こんな夜にウォッカがない

 空気が白く濁って、全てがぼやけて見える。血中のアルコール濃度のせいもあるのだろうか。視界に浮かぶ何もかもが実体を持たぬ幻のようだ。
 矢代辰真はウォッカの瓶を持ち上げ、煙草と入れ替わりに口に咥えた。熱く喉を焦がして食道を流れ伝う液体が、胃液とアルコールばかりの中に混ざり込む。
『――であることから、警察は計画的な犯行と見て捜査を進めています』
 点けっぱなしのテレビが夕方のニュースを映している。矢代はリモコンをゴミの山から探り当てようとして失敗し、コンセントからテレビの電源プラグを無理に引き抜いた。神妙な顔をしたニュースキャスターの顔が闇に消える。カーテンで陽光を閉めだした暗い部屋に残る光は、短い煙草の先端にある橙色だけになった。
 矢代は手元のビニール袋からパンを取り出し、無感情に齧って、残り少なくなったウォッカを使って胃の中に流し込んだ。空腹感は無かったが、炭水化物を摂取すれば眠りやすくなるのだ。アルコールと組み合わせればなお効果的で、殆ど気絶するように意識を失うことが出来る。
 ――そのまま永遠に目覚めが訪れなければ最高だ。矢代は半分本気で思いながら欠伸をする。灰皿に置いていた煙草を底に押し付けて消火し、毛布にくるまって目を閉じた。ごろりと体勢を変えたとき、目覚まし代わりの携帯電話の充電が切れていたことが一瞬頭を掠めた。明日も明後日も明々後日もその次の日も、覚えている限り来月の半ばまで仕事の予定が入っていたからだ。だがその次の瞬間にはどうでも良くなっていた。携帯電話の充電が切れているなら、アルバイト先や派遣会社、家族、そして最も不快な連絡を寄越してくる連中からの電話で起こされることはない。一か月前の引っ越しから一度も住所変更の連絡はしていなかったから、暫くの間は直接訪ねてこられることもない。少なくとも明日明後日まではそうだろう。まだ少しは時間がある。数日は持つ筈だ。その数日の間に片を付ける用意は出来ている。
 だが今は、夢も見ずに眠りたかった。



「やっちゃん、何で大学来なくなったの?」
 いつかの日の仕事終わりに、矢代は高校からの付き合いである浅田勇樹に捕まった。浅田はやや痩せ気味のすらりとした体を仕事場近くの大きな看板の影に隠していて、避けようがなかった。
「休学したから」
「休学? 何で」
「お前に関係ないと思うけど。つか悪いけど、今お前と話す余裕ない。相当疲れてるから」
「それは顔見れば分かるよ」
 浅田は矢代を悲痛な面持ちで見つめる。その視線は不快だった。矢代はいらいらと信号機に目をやり、早く青に変われと胸の中で毒づいた。さっさと家に帰り、酒を飲んで眠りたかった。
「……やっちゃんさ。もしかして何か、トラブルに巻き込まれて、ない?」
「別に」
「……でも、連絡全くなくなったの初めてじゃん。前はどんなことがあっても返信してくれたし、絶対メールの最後はやっちゃんだったのに」
 そうだったろうか、と矢代は思う。そう言われてみれば確かにそうだったかもしれない。矢代はメールやSNSでのやり取りのとき、相手のメッセージで終わるのが生理的に許せない性質だった。そう、『だった』。最後に友人と連絡を取ったのがいつだったか、矢代は思い出せなかった。
「――だから、俺に出来る事だったら……、何でも力になりたい」
 赤を見つめながらどうでもいいことを思い出そうとして、意識が飛んでいたらしい。
「……は、何?」
 空白の数十秒の間、自分に向かって浅田は何を話していたのかと思い、深く考えずに言葉を発する。その声は意図せずして冷たく響いた。浅田は一瞬傷付いた顔をした。
「だから、俺に何か出来ることないかと思って……」
「ないよ。暫く放っておいてくれたらまた連絡するから」
 点滅する青。横断歩道を早歩きに渡る。浅田は距離を離すまいと同じ速度で横を歩く。
「暫くって? そんなにやつれるまで仕事して、もし倒れでもしたら」
「倒れないしお前には関係ないって言ってんだろ。……ああ、頭ガンガンする」
「えっ、大丈夫?」
 心配したのか近寄ってきた浅田を、矢代は手で振り払った。
「もう本当に。いいから。お互い嫌な思いするだけだって。帰れよ」
「嫌だ」
 矢代は溜息を吐き、煙草の箱をポケットから取り出した。日が昇って間もない時間とはいえ外で歩きながら吸いたくはなかったが、どうしても我慢が出来なかった。
「他の奴らから聞いただろ? 俺には近寄らない方がいいって」
