点と線

 浜岡の元に二十年来の友人――小野寺の訃報が届いたのは、今から一年ほど前のことだった。
 知らせを届けてくれたのは小野寺の姉で、浜岡とは直接の親交は無かった。小野寺が実家に残していた遺書の中に連絡先が載っていたうちの一人が、浜岡だったのだという。
 遺書に死の理由は記されていなかった。当然だ。その遺書は遥か昔に書かれたものだったのだから。
 院に進んで研究職を目指した浜岡と違い、友人――小野寺は六年かけて大学を卒業した後、何年もふらふらと落ち着かなかった。卒業後すぐに入った会社を一か月で辞め、その次は友人の紹介で前職とも大学での専攻とも全く無関係の業種に就いた。かと思えば、唐突に社長になると言い出して会社を作り、ものの数か月で倒産させて無職になるのを三度繰り返した。
 そんな男だったから当然のように異性関係も全く落ち着かず、何人もの女を振り回すだけ振り回した結果、一つの夢を追うことも誰かに本物の情熱を捧げることも出来なかった男の周りには、誰一人残らなかった。
 実の親にも縁を切られ、姉と数人の友人以外の全てを無くした小野寺は、海外で自らの生のありかたを見直すのだと言って日本から逃げ出した(逃げ出した、というのは小野寺の姉の表現で、弟の見た短い夢の後始末をしていたのは常に彼女であったから、暴言とまではいかないだろう)。
 当時本人から送られてきた手紙によると、小野寺は悟りを開く為にミャンマーで出家したが、例によって早々に俗世に戻った。それからアジア各国を旅して回り、最終的に想像を絶するほど貧しい生活をする人々の中に身を落ち着けた。
 その国では銃器を持ったゲリラが跋扈していて、それ故に孤児が大勢いた。小野寺はその孤児たちの父になることで、やっと自らの魂の拠り所を見つけられたのだろう。遺書はその頃――今から十年ほど前に書かれ、万が一のことがあったら開封してくれと小野寺の姉に託されていた。
 小野寺の死は、予想されていたようなゲリラの戦闘に巻き込まれてのことではなく、偶発的な全くの事故によって訪れた。死の数週間後に届けられた訃報の後に初めて開かれた遺書には、たいしたことは書かれていなかった。浜岡個人に宛てられた言葉は何一つ無かった。ただ『俺が死んだら死んだと知らせてくれ』そう名前が挙げられた数人の中に浜岡の名前があっただけだ。二人が親友と言えるほど特別な間柄だったことはただの一度もなく、ごく普通に大学で知り合い、卒業してからは顔を合わせることも少なく、小野寺が海外に拠点を移してからは一年に数回手紙や電話で近況を報告し合う――その程度の仲だったのだから、仕方のないことだったのかもしれない。






 命日をいくらか過ぎた休日に、浜岡は車を運転して日本にある友人の墓に花を手向けに行った。墓参りが終わった後は他に行く当てもなく家に戻った。半日の旅を終えて辿り着いた家は暗く、不気味なほど静かだった。数年前に妻と別れ、一人娘とは月に二度外で会うだけの関係になってから、ローンが残ったマンションの一室は浜岡一人だけの家だった。
 誰かに触れたい――それまで全くそう思わなかったかと言えば嘘になる。だがそれまではやり過ごせたのだ。本でも読むか、居間のテレビで映画でも見て気を紛らわせていれば。
 その日浜岡は、絶望的なほどの孤立の感覚からどうしても抜け出すことが出来なかった。まるで世界の全ての人間と情緒的に切り離され、虚ろな人生を孤独に生き、誰とも心を通わすことが出来ないまま老いて死ぬ運命を背負わされてしまったような――そんな感覚だった。
 それから浜岡は何かに憑かれたような熱心さで一晩の相手を探し始めた。それまで思いつきもしなかったような単語を検索エンジンの小窓に並べ、下着姿の女性たちのいかがわしい写真が並ぶサイトを飛び回った。
 しかし最終的に彼女たちを相手に選ぶことが出来なかったのは、ものの数年で彼女たちと同じ歳になる年頃の娘への罪悪感からだったのか、あるいは隠されていた欲望がついに目覚めたからだったのか。自分自身でも分からないまま、浜岡は一晩の相手に、それまで全く想像もしていなかった相手を――同性を選んだ。




