愚者たちの世界

 ――隕石でも落ちて、今すぐ地球が消滅しますように。

 卯月は片手に吊り革を、もう一方に携帯を握って立ち、電車の窓に貼られた広告を眺めながら、疲れた顔で不穏な願い事をした。
「今日飯食った後どうする?』
「んー、ちょっと気になってるインテリア雑貨の店があるんだけど……」
「じゃそこ行くか。帰りにいつもの古着屋寄っていい?」
「うん、いいよー」
 卯月の近くにいる男女――卯月と同年代らしい二人は、どうやらカップルらしかった。女は座り、男は女の前に立っている。会話の内容からするとこれからデートを楽しむ予定なのだろう。

 ――今すぐ地球のコアが大爆発して世界が完全に終わりますように。

 卯月は比較的心優しい性質の男だ。だから楽しげなカップルに殺意を抱くことが出来ず、休日出勤の咎を地球に負わせることにした。全ての不幸は地球が何事もなかったかのように回り続けているためであり、卯月の会社と契約を結んでいる工場でトラブルがあったのも、その工場との取引の責任者が卯月にトラブルの責任と対処を擦り付けてきたのも、一人で日帰り旅行を楽しむ予定だった卯月の今日の予定がそのトラブルの対処に変わってしまったのも、全ては地球のせいだった。
 付け加えるなら、明日、往復四時間の距離の実家で足腰衰えた両親の為に庭掃除とガレージの整理をする約束をしていたこと、その約束をどこか億劫に思い続けていたことに罪悪感を覚えていること、一か月前に結婚を考えていた恋人から不貞を告白され、しかも浮気相手が卯月であり見知らぬ誰かが彼女の本命であったこと、四日前に卯月の住んでいるマンションで大規模な害虫被害が発生したこと、昨日仕事帰りに寄った美容室でオーダーを完全に無視した髪型にされてしまったこと、それに付けた文句を流され適当にあしらわれ、強く意見を主張することも出来ずに金を払って店を出てしまったのも、ほぼ間違いなく全て地球のせいなのだった。
 卯月は携帯のディスプレイに表示していた仕事の資料を虚ろな目で見下ろし、溜め息を吐いて携帯をポケットに仕舞った。それから見慣れた駅で聞き慣れたアナウンスを聞きながら電車を降りた。
 そして、降りるべき駅ではなかったことに気付いた。会社の最寄り駅はここだが、工場はまだずっと先の駅だ。
「あっ……」
 卯月は思わず声を上げてその場に立ち尽くした。背後から電車が走り出す音が聞こえ、風が卯月のうなじを撫でた。
「あっ、や、やってしまった……」
 一人呟く卯月を、高いヒールを履いた少女がちらりと見て、足早に通り過ぎた。不審者と見なされたばかりの短髪の男が我に返り時刻表を確認してみると、次の電車が来るのはどうやら四十分後らしかった。

 ――どうかお願いします一刻も早く地球が爆発して塵に還りますように世界が暗黒に戻りますように人類の歴史に厚い厚い幕が下りますように!

