Fly Like A Bird

 白くふさふさした毛を纏った犬が、ボールを追って素早く動き出す。歓喜と興奮が色濃く滲む息遣い。力強く地を蹴る四本の足、その勢いに煽られて草が揺れる。
「アキ、ジャンプ!」
 藤崎が声を上げる。飼い主の声援を受けてアキの体が宙に浮かんだ――思わず目を見張ってしまうような高さ。一度地にぶつかって跳ねたボールを、大きく開いた口が空中でしっかりと捕らえた。アキは続いて体幹を捻りバランスを取って華麗な着地を見せ、揚々とした足取りで僕達の元に戻ってきた。
 得意げな顔をして藤崎の足元にボールを置き、アキは飼い主の顔を見上げる。
「よし。よくやった。グッドボーイ」
 藤崎は腰を屈め、アキの毛むくじゃらの体を撫でる。アメリカン・エスキモー・ドッグの血を引いた素晴らしい毛並みの犬は心底嬉しげに尻尾を振るが、飼い主の体に前脚を掛けたり、興奮のままに体当たりしたりする素振りは見せない。出会った頃はとんでもないモンスターだった彼が今行儀よく座っていられるのは、藤崎の訓練の賜物と言えるだろう。
「お前もやる?」
 僕が首を横に振ると、藤崎はにっと笑ってボールを拾い、ぽんと真上に投げた。
「まぁあれだけ走ればな」
 ボールをキャッチした藤崎の手を、アキが期待の眼差しで見つめる。藤崎はアキの目を見つめ返し、大きく腕を振りかぶった。ボールがその手から離れた瞬間、アキはまた走り出した。疲れを感じさせない動きで公園の芝生を駆けるアキを見守りながら、僕はその場に腰を下ろした。ボール遊びの前に散々アキと一緒に走り回って疲れていたのもあるが、何となく芝生に座ってみたかったのだ。
「なに、疲れた?」
「うーん、芝生っていいなって思って」
 藤崎は戻ってきたアキを撫で、僕の横に腰を下ろした。暫くの間は人間達が動くことはないと悟ったらしいアキは僕達の前で休みの体勢になる。
「そういえばこないだ実家の方で引き取った猫、名前はハルにしたよ」
「何で? こいつがアキだから?」
「うん。可愛いし、何かいいかなって。他にも候補はあったんだけど、おばあちゃんと、あと珍しく柚花も僕に賛成したから多数決で採用になった」
「へぇ」
 春生まれの子猫を保護センターで引き取ったのは、昨年祖父が急逝した後すぐに実家で暮らすようになった祖母が、ふと動物を飼いたいと言い出したからだ。猫ならば散歩に行く必要もなく、祖父母の家で昔飼っていて慣れていたこともあり、話が出た三日後には新しい家族を迎えることになった。
「で、空きのナツとフユは?」
「んー……じゃあうちのベランダのミニトマトがナツ」
「は、野菜じゃん」
「でも育ててるとミニトマトも生きてるんだなぁって思うよ。何か可愛いし、見てると愛おしくなってくる」
「……だからお前毎日話し掛けてんの?」
「え、話し掛けてないよ」
「少なくとも俺が泊まった日は絶対目で話し掛けてた」
「ええー……?」
「あとたまに声に出てる。頑張って大きくなれよー、とか」
「そんな……、気付いてなかった」
 今度録画しといてやろうか、と藤崎は冗談とも本気ともつかない声で言いながらアキを撫でる。アキは気持ち良さげに目を細めた。
「二匹目飼うなら残りはフユか」
「もう一匹犬飼うの?」
「就職先次第。就職先の近くに多頭飼い出来る家が無かった場合諦めるから。由利子さんは小型犬なら俺が家を出た後もアキと一緒に世話するって言ってくれてるけど、アキは連れて行くつもりだし、もし二匹飼うならもう一匹も俺が最後まで世話したい」
「就職したら家出るつもりなんだ?」
「他にタイミング無いだろ」
 大学入学とほぼ同時に一人暮らしを始めた僕と違い、藤崎は今も青葉さん達の家で暮らしている。成人を迎えた人間が家を離れるタイミングとして就職時というのは、きっと一番適当な時期なのだろう。
 何となく寂しいと思うのは、藤崎が青葉さんや由利子さんと一緒にいる姿を見る機会が少なくなるからなのか、それとも僕自身と二人の繋がりが薄くなってしまうからなのだろうか。
「それに」
 藤崎はアキにペットボトルの水を飲ませながら言う。
「前とは違うから」
「前?」
「ちょっと前」
 水を飲ませ終わった藤崎はアキの頭を撫でた後、背中を倒して青空を見上げた。
「高校のときは高校卒業したら放り出されるかと思ってたし、大学入ってからは大学卒業したら放り出されるかと思ってた。あの人達が離婚してからは特に」
 藤崎が抱いていた恐怖のことは、知っていた。『あの人達』――殆ど別居状態にあった藤崎の両親が離婚した後、時折言葉の端に滲ませることがあったからだ。