「そんなこと」
「あるだろ。俺自分で今の自分のこと最悪だって思うし」
 大学に行かなくなる数か月前から、矢代は控えめに言っても酷い状態だった。機嫌も体調も良くないか悪いか最悪かで、親しくしていた友人たちに笑顔を向ける気力すらなかった。誰かが話し掛けてきても、返すのは皮肉か嫌味か悪態か愛想のない溜息ばかり。酒の臭いを漂わせていたことも一度や二度ではなかった。
 周りの顰蹙を買っているのには気付いていたが、態度を改めることは出来なかった。人が矢代に寄り付かなくなるのに時間はそう掛からなかった。
 残ったのはただ一人、浅田だけだ。
「俺はそんな風に思わないよ……、調子良くないときは誰だって余裕なくなるじゃん」
「そう。余裕ないんだよ。だからもう話したくないって言ってんだよ。家に辿り着く前に体力使いたくない」
「じゃあ家に着くまで黙ったら、家に着いたとき話してくれる?」
「はぁ? 何でそうなるんだよ……」
「だってこのまま帰ったら完全に連絡取れなくなりそうだから」
 浅田はしつこかった。この一か月は話もしていなかったし、そもそも元から大親友と呼べるような仲ではなかったというのに。高二高三と同じクラスで同じ部活、そしてたまたま大学も同じところを選んだから、何となく親しくしていただけだ。
 そんな相手に明かすことではなかったが、矢代は疲れて、判断能力が鈍っていた。纏わりついてくる友人から解放されたかった。
「借金」
「え?」
「借金があるんだよ。親の。クソ親父がやばいとこから借りてきやがったから、今必死で働いて返してんの。だからお前に出来ることなんて真面目に何もないから。本当に」
「…………」
 急に黙り込み足を止めた浅田を、矢代は少しだけ残念に思う。だが落胆よりも安堵の方が遥かに大きかった。これでもう相手をしなくて済む。酷い言葉を吐いたり、不機嫌で血色の悪い顔を見せたりせずに済む。
 だがそれは長くは続かなかった。浅田はすぐに矢代に追いつき、また横に並んだ。
「どれくらい?」
「……何が?」
「借金」
「何で」
「教えて」
「だから、何で」
「……ちょっとは足しになるかもしれないから」
 浅田は自身の鞄に手を入れ、財布を取って、中に入っていた全ての札を迷いなく矢代に差し出した。
「は?」
「返さなくていい。全部使ってくれていい」
「……意味が分かんないんだけど」
「意味って……、別に何か代わりに欲しいとか、後でやっぱり返してとか言わないよ。友達が困ってたら力になりたいって思うのは当ぜ――」
「いらねーよ」
 矢代は怒鳴るように言った。急激に血圧が上がって、怒りが全身の血を燃やし始めた。煙草は手の中で折れてアスファルトに落ち、空になった手は浅田が差し出した数万と数千円を乱暴に押し返した。
「施しとかいらねーから。俺がいつお前に金くれって言ったよ。本気で迷惑。最悪だよお前。ないわ」
 地に落ちてなお燃える煙草をぎりぎりと足で踏み潰す。矢代は残骸を拾い上げてジーンズのポケットに入れた。
「もう金輪際顔見せんなよ。家まで付いて来たらお前のこと本気で嫌いになるから」
 呆然としている浅田に吐き捨てて、矢代は歩き出した。
 矢代は追ってこなかった。
「ごめん、本当にごめん。傷付ける気はなかったんだ」
 そう叫ぶ声が、離れて暫くした頃、微かに耳に届いただけだった。



 矢代は短い眠りから覚めた。不快な目覚めだった。強い吐き気と眩暈で体に力が入らない。吐瀉物で喉を詰まらせる前に起きたのは幸いだったのか、それとも。尿意もあったので仕方なく体を起こしてトイレに向かう。ふらふらと体を揺らして歩いている内に荷物を詰めたままのダンボールに足をぶつけてしまった。派手な音のわりに痛みはなかった。
 胃が痙攣する。中身が空になるまで激しく嘔吐して、小用を済ませ、流して床に座り込み、すぐ横のバスタブに背を凭れた。
 喉の渇きを感じたが、部屋に戻るのが面倒だった。トイレタンクとバスタブの間にある小さな洗面台の蛇口を捻る。歯磨き用のコップの中で虫が死んでいたので、蛇口に唇を近付けて喉を潤した。
 渇きが癒され、もう一度バスタブに背を預けたとき、矢代の目からぼろりと涙が流れた。口にしたばかりの水がぼろぼろの体から漏れ出すように、次から次へと溢れては頬を伝う。
 シャツのポケットから煙草を探り当てた。ライターは居間に置いてきてしまった。干からびて温度のない煙草を力なく指に挟んだまま、吸っているときそうするように、天井を見上げる。
