18.ずっと一緒に

「僕が五歳のとき、母は父と僕の前から去って行きました。連絡は取り合っていたのだと思います。何年か後に、母は僕を残していったことを後悔するような手紙を父に送っていましたから。この家を建てたのはその頃でした。父は母が戻ってくるのをずっと待っていて、母の為にこの家を建てたんです。そして実際に母は戻ってきました。信治くんと初めて出会う二日前のことです。ただし母は僕たちと住むためではなく、僕を取り戻すために帰ってきたようでした」
「僕は再会した二人が言い争いをしているのを遠巻きに見ていました。そこで二人が見合い結婚だったということ、母は最初から父を愛していなかったということを知りました。二人の言い争いは激しくなり、僕は母に、荷物をまとめるように言われました。父の限界が来たのはそのときでした。父は母を羽交い絞めにし、いつも上着の内側ポケットに入れているナイフを取り出して母の喉を素早く切り裂きました」
「それまで父が母に、そして僕にも、手を上げるところは見たことがありませんでした。あまりに唐突で、一瞬の出来事で、僕はそれが現実に起こったことだと飲み込むまでに時間がかかりました。父は激しく血を流している母をソファに寝かせ、そして母の体が動かなくなった頃、母の体を抱き上げました」
「地下室に下りていく父に追い縋り、病院に母を連れていくように頼みましたが、答えはありませんでした。父はテーブルに母を横たえ、狩猟用に持っているナイフの束を棚から取り出しました。僕はその後、父がすることを呆然と見つめていました」
「我に帰って家を飛び出したのは、数十分後のことでした。あまりに錯乱していて、上着を持って行くことも忘れていました。暫く夢中で走り、走れなくなってからは休むことなく歩いて、僕はバスに乗りました。ズボンのポケットには小銭入れが入っていて、それで駅まで行き、電車に乗ることが出来ました。手持ちで行ける一番遠い場所で降り、それからまた歩き回って、最後にあの公園へ辿り着きました。そして信治くんと出会ったんです」
「あの廃工場に入った後、父はあの部屋に入り、ハンカチをポケットから取り出して、それで床からハンマーを拾い上げました。僕は自分が殺されるのだと思っていました。しかし車を走らせ始めた瞬間から父の標的は僕ではなく信治くんでした。父は部屋に入ってきた信治くんを二度殴りつけ、指紋を付けないように気を配りながらハンマーを置き、頭から血を流し意識を失った信治くんの服を肌蹴させました。性的な目的があったと偽装するためだったのかもしれません。父は僕から信治くんのパーカーを剥ぎ取り、近くに投げ捨てました」
「家に帰ると、父は僕に下ごしらえを済ませていた材料で夕食を作ってくれました。父は昔から野兎や色々な野性動物を捕らえては自らの手で捌いて調理し、僕に食べさせてくれていました。そのときのように、僕に食事を用意してくれたんです。ただそれは野兎でも、他の動物でもありませんでした。僕は口にした瞬間に吐き出してしまいましたが、次の日もその次の日も父は僕に食事を用意しました。やがて僕は、何も考えず、何も感じず、何の抵抗もなくそれを食べられるようになりました」
「信治くんのことがニュースになっているのは新聞で知りました。逮捕された容疑者、実際は信治くんに何の危害も加えていないだろう男の自殺で事件が収束したことも。父は僕の為に手加減をしたのだと言いました。だから信治くんは生きているのだと。しかし次に僕が父に逆らうことがあれば止めを差しにいくつもりだと父は付け加えました。そしてどこにいても僕を見つけることが出来るし、どこまででも追って行くと言いました。そのときは気付きませんでしたが、父は僕の靴や持ち物の中に発信器を仕込んでいました」
「三ヶ月後、僕の祖母が癌で亡くなって莫大な遺産が入ると父は仕事を辞め、僕を車に乗せて一人の人間を尾行するようになりました。母に似た、三十代くらいの女性でした。父は彼女に数週間執着していましたが、彼女が尾行に気付いて警察に通報したため父は彼女を諦めました。父は暫く家に籠って地下室を改造し、改造が終わると遠出をして、時折浮浪者を拾って帰るようになりました。初めの頃は女性だけを狙っていましたが、一度若い男性を味わってからは性別を問わなくなり、味を試すように色々な年代の人間を狙うようになりました。一年程経った頃でしょうか、父は僕を使うことを思いつきました。子どもの僕が彼らに声を掛け、睡眠薬を仕込んだ食べ物を与えて眠らせてから車に乗せる、それが一番効率的だと考えたそうです。高校に通い始めた僕は、そこで人を信用させる術を学びました。それは父の目的にとても役立ちました」
