魔法使いとベッドと素敵な音楽

「僕、実は魔法使いなんだ」
 ホラー映画の棚を熱心に眺めていた友人の晴也は、何か聞き間違いでもしたのかと思ったのか、棚に目をやったまま「何?」と軽く聞き返した。
「だから僕、魔法使いなんだ。魔法の力を持ってるんだよ」
 晴也は『MAMA』のパッケージを手に取りながら僕に顔を向けた。訝しげな表情だった。
「……英治、ゆっくりもう一回言って?」
「ぼくは、まほう、つかい、なんだ。まほうの、ちからを、もって、るんだよ」
「まほ……、魔法使い?」
「魔法使い」
「……もしかして俺、何かやらかした? やっぱホラー見たくない? てか何か怒ってる?」
「いや、何も」
「本当に?」
「うん」
 晴也は神妙な顔でビデオを棚に戻し、僕の腕を引いてホラーコーナーを抜け出した。
「やっぱ普通の映画見よう。参勤交代は?」
「晴也が見たいのなら何でもいいよ」
「じゃあミュータントタートルズ?」
「うん」
「ゴジラ?」
「うん」
「やっぱズートピアの方がいい?」
「うん」
「……グランド・イリュージョン?」
「グランド・イリュージョンかな」
「了解」
 晴也は大急ぎでそのビデオを取ってくると、そのまま会計を済ましてきた。
「腹減ったよな? 英治の家に材料あったっけ? どっかに寄って買って行く?」
「夕食は出来てるよ。お菓子も買った」
「え、マジ? 英治が作ったの?」
「うん。いつも晴也の食べさせてもらってばかりだから」
「おお……じゃあご馳走になるわ」
 僕たちはレンタルビデオショップを出て晴也の車に乗り込み、僕の住むマンションへと向かい始めた。
「実はズートピアも借りてきた」
「うん」
「……英治、やっぱ怒ってるよな?」
 運転している晴也の横顔にちらりと不安の影が見えた。
「いや、本当に怒ってないよ」
「だったらいいんだけどさ……」
 普段僕たちは一緒に映画を見ない。僕が映画にあまり関心が無い人間だからだ。ならどうして一緒に店にいたのかというと、今日は僕が「晴也の見たい映画を一緒に見よう」と誘ったからだ。
 晴也は何というか変わった生き物が好きで、宇宙人や、アニメ的に誇張された動物や、ホラー映画に出てくる奇妙な姿の幽霊たちも好きだ。そして先程晴也が持っていたのは、前々から気になっていたというホラー映画だった。
 別に僕はホラー映画が嫌いなタイプというわけでもないのだが、晴也は調子に乗り過ぎたと勝手に反省しているらしい。
「怒ってないなら、さっきのってどういう意味? ……もしかして童貞って意味?」
「どうして?」
「だって、三十過ぎて童貞だと魔法使いになれるって言うじゃん」
「あと四年あるよ」
 僕と晴也は大学の同期で、生まれた日もたった一週間しか違わない。
「じゃあ四年後に向けての決意表明とか……?」
「僕、三十まで童貞を貫くつもりないよ」
 一瞬間があった。
「……えっ!? そうなんだ?」
「うん」
「あー……何ていうか、英治はそういうのに興味ないのかと思ってた」
「そんなわけないよ」
「……そっか、そうだよなぁ……」
「それに童貞だけど、全然経験が無いってわけでもないし」
「えっ!? あっ、え、誰と? 俺聞いてない……全然聞いてない、ていうかいつ? 無いってわけでもないってどこまで? あああー、やっぱ答えなくていい。答えなくていいから」
 晴也は一人で騒いだ後、急にしんみりした声で「そっか、そうだよなぁ……」とまた呟いた。
 晴也が聞きたがらなかった僕の経験とは、大学のとき同じゼミの女の子と彼女の部屋でそういう雰囲気になり、お試しで途中まで進んでみたものの、互いにかみ合わないものを感じ一瞬で友人に戻ったこと、それだけだった。晴也が聞きたくないと言うのなら、この先きっと誰にも話すことがないだろう思い出だ。
「それはそれとして、僕は魔法使いなんだ」
 困惑が空気から伝わってくる。笑っていいものか真剣に受け止めるべきか迷っている雰囲気だ。
「……えっと、どんな魔法使えんの?」
「家に着いてから見せるよ。外じゃ出来ない」
「そっか、ごめん」
 僕は頭を横に振った。それから家に着くまでの会話は、それぞれの仕事や今日の夕食の内容など他愛ない話にとどめた。


