君は太陽

 小奇麗なビルが立ち並ぶ大通り。清掃が行き届いたオフィスビルや、洒落た飲食店やアパレルショップが何十と入った商業ビルがひしめく、華やかで人々の活気に満ちた通り。
 毎日のように満員電車に揺られて俺が向かうのは、その通りにどんと大きく構えてそびえ立つデパート――の裏側にある、いつ建てられたのかも分からない小さなビルの五階にある会社だった。俺はそこで週平均十時間程度の残業をこなし、特に大きな不満もなく社会の歯車として組み込まれながら、何かは分からないが何かいいことが起こって毎日がもっと楽しくなればいいのに、と願う一人の人間として生きていた。
「輪田さん、今日お昼一緒に行きますー?」
 昼休み。既に出掛ける用意を済ませ、後は足を一歩外に出すだけの格好で誘いを掛けてきた後輩に、俺は「いや」と一言返した。
「えー、最近付き合い悪いですよぉ。いつだったらいいんですかー」
「あー、またそのうちな」
「まぁたそれですかー。輪田さん待ってたら、俺おじいちゃんになっちゃいますよー」
 語尾を伸ばした可愛らしい喋り方とは裏腹に、プロレスラーのような体格をした大食漢の後輩は、不満そうに口を尖らせながらドアの向こうに消えていった。
 『おじいちゃんに』の辺りは大袈裟だが彼の示した不満はもっともで、少し前まで俺は彼と一緒になって美味い店の新規開拓に励んでいたのだ。よく話し、よく食べ、よく笑う後輩と昼食を共にするのはなかなかに楽しく、俺としても彼との食事は気に入っていたのだが、そう出来ない理由が出来てしまったのだから仕方ない。
 数少ない社員の殆どが消えてから、俺はビルを出た。大通りに出て少し歩き、チェーンの珈琲ショップを入口近くに配したビルに入った。エレベーターで最上階の一つ下の階に上り、降りて奥にある小さな洋食屋に向かう。店のすぐ前まで来ると、俺は店前のメニュー表を見る振りをして、ちらりと向かいの店を覗いた。

 ――いる。

 心の中でガッツポーズを決め、洋食屋に入った。昼時だというのにガラガラの店内にはジャズ音楽が流れている。窓際の席に陣取り、いつものように『本日のお勧めランチ』を注文した。水をがぶ飲みした後、携帯を見る振りをしながら、向かいの店をもう一度覗いた。
 そこにいるのが、俺が後輩の誘いを断り続けている理由だった。
 洋食屋の向かいにある、小さなレディース服の店で働いている女の子。
 今彼女は、すらりと背の高いマネキンの服を整えているところだった。胸の辺りまで伸びた茶髪がふわふわと揺れている。向日葵色のワンピースから伸びるしなやかな脚、その先は白のリボンが付いたヒールの低いパンプスで終わっている。首元を飾るのは鮮やかな花柄のスカーフだ。
 マネキンのベルトを締め直した手はゆるいパーマがかかった髪をかきあげ、無防備な横顔を俺に晒した。年は二十代前半か、半ばくらいだろうか。色白の肌、低めの小さな鼻、ぱっちりとした目、潤んだ唇。彼女はマネキンに向かってにこりと笑い掛ける。
「こちら、サラダですねー」
 はっと我に返った。店員はテーブルにサラダの小鉢を置いて下がっていった。
 レタスを齧りながら俺はなおも彼女を見つめていたが、ちょうどメインのオムライスがテーブルに現れたとき、彼女はふらりと中に入った二十代後半くらいの女性と共に、店の奥、柱で隠れて見えない位置に引っ込んでしまった。
 俺は落胆を面に出さないよう努めながら、決して美味しくはない醤油味の創作オムライスを無心で口に運び始めた。
 俺は彼女の年齢も、住んでいる場所も、名前すらも知らない。
 二か月ほど前、後輩と共にこの洋食屋に入ったとき初めて彼女の姿を見掛け、一目で惹かれて以来、密かにこの席から見つめているだけだ。
 彼女はきっと俺の名前どころか顔すら認識していないだろう。これから先もそうだ――何故なら彼女の働いている店には、レディースものしか置いていないからだ。無理矢理店に入って話し掛けても迷惑に思われるか、最悪怖がられるだけだ。
 オムライスを食べ終わる寸前、さきほどの客が店を出てきた。それを見送るため、彼女も一緒に店の奥から歩いてくる。彼女は一目で上機嫌と分かる客に手提げ袋を渡し、頭を下げる前に満面の笑顔を客に向けた。