引っ越したときから点滅している照明が非現実的な感覚を齎して、矢代は自分の不愉快で鬱陶しい疲れた肉体が、この狭い空間と一体化しているように思った。不潔で、悪臭がし、無感情で、時間切れが迫っている。

 チクタクチクタク……ジリリリリ。そろそろお時間です。良かったらまた遊んでください。

 誰の声だろう、と矢代は思う。妙に媚びた声だった。不快に思って耳を塞ぎ、体を丸めて小さくする。それでも声は隙間から内耳に潜り込み、耳鳴りのように響いた。うるさい。聞きたくない。どうしようもなく気分が悪かった。吐き気がする。汗が服を濡らす。体が震える。気分が悪い。気分が悪い。苦しい。涙が止まらなかった。
 泣きながら重たい体を引き摺って部屋に戻り、新しい酒瓶の封を開けた。無色透明の液体が瓶の中で揺れる。渇いた喉をウォッカが濡らす。水でも口にするかのようにウォッカを飲む。瓶をテーブルの上に置いて寝転がり、毛布を体に巻き付ける。段々と気分がましになってくる……。
 隙間風で動いたのだろうか。引っ越した日から閉め切ったままのカーテンの間から、光が細く差し込んでいた。その光はテーブルの上の瓶を照らしている。飾り気のないライン。中身と同じ無色透明の硝子。光沢のある青の蓋はおざなりに被せられているだけで、倒せば中身が零れてしまうだろう。もっともそれは零れるほど中身が残っていればの話だが――矢代は瓶を手に取り、迷いなく口に運んで、心配事の種を一つ摘み取った。
 過剰に摂取したアルコールが体中の血液の中に溶け込んでいく。矢代は目を閉じてその感覚をじっと味わうのが好きだった。酒――それもウォッカのような色も味もない液体が自分の体に滲み込んでいく感覚が、酒を覚えて間もない頃からずっと好きだった。消毒液として使われたこともある無味無臭のこの酒が体の中に入ると、まるで内側から綺麗になっていくように感じるのだ。いくら体を洗っても落ちなかった汚れが、脳や心臓や肺に溜まった膿が、呼気に混じって外へ出ようとする悪い菌が、この酒によって清められていくような気がした。
「あと……一本」
 もしくはそれにもう一本。
 それで全ての汚れが落ちる。それでもいいかもしれない。別の方法でけりをつけるつもりだったが、これでもいいかもしれない。矢代は空になった瓶を抱き締めながら思う。嘔吐物で汚れた服を着替え、顔を洗い、マスクをしてアルコール臭のする息を隠し、アパート近くのスーパーで何本か調達して家に帰る。あとは棚の中の薬と一緒に飲み干すだけだ。それで終わる。この汚泥の中から抜け出せる。苦しみは永遠に終わる。解放される。それでやっと終わりだ。やっと全て終わりに出来る。あと一本、あるいはそれにもう一本で、全て綺麗に終わる筈だ。



「――俺が終わりにしてきたって言ったら?」
 矢代は目を開けた。蛍光灯の光の中、ぼんやりと視線を彷徨わせる。声の主は浅田だった。
「……勇樹?」
「勝手に入ってごめん。何か飲む?」
「お前……、何でここに」
「ついさっき、大家さんに入れてもらったんだ。やっちゃんのお姉さんも付き添ってくれたけど」
「姉貴?」
「仕事があるからって、ドアが開く前に帰ったよ。これ飲んで」
 浅田は矢代の側に座っていた。差し出されたのはスポーツドリンクで、封は既に開いていた。中身は半分ほど減っている。
「いらない……つーか……、何でお前が姉貴と」
「心配だから様子を見に行きたいって言ったら、ここまで連れてきてくれたんだ。お姉さん、俺の顔覚えててくれたから」
 矢代は毛布とその上に掛けられていた見覚えのないコートの下から抜け出し、上体を起こした。酒瓶を探して視線を彷徨わせる。ない……どこにもない。
「酒は」
「ないよ」
「酒は?」
「ないってば」
「俺の酒はって聞いてんだよ」
「もうないんだよ」
「は?」
「喉渇いてる? ミネラルウォーターもあるよ。買ってきたんだ」
 飲みたいのは水ではなく酒だった。アルコールを体が欲していた。渇いた喉を潤し、体の震えを止め、活力を与えてくれるのは、細長いガラス瓶に収められたそれだけだった。
 それが必要だった。どうしても今必要だった。矢代は酒瓶を探しに立ち上がろうとしてよろめき、前に倒れ込もうとした。それを咄嗟に支えたのは浅田だった。
「……やっちゃん、痩せたね」