「不審に思われないよう、標的を定めるのは三カ月に一回、それも毎回場所を変え、ときには県外に出掛けることもありました。父は慎重で、計画的で、常に落ち着いていたので、全ては上手くいっていました。父が倒れたのは高校を卒業する直前のことです。脳卒中でした。退院後も麻痺が残り、僕は自由に動けない父の代わりに、父がやっていたことを全て任されるようになりました。父の身の周りの世話以外はそれ以前から手伝っていたので、それ程問題ではありませんでした。合格していた大学を諦め通信制の学校で学びながら、僕は父の手足となって父の望むものを与えました」
「父が亡くなったのは六年前のことです。父は搬送先の病院で息を引き取りました。僕は知人に誘われてすぐに仕事を見つけ、すぐに働き始めました。そして僕が地下室の扉を開けることは無くなりました」
「仕事の帰り道、僕はふと、僕たちが出会った公園に足を向けました。仕事場から近かったその公園は昔と大分様変わりしていましたが、あのときの面影をあちこちに残していました。あの草むらに寝転び、僕は色々なことを思い出しました。それからあの廃工場にも向かいました。しかしとうの昔に取り壊されて、綺麗なマンションが建っていました」
「家に帰るとすぐにパソコンを立ち上げ、信治くんのことを調べ始めました。信治くんのご友人のブログや、登録しているSNS、他様々な情報を得ることが出来ました。どこにどうやって住んでいて、どの大学に何の目的で通っていて、どの道を通ってどこへ行き、誰とどこで何をして過ごしているのか」
 
 信治が問うと、安楽は誤魔化す素振り一つ見せずに話した。機械のように感情を挟まず、求められた答えをそのまま口にする。
 二人は随分前に地下室を出ていた。今は二階の信治の部屋、ベッドの上に服のまま横たわっている。月の光が窓から差し込んでいた。
「俺をこの家に連れて来たのは……誰のため?」
 安楽は首を傾げた。
「分かりません。父の為かもしれません」
「ここに連れて来た時点では、本当に俺を殺そうとしてたんですか?」
「分かりません。だけど父は」
 途切れた言葉を、安楽はゆっくりとした瞬きの後に続けた。
「父はそうするように言ったんです。大学に歩いて行く信治くんの横顔を、車の中から遠目に見ていたときに」
 死んだ父親の声。信治は安楽の冷たい手を握った。
「お父さんは死んでからもよく優人さんに話し掛けるんですか?」
「いいえ。そのときと、昨日から今日にかけての二回だけです」
 信治は安楽の父親の部屋を開けたときのことを思い出した。
「あのとき……俺が出て行った後、お父さんは、何て?」
「信治くんは戻ってこないと……僕には、父しかいないのだと言いました。そして父は空腹だと訴えました。生きていたときと同じように、あれが食べたいと」
 あれ。それは人の肉のことだろう。
「優人さんは、お父さんのことをどう思っていたんですか?」
「分かりません」
「お父さんがもしまた食事を用意するように言ったら、用意する?」
「はい」
 都合のいい息子。従順かつ献身的で、罪の意識を持たない人形。殺人者。殺人鬼。決して正常ではない。信治はかつて安楽を普通の人間だと、少し変わっているだけの普通の男だと思い込もうとしていたが、今はもう希望を持つことすら出来ない。
 地下室の肉片は裏庭に埋葬した。安楽と信治、二人で埋めた。砕かれて他のゴミと一緒になっていたゴミ袋の中の骨も、生ゴミ処理機の中に入っていた皮やいくつかの臓物も取り出して埋めた。元の姿を欠片も留めていなかったあの死体は、安楽によれば隣町の高架下で寝ていた浮浪者だった。社会から弾き出された世捨て人だと言っても、かつては誰かの息子であり、友人であり、恋人であり、もしかすると父親であったかもしれない一人の人間だ。安楽はその男を躊躇いなく殺し、解体し、調理して口の中に運んだ。繋いだ冷たい手の平から、信治は安楽が犯した罪を感じることが出来た。裁かれるべき罪を犯した男の手。もし公になれば、その罪は死で購われることになるのだろうか。