 ――そう。その笑顔だ。

 俺は思わず心の中で呟いた。
 俺は彼女の笑顔に恋をしたのだ。綺麗というより可愛い、という言葉が似合う彼女の顔に、まるで太陽のような笑顔がぱっと浮かぶところが、たまらなく好きだった。八重歯のある白い歯を見せて笑う彼女は、今まで会ったどんな女の子より魅力的だった。
 彼女のような女の子が会社にいたら、と思う。もしかしたら親しくなれたかもしれない。
 だがそれは叶わぬ願いだった。俺に許されるのは、昼食を食べ終わるまでのひととき、少しの間だけ彼女を覗き見ることだけだ。
 しかしそれもストーカーと思われる前にやめなければいけない。出来るかどうかは分からないが。
 相手に声を掛けることも出来ず、悶々とするだけの恋。まるで学生時代に戻ったような気分だった。


 ふわふわとした気持ちで会社に戻ると、先に戻っていた後輩がパソコンを睨みつけていた。早めに仕事を再開したのかと思い、斜め後ろから近付いた。
 ……モニターに映っていたのは飲食店の口コミサイトだった。
「あっ輪田さん、今日飲みに行きません? 多分定時で上がれそうだし、食い倒しましょうよー」
「飲みがメインなのか食うのがメインなのかはっきりしろよ」
「そりゃあ勿論どっちもですよー。先週給料日だったし。ガッツリ食って飲める良さげなとこ見つけちゃったんで、そこでいいですか? ていうかもう予約しちゃったんですけど」
「したのか。いや、いいけどさ」
「おっしゃー、じゃあ午後も頑張りましょう」
「うん。……予約終わったんなら何でまだ店探してんの?」
「抜かりなく二軒目、三軒目のことも考えてるんですよー」
「明日休みだからって……お前なー」
「まぁまぁ、細かいことは気にしない気にしない」
「終電までには帰るからな?」
「おっけーっすー」
 定時で会社を出てまっすぐ向かっても、あの店に彼女の姿はない。そういう勤務体系らしく、夕方以降は別の女性店員に変わっているのだ。
 だから独身貴族の俺が後輩と酒を飲むか即帰宅かの判断材料に使うのは、財布の中身と、好きなテレビ番組の放送日であるかどうかだけだった。