 家に着くと早々に食事を取った。晴也は僕の料理を褒めちぎりながらも『ちょっと量が少ないな』と思っている目をしていたが、気付かない振りをした。わざとだったからだ。英治をここで満腹にさせるつもりはなかった。
 食事のあと少し雑談をし、それから順に風呂に入った。僕はかつてないほど念入りに身体を洗い、鏡を見ながら髪を乾かし、下ろしたての寝間着に身を包み、フロスとマウスウォッシュと電動歯ブラシで最大限に口を清め、先に入浴を済ませてリビングにいた晴也の元に戻った。
「おかえり、今日は珍しく長風呂だった……って、あれ? 何か……いつもと……」
 僕は髪を軽く手で梳いて見せた。
「今日はちゃんとブローした」
「おお……つやつや……」
「うん」
 普段は乾かす時間を無駄に感じて冬以外は自然乾燥なのだが、今夜は晴也がいつもこうするようにと言っている方法で綺麗に乾かした。
 飲み物を持って隣に腰を下ろすと、晴也は一瞬僕の頭を撫でたそうに手を少し上げ、結局触らずにその手を下ろした。
「じゃあ、ビデオ見ようか」
「……さっき英治が言ってた魔法は?」
「うん」
「うんって何?」
 僕は無視してブルーレイディスクをプレーヤーに入れ、再生を始めた。

 そして約二時間後。エンドロールが流れる中、僕は腰を上げ、映画の視聴後はいつもどこかぼうっとしている晴也の口の中に、晴也が好きなメーカーのチョコレートをそっと入れた。
「……ん……?」
「美味しい?」
「あ、これ……?」
「うん」
 晴也の顔に幸福そうな笑みが浮かぶ。かなり値が張る代物なので、晴也が大好きなこのチョコレートを年に数回しか口にしていないのを僕は知っていた。
「あっ、もしかして魔法ってさ、夕飯とこれ?」
「どうかな」
「『どうかな』?」
「うん」
「まだ何かあんの?」
「うん。あるよ」
 だから立って、と促すと、晴也は異を唱えることもなく立ち上がった。
「どこ行くんだ?」
「寝室」
「え、もう寝んの? てか俺も?」
 僕は人を家に泊めるとき、リビングに布団を敷いて客人にはそこに寝てもらい、自分は普段通り寝室で一人眠るようにしている。客が晴也の場合も例外ではなかった。だから、晴也が寝室に入ったことは一度もない。
「まだ寝ないけど、晴也も」
「寝ないって……じゃあ何すんの?」
「うん」
「英治のそれ、本気で何も伝わってないからな?」
「うん」
 寝室に入った。僕は今までこの部屋を睡眠以外の用途で使ったことがなく、普通は入るだけであくびが出るくらい癖づけられている――しかし今夜は眠気が全く襲ってこない。体内でアドレナリンが大量に放出されているからだ。
「座って」
「ここ?」
「うん」
 晴也をベッドの端に座らせ、寝室の間接照明を点けた。そしてナイトテーブルに置いたMP3プレーヤーを操作し、往年の洋楽ヒット曲を集めたアルバムを流し始めた。
「え、何が始まんの……?」
 晴也は落ち着かなげな声で言った。僕は何も答えず、晴也の前に立った。
「手、出して。両手」
 晴也は僕の要求に大人しく従った。すぐに僕も両手を出し、晴也の手を握った。
「それから……?」
「それから、僕がいいって言うまで、黙って僕の目を見てて。僕に意識を集中して」
「え」
「分かった?」
「わ、分かった……」
 そして僕は晴也の一見荒っぽそうな顔の、やや心配性で心優しい性格が滲み出た目をじっと見つめ、晴也は様子のおかしい僕の目を懸命に見つめ続けた。
 三曲目に差し掛かった頃、晴也の額に汗が浮かび始めた。
「……な、なぁ、英治。ちょっと、何か……変な気分になりそうなんだけど」
「変な気分って?」
「え? うーん……、その、何ていうか……」
 晴也はもごもごと言いながら僕から目を背けようとした。
「まだ目を逸らしちゃ駄目だよ」
「えぇっ……これいつまで?」
「僕がいいって言うまで」
「無理だよ」
「無理じゃないから」
 四曲目。室温は低かったが、晴也は更に汗をかき始めた。そして酒でも飲んだように耳が赤い。
「なぁ英治、これ……これが魔法の儀式?」
「うん」
「もう何か起こってる?」
「うん、効き始めてる」
「え……俺、どうなんの?」
「うん」