 店に電話を掛けると、普段は初めてのお客様には宿泊のコースはご遠慮いただいているのですが、と断りを入れられた後、浜岡が希望したスタッフにちょうど急な予約のキャンセルが出たこと、そのスタッフが浜岡の要望を概ね受け入れたことを告げられ、浜岡は幸運にも当日の予約を取り付けることが出来た。
 電話で指定された通りの場所にタクシーで向かうと、目印にしたビルの前には小奇麗な格好をした青年が立っていた。待ち合わせの十分前だった。
「浜岡様ですか?」
 視線が合って数秒のうちに青年は浜岡に近付き、声を掛けてきた。
 選んだ店のサイトに載っていたうちのいくつかの顔写真は一部モザイクが掛かっていて、浜岡が選んだ相手もそうだった。浜岡の名前を呼んだのだから間違いはないだろうが――こういったことに不慣れな浜岡は、青年が本人かどうか確信はまだ持てなかった。
「そうです。……ユウスケ、さんでしょうか?」
「はい、ユウスケです。今日はよろしくお願いします」
「ああ、どうも……こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
 ユウスケはにこりと笑った。浜岡は紹介文に書かれていた『魅力的な笑顔の好青年』という文句を思い出した。
「あの、俺に敬語を使っていただかなくても大丈夫ですよ。そっちの方が楽だったら今のままでも構いませんが……とりあえず移動しましょうか?」
 浜岡はユウスケに促されるままに夜の街を歩き出した。ユウスケは長身で、平均をいくらか上回る浜岡よりも更に数センチ高かった。そのわりに圧迫感がないのは、整った爽やかな顔立ちと、嫌味のないシンプルで趣味の良い服、それにすらりとした体つきのせいだろう。
「お腹空いてないですか? どこかで食べてから行きます?」
「いや……腹は減ってないんだ。君は?」
「俺も大丈夫です」
「そうか。じゃあ……」
 このままホテルに行くんだな。そう口に出す前にユウスケは頷き、またにこりと笑った。
 それからは殆ど会話もなく、歩いて数分の場所にあるホテルまで二人は歩いて行った。そこは店に指定されたホテルで、浜岡は名前すら知らなかった。
「浜岡様は、こういうのって初めてなんですよね?」
 エレベーターに乗り込んだ瞬間、ユウスケは浜岡の腕に自身の腕を絡ませた。
「浜岡様、っていうのはやめてくれないか。……その、そもそも同性は全然経験がないんだ。異性相手でも、こういうのは」
「分かりました。俺、浜岡さんの初めてのお相手に選んでもらって凄く光栄です。一緒に楽しんでもらえるよう、頑張りますね」
 そう言って笑うユウスケの黒髪からは、他の男からは嗅いだことのないような芳香が微かに漂った。
 俳優と言われても納得してしまいそうな顔立ちの青年と密着して、浜岡は戸惑いと緊張がぐっと高まるのを感じた。今自分は同性を性の対象として見始めている――それも自分よりずっと年下の、二十五歳の青年を。
 そもそも本当にこんなことをしても良いのか、という疑問は予約の電話を切った瞬間から絶え間なく浜岡の胸にあった。昨日までなら確実に否と答えた筈だった。何しろ今までは、こんなことをしてみたいと夢想してみたことすらなかったのだ。
 だが今は、この場から逃げ出してしまいたいという衝動と同時に、この美しい青年と一晩中側で過ごせたら――そういう思いが確かに、浜岡の中に存在しているのだった。


 部屋に入ると、ユウスケは店に一本連絡の電話を入れた後、控えめに料金は先払いだと告げた。浜岡は事前の電話で説明されていた解散までの流れをすっかり失念していたが、「ああ、そういえばそうだった」と上ずった声で言いながら汗ばむ手で胸ポケットの中の封筒を取り出し、ユウスケに手渡した。
「ありがとうございます。確かに頂戴しました」
 ユウスケの笑顔は浜岡を落ち着かない気持ちにさせる。
「シャワー、浴びましょうか」