「でも来週、正式に家族になる」
 僕は驚いて藤崎の顔を見た。
「青葉さん達と?」
「そう。で、青葉翔太になる」
「……おめでとう」
 思わず微笑んで言うと、藤崎は僕と同じように微笑んだ。
「俺さえ良かったら、って言われたんだ。もっと前に言おうか二人で迷ってたとも言われた」
 僕達は今年成人を迎えた。二人は藤崎が自分の意思で全てを選択出来る歳になるのを待っていたのだろう。
 そしてきっと今藤崎は、青葉さん達と戸籍上の家族になることで、これまで頼ってきた二人と数年後に離れることになっても平気だと思えるようになったのだ。
「……もし、もっと前に言われてたら?」
「断ってた」
「そっか……、じゃあ、いいタイミングだったんだね」
「多分俺の心読んだんだろ。おじさんエスパーだから」
「確かに」
「ネーミングセンスは皆無だけどエスパーだから」
「うん、確かに」
 店の名前はブルーリーフ。青葉さん愛用のパソコンの名前は林檎ちゃんだ。しかも青葉さんには人の物にもそういった類の名前を候補として挙げたがる悪癖があった。藤崎のカメラはカメ、僕の携帯音楽プレイヤーの名前は歩くんといった具合だ。僕達二人とも青葉さんのことが大好きだし、尊敬もしていたが、ネーミングセンスだけはいただけないということで意見が一致していた。
「……俺があいつらの離婚を渋ってたのも、似たような理由なんだろうって今は思う」
「渋ってたの?」
「離婚したらお前ら刑務所行きにしてやるって脅してた。表向きだけでも普通の家族みたいに振る舞わなきゃ破滅させてやるって。別にあいつらと普通の家族になれるとは思ってなかったけど、心のどっかであいつらがまともになるのを期待してた部分もあるのかもって最近思う。馬鹿みてーだけど」
「……馬鹿みたいなんかじゃないよ」
 何となく、藤崎は瀬川に対しても同じ期待をしていたのかもしれないと思った。最後には全額を自主的に本人返すことになった『慰謝料』を口実に会いながら、そして心の底から憎み恐れながらも、藤崎はどこかで瀬川が、いつか自分が頼りにしていた頃のような人間に戻ることを期待していたのかもしれない、と。
 瀬川はそうなる前に僕達の前から消えてしまったが、藤崎は、両親の方とは年に数回顔を合わせている。相変わらず父親は藤崎に無関心で、母親の方はいまだに例の怪しげな宗教に入れ込んでいるものの、それは僕が抱いた印象に反して別にカルト宗教というわけではないらしかった。どこにでも大なり小なりの腐敗はあり、藤崎達はたまたまそれに巻き込まれてしまっただけだった。
 二人は今も決して尊敬すべき大人ではないし、これからもきっとそうなることはないだろう。だが藤崎は以前と比べて彼らを蔑んだり罵ったりする言葉を口にしなくなり、憎しみに囚われた顔を見せることもなくなった。
「悟」
「なに?」
「あの辺りの雲、お前の顔の黒子と同じ比率で並んでる。角度も面積も間隔も」
「んー……あ、確かに何となくそんな気がするような……」
「97%一致」
「そんなに?」
「そんなに」
 僕は藤崎と同じように芝生に寝転がった。芝生広場には僕達の他に十数人の姿があったが、人の行き来が少ない隅の方でこうしている分には邪魔になることもないだろう。
「ところで、もし二匹目が飼えるならどんな犬がいいって、もう決めてる?」
「小型犬で顔が強そうなやつ」
「顔が強そう……」
「ブルドッグとかパグとかミニチュア・シュナウザーとか」
 ブルドッグ。パグ。確かに強そうというか、いかつくて迫力のある顔だ。ミニチュア・シュナウザーの方は名前を聞くのすら初めてだった。どんな犬なのだろうと想像してみる。
「将来家を買ったらゴールデン・レトリーバーとかシベリアン・ハスキーも飼う」
「賑やかだね。楽しそう」
「お前も混ざれば?」
「うーっ、ワンワン!」
「無駄吠え禁止」
 藤崎がシッ、とアキを叱るときの声を出したので、足元で特に身に覚えのない筈のアキが軽く耳を立てるのが見えた。僕はごめん、と笑いを噛み殺しながらアキに謝って空を見上げた。
 僕の黒子に似ているという雲は風に流されて形が崩れ、今では綿菓子の群れにしか見えなくなっていた。
「悟、向こうの。あれアキに似てる」
「……うーん?」
「餌食べてるときの後ろ姿」
「あー、なるほど似てる」
 心地良い風。暖かい春の陽気の中、芝生の匂いが鼻をくすぐっている。昨夜遅くまで起きてレポートを仕上げていたせいか、体に残っていた微かな疲労は眠気に変わりつつあった。僕の頭は俄かに勢力を拡大しつつある欲求に抗おうとしていたが、体はアキを藤崎とは反対側の隣に呼び、いつの間にかふわふわの毛の塊と一緒に丸まっていた。