「でー、四軒目どうしますにゃー? 輪田さんまだまだいけますにゃー?」
「いやもう無理って言うか、お前も無理だろ。語尾変わってるし」
「そうですかにゃー」
 伸びてきた髭で口元が青くなった巨漢がにゃんにゃん言ったところで可愛くもなんともない。初めて聞いたときはかなり引いたが、『これ以上飲ませたら吐く』のラインがこれだと分かってからは、まぁ分かりやすくていいかと思い直した。
「バス停まで送るから」
「あー、いいっすよぉ。彼女に迎えに来てもらうにゃんー」
「また怒られるぞ」
「はははー。電話かけますにゃー」
 ふらふらしながら電話をかける後輩を支えながら、俺は後輩の恋人の不機嫌そうな声を聞いていた。
 十分後、黒の軽自動車が俺達の前に止まった。中から現れた小柄な女性は、泥酔した彼氏に散々文句を言いつつも、愛情に満ちた丁寧さでシートベルトを着用させ、ペットボトルの水を飲ませて、最後に俺に礼を言って風のように去って行った。
 その場に留まり続ける理由もなく、俺は駅に向かって歩き出した。酔いは程よく醒め始めている。
 気分よく歩道橋の階段を上り始めたところで、不穏な声が耳に入った。
「だから、もう帰るところなんです」
「そっかー、じゃあ予定ないってことでしょ。俺と一緒にカラオケでも行こうよ。奢るしさ」
「興味ないです。付いてこないで」
 一瞬足を止め、それから急いで階段を上がり切った。
 歩道橋の真ん中には二人の人間がいた。スーツを着た男が一人。明らかにその男から離れようとしている若い女性が一人。どちらも後ろ姿で、もう一方の階段に向かっているところらしかった。
「ちょっとくらいさ、いいじゃん。ね、名前と連絡先教えてよ。今夜が駄目なら、今度美味しいとこでも連れてってあげるから」
 男はそう言って細い手首を掴んだ。
「離して。触らないでください。本当にやめて……、警察呼びますよ」
 女性は一貫して男を拒絶し続けている。そして相手はどうやら少しばかり性質の悪そうな輩のようだった。声を聞く限り女性は怯えている感じではなさそうだが、このまま放っておけば良くないことが起こるかもしれない、と思った。
 俺は意を決して二人のところに走っていった。
「何してるんですか?」
 男の肩を掴む。振り返った男は赤ら顔を不快そうに歪め、俺を睨んだ。
「なに? なんだよ」
「嫌がってるじゃないですか」
「はぁ? てめーに関係ねえだろうが」
「……関係ないですけど、もう警察呼びましたから。すぐパトカー来ますよ。ここから交番、結構近いんで。いいんですか?」
 警察にはまだ連絡していなかったが、男がそれ以上何かするつもりならば躊躇いなくそうするつもりだった。そして交番が近いというのは本当だった。携帯を奪われても、大声を出せば交番まで届くかもしれない。
 男は派手に舌打ちをし、女性から手を離して、もごもごと何か捨て台詞を吐きながら小走りに去って行った。その姿が完全に見えなくなると、俺はほっと息をついた。
「あの」
「あ。大丈夫ですか?」
 声を掛けられて、絡まれていた女性の顔に初めて目を向けた。
 ――その瞬間、俺の心臓は男に対峙していたときよりも強く激しく脈打った。
「大丈夫です……、ありがとうございました」
 ――彼女だった。
 あの店で働いている、笑顔の可愛い女の子。
 思っていたよりも背が高く、百七十センチ近くあるように見えるが、俺の目の前に立っているのは間違いなく彼女だった。
「あの……?」
 固まった俺を訝しく思ったのか、彼女は首を傾げて尋ねた。その仕草すらも可愛い。
「あ、あ、……えっと。怪我とかされてない、ですか……?」
「はい、大丈夫です。本当に助かりました。……って、あれ、もしかして……毎日お昼ごろに、洋食屋オムオムにいらしてる方ですか? 私、同じフロアにある服屋で働いてるんですが」
「えっ、えっ……あっ、えっと」
 洋食屋オムオム――俺が彼女を密かに見つめるのに使っている店の名前だった。とぼけて流すか何でもない風に頷くかすればいいのに、俺はあからさまに狼狽えてしまった。