 卯月は心から願った。そして絶望的な気分で大嫌いな上司に電話を掛けた。
 四回のコールの後に電話を取った上司はひどく不機嫌で、卯月が事情を説明するとタクシーを拾って今すぐ来いと横柄な声で命令した。卯月は改札に向かって走りながら分かりました、すみません、と答えた。
 その後すぐ電話を切り改札を出て、卯月は地上に出るため階段を駆け上り始めた。
「あ」
 踊り場に右足を踏み出したとき、何かが卯月の視界の右側に映った。何だろう――卯月は真横に視線を向けた。卯月とは逆に急いで階段を下りようとしていたらしい男と目が合った。
 コンマ一秒後に、卯月は真横の階段から踊り場に出ようとしていた男と衝突した。
 幸いなことに仲良く一緒に転げ落ちることはなく、どちらか一方が被害者でもう一方が加害者という関係が出来上がることもなかった。二人はガムとフリーペーパーの切れ端が落ちた汚らしい踊り場で、絡み合って倒れ込んだ。
「あ、たた……」
 卯月よりやや上になっていた男が卯月から離れながら呻いた。卯月も似たような声を漏らした。痛い上に、何故か肩が酷く冷たかった。
「……あっ!」
 卯月が体を起こそうとしたとき、男がなにやら大声を上げた。卯月が顔を上げると、卯月と同年代かやや年下らしい大学生風の男が、口を開け目を大きく見開いた、とても分かりやすい『しまった』という表情をしているのが見えた。
 卯月は男の視線を追った――薄々感付いていたことだったが、ジャケットの襟とシャツの胸の部分が派手に濡れていた。しかも不味いことに、その部分は白から濃い赤紫色に染まっていた。
「……トイレで落としましょう!」
 男は卯月の手を取って言った。
「え?」
「今なら多分落ちますから!」
「え、いや――」
「早くしないと染み込みますよ!?」
「あ、はい……」
 男は有無を言わさぬ勢いで卯月をトイレまで引っ張っていった。そして無人のトイレの洗面台の前に立ち、卯月の方を振り返って、はたと我に返ったようだった。
「……って、シャツだから……ここで脱がすと寒いですよね。洗っても冷たいのは変わらないだろうし……」
「……まぁ、そうですね……」
 季節は春とはいえ、まだ肌寒い時期だ。
「本当すみません。俺、全然前見てなくて……本当にすみません!」
 男が勢いよく頭を下げたので、卯月は焦って「いや、俺の方こそ」と返した。
「こっちも急いでて全然前見てなかったので、自業自得というか……」
「いや、こっちは飲み物持ってたんで、もっと気を付けるべきでした。本当すみません、弁償します。あの、とりあえずの替えをさっと買ってくるので、ここで待っててもらえますか?」
「え? いやいや、そんな全然、洗えば大丈夫なので……」
「いや! 買わせてください! すみません本当にすぐ買ってくるのでそれまでちょっと我慢しててください! すぐ戻ってきます!」
 男は早口で捲し立て、卯月の返事も待たずに勢いよく走り去っていった。
 取り残された卯月はあっけに取られて固まっていたが、やがて自らが置かれている状況を思い出した。

 ――男は戻ってくるだろうか? 置き去りにされたのだろうか? 帰ってくるとしてもいつだろうか? このまま男の帰りを待つべきなのだろうか? それともこの恰好のまま外に出て自分で適当に替えを買い、素早く着替えてタクシーを捕まえ、また上司に謝りながら目的地に向かうべきなのだろうか?

