焼肉やろうぜ!

『焼肉やろうぜ!』

 通話開始直後に電話口から響いた大音量の声。確実に鼓膜を討ち取りにきたそれに、後藤学は軽く眩暈を覚えた。残業続きで疲れた人間にこの仕打ち。携帯を耳に当てた後なら即死だった。
 殺られる前に殺るしかないが、残念ながら相手は殺しても死ななそうな男、山口信彦だ。
「……何で? いつ?」
『焼肉したいから。今からやる』
「……今から? なに、お前今起きたの?」
 今しがた友人の鼓膜に恐ろしい攻撃を仕掛けたばかりの人間だが、山口は看護師だ。夜勤があるのでいつも九時五時というわけではなく、日付が変わる直前に寝惚けて友人に電話をし、夕食の誘いを掛けてもまあ異常というほどではないだろう。
『いや? 今日は日勤だったから普通に夕方の六時ちょっと前くらいに上がった』
「じゃあもう食っただろ」
『いや食ってない。今日は焼肉パーティしようと思ってたし』
「ならもっと早く言えよ……今から寝ようと思ってたんだけど」
『けど学さぁ、最近は電話掛けても全然出ないじゃん。メールもSNSも軒並みシカトだし。ガードが甘くなる就寝直前の一瞬に賭けるしかないだろ』
 学生時代からの付き合いだ。山口は後藤の習性を熟知している。さあ寝るぞと思った瞬間に後藤の思考回路は上手く働かなくなるのだ。後藤は数十秒前の自分が発信者の名前も見ずに、ほぼ脊髄反射で通話ボタンを押してしまったことを激しく後悔した。訓練された社畜といえど、日中ならまだかろうじて自分の頭で判断して通話ボタンを押している。
「あのな、今から焼肉食べる元気とかないから……ついさっき帰ってきたとこだし、俺明日も仕事なんだけど」
『いや、休みだよ。三十分前に俺が学の会社に電話掛けたから』
「……は? 冗談だろ?」
『いや? 家に遊びに来たら友人が倒れていたので、大事を取って三日ほど休ませます、って言った』
「…………いや……冗談だよな?」
『それはちょっと、って言われたんだけど『労基に相談します』って言ったらあっさりOKくれた。お前何連勤してたの?』
「多分十五連き……いや待って状況が把握出来ない。ちょっと待って……いや、本気で?」
『そうそう本気。俺いっつも適当なこと言ってるけど今回は本当』
 後藤は携帯を持っていない方の手を頭に当て、この状況が果たして冗談か夢か現実かを判断しようとした。出来れば現実だとは思いたくなかった。
『というわけでさ、今アパートの下にいるから』
 太陽のように明るい山口の声。後藤の耳には死刑宣告のように響いた。
 おそるおそるカーテンの隙間から窓の外を覗くと、確かにアパートの前に見知った男が立っていた。
 カーテンの隙間はほんの一センチ程度だったが、どうやら二階から見下ろされていることに目ざとく気付いたようで、山口は後藤に向けて大きく手を振った。後藤はカーテンを数ミリの隙間もないように閉めた。
『おいこらー。このままだと近所迷惑だぞー』
 何故寝る直前だと山口が分かったのか――それは家の前にいて照明が消えたのを見ていたからだ。何故そのことに思い至らなかったのか、後藤は二回目の激しい後悔に襲われた。
「……俺、今から会社に電話掛けるから。帰れ」
『会社に電話? 何で』
「明日は普通に出勤します申し訳ありませんって謝らなきゃならないからだよ。お前のせいで」
『何言ってんだよ。この電話切ったらお前の家のドアを奇声上げながら叩きまくるから』
「やめろ」
『やめて欲しいなら家に入れて』
 コンコン、とドアを叩く音。