「あれ、もしかして違ってましたか?」
「いや、……はい、そうです。俺です」
「あー! ですよね!」
「すみません」
「え、どうして謝るんですか?」
 ぱちぱちと目を瞬かせて、彼女は尋ねる。
 ……俺が彼女目当てにあの店に通っていたことには、どうやら気付かれていなかったらしい。
 一瞬正直に告白しようと思い、すぐに気味悪がられるだけだと思い直し、俺は咳をして空いた間を誤魔化した。
「えっと……、いや、俺はそちらに気付かなかったので……」
「あはは、それは仕方ないですよ。私はまさかあの店に常連さんが出来るなんて珍しいなぁって思って……あ、ごめんなさい失礼でしたね」
「いや……確かにあの店はどうフォローしようが不味いですね」
 グルメ中のグルメである後輩が百点満点中の四点を付けた店だ。しかもその四点はメインの料理にではなく、食後の珈琲につけた点数だった。
 彼女はふふ、とおかしそうに笑った。
「じゃあもしかして……、女の子狙いですか?」
「えっ!」
「たまにお昼にいる黒のロングの女の子、スタイル良くて綺麗ですよね。女子大生だったかな」
 そう言えばそんな子を見たような見なかったような……正直言って、向かいの店の女の子に夢中過ぎて一度も意識したことがなかった。
「……いや、何となく通ってただけです。職場から近いし……」
「そうなんですか」
 深く突っ込まれなかったことに安堵する。
 ……安堵したが、俺たち二人の間には沈黙が下りてしまった。
「あの」
「あの」
 俺たちは同時に声を発した。
「え、あの、どうぞ、そちらから……」
「いえ、お兄さんの方から……」
「いや、実は特に何か言おうとしてたわけじゃなくて」
「ええ? そうなんですか?」
 彼女はおかしそうに笑う。笑い声まで可愛い。
「……あの、私、太田朝日って言います。さっきは本当にありがとうございました」
「あ、いえ。そんな……。俺は輪田利明って言います」
 ワダトシアキさん、と彼女は確認するように小さく呟いた。俺は「あ、そうです」と頷き、彼女が俺の名前を口にしたという奇跡に心の中で感謝した。
「輪田さん、もし良かったらですけど……連絡先、交換しませんか?」
「……え! え……!? あっ、はい、もちろん。喜んで」
 夢でも見ているのか。俺は響き渡る祝いのファンファーレの幻聴を聞きながら携帯を出し、彼女と連絡先を交換した。
「あ、そういえば……。私、名字の方でフトダフトダーって昔よくいじられてたので、良かったら朝日って呼んでください」
「あ、あさひさん……?」
「はい」
 俺は顔が真っ赤になっていないだろうかと心配しつつ、もごもごと「朝日さん、ですね」と彼女の名前を繰り返した。
「輪田さんは……駅に行かれるところだったんですか?」
「あ、はい。ちょうど向かってたところで……」
「あの、もし輪田さんが良ければ、駅まで一緒に行ってもらえませんか?」
「え? 誰とですか?」
「私と、です。もし他に用事が無かったら、なんですけど……」
 あまりに自分に都合のいい展開過ぎて幻聴の続きかと思ったが、違ったらしい。
「あ、ああ……さっきの人がまだその辺りにいるかもしれないですしね……、あ、はい。まっすぐ駅に行くところだったので全然大丈夫です。俺で良かったら……」
 というより、自分から言い出すべきだった。興奮と焦りと後悔とで汗まみれになり始めた俺に、朝日さんは輝くような笑顔を見せてくれた。そう、あの笑顔を。
「ありがとうございます! よろしくお願いします」
 というわけで、俺は憧れの女の子と一緒に帰ることになったのだった。
 路線が違い、駅で別れることになったが、俺は違う電車に乗り込んだ後も夢見心地だった。ほんの数十分前まで会話をすることすら叶わないと思っていた女の子と会話をし、視線を交わし、連絡先を交換して、最後は和やかな空気で手を振って別れることが出来たのだから。
 車内で、俺は彼女からのメッセージを受け取った。