 卯月は悩みながら、鏡を見た。すると、赤紫色に濡れたシャツとジャケット以外にも最悪な事実が発覚した。髪に薄汚れたガムが付いていたのだ。鏡に映った男は、捨てられた仔犬のような哀れな目で卯月を見つめ返した。
 洗浄剤と自前のコームを駆使してガムを何とか洗い落とした後、卯月はやけになってシャツとジャケットを脱ぎ、上はインナーシャツ一枚の姿になって、謎の液体による汚染と格闘し始めた。
 男が戻ってきたのは、それから間もなくのことだった。
「すみませんお待たせしました! あのサイズ聞いてなかったんですけどMサイズで良かったですか!?」
「あ、はい」
 と答えたものの、何故か男が買ってきたのはLLサイズだった。
「っあー! すみませんサイズ間違えました……! っていうか柄も間違えました……! あー!!」
 どうやって間違えたのか、男が袋から出したそれは、桃色の生地に片手を上げて微笑む小さなテディベアと花束があちこちに散らばった、やけに可愛らしい柄のシャツだった。もはや怒る気にもなれず(元々怒ってはいなかったが)、卯月は「とりあえず寒いので着ていいですか」と男の手からシャツを受け取った。
 着てみると案外ぴったりで違和感もない……といった奇跡は起きず、卯月は哀れな仔犬からファンシーな服を身に纏う死んだ魚の目の男へと進化を遂げた。
「……あの……買い直してきますね!」
「いや、もういいです」
 卯月は即座に答えた。そうしなければ、男はまた弾丸のような速さでどこかへと消えてしまっただろう。
「えーっと、でも、これからどこかに行かれるところなんですよね? お仕事なんじゃ?」
 男は申し訳なさそうな顔で尋ねた。卯月は洗面台からシャツを取って水で流しながら、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、もういいんです。元々全然行きたくなかったんで」
「そう……なんですか?」
「この世の悪という悪の概念の具現化みたいな上司の尻拭いで休日出勤だったんです。もう絶対行きたくない。もうあいつに謝りたくない。大体俺何も悪くないし。あいつの声を休みの日にまで聞きたくない。もうどうでもいい。もう嫌だ」
 男は何故かうんうんと頷いて卯月の隣に立ち、卯月の手からシャツを受け取って代わりに洗い始めた。卯月は男の横でその様子をただ眺める係を受け持つことにした。
「でも、連絡は入れた方がいいですよ。熱が出たとか、腹痛とかでも」
 男がそう言うので、卯月は発信履歴の一番上の番号に掛けた。相手の罵倒が始まる前に卯月は早口で喋り出した。
「ちょっと急ぎ過ぎて事故ったので、行けそうにないです。はい、ちょっとやばいかもしれません。はい、そうですね、俺個人の問題です。はい、自分で処理します。じゃあ後はよろしくお願いします。はい、失礼します」
 男はちらりと卯月の顔を見た。
「やばいかもしれないんですか」
 卯月は頷いた。
「だって、俺大人になってこんなシャツ着たの人生初ですよ」
 男は微かに肩を震わせながら「本当にすみません」と謝った。
「いや、本当に行きたくなかったので、逆に良かったです。ありがとうございます」
「いえ……本当に。良かったんですか? 後で怒られたりしません?」
「大丈夫ですよ。今日五万回くらい世界が終わりますようにって願ったので、多分明日くらいには世界が終わってると思います。だからもう全然大丈夫なんです」
「……、そうなんですか……」
 見る限り、シャツの方の汚れは薄く残ってしまったようだった。
「そのシャツ、弁償しなくて大丈夫ですよ。こういうのも、そんなに悪くないし」
 卯月はシャツの裾を無意味に弄びながら言った。男はシャツの水を切り、卯月の姿を眺めると、
「可愛いですよ」
 と言った。
「可愛いですか? 似合ってます?」
「可愛く似合ってて、なかなかいい感じです」
「じゃあこれ、いただいても?」
「どうぞどうぞ」
 可愛らしいシャツが正式に自分の物になったことで、卯月の心にシャツへの愛着が芽生え始めた――テディベア柄のピンクのシャツなんて、ある意味お洒落上級者みたいじゃないか?
「そういえば……気になってたんですけど、あのジュースって何だったんですか?」
「えーっと……あ、カシス&ベリーです!」
 男はトイレのゴミ箱を覗き込んで答えた。そこに空を捨てたのだ。
「勿体なかったですね」
「いや、物凄く不味かったです。喉渇いてたから飲んでただけで」
「そうなんですか」
「飲んでみます? 駅前の店にありますよ。俺すぐ買ってきます」
「いや、遠慮します」
「…………」
「…………」
 卯月と男は同時に吹き出し、ちょうどトイレに入ってきた別の男を不審がらせた。その男は二人を見ないように用を済ませ、そそくさとトイレを出て行った。
 濡れた服は新しいシャツが入っていた袋に入れ、卯月は男がクリーニング代を出すというのを固辞した。
「明日世界が終わるからですか?」
 男の問いに卯月は頷き、無数のテディベアを見下ろした。
「最後の日には、この服を着ていたいと思ったので」
 男は『あなたの意思を尊重します』という顔で神妙に頷き、
「……ところで、もう今日はお仕事されないんですよね?」
 と尋ねてきた。
「絶対行きません。電話も絶対出ない。というか電源切りました」
「じゃあ俺とどっか行って遊びませんか? 俺も映画の時間逃して暇なんです」
 卯月は少し考え、それもいいかもしれないと思った。自分にこの可愛らしいシャツを与えてくれた男と世界最後の日を共に過ごすのも、そう悪くはない。
「どういうプランですか?」
「うーん、とりあえずそのシャツに合うボトムとジャケットと帽子を探しに行って、飯食べに行って、ゲーセン行って、映画見て、また飯食べて、別の店で酒を飲みながら朝までビリヤードとダーツして、その後バッティングセンターでちょっと打って、小腹が空いたらラーメンでも食べて、眠たくなったらカラオケで熱唱……とかどうです? どうせなら色々やりましょう。絶対楽しいですよ」
 ……どうやらこの男に付いて行けば退屈はしなさそうだ。どうせ流され続けた人生なら、面白い方に流されてみたいと卯月は思った。
 この男が舟ならきっと何度も転覆するだろうし、川を流れるというより滝を落ちるような思いをさせられるような気もするが、不思議なことに不安は全くなかった。
「いいですね。乗ります」
 男の顔にぱっと満面の笑みが浮かんだ。その笑顔を見た瞬間、卯月の中に何かが雷のように駆け抜けた。
「そうと決まれば! よーし行きましょう! ほら、早く!」

 もしかするともう既に願いは聞き届けられていて、世界は完璧に終わっていて――
 また新しい世界が始まっていたのかもしれない。
 愚者たちの、素晴らしい世界が。
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