 後藤は絶望の二文字が刻まれた顔で玄関を見つめる。
 コンコン、ともう一度音が鳴って、次に呼び出しのチャイムが鳴った。ピンポン。ピンポン。ピンポン、ピンポン、ピンポンピンポンピンポン……。段々と間隔が短くなっていく。
「……おい、ちょっ……ちょっと待て、分かったから。分かったからやめろ! 今何時だと思ってんだよ!」
 後藤は玄関ドアへと急ぎ、鍵とチェーンを開けた。
「やっほー。元気ですかー?」
 やや天然パーマが入った短めの黒髪に、ほどよく筋肉がついた体。奇抜な色合いのTシャツに休日の出現率八割の褪せたジーンズ。そして大口を開けた笑顔。
 そう、この男こそが後藤の身に降りかかった災厄そのもの、山口信彦だった。後藤は男の胸ぐらを掴み、中に引き入れてドアを閉めた。
「お前を殺す。今すぐ殺す。焼肉になるのはお前だ」
「おいおいおい、物騒過ぎるだろ友人に向かって。そんなに怒らなくてもいいじゃんよ」
 山口は自身に向けられた目に暗く漲る殺意を軽くいなし、ヘラヘラと笑う。後藤は暫くのあいだ胸ぐらを掴んだまま山口を睨んでいたが、ふっと気が抜けたように手を離した。
「ああくそ……ああもうどうでもいい……どうでもいい。その辺で勝手に焼肉でも何でもやってくれ。俺は寝るから。好きにしろよ」
 無駄に怒ったことで体力と気力を消耗してしまった。
 後藤は山口を玄関に置いてのろのろと居間に戻る。山口はすぐに靴を脱いで後を追ってきた。
「おじゃましまーす」
「真剣に邪魔」
「まあまあ。そう邪険にするなよ。ほぼ二か月ぶりだろ?」
「別に嬉しくはない」
「ひでー。半年くらいまで週二で飯食ったり飲んだりしてた仲の人間にそんなこと言う? しかもめちゃくちゃ良い肉を持参してきたっていうのに?」
「勝手に食って勝手に帰れよ」
 山口が持参したという『めちゃくちゃ良い肉』に興味を覚える人間に、疲れて布団に飛び込む寸前の人間は該当しなかった。後藤はソファと毛布の間にスウェットを着た体を潜り込ませ、後藤に背を向けて目を閉じた。
「え? 本気で寝る感じ?」
「おやすみ」
「寝るなよ、寂しいだろ! 明日休みなんだから付き合えよ。ほら、ビールも買ってきたぞ~。クーラーボックスに入れてたからすっげー冷えてるぞー。……おーい。おーい? 学ー?」
 後藤は毛布を頭まで被ったまま返事をしない。山口は「何だよー」と小さく文句を言いながら辺りを軽く片付け、持参した袋の中から焼肉の具材や飲み物その他諸々を取り出し始めた。あらかじめ焼肉用にカットされた肉は居間の中央のローテーブルに、飲み物はクーラーボックスに入れたままテーブル横の床に。山口は野菜とキノコ類を持ってキッチンに立った。
 鼻歌を歌いながら手を洗い、野菜とキノコ類を適当に洗ってカットして居間に戻る。卓上カセットグリルが仕舞われている場所は分かっていた。買ったのも前回来たときに仕舞ったのも山口で、自分と一緒にいるとき以外で後藤がそれを使うことはないと知っていたからだ。
「焼肉・焼肉・美味しいよ~とっても・とっても・美味しいよ~♪」
 自作のリズムで歌いながら盛り上がった毛布を見るが反応はない。山口はそのまま歌い続けながら肉や野菜を熱したグリルの上に載せていく。パチパチと小さく音が聞こえ始めた。
 一応レトルトのご飯も持参していたが、炊飯器の中に二十四時間以内に炊かれたと思しきものが残っていた。山口は肉が焼けるのを待つ間にご飯をよそい、箸や取り皿を手早く用意した。段々と肉の良い匂いが立ち上ってくる。
「そろそろ焼けるけどー?」
