急所に触れられたことで信治は体をびくつかせたが、男の手は攻撃的な動きを全く見せなかった。首を一回りした手は鎖骨に下り、左肩へ、男は片手で少し腕を持ち上げるようにして手首まで器用に清めていく。手のひらは丁寧に、爪の先まで拭き、反対側も同じようにした。そこでタオルを変え、今度は胸に落とした。心臓の音が聞こえないだろうかと信治は緊張から更にその音を速め、タオルが臍の下にまで達すると緊張のピークに達し、あからさまに腹に力を込め、立てた膝を不自然に動かしてしまったが、男は気にも留めていなかった。前面が終わると男は体を起して背後にまわり、背中を撫で、腰へ、固く絞ったタオルに変えてもう一度顔からざっと拭くと、立ち上がってバケツと使い終わったタオルを持った。それから流しでタオルを入念に洗い、バケツを一洗いし、タオルを中に入れ、鍋の中に残っていた湯をそこに流した。水を少し足し、温度を確認してから持ち上げ、信治のもとに戻り、元の場所に膝をついた。
「次は下ですね」
男は信治の下半身に手をかけようとしたが、信治は慌てて身を捩り、それを避けた。
「ちょ、っと待って、待って下さい、下は自分で」
「……僕は何かまずいことをしましたか?」
「そ、そうじゃなくて……」
信治は顔を真っ赤にし、口籠った。このままいけば男は股間にまで手を伸ばしそうな気がしてならなかった。それも顔色一つ変えずに。信治は殆どパニックに陥りながらこの状況を乗り越える術を考えた。
「信治くん?」
大丈夫なので、と信治は消え入りそうな声で答えた。男は暫く考える様子を見せ、最終的にバケツを信治の手元に置いた。
「十五分したら戻ります」
男は乾いたタオルとその下に置いていた着替え一式をバケツの横に置き、汚れたシャツと空いた缶を持って立ち上がり、部屋を出て行った。
時計のない部屋での十五分がどれほどの長さなのか分からない。信治はドアが閉まると急いで下を脱いだ。無心で汗を擦り取り、渡された服を取った。男の服なのか、それともどこかで信治のために買ってきたものなのかは分からない。清潔できちんと折りたたまれていたが、何度か洗濯されているように見えた。何の変哲もないシャツに、ゴムの入ったズボン。明らかに部屋着だ。下着はビニールの中に入っていた。これだけは新品なのだろうか、真新しい灰色のボクサーパンツだった。
下はスムーズに切ることが出来たが、片手が繋がれているせいで上は中途半端に引っかかってしまった。それでもさっぱりした体に清潔な衣類を纏うのは気分がよかった。家畜から人間に戻ったような気がした。
戻ってきた男はバケツとタオル、汚れた服と持ってきた籠を回収していった。信治は男が去ると残った缶を一つ開けた。ふと思いついて缶や缶切りで右手首の錠を何とかしようと試みて失敗し、少し落胆して寝転んだ。今が朝なのか昼なのか夜なのか全く分からないが、また眠気が戻ってきてしまった。今回は然程抵抗せずに眠気が強まっていくのを他人事のように観察する。寝込みを襲われることはないと、確信はないにしても可能性はかなり低いと思っていた。なぜ男が自分を生かし、世話を焼くのかは分からない。殺す機会はいくらでもあった。あったのに実行しなかった。無害そうに見える男の真意は掴めそうで掴めない。本当に一人で信治を監禁しているのだろうか、想像で考えても答えは曖昧なままだ。
信治は下りてきた瞼を受け入れた。ふと、自分が男に対して抱いている感情について一瞬思いを巡らせる。恐怖、困惑、疑い、拒絶感、そして……。しかしその次の瞬間には、信治は夢の世界へと深く潜り込んでいた。
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