 悲しげに響くその声を聞いた瞬間、矢代は浅田を突き飛ばした。浅田はごみの山の中に倒れ込み、手に持ったままだったスポーツドリンクのボトルを落とした。ごみがクッションになったのか、浅田はすぐに落ちたボトルを拾い上げ、零れた中身を近くにあったティッシュで拭き始めた。
「酒は?」
 浅田は顔を上げ、手を止めて矢代の目を見た。二人は少しの間見つめ合った。
「……どこにあるか知りたい?」
「どこにあるんだよ」
「座って」
「俺の酒だろうが」
「座って、やっちゃん」
 指図される筋合いはないと突き放してもよかった。今すぐに家を出て行けと追い払ってもよかった。矢代がそうしなかったのはただ、いますぐに必要なものを目の前の男が持っている可能性があったからだ。
 浅田は矢代の手首を掴み、軽く引いて、座るように再度促してくる。それに従うと、そっとペットボトルが差し出された。零れて幾らか中身が減ってしまったスポーツドリンク。
「これを飲んでくれたら、どこにあるか教えてあげる」
 欲しいのはこれじゃない。こんなものでは満たされない。そう叫ぶ代わりに、浅田の手からボトルをひったくった。口から零れるのにも構わず一気に喉の奥へと押し込んで、空になったボトルを浅田の胸に押し付け、そのまま胸ぐらを掴んだ。浅田の焦げ茶色の髪が揺れた。
「どこに……、どこにある?」
「…………」
「どこにあるんだよ!」
「……下水道。全部流したから……、空の瓶と空き缶はスーパーの袋に纏めて、ごみ箱の横に置いてる」
「……お前、ふざけんなよ」
「ふざけてない」
「勝手に家に入って……挙句人のもん勝手に捨てた? 自分が何やったか――」
「分かってる。分かってるよ」
 浅田のクリーム色のセーターを掴む手は、力を入れ過ぎたのか血の気が失せている。それともエネルギー不足のせいだろうか。矢代は全身の血がぼうっと燃え上がるのを感じ、同時に冷たく凍えるのも感じた。息が苦しい。頭が割れるように痛む。息が苦しい。
 ――次の瞬間、浅田の顔に拳がめり込んでいた。鈍い音。浅田の体が後ろに倒れる。呻き声。よろよろと体を起こした浅田が顔を手の平で覆う。指と指の隙間から血が漏れ出し、畳の上に散らばった汚れ物を赤く染める。
 鼻を打った拳の痛みを感じ、浅田から流れる血の原因を作り出したのが己自身だと矢代が気付くまでに、随分と時間が掛かった。実際、ティッシュで鼻を押えた浅田の目が自身の方に向けられるまで、矢代は二人の間で何が起こったのか全く理解していなかった。
「…………」
 後悔の念が矢代の胸を襲う。謝罪をしなければならない――だが、そう思う気持ちを遥かに凌駕するアルコールへの渇望が矢代を動かした。テーブルを挟んだ向かいにある小さなキッチンに向かい、ごみ箱の横の袋を漁る。ウォッカの瓶が数本、そして六缶パックで買ったビールの缶が収まっていた。どれも空だったが、底に残っているかもしれない僅かな滴を求めて口を付けた。瓶と缶から零れ落ちる滴は、渇望を満たすには全く足りない量だった。
「やっちゃん」
 いつの間にか浅田が側に来ていた。血は止まったのかティッシュは持っていない。鼻の周りが拭いきれなかった血で微かに汚れていた。
「もう大丈夫だから。もう心配しなくていい。お酒は飲まなくていいんだよ」
 言っている意味が分からなかった。何が大丈夫で、何を心配しなくても良く、何故酒が必要ないのか。矢代の思考回路では処理出来ない言葉だった。
 浅田は矢代の手から優しく空き瓶を抜き取り、袋の中に戻した。それから矢代の体を支え、立ち上がらせる。何故か触れる手や腕に覚えがあるような気がした。
「勇樹……お前帰れよ」
「どうして?」
「またお前のこと殴りそう」
「うん」
「うん、ってお前」
「何か食べる?」
「……酒」
「お酒はないよ」
 元の場所に戻って、矢代は浅田に毛布でくるまれた。抵抗はしなかった。そうする元気があったら確実にそうしていたが、体力が尽きてしまっていた。
「……酒は」
「水ならあるよ。オレンジジュースも。そっちの方がいいかな」
 浅田は座った矢代の正面に膝を突き、オレンジジュースのボトルを口に近付けた。甘い果汁が舌を濡らし、アルコールに焼けて傷付いた喉を通って胃に落ちていく。
「食べ物もあるよ。食欲ある? 食べられそう?」
「……お前、さっきもいた?」
「さっき?」
「俺が一回起きる前」
「いたよ。もし昏睡状態だったら救急車呼ばないといけなかったから、話したりスポーツドリンクを飲ませたりした。思い出した?」