 山口は毛布に向かって声を掛ける。相変わらず返事は無い。
「焼けるってー。ほら、ジュウジュウ言ってる。聞こえるだろ? ほらほら」
 山口は肉を返してからソファに近付き、毛布に手を掛けた。しかしほんの数センチ捲ったところで強い抵抗が生じた。それを感じ取った山口は手に力を込めたが、相手は更なる力でその手を押し返してくる。
「おら起きろっ、お前の分も用意してるんだぞ! つか狸寝入りだろ学!!」
 毛布を奪おうとする勢力とそれに抗う勢力の攻防は一分も続かなかった。敗北したのは体力的なハンデを負っている方だった。
「おはようございまーす」
 ゾンビ化十秒前の目つきで睨んでくる友に向かって、山口はにこやかに笑って見せた。
「一秒も寝てねーよ……」
「だと思った」
「マジで殺す」
「いいけど焼肉食ってからにして。ほら見ろよ、特上カルビが食べ頃。お前も腹減ってるだろ?」
「減ってない」
「意地張んなって」
 山口はビールを二本開けて一本を後藤に差し出した。後藤は一拍置いて大きな溜息を吐き、ソファから降りてビールを受け取った。
「じゃあ乾杯!」
 缶と缶がぶつかる。というより山口が後藤の缶に自分のそれをぶつけた。
「あーー美味い! 仕事終わりのビールは最高~~!」
「終わって六時間も過ぎてる上に日付変わってるけど」
「細かいこと気にすんなよ! ほら肉食べろ、入るだろ。胃に入ってんのがお茶漬けオンリーなこと知ってんだぞこっちは」
「は? 何で知ってんの?」
「キッチン見たら誰でも分かるって。ちなみに昨日一昨日の晩飯がスーパーの見切り弁当ってことも分かった」
「ああそう……」
 肉が焼ける軽快な音、暴力的なほどの勢いで立ち上ってくる脂の匂い。
 後藤は肉を皿に移していく山口の手の動きを半開きの目で無気力に眺めていたが、皿を手渡される頃にはその顔に幾らか生気が戻り始めていた。
「何か……」
「何か?」
「一周回って目が冴えてきた」
「だーろー? 食べろ食べろ。いっぱい食って大きくなれよ」
「三十路に伸びしろはない」
「横にはある。よし、いただきまーす」
「いただきます」
 ベーシックな甘辛い醤油ベースのタレを絡めた、肉厚のカルビ肉。二人同時に口に運んだ。
 山口はじっと後藤の顔を見つめる。後藤の顔に浮かんだ衝撃の色を見て、口を閉じたままニヤリと笑う。
「…………なぁ。この肉死ぬほど美味い。タレも死ぬほど美味い」
「死ぬな。まだまだあるんだから」
「何でこんなに美味いの?」
「そりゃー今月分の食費の残りを全部突っ込んだからね。見ろよこの白と赤の完璧なコントラスト。サシの美しさ」
 後藤は山口の指差した生肉を見ながら二枚目を口に運んだ。厚みのある肉の表面はカリッと焼けているが、噛むと簡単に柔らかくほぐれ、その中からとろけた脂の旨味が溢れ出して舌の上に広がっていく。
「あー……あー……本気で美味い……」
「学の大好きなロースもあるぞ~」
「いっぱい焼いて」
「はいはい」
 ほど良く焼けた肉に白米に冷えたビール。後藤は自分の体がそれを求めていたのを知った。肉が焼ける前は空腹など全く感じていなかったのだが。
「……ところで信彦、会社に電話したってのは嘘だろ?」
「いや? だから本当だって」
「本当の本当の本当?」
「百パー本当。車賭ける」
「電話、どんな人が出た?」
「五十嵐って人」
「……マジか」
 よく知った名前だ。どうやら本当らしい、と後藤は複雑な表情をしてそれを受け入れた。
「つか定時が九時五時の会社にあんな時間まで人が残ってるって思ってなかったから、正直ビビったわ」