『朝日です。今日はありがとうございました。今度、今日のお礼に何かご馳走させてくださいね。私は次の火曜と土曜が空いてます。今月なら夜はいつでも大丈夫です』



 数か月が過ぎ、春になる頃には、俺たちは友人同士と言っても差し支えないくらいに親しくなっていた。
 親しくなって驚いたのは、彼女が俺の一つ下の三十歳で、しかもあの店の店長だということだった。オーナーは別にいるらしいが、店はほぼ彼女が仕切っているらしい。
 彼女の店には土日祝日にしか入らない店員がいるらしく、普通そういう日に休みを取るのは難しい接客業だというのに、彼女と俺の休みは月に二度は重なった。そしてあの夜以来、俺たちは重なった休日全てで顔を合わせ、近頃は仕事の日も週三で昼食か夕食を共にするようになっていた。
「利明くん利明くん! あの虎ウィンクしてるよ!」
 その日、俺は朝日さんと一緒に動物園に遊びに来ていた。朝日さんは髪をゆるく三つ編みにし、Tシャツに白のショートパンツを合わせ、花柄の洒落た薄手のタイツを履き、足元はスニーカーという姿で、首にはいつものようにショールを巻いていた。
「虎がウィンク?」
「してたよ!」
 それまで朝日さんを見ていた虎は、俺が朝日さんの隣に来ると『何だ彼氏持ちか』とでも言っているような顔で鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「あー……」
 パンフレットを口に当てて残念そうな声を上げる姿に見惚れつつ、俺は朝日さんにソフトクリームを差し出した。
「あっ! ありがとう~~」
「チョコで良かった?」
「うん。利明くんはバニラ?」
「いや、ハチミツレモンだって」
「ええ? そんなのあったの? ……一口貰ってもいい?」
「いいよ」
 まるでカップルみたいなやり取りだ、と思った。でも実際そうなのかは分からない。
 これでも人並みに恋愛経験はある方で、とっくに童貞は卒業しているのに(もちろん相手は朝日さんではない)、今自分が朝日さんの彼氏になりかけているのか、それともまだ親しい男友達というカテゴリーに入れられているのか、どちらなのか分からなかった。
 例の後輩に何度も相談して『いやーそれ付き合ってますよね、どう考えても。話聞きますからご飯行きましょうよー』と言われても、いまだに確信を持てずにいる。
 何しろ、実は彼氏がいるの……と言い出されるのが怖くて、恋人の有無すら聞いていないのだ。これだけ二人で過ごしているのだから彼女に彼氏がいるなら不誠実だとも思うが、もしそうだとしても好きな気持ちは変わらない気がして、それも怖かった。
「わぁ……これ美味しい! すっごく美味しいよ! 本当に美味しい!」
「じゃあ交換する?」
「え……いいの? 私がチョコって言ったのに」
「俺は最初からどっちでも良かったから」
「じゃあ……そっちもらうね? やったーありがとう!」
 朝日さんの笑顔を見ると、ぱっと不安も恐怖も消し飛んで、今こうやって二人でいれるならそれでいい、と思ってしまう。
 朝日さんは歩く道全てを明るく照らす太陽のような子だ。朗らかで、率直で、心地よく、裏表がない。俺がそうしたいと思っているときは俺に主導させてくれるが、俺に自信がないときはいつも正しい道に導いてくれる。気が利いて頭もいいのに、こちらに劣等感を抱かせることはしない。軽やかで優しく、個として完成されていて、尊敬出来る人。
 通る道にある全てのものが色づき、無機物すら命を持って一人でに動き出しそうなほど、彼女は明るく生命の輝きに満ちている。
 夢に思い描いていたような人だ。俺にはもったいないような、太陽のような人。彼女を褒めたたえる言葉なら無限に湧いてきそうだった。口に出せば止まらなくなりそうで、胸の中に留めるしかなかった。
「そういえば、今日ね。利明くん、うちでご飯食べて行かないかなーって思ったんだけど、どうかな?」
「……え、朝日さんの家に?」 
「うん。ちょっと話したいこともあるし。私、一人暮らし長いから結構料理上手いと思うよ?」
 動物園の後に行った公園で、俺たちは手を繋いで歩いた。
 そして空が赤く染まり始めた頃、俺たちは初めてのキスをした。


 そんなわけで、俺は必死に『今日は絶対に違う』『期待するな』『余裕を持て』と自分に言い聞かせながら彼女の家に足を踏み入れた。
 初めて入った彼女の部屋は綺麗に片付いていて、センスのある小物や家具の中に温もりも感じさせる、落ち着いた雰囲気の素敵な部屋だった。置かれた観葉植物たちが生き生きしているのは、彼女が普段から丁寧に世話をしているからだろう。部屋には正体不明のいい匂いがふわりと漂っていた。
「私は部屋着に着替えてくるから、楽にしててね」
「あ、うん」
 俺はクッションに座り、出された飲み物を口にしながら家主を待った。緊張し過ぎて三十秒でグラスを空にしてしまった。
「お待たせ」
 五分ほどで戻ってきた朝日さんは髪を後ろに上げ、ボーダーが入ったナチュラルで線の柔らかい部屋着を身に纏っていた。可愛い――と思うと同時に何か強烈な違和感を覚えたが、何かは分からなかった。
「じゃあ、今からご飯作るね。出掛ける前にあらかた準備してたから、すぐ出来るよ。テレビとかで暇潰ししててくれる?」
「何か手伝おうか?」
「ううんー。後で一緒にそっちに運んでくれたら」
「分かった」
 十五分後に出された料理は、文句一つ付けようがない美味しさだった。俺の精神状態のせいであまり深く味わうことは出来なかったが、惚れ直すとはこういうことなのかと思った。
 朝日さんは機嫌がよく、舞い上がり過ぎて自分でも何を言っているのか分かっていない俺との会話でもよく笑い、酒とデザートまで出してくれた。色白の朝日さんが飲むと肌が薄くピンクに色づいて、いつもより更に魅力的に見えた。
「そういえば、話って?」
 俺は朝日さんと一緒にキッチンに立って食器を片付けた後、何気なく尋ねた。
 朝日さんは一口水を飲んで微笑んだ。
「うん。私ね、男なんだ」
「え?」
 朝日さんは自身の首を指差した。
「ほら、こことか」
「え……えっ?」
 俺は目を見開いた。そこにあったのは、朝日さんが部屋着に着替えた後に覚えた違和感の正体――露わになった首に浮かぶ喉仏だった。そして平らになった胸。
「…………お、女の子でも……そういうのあるんだ?」
「だから、俺男なんだって」
 『俺』。俺は目の前が真っ暗になった。そしていつもより低めの朝日さんの声が、思考停止した頭の中でこだました。『俺男なんだって』『俺男なんだって』『俺男なんだって』……。