 頷いた矢代の口に、浅田はパックに入ったゼリー状の栄養食を近付けた。
「飲み込んで」
「酒飲みたい……酒は? 勇樹、頼むから買ってきて」
「飲み込んで」
「金なら出すから」
「やっちゃん、少しだけでいいから」
 矢代は浅田の手からパックを取った。無表情で口を付ける。だが吸い込む気力がなかった。それに気付いたのか、浅田の手が矢代の手の上に重なった。冷たく微かな甘みを持ったゼリーが口の中に少しずつ入っていく。
「……何でここに?」
 パックが空になると、矢代はもう一度尋ねた。
「お姉さんに案内してもらったんだよ」
「それは聞いた。何で姉貴がお前に……」
「俺がやっちゃんの友達だから」
「友達じゃない」
 『傷付きました』と言わんばかりの顔を見るのが嫌で、矢代はテーブルの上に視線をやった。ライターを手に取る。ポケットから出した煙草に火を点けた。
「何で?」
「家まで来たら嫌いになるって言っただろ」
「嫌いになったからもう友達じゃないって?」
「そうだよ。もう他人」
 照明が煩わしかった。点けたのは浅田に違いなかった。きっともう夜なのだろう。
「俺はまだ友達だと思――」
「ずっと前からお前のことが気に入らなかった。ずっと前から」
「…………」
「理由を言ってやろうか? いくらでも言えるから。一つ目、人の悪口絶対言わないところ。二つ目、元々何でも出来る上に努力家なところ。三つ目、優しくて流され易そうな癖に自分をしっかり持ってるところ。四つ目、誰にも分け隔てなく接するところ。五つ目から百番目まで飛ばして、一番気に入らないのが――」
 矢代は煙を吐き出しながら口元を歪めた。
「――俺と正反対の癖に……俺のことなんか絶対に理解出来ない癖に、俺のことを友達だって思ってるところ」
「……それって、悪いこと?」
「悪いよ。最低最悪……つうかお前さ、自分が育った環境考えたことある? 家族は揃って善人で、頭が良くて、常識と良識とお金を持ってて、精神的にも経済的にもずっと安定した生活を送ってきただろ? 顔も性格も良くて欠点らしい欠点もないから苛められたこともないし、苦労らしい苦労もしたことない。だから人に優しくしたり心配したりする余裕も出来るんだよ。自分が安定してるから慈善の心を持てるわけ。そういう風に育てられたから。このご時世にお前みたいに恵まれた人生を送ってる奴と俺が友達だって? ギャンブル狂いの上にアル中のクソみたいな父親を居酒屋まで迎えに行ったことも、母親の愚痴と泣き言に何時間もつき合わされたことも、口答えしただけで爺さん婆さんに棒で一時間殴られ続けたことも、自分が作ったわけでもない借金の為に血吐くまで働いたことも無い癖に? ふざけるのも大概にしろよ」
 摂取したばかりのエネルギーを刃に変えて、口から垂れ流していく。それがどれほど浅田を傷付けるものなのか、矢代は本当の意味では理解していなかった。だがきっと心を痛めるだろうということは分かっていた。剥き出しの悪意と攻撃的な拒絶を笑顔で受け止められる程深く、この男が誰かに傷付けられたことなどある筈もないのだから。
 浅田は暫くの間動かず、何も言わなかった。息遣いすら聞き取れない程ただ静かに存在していた。そして矢代が二本目の煙草に火を点けたとき、やっと声を発した。
「もう血を吐くまで仕事する必要なんてないんだよ。もう全部終わったから」
 矢代は浅田の顔を見た。目が合った。
「は? 借金の肩代わりでもしてくれたって?」
「お金は一円も出してないよ」
「じゃあ何だよ。闇金の事務所襲って、あいつら全員ぶっ殺してくれたとか?」
 浅田は答えず、じっと矢代を見つめていた。沈黙は気まずさを感じる長さまで続き、唐突に途切れた。
「……もしそうだって言ったら、やっちゃんは俺のこと友達だって思ってくれる?」
 ただの冗談だと笑い飛ばすには真剣過ぎる声だった。
 矢代は浅田の目をじっと見つめ返した。
「思うも何も、お前は絶対にそんなことしないだろ」
「絶対?」
「絶対。お前が誰かをそんな風に傷付けることなんてまず有り得ない。自分の命より他人の命を優先する奴だし、自分の家族とか友達を悲しませるようなことは死んでもやらない筈だから」
「…………」
「『浅田勇樹』ってそういう奴だろ」
 浅田は目を伏せた。
「……お姉さんと、最近ずっと連絡取ってたんだ」
「俺の姉貴と?」