「ブラックだから」
「前の会社そこそこホワイトだったのに落差激し過ぎない? 何でわざわざブラックに行った?」
「それは俺の勝手だろ」
「ふーん? そんなこと言う? ロース焼けたんですが?」
「俺の家なんだから勝手に食うわ」
「あっズルい。俺が丹精込めて育てた肉なのに」
「信彦は焼いただけだろ」
「その絶妙―な焼き加減は学には絶対出せないレベルなんだからな」
 文句を言いながらも山口の顔は明るく、そこには笑みさえ浮かんでいる。
「なあ、明日休みだしさぁ、今夜はオールしようぜ」
「いや普通に出勤するけど」
「何で? 電話掛けてないじゃん」
「さすがにもう誰もいないから」
 そう言いながら後藤はぐっとビールを呷り、空になった缶を置いて二本目を開ける。山口は片眉を上げてその様子を眺めていた。
「……正直さ、もう休む気満々だろ?」
「そんなわけない」
「へぇー?」
「ニヤニヤするな」
「してないしてない」
「してる」
 後藤は山口を睨みながらロース肉を口に運んだ。軽く炙る程度に焼かれた肉は、その素晴らしい風味と上品ささえ感じさせる味わいをもって、後藤の眉間に寄った皺を消し去った。
「ていうか学さぁ、何で俺のこと着拒しなかったの?」
「は? 何の話?」
「だってここ数か月、ずっと俺のこと避けてたじゃん」
「いや、忙しかったから連絡してなかっただけなんだけど」
「それ言い訳にする為に仕事してたんじゃなくて? 着拒したらあからさま過ぎて、言い訳出来なくなるからしてなかっただけじゃなく?」
「……何が言いたいわけ?」
「んー」
 山口は新しい肉をグリルに並べながら唸る。後藤は山口から目を逸らすように新しいタレのボトルを取って開封し、別の取り皿に出した。
「いやさ、俺も色々考えたんだよ。何か段々会う間隔が長くなったなと思ったら、いつの間にか全然声も聞かないようになったから。本当に忙しくなったからなのか、何か悩み事でもあるからなのか、それともって。でもお前さ、前は忙しくても何だかんだ連絡くれたじゃん。悩み事なら何でも俺に相談してくれてたし、電話は大体折り返してくれてたし。だからあんまり考えたくはなかったんだけど、俺が男と付き合い始めたから距離置かれたんじゃないかってさ。どう?」
「それは……別に偏見とかないって言っただろ」
「うん、知ってる」
「……相手が相手だったから何かきまずかったんだよ」
 それまで恋人に同性を選んだことは一度もなかった山口が、付き合うことになったと唐突に明かした相手は、後藤と山口が行きつけにしていた居酒屋の常連客だった。同年代だったせいか三人はよく気が合い、会えば必ずカウンター席で酒を片手に話をしていたのだ。その中からカップルが出来れば、当然流れる空気が変わる。
「きまずいはきまずいでもさ、あいつだけじゃなく俺からも離れる理由にはなってなくない?」
「なるだろ。お前すげー惚気るし」
「彼女のときはそれでも無視はしてなかっただろ?」
「我慢してた」
「……なー学、言ったら絶対怒ること言ってもいい?」
「言えば?」
「うん。じゃあ言うけど、お前が俺のこと無視してたのは、俺が男もいける人間なのにお前を選ばなかったことが凄くショックだったから、って結論に俺は達した」
 ぽろ、っと後藤の箸の間から塩だれに絡んだ肉が落ちた。
「…………、この超絶に美味い肉が無かったら殺してる」
「って言われるって分かってた」