 ――男? そんな、まさか。

「利明くん?」
「え、あ……何?」
「……もしかして気付いてなかった? さすがにちょっとは勘付かれてるかなって、思ってたんだけど……」
 俺は呆然としながら首を横に振った。全く、全く気付いていなかった。
「……あ、冗、談とか……?」
「こんな冗談言うタイプじゃないよ、俺」
「え……じゃあ、俺……俺たち、これからどう……どうなって……? 俺、どうしたら……」
 動揺のあまり立ち上がってうわ言のようなことを言い出した俺に、微笑んでいた朝日さんは心配そうな目を向け、俺の手を取って優しく座らせた。
「ごめんね、もうちょっと早く言うべきだったかも」
「…………」
「それか、もっと段階踏むべきだったかな」
「……朝日さんは、体が男で……心が女性っていう……?」
「ううん。体も性自認も男。でも、レディースの服が好きなんだ。それも凄くね。女の子の服着て、それに合わせた髪型とか、化粧とか、女の子っぽい振る舞いをするのも好き。ちなみに、好きになるのは男と女どっちも。女の子の方が多いかな」
「じゃあ、俺のことは……?」
「好きだよ。大好き」
 朝日さんは俺の手を握り、目を見つめながら言った。俺は鉄の棒で思い切り頭を殴られたかのように激しく動揺していたが、そこに嘘偽りがないことを本能的に理解した。
「利明くんは?」
「…………、好きだよ……」
 本心だった。男だと言われても彼女を――いや、朝日さんを好きだと思う気持ちは、俺の中から無くなりはしなかった。
「ありがとう。俺はね、利明くんがあの洋食屋で俺のことこっそり見てたときから好きだったよ。かっこよくて、可愛いなって思ってた。今はもっと好き」
「可愛い……?」
「うん。抱きたいってこと」
「だ……?」
「嫌?」
 混乱し過ぎて、朝日さんの言っていることが全く理解出来なかった。黙っている俺に、朝日さんはそっと顔を覗き込むようにして微笑みかけた。
「じゃあ、キスしてもいい?」
 朝日さんの手が俺の頬に触れる。男性にしては華奢な手、女性にしては骨太な手。俺は訳も分からず頷いた。そして唇が触れ合って、俺は朝日さんのことをまた好きだと思った。
 俺たちは何度もキスをした。触れては離し、また触れては離して、何度も何度も互いの唇に触れ合った。朝日さんの唇は柔らかく、舌は少しだけ甘く、いつの間にか解かれた髪からは花のような香りが漂った。
 唇が完全に離れたとき、朝日さんは俺の目を見つめて、俺のことを好きだと目で囁いた。
「ああ、利明くんとえっちなことしたいなぁ……」
「……俺もしたかった」
「過去形? それとも、今もしたい?」
 朝日さんが俺に体を寄せると、固いものが俺の太ももに当たった。服越しにも分かる大きさ。細身の体には似合わぬ、ぎょっとするほど立派な代物だった。俺の頭はまた大量のエラーを起こし、フリーズしかけてしまったので、それを『男の』ペニスではなく、『朝日さんの』ペニスだと思うことにした。
「今も……したい、でも……何か、正直、どうしたらいいか分からない……俺……どうしたらいいんだろ……?」
 朝日さんは俺の髪を優しい手つきで撫で、俺の頬にそっとキスをした。
「俺が教えてあげる。だから、利明くんは俺に全部任せて。全部任せてくれたら、きっと分かるよ。ね、だから俺と一緒にえっちなことしよう。優しく教えるから……ね、大事なことは、俺が利明くんのことを凄く好きで、利明くんも俺のことを凄く好きだってことだけだよ。それだけ」
 朝日さんは俺の太陽で、確信に満ちたその目は今、静かに輝いていた。
 だからそのとき俺が出来たのは、朝日さんにもう一度キスをして、これからも俺の進むべき道を照らし続けてくれるようにと願うことだけだった。
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