「そう。本当のこと言うと、高校のときに連絡先交換してて、大学に入ってからもたまに連絡取り合ってた」
「……は?」
「俺の親戚に弁護士やってる人がいるんだ。その人の知り合いに借金関係に詳しい人がいたから紹介してもらって、お姉さんと三人で会ったり話したりしてた。三人で会ったのは最初の一回だけだったけど、どうなったのかはお姉さんから教えてもらった。もうお金を返す必要は完全に無くなったって」
「……そんな、簡単に行くわけ……」
「元々違法の契約で最初から返す義務は無かったし、元金は返し終わった後だったから、向こうも弁護士通したら簡単に諦めたって」
「姉貴は何も」
「解決したのはここ二、三日の話だよ。それにお姉さん、やっちゃんとは引っ越してから連絡まともにつかないって言ってた」
 着信を無視していたのは事実だった。
「やっちゃん……もう終わったんだ。だからもう、そんなにボロボロになるまで頑張る必要はないんだよ」
 矢代は全身の力が抜けるのを感じた。思考が止まり、現実感を失う。何故浅田がここにいるのか、何故自分がここにいるのかが分からなくなってしまう。
「…………」
 言葉を失った口を間抜けに開けたまま放心していた。指の間から煙草が抜き取られる感触に、矢代は少しだけ我を取り戻した。煙草は取り戻す前に灰皿に押し付けられて火を消されてしまった。
「……お前、姉貴と付き合ってんの?」
「……高校のとき、ほんの数か月だけ。今はお互い何もないよ」
「なら俺の為にやってくれたって?」
「俺が解決したわけじゃないよ。俺はやっちゃんのお姉さんに人を紹介しただけ」
 矢代は世界がぐらぐらと揺れ出すのを感じ始めていた。アルコールやその不足が原因ではなかった。自分のこれまでの努力が――必死になってやっていたことの意味、そして今日選び取る筈だった道の意味が全て無に帰してしまったからだ。自分の与り知らぬ場所で、いつの間にか全てが終わってしまっていた。
 どれほど『良い』ことが起こったのだとしても――それが一体何だと言うのだ?
「……俺が……馬鹿みてーじゃん。あんだけ必死になって……、解決したのは家族でも何でもないお前って……」
 視線を彷徨わせる。無意識に酒瓶を探している。見つからない。
「俺が……俺が終わらせる筈だったのに……俺が……、…………」
 散らばったごみと着替えの山を漁る。見つからない。渇いていた。舌が、喉が、心が。
「やっちゃん」
「酒は……」
「やっちゃん」
「酒は?」
 浅田は矢代の体を抱き締めた。それで忙しなく動いていた手足が止まった。矢代は抱き返しも、反対に突き放しもせずに浅田の肩の向こうを見つめた。亡霊のような目だった。
「やっちゃんは……、凄く頑張ったよ。十分過ぎるくらいに……簡単に終わったのも、借りた分をやっちゃんが殆ど返してたからだし。馬鹿みたいなんかじゃないよ。やっちゃんは――」
 言い終わらぬ内に、とさりと柔らかな音を立てて二人の体が畳の上に倒れた。
 下になった浅田は、己を押し倒した相手を見上げた。
「……やっちゃん?」
「お前の噂。あれ本当?」
「噂って?」
「男もいけるって噂」
「…………」
「ただの噂? 事実? どっち?」
「……半分噂で、半分事実だよ」
「は?」
「男『も』じゃない。殆ど男『しか』駄目だから……」
 矢代は浅田の頬に手を伸ばした。親指は頬に触れたまま、他の指でそっと輪郭を撫でる。
「なら俺は?」
「どういう意味?」
「俺は守備範囲内?」
「……やっちゃん」
「どうなんだよ」
「…………」
 沈黙はときに雄弁だ。
 『そんな目で見たことはない』、その一言だけで済んだ筈だった。その一言が咄嗟に出なかったのはつまり、口にするのを躊躇うだけの理由があるということであり、そしてそれを浅田自身が自覚しているということだった。
 矢代は自身をくるんでいた毛布の前を開き、浅田の体をすっぽりと覆った。暗がりの中でセーターの下に手を差し込み、Tシャツ越しに腹を撫でる。
「……こんなこと、しない方がいい」
「何で?」
「だってやっちゃんは……」
 Tシャツの下に手が潜り込む。かさついた指先が肌に触れると浅田は身を捩ったが、矢代はそれを追い、浅田の顔に自身の顔を近付けた。鼻先と鼻先が擦れる。唇が重なった。すぐに浅田の手が矢代の腕を押した。
「やっちゃん、お願いだから」
「俺は経験あるよ。男とヤった経験」
