君の結婚式


「結婚するんだ」

 彼はそう言って、グラスの底に残ったビールを飲み干した。
「そうなんだ、おめでとう」
 僕が平然とした顔で祝福の言葉を口に出来たのは、殆ど奇跡とも言っていいくらいだった。僕は数ヶ月前から彼に彼女らしき存在が出来たことを感じ取っていたし、その彼女の顔を想像すらしていた。だがその事実を事実として認めていたわけではなかった。もしかしたら勘違いかもしれない、いやきっとそうだと自分に言い聞かせて、この数カ月を過ごしてきた。それがいきなり結婚だなんて――欄干のない橋を注意深く渡っていたときに、横からふっと突き飛ばされるような衝撃だった。
 告白を僕が非難なしに受け止めたことで、彼の中で整理がついたらしい。それまでの何となくそわそわした気配が完全に消えた。彼は側を通っていた店員にビールのおかわりと唐揚げを注文し、お前も食えよとホッケ焼きの皿をずいと差し出してきた。思うに、彼はあのグラスの最後の一口とともに、僕への罪悪感も飲み下してしまったのではないだろうか。詰ればよかったのだ、僕は何故自分を捨てるんだと彼に怒りをぶつけるべきだったのだ、とその瞬間気付いたが、そうする機会は永遠に失われた。だから僕は彼の寄越す皿から魚の少し焦げた肉を箸で掴み口に入れ、味もよく分からぬままに咀嚼をした。
 彼は店員が持ってきたビールを受け取るとすぐに三分の一を胃に入れ、そして溜息をついた。 
「長いようで短かったな、俺ら」
「ああ……もうすぐ二年に――」
 なる筈だった。来月でちょうど二年だ。だがもうカウントは終わってしまったのだ。彼は僕が飲み込んだ言葉に気付かなかった。隣のテーブルで泥酔寸前の男が大きな笑い声を上げたからだ。
「お前に誘惑されたんだっけ」
「それは君の言い分だろう。僕は君が酒で潰しにかかってこなければ一生一人ものだった」
「お硬い先生は酒で落とすしかなかったろ? 俺のこと好きだってのはずっと前から分かってたけどなぁ、正攻法でいっても断られそうな雰囲気してたから」
 医療器具メーカーの営業である彼が、あの手この手を使って僕を酒の席に引っ張り出し、酔い潰して自宅に持ち帰った経緯は、翌日順を追って思い出し考えてみると、殆ど犯罪擦れ擦れの手口で、というよりほぼ強姦だったのだが、なぜか僕は彼と付き合うようになった。たぶん僕の人生に彼以外の相手が現れることは無いと思ったからだろう。僕は自分が好きではなかったから、押し倒され苦痛を与えられたことを屈辱には思わなかったし、心のどこかで微かな喜びすら感じていたくらいだった。ああ、僕のような人間も誰かを欲情させることが出来るのかと。
 そして僕は痛みが薄れるにつれ事の重大さも忘れていった。
「医者なんだから看護師はより取り見取りなのに、マジもったいないな」
 くそうらやましい、と彼は大口の笑顔で言った。
「より取り見取りだろうが、僕には関係ない」
「試してもみないでそれを言うのか?」
「興味がない」
「もったいない奴だな、俺なんか――」
 それから彼の妻となる女性の話が始まった。見た目と強引さでモテる彼は、どうやらごく普通の容姿と大して良くもない性格の派遣社員の彼女に妊娠を告げられたらしい。お腹が大きくなる前にと結婚を迫られ、了承したのが十日前。もっと遊びたかったと愚痴を言うわりには、彼女の自慢話は止まらなかった。その話は彼氏に――いや、元彼氏にするべき話なのだろうか、この男にモラルはないのだろうかと僕は曖昧に相槌を打ちながら考えていた。ぼうっとしていたせいで熱々の唐揚げで咥内を火傷してしまったが、彼は気付きもせずに話し続けた。僕は空いていた自分のグラスを見やり、彼のグラスをそっと手に取って口の中を潤した。その後二人分の酒を、少し贅沢をして高めの地酒を注文した。しかし僕の口には合わなかったので一口分減った僕の酒も彼が飲んだ。彼はよほど味が気に入ったらしく、僕に勧められそのまま何杯もお代わりをしていた。
 明日も仕事だからこの辺で、と僕が控えめに提案すると、彼はやっと時間に気付き忙しくなく動いていた口を閉じた。新生活への不安、父親になることへの不安があったのだろうか、彼がここまで店に僕を拘束するのは珍しい。いつもは適当に食事を済ませてラブホテルに直行だった。
 支払いは僕がした。ささやかなお祝い、と言うと彼は笑った。
 二人で駅まで歩く。さっきの居酒屋は駅から徒歩二分のところだったが、彼は飲み過ぎて足元が危うく、僕が支えて歩き五分はかかった。冷たい風に晒されて僕の酔いはさめ、彼の呂律は少し回るようになった。 
 二人で電車が来るのを待つ。終電にはまだ何本かの余裕があり、人は少ない。彼はふと口を開いた。
「今日、このまま二人でどっかに逃げるか」
 胸に熱いものが広がる。僕は期待を抱いて彼の顔を見た。彼は笑って何もない空間を見ていた。それは冗談を言うときの顔だ。ああ――ならこれは、酔っぱらいの戯言に違いなかった。彼は本気でそうしたいわけじゃない。ただ言ってみたかっただけだ。
「なぁ、お前とはこれからも会えるよな?」
 彼の続けた言葉に、僕は首を横に振った。
「なら結婚式には来いよ。彼女友達多いっていうから、お前もそこでいい嫁さん見つけたらいい」
 ここで行くと答えたら彼はきっと困るだろう。何故ならこれも本気ではないからだ。僕は俯いた。
「いや。行けない」
「そっか、残念……何かごめんな、気遣わせて」
「君が謝ることなんてないよ」
 そのとき電車がホームへと入ってきた。僕はそっと手のひらを彼の背中にあてると、線路に向かって突き飛ばした。振り返った彼が見せた一瞬の表情はひどく間が抜けていて、これまでにないくらい愛しいものに思えた。
 アルコールに緩んだ彼の判断能力は何の役にも立たず、ほんの数秒で全てが終わった。

「謝ることない……だって君の結婚式なんて無いんだから」

topページに戻る