 信治は安楽に身を寄せた。きつく抱き締める。
「信治くん?」
 あのとき信治は自分の頭蓋骨が砕ける音を聞いたような気がした。だがもしかするとあれは、あの綺麗な少年の心が粉々に砕け散る音だったのかもしれない。
 俺のせいだ、と信治は思った。自分のせいでこの人は狂ってしまった。何度も逃げろと言ってくれたのに、そうしなかった。守れる力も持っていなかったのに守ろうとした。そのせいで結果的に酷いトラウマを植え付けてしまった。それなのに十年以上もあのことを記憶から消し去って、のうのうと生きていたから。だからこの人は、それが父親の望みなら平気で人を殺す人間になってしまったのだ――いや、違う。
 自分は死んでいないし、肉体を傷付けられてもいない。そうするように言われた筈なのに。信治は雷に打たれたような衝撃を受けた。
「優人さん」
 顔を合わせる。安楽はいつものように信治の目を見つめ返した。
「もしお父さんがまた俺を食べたいって言ったら、俺を殺しますか?」
 安楽は暫くの間沈黙し、それから首を横に振った。
「いいえ。出来ません」
「もし、もし俺が優人さんに……誰かを殺してくれって頼んだら、優人さんはその人を殺してくれる?」
「はい。信治くんがそれを望むのなら」
「どうして? どうしてそんなことしてくれるんですか?」
「分かりません」
 信治は安楽の頬に手を当てた。滑らかな肌、しっとりとした頬を撫でる。
「ちゃんと考えてください。どうして、そんなことしてくれるんですか」
「信治くん」
「どうして?」
 焦げ茶色の瞳が微かに揺れる。おそらく困惑しているのだ。辛抱強く待っていると、安楽は躊躇いがちに口を開いた。
「父が亡くなってから、僕はいつもどうしていいのか分からないんです。何をしていいのか、何をすべきなのか。僕には分かりません。何も分からないんです。だから……信治くんが教えてくれるなら、僕は信治くんの言う通りにしたい」
 安楽は信治の手に自分の手の平を重ねた。
「信治くんがそれで喜んで、ここにずっといてくれるのなら、僕は何でもします」
「それは、何をすればいいのか教えてくれるなら誰でもいいってこと? 俺が今ここにいるから、俺にいて欲しいんですか?」
「僕は……、分かりません」
 分かりません、と安楽は繰り返した。
「信治くん、僕は――」
 安楽の顔から、ふいに微笑が消えた。途方にくれたような、置き去りにされた子どものような顔。信治はその瞳の中に砕けた心の欠片を見た。時折、信治はそれを見ることがあった。それは無くなってしまったわけではなく、ただ壊れてそこにあるのだ。共感や同情、善悪の区別は出来なくなっていても、バラバラになってしまった心はまだ安楽の中にあり、そして僅かに、その狂ってしまった精神と繋がりを持っている。
 安楽は小さく息を吸い込んだ。
「僕は信治くんに、ずっと信治くんに会いたくて堪らなかった。父といるときも、他の誰かといるときも、一人のときも、信治くんに会いたかった。信治くんが僕の側にいてくれたらと、僕の手を握ってくれていたらと……一緒にいてくれたらと、ずっと思って……」
 言葉を途切れさせ、安楽は目を瞬いた。自分自身の発した言葉の意味を理解出来ないようだった。無意識から押し出されて意図せず紡いでしまった言葉だと、その表情は物語っていた。
 その顔を見つめながら、信治は自分の中から止めどなく感情が溢れ出すのに気付いた。かつて感じたことのないような強い感情が心の奥底から溢れて、手足が痺れるような感覚に包まれる。信治は直感した。これから先、他の誰にもこれと同じ感情を抱くことはない。
「俺はずっと優人さんといます。もうどこにも行きません。優人さんも。俺達はずっとここで、二人だけで暮らします。死ぬまで一緒です」
 信治は安楽に顔を近付けた。柔らかくあたたかな息遣いを感じる。そしてただ本能の告げるままに、その唇に己のものを重ね合わせた。

←前の話へ 次の話へ→ topページに戻る