 藤崎は鞄からカメラを取り出して僕達や風景を写真に収め始めた。それを横目に僕は体の力を抜き、ふっと目を閉じた。



「悟」
 肩にそっと誰かの手が触れる。
「悟。起きろよ」
「……ん」
「風邪引くだろ」
「……うん……、あれ、僕どれくらい寝てた?」
 瞬きをして体を起こした。まだ明るい。
「五分」
 予定通り、予想通りの答え。
「の六倍」
「……三十分も? ごめん」
「別にもっと寝てても良かったけど。気温下がったから」
「うーん、ありがとう」
 お前も、と隣のアキを撫でる。三十分もの間全く寒気を感じずにいられたのは、アキが僕を見捨てずに寄り添ってくれていたからだろう。
「お前、何か夢見てただろ?」
「うん……、寝言聞こえた?」
「ムニャムニャ何か言ってた。どんな夢?」
「藤崎と僕とアキで海外旅行に出掛ける夢」
「へぇ。どの国?」
「色んな国。世界中の国。いい夢だった」
 始まりは知らない家、目にするのは初めてなのにどこか懐かしさを感じさせる家だ。
 僕と藤崎とアキ、二人と一匹がそのこじんまりした家から荷物を抱えて出てくる。アキが家とは対照的に広々とした庭を駆け始めると、渦巻のような風が起こり、アキはその風を体に纏い吸い込んで膨らんでいく。僕と藤崎はみるみるうちに熊のような巨大な生き物へと変貌を遂げたアキの背中に乗り、アキは強靭な四肢で地を蹴って跳躍する。僕達はアキに乗って目まぐるしく日本を駆け回り、海を越えてアジアの国々を旅する。やがて凍えるように冷たいロシアに渡り、やけに攻撃的なマトリョーシカ人形に囲まれて逃げるようにヨーロッパへと移動する。
 旅先で出会う人々の顔はどれも僕が会ってみたかった歴史上の人物のもので、流れていく風景は僕が見てみたかった時代や場所のものだった。
 どの国にも大抵犬がいて、ある犬は排他的である犬は友好的だった。藤崎はすれ違う一瞬の間に彼らと心を通わせ、彼らは僕達の中に加わりたがった。ヨーロッパからアフリカへ、アフリカからアメリカ大陸へと移る頃には、十頭二十頭、いやそれ以上の数の犬達が僕達の群れに混ざり、それぞれが素早く自身の役割を心得て機能的に動いていた。
 まるで一つの大きな生き物のようになった僕達は、数えきれない程の朝を共に迎え陽の光の中を駆け、夜は月に照らされて鳥のように空を翔けていた。
「凄く楽しかったよ。犬がたくさん集まってきて、最後は鳥みたいになってた」
 何で犬が鳥になるんだよ、と藤崎はカメラやボールを鞄に仕舞いながら言う。僕は既に意識から離れ始めた夢の中の光景を手繰り寄せつつ、どうしてだろうと考え、ふっと思い出した。
「これからは翔太って呼ぼうって寝る前に考えてたから」
「……ふーん?」
「そろそろ家に行く?」
「行く。腹減ったし。何か作れよ」
「うーん……ハンバーグ?」
「割ったらチーズが中から出てくるやつ」
「それはハードルが高いから今度」
 アキの首にリードを装着して立ち上がる。アキは待ってましたと言わんばかりに尻尾を振り始めた。
「……あのさ、将来の話してもいい?」
「すれば?」
「もっと年を取ってお金と時間の余裕が出来たら、大きな庭つきの小じんまりした家を買って、僕と翔太と何匹かの犬で一緒に暮らしたいな」
「いいよ」
 随分あっさりと答えが返ってきたので、僕の表情筋はおそらく驚きと喜びと戸惑いと興奮が混ざり合った奇妙な顔を作り出した。
「それで一年に一回は国内を車で旅行して、五年に一回くらいは海外旅行に出掛けるんだ。皆揃って」
「へぇ。いいんじゃね?」
「うん」
「けど金が掛かる」
「うん……そうだね」
「まず家の購入資金の為に家賃ぐらい浮かさないと無理だろうな」
「…………卒業したら一緒に住む?」
 隣に並んで歩く藤崎は――翔太は前を向いたまま頷き、それから僕の方に顔を向けた。
「ハンバーグ。チーズ入りにしてくれるなら一緒に住む」
「……焼いてる途中にチーズが外に溶け出して悲惨なことになっても、翔太が文句言わずに食べてくれるなら作る」
 言わねーよ、と翔太が片方の唇の端を上げながら答えると、僕の心は弾みをつけて駆け出した。そして青空に浮かぶ僕達の小さな家の幻影へと飛び込んで、その先に続くまだ遥か彼方の未来を翔け始めた。
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