「うん、ってなに……」
「うん」
「だから……どうなるんだよぉ……」
 晴也の情けない顔と声に僕は笑い、晴也を愛しく思った。
 この地球上で今最も可愛いらしい生き物は、おそらく僕の目の前にいる人間だ。
「黙って、僕の目を見てて……」
 そしてまた音楽が変わる。これが映画なら、恋人たちが二人きりの部屋で手を取り合って見つめ合い、ゆっくりと踊り出していそうな音楽だった。
 魔法の影響下にある晴也は、いよいよ余裕をなくし始めた。
「なぁ……俺、何か酒とか飲んだっけ?」
「ううん」
「本当に? 少しも飲んでない?」
「飲んでたら、とっくにぶっ倒れてるよ」
 晴也は下戸も下戸でビール一缶もまともに飲めない。魔法使いとはいえ、そんな人間に酒を盛るほど僕は外道じゃない。
「確かに……なぁ、俺もう駄目そう……」
「あともうちょっとだから。僕のことだけ考えてて」
「そしたら何が起こるんだよ……?」
「何かが起こるよ」
 僕は一歩足を踏み出し、晴也に身体を近付けた。晴也は一瞬息を止めた。
「…………、なぁ、本気で駄目だって、英治……」
「何が駄目?」
「……俺が駄目」
「駄目じゃないよ、何も」
「いや、駄目だろ……だって……英治、分かってないだろ?」
「分かってるよ」
「分かってない」
「ちゃんと分かってる」
 そう言って、熱を帯びた晴也の手を離した。そしてほっとした晴也の隙を突いてその体をベッドに押し倒し、僕はその上に馬乗りになった。
「英治!」
「分かってる」
「…………」
「分かってるよ。晴也の気持ちも、僕自身の気持ちも。じゃなきゃ、こんなことしてない」
 晴也は目を見開いた。晴也の方は僕の気持ちに気付いていなかったのか、あるいは僕が決定的な言葉を口にし、後戻り出来ない一線を越えてしまったことに驚いたのか。
 心臓が早鐘を打っている――晴也もだ。この息苦しさを晴也も感じている。
 確信があった。僕たちはずっと前から互いに同じ気持ちを抱いていたのだと。そして互いの胸の中に隠され、誤魔化され、押さえつけられていたその気持ちは、ずっと前から出口を――外に出て解き放たれる機会を探して求めていたのだと。
「同情とかじゃ、ないよな……?」
 晴也の問いに、僕は頷いた。晴也は一瞬その顔に喜びの色を浮かべたが、それはすぐに色褪せ、消え失せて、その後には苦悩の色が現れた。晴也は僕から目を逸らした。
「……でも俺、英治と友達やめたくない」
 今にも泣き出してしまいそうな声だった。
「やめなくていい」
「どうやって?」
「友達兼、恋人になればいい」
「そんなの……出来んのかな?」
「出来るよ」
 一瞬の沈黙の後、世界がぐるりと回った。気付けば僕と晴也の体勢は逆転し、僕は晴也を見上げていた。
「……ずっと友達でいられたのに」
 晴也は僕を見下ろしながらそう呟いた。
「ううん、無理だよ。僕が我慢出来なかった」
「バカ。英治のバカ野郎……」
 その声はか細く、そして少しだけ悲しい感じがした。
 だから僕は晴也の手を取り、僕の寝間着のボタンに導いた。晴也は躊躇いがちに僕の目を見つめた。
「うん」
 無言の問いに、僕はそう答えた。
「……うん、って何?」
「何でもしていいってこと。それに、僕は晴也が望むことを何だってする用意があるってこと」
「……あのな、そんな簡単に言うなよ。後悔するぞ」
「絶対しない」
「本当に?」
「うん、絶対しない」
「……英治のそういうとこ、好きだけどさ。何か怖くなるよ」
 晴也はそう呟くように言った後、二回深呼吸をし、一つずつ丁寧にボタンを外し始めた。だがその手は三個目を外したところで止まってしまった。
「……なぁ、英治はどんな風にしたい? やって欲しいこととか、したいことがあったら言って欲しい」
 素敵な音楽と晴也の荒れた呼吸の音を聴きながら、僕は魔法の最後の工程に進んだ。
 晴也の腕に手を触れ、じっとその目を見つめながら呪文を唱える――
「最初にキスがしたいな」
 晴也の顔に気恥ずかしそうな笑みが浮かんだ。
 そして、僕の望み通りのことが起こった。
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