 矢代は浅田の首の付け根に口付け、囁くように言った。今は射精まで自分のそれが機能するかどうかは分からなかったが、それはアルコールや睡眠不足のせいであって同性が相手だということは関係がなかった。
 決して恋愛対象にはならない、過去に付き合った女性たちとは遠くかけ離れた容姿の男たちにも、それは望めば立派に機能したのだ。
「どんな風にして欲しい? 後ろ使うなら抱く方がいい? それとも抱かれる方?」
「やめて」
「好きなようにやってやるよ。勇樹がして欲しいようにしてやる。どうされたいの?」
「やっちゃん……こんなこと、して欲しくない」
「して欲しくない? じゃあお前がしたいの?」
「そういう意味じゃない。ねぇやっちゃん、本当に……お願いだからやめて」
「どうして?」
「だってこれは、俺がやったことの見返りとして……、やってくれようとしてるんだよね」
「借りは作りたくない」
 現実的な問題が解決しても、借金が清算されたと手放しで喜ぶことは出来なかった。感情的には浅田が借金を肩代わりしたも同然で、それは矢代にとって『友情』が果たすには大き過ぎる役割だった。
 つまり、浅田には見返りを受け取る正当な権利があるのだ。矢代が頼んだことではなかったが、だからといってその好意を無償で受け取ることは出来ない。
「誰にも借りは作りたくないんだよ」
 そう繰り返しながら矢代は浅田の手を取り口付けた。浅田の手は一瞬びくりと震えた。
「……俺は、何かの引き換えに、こういうことをしたいとは思わない」
「何で」
「相手が心の底から俺としたいと思ってないなら、その人と体を合わせても虚しいだけだから」
 矢代は動きを止めた。
「見返りなんか欲しくないよ。やっちゃんが俺のこと友達だって思ってなくても、俺はそう思ってるから……俺が勝手にやったことだから」
 だからこんなことをする必要はないのだと、浅田は宥めるように優しく矢代の肩に触れる。矢代は浅田が触れた部分に目をやり、それから浅田の顔に視線を移した。矢代を見つめる浅田の真剣な眼差しは、どことなく悲しげにも見えた。
「これは俺の為にも、やっちゃんの為にもならないことだと思う」
「俺の為にもならない? 俺はすっきりするよ。こんなことで少しでも借りを返せるなら」
「『こんなこと』じゃない」
「『こんなこと』だよ。たかがセックスだろ」
「俺にとっては大事なことだよ。それに……、俺はあの電話だけで、十分だから」
「電話?」
「……覚えてない?」
「してない」
「今日のお昼。やっちゃんの携帯から掛かってきたよ」
 昼。仕事を終えて帰ってきたのが昼前だった。帰り道に酒を買ったのは覚えている。だがその後は靄がかかったように朧げな記憶しかなかった。
「すぐに切れたし、やっちゃんは何も言わなかったけど……泣いてるみたいだった」
「……何かの拍子に、間違って掛かったんだろ。泣いた覚えもないし」
「俺はね、やっちゃん。友達が辛い時に自分を頼ってくれたら、凄く嬉しいよ。……もしそうじゃなくても、何か出来ることがあるなら側にいたいと思う」
「自己満だろ、それ」
「そうだね」
「……友達だって言うんなら、酒、買ってきて。それが出来ないなら帰れよ」
 浅田は静かに首を横に振った。
「ああそう。お前のこと嫌いになるよ?」
「もう嫌いだって言われた」
「開き直りかよ。もういい。自分で買いに行く」
 浅田の手が矢代の腕を掴む。それを振り払う前に強く引き寄せられ、矢代は浅田の上に倒れ込んだ。浅田の両腕は矢代の背中に回って力が入り、離すまいとしている。
「離せよ」
 反応はない。
「……は、何? やっぱしたくなった?」
 答えはなかった。浅田が急に口を噤んだのは、その体に矢代の全体重が掛かっているせいではないだろう。抱き締める腕の力から考えると、矢代に交渉の余地を与えまいとしているのかもしれない。
「離せって」
 それから何度も同じ言葉を繰り返してみたが、浅田は一言も言葉を発しなかった。要求を拒まれ拘束を受け続けていることに、矢代は不快感を覚えた。そして浅田はきっと知っているのだと思った。一人家で酒を飲み続けて何をするつもりでいたのか――酒で一体何を終わらせるつもりでいたのか。でもなければ家まで押しかけてはこないだろう。
 自分の選択を、最後に残された自由を浅田が阻もうとしていることに、矢代は強い怒りを感じた。そんな権利が浅田にあるとは思えなかった。矢代の人生の行く先を自由に選択する権利は矢代自身にある筈だった――たとえそれが、破滅に続く道だったとしても。