 後藤は大きな溜息を吐き、肉と白米を自分の口に詰め込んだ。頬を動かしながら山口の顔を見つめ、飲み込んで、ビールを口にしてから「ああそうだよ」と自棄になったような口調で言った。
「ああそうだよ! もう否定したって無駄そうだから言うけど、俺はお前が俺よりあいつを選んだのが本当の本当に、心底気に入らなかった。マジでさぁ、何で俺じゃなかったわけ? つかバイならバイってもっと早く言えよ」
「いや言ってた。高校のとき既にお前に向かって言ってた。俺多分男もいけるって」
「っていう割に女としか付き合ってなかったし、男は誰が良いとか、どんなのが好みとかも言ってなかったじゃん。信憑性ゼロだったんだけど」
「それはさぁ、機会の問題だよ」
「は? 俺がいたのに?」
「学……、お前、高校大学で自分に彼女いたこと忘れてない?」
「忘れてない。いたから何?」
「俺エスパーじゃないから、彼女がいるお前を恋愛対象にしてもいいとは思わなかったんだけど。ところでまだ焼く? もう打ち止め?」
「まだ食べる」
「了解」
「野菜はもういい」
「もういいっていうか殆ど食ってないだろ? バランス悪いぞ~」
「いいから」
「じゃあシイタケでも食べろよ。ほら、いい感じのシイタケがそこに」
「シイタケを食べるくらいなら玉ねぎ食うわ」
 後藤は軽く焦げ目がついた輪切りの玉ねぎを肉と肉で挟み、タレを付けて口に運ぶ。玉ねぎは甘く、肉と一緒にとろけてなかなかに良い具合だった。
「……なぁ学、これだけははっきりさせておきたいんだけど、お前もバイってことでいいんだよな? ただ俺がお前のことを選ばなかったのが嫌だったってだけじゃなくてさ」
「…………」
 肉五枚分の沈黙の後、後藤は渋々という顔で頷いた。
「じゃあ付き合う? 俺たち」
「は? 付き合うわけないだろ」
「ええっ……何で? えええ、今そういう流れじゃなかった?」
「つかお前、彼氏は?」
「一か月半しか続かなかった。お前の方は彼女だか彼氏だかがいたとしても自然解消してるだろ、その様子じゃ」
「…………」
 図星だった。
「いいタイミングじゃん。お互いフリーでさ」
「今まで通りの方がいいんじゃないの」
「意地張るなぁ~。まだ焼く?」
「別に張ってねーし。もう腹いっぱい」
「了解」
 山口がグリルの上に残ったものを皿に移し始めると、後藤は腹を押さえながらソファに寄り掛かった。そして残ったビールをちびちびと消費していく。
 やや焦げ気味の肉や野菜やシイタケが山口の胃に収まるまで、そう時間は掛からなかった。
「ところで今日泊まってくから」
 伺いを立てるというより、決定事項を告げるような口調で山口は言う。普段は――半年前までは、家で飲めば後藤も山口も大抵の場合、相手の家に泊まることになった。だが今回は状況が状況だ。
 後藤は缶を口に付けたまま、片付けを始めた後藤を横目で見つめる。
「いや……既成事実を作るつもりとかじゃなくて。桃鉄朝まで耐久レースを開催するから」
「……誰と誰が」
「俺と学が」
「殺す気か?」
「別に眠かったら寝てもいいよ。ただし寝落ちは当然罰ゲーム。始める前に寝ても罰ゲーム。食べてすぐ寝るのは消火に悪いんだぞ」
「俺明日仕事だって」
「休みになったろ?」
「…………罰ゲームの内容は?」
「それは勿論、諦めてお付き合いを始めること!」
「言うと思った」
「エスパーだ」
 山口は楽しげに声を上げて笑い、換気の為に窓を網戸にしてから、洗い物やカセットグリルや余った食材を持ってキッチンに立った。普段なら後藤も片付けに参加するのだが、今夜は拗ねた子どものように仏頂面をして動かなかった。
 十五分ほど経った頃だろうか。すっかり片付けを終えてキッチンから山口が戻ったとき、ソファの上には丸く盛り上がった塊が生じていた。毛布の皮を頭まで被った奇妙な生き物だ。
 今度は声を出さずに笑いながら、山口はその生き物にそっと近付いて毛布に手を掛けた。しかしほんの数センチ捲ったところで強い抵抗が生じた。それを感じ取った山口は手に力を込めたが、相手は更なる力でその手を押し返してくる。
「学。学っ! まーなーぶー!! おらっ、出てこいっ!!」
 毛布を奪おうとする勢力とそれに抗う勢力の攻防は、今度も素早く終結した。敗北したのも前回と同じ方だった。
「……寝てたんだけど!!」
 後藤は叫びながら毛布の中から顔を出した。
「うん。寝てたんだな?」
「…………おい、にやにやするな」
「してない」
「してる。かつてないほどしてる」
 山口は「そうか?」とふざけた声で自身の口元に触れた後、
「学は結局、俺のことが大好きなんだよな」
 そう言って微笑んだ。
 後藤は薄らと赤い顔で唸った。アルコールに滅法強い後藤が普段、酒を飲んで顔を赤くすることはない。
「……あぁ、ああそうだよ! 好きだよ、大好きだよ! そっちこそ俺のこと大好きだろ!」
「そりゃあもう、大好きだよ」
 あっさりと認めて、山口は再び毛布の中に潜り込もうとしている後藤を引き出した。
「ほら、寝るならそんな狭苦しいところじゃなくて、ちゃんと布団で寝ろよ。ロフトに上げてるんだろ?」
「階段登るの面倒臭い」
「じゃあ持ってくるから。ほら歯ブラシ。用意する間に磨いてろ」
 いつの間に、と目を瞬きながら後藤は差し出された歯ブラシを受け取った。ご丁寧に歯磨き粉も付いている。
「なぁー、仕事は?」
 ロフトから山口が顔を出して尋ねる。後藤は首を横に振った
「やへう」
「え、何て?」
「やへう!」
 歯ブラシを口に入れたまま叫ぶ。山口はやっと理解したのか頷いた。
「ああ、辞める? よかったよかった。せっかく付き合っても会う暇なかったら寂しいもんな。大丈夫、学ならすぐにいい仕事が見つかるさ」
 用意が済むと山口はソファに、後藤はソファの横に敷いた布団に身を横たえたが、二人ともなかなか腹が落ち着かず、部屋の照明が消えたのは結局、例のテレビゲームを一時間ほどプレイした後のことだった。
「あー眠い」
「俺も」
「学、ところでさ、俺も連勤明けで明日から三連休なんだ」
「へぇ」
「だから明日は昼までとりあえず寝尽くそう。あっ、学、お前アラーム切った?」
「切った切った」
「で、起きたら余った肉でまた焼肉しようぜ」
「あんだけ食ったのに?」
「そう、あんだけ食ったけどまだ食べる。普通の奴なら脂ギトギトは暫くいいって言うところだけど、見た目草食系のくせに胃腸の作りが雑な学ならいけるだろ?」
「雑って何だよ雑って」
「実はおろしポン酢のタレもあるし」
「あー、おろしポン酢か……」
「いいだろ? さっぱり系の王者おろしポン酢さえあれば、どんなにもたれた胃もゴーサイン間違いなし。焼肉やろうぜ!」
「あー分かった分かった。じゃあ今度こそおやすみ。そろそろ寝かせてくれ」
「うん、おやすみ」
 山口はそう言って暫くすると布団の方へ身を乗り出し、後藤の唇に自身のそれを軽く重ね、文句を言われる前に元の場所に戻った。
 網戸から心地良い風が吹き込んでくる。二人はやがて目を閉じ、共に夢の中へと旅立っていった。
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