 この惨状の原因が取り除かれたと分かった今、自分がまだその道に進むつもりでいるのかは分からなかった。終わった後に保険会社から家族に渡る筈だった幾ばくかの金は必要なものではなくなったし、心をじわりじわりと追い詰める呼び出し音もこの先は聞かされずに済む。だがそれでもこの渇きを癒し感覚を鈍らせてくれる酒は必要で、それに溺れた結果に待っているものが何だったとしても構わなかった。
「離せよ……」
 傲慢に善意という名の偽善を押し付ける男に対して抱いた強い怒りは、やがて気にならないくらいに萎んで小さくなった。無視されると分かっていて同じ言葉を繰り返し続けるのも、頭や肩に噛み付くか手足をばたつかせるかして体を離し、家の外に飛び出そうかと考えるのも、自分の権利を頭の中で読み上げるのも、ただ虚しかった。
 矢代が体の力を抜いて暫くすると、浅田は腕の力を少しだけ緩めた。
「……苦しかった? ……ごめん、やっちゃん」
 毛布の中で大人しく体を密着させたままでいても、腕の重みを感じても、浅田の首元から微かに香る香水を嗅ぎ、耳元で囁く声を聞いても、虚しさは消えるどころか強まるだけだった。この虚しさを消してくれるものが欲しくて堪らなかった。アルコールが駄目なら誰かと体を重ね合わせ、何も考えられないくらいに疲れ果てて夢も見ずに眠りたかった。
「……勇樹」
「なに?」
「…………」
 顔を少し上げて浅田を至近距離から見下ろした。浅田の顔立ちはどことなく三か月前まで付き合っていた彼女と似ている。彼女のことを恋しいと思わないのは何故だろうと思う。
「したい」
 今度は抵抗らしい抵抗はなかった。浅田は矢代の口付けから逃れようとしなかったし、服に手を掛けても文句ひとつ言わなかった。乗り気ではなくとも、なすがまま受け入れてはいた。
 だが暗がりの中で露わにした胸に舌を這わせ始めたとき、矢代は異変に気付いた。
 肌が濡れている。舌が触れる前に、唇を落とす前に、何かが浅田の肌を濡らしている。
「……やっちゃん」
 浅田の手が頬に触れる。涙がその指を濡らす。矢代は涙でぼやける視界の中に浅田の悲しげな瞳を見つけ出した。初めからこうなると知っていたのかもしれない。浅田は始める前からそんな目をしていた。
 浅田の手が導くままその胸に顔を埋めると、目の前の男を抱いてやろうという衝動は、血の代わりに体中を巡っていた虚しさに支配されてしまった。
「虚しい」
 声にしたその瞬間、胸に穿たれた虚ろな穴は広がり、深まって、矢代自身を飲み込んでしまう。
「虚しいよ、勇樹」
「……うん」
「俺には何もない」
「そんなことない。やっちゃんには俺がいるよ。お姉さんもいる。なくしたものも、きっと取り戻せる」
 涙を流れるまま垂れ流しながら、浅田の心臓の鼓動に耳を澄ます。
「俺がついてるから」
 哀れだと思った。
 正し過ぎて見返りを要求することが出来ない男を、優し過ぎて酒浸りのこんな屑の犠牲になろうとしている男を、矢代は哀れだと思った。
「……やっちゃんがいないと寂しいんだ。だって俺のくだらない話に最後まで付き合ってくれる友達は、どんな時も俺のことを信じてくれる友達は、苦しい時にいつも側にいてくれた友達は、ずっとやっちゃんだけなんだよ」
 赤子のように抱かれながら聞く声は耳障りで、同時に心地良くもあった。浅田の温もりや匂い、肌の感触や息遣いに吐き気を催すような安堵を覚えた。抜け出す術など知らない泥濘に手を差し伸べる浅田を、ただこの虚しさを埋める為だけに同じ場所まで引き摺り込んでやりたいと思い、そうなる前に消えてしまいたいと思った。

 もしこの部屋とこの体の上に積もった汚泥が全て流れてしまうまで飲むことが出来るなら、もし美しく透き通った液体でこの虚ろな胸を満たすことが出来るなら、矢代はもはや何も感じずに済むようになるだろう。そしてただ一人残された最後の友人を自らの手で傷付け、汚し、いつか失ってしまう痛みを味わうこともきっとないだろう。
 矢代は自分が誰かの側に立つだけの価値を持った人間にいつか戻れるとは信じてはいなかった。どこかで失ってしまったものを取り戻すことが出来るとは思えなかった。だからこそ必要なのだ。だからこそ渇望するのだ。それを。

 ――ああ、こんな夜にウォッカがない。
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