「ああ……いや、その、セックスをするつもりは、無いんだが……」
 『添い寝をしてもらうだけでいい』電話の相手にはそう伝えたつもりだったが、ユウスケは聞いていなかったのだろうか。不思議に思いながら言うと、ユウスケはそっと浜岡の手を取った。
「でも、どうせ一緒に寝るなら二人でシャワーを浴びて、裸になってから寝る方がきっと気持ちいいですよ。……脱ぐのは嫌ですか?」
 嫌だ――とは、答えられなかった。ユウスケの手は滑らかで温かく、きっと体もそうなのだろうと浜岡に思わせた。
 ユウスケは浜岡の胸の内を読み取ったのか、浜岡の手を引き、ゆっくりと静かに浴室まで導いていった。そして入口で立ち止まって浜岡の手を離すと、少し迷ったように、
「先にうがいを済ませましょうか」
 そう提案した。浜岡はユウスケに促されるままにうがい液で口腔を清め、そしてユウスケも同じようにうがいを済ませると、恥じらい一つ見せずに服を脱ぎ始めた。
 浜岡は目のやり場に迷いながら自らも服を脱ぎ始めた。ユウスケは脱いだ服を畳んで籠に置き、自然にその視線を浜岡の方へと向けた。
「浜岡さんの体、骨格がしっかりしてて凄くかっこいいですね。羨ましいです」
「いや、俺は鍛えてもないし……君の方が凄いだろう」
「あ、もしかしてサイトの写真を見てくださったんですか?」
 ユウスケは既に上半身裸だったが、浜岡はユウスケの方をちらりとも見ていない。ユウスケはそれに気付いていたのだろう。店のサイトには下着一枚だけのユウスケの写真が何枚か載せられていた。
「俺、着やせする方なんですよね。一応鍛えてはいるんですけど、服の上からだと全然分かんないな、って自分でもよく思うんです」
 浜岡はユウスケの体を横目に見た。目が合った。ユウスケは微笑み、チノパンのベルトを外して――浜岡が目を逸らしたところで、とさりと服が落ちる音が聞こえた。
「お湯出してきますね」
「あ、ああ……」
 ユウスケはチノパンと下着、それに靴下も綺麗に畳んで籠に置くと、先に浴室へと入って行った。浜岡はベルトに手を掛けたところで怖気づいてしまっていたが、シャワーの水が流れる音を聞きながら深呼吸を三度し、心なしか震える指でベルトを緩め、ぐずぐずと時間を掛けながら裸になった。
 生まれたままの姿になった瞬間――浜岡は、自身がかつてないほどに無防備で、醜く、情けない生き物に成り下がってしまったような感覚に襲われた。顔や体に刻まれた皺や弛み始めた皮膚を、これまでの人生で積み上げてきた知識や経験、仕事上での成功、理性と知性を長年磨き続けてきた者としての自負が覆い隠してくれていたのだろう。人の文化の象徴である衣服を脱ぎ捨ててしまったことで――そして若く美しい青年と自らを比較することで――浜岡はそれらを全て失ってしまった。
 今ここに立っているのは、瑞々しい体をした美青年を金で買い、萎れたペニスを股間にぶら下げた無残な体を晒し、丸裸で立ち竦んでいるだけの哀れな中年男だ。
「浜岡さん」
 ユウスケの声。
 浜岡は声の方へと顔を向けた。
「こっち。来てください」
 浜岡に優しく呼び掛けるユウスケの裸体は、シャワーの湯で濡れていた。
 体毛の薄い、健康的な色をした張りのある肌。
 なだらかに下がる幅の狭い肩――だが二の腕から下の筋肉は発達している。胸部は薄く盛り上がり、そこから流れた水が引き締まった腹筋を辿りながら落ちていく。
 浜岡の視線はそこに吸い寄せられた――緩く勃起して持ち上がったペニスに。
「浜岡さん」
 その声に、その体に、差し伸べられたその手に抗うことは出来なかった。浜岡は浴室に足を踏み入れ、ふらふらとユウスケの元まで歩いて行った。
「体、洗いますね」
 ユウスケは浜岡を引き寄せ、向かい合わせに立つと、シャワーの湯を肩からそっと流し掛け始めた。
「熱くないですか?」
「……いや……」
 ユウスケは「良かった」と微笑み、浜岡の体を温めるように暫く湯を流し続けた後、洗面器の中で泡立てたスポンジを手に取った。そして泡だけを手に移し、スポンジを洗面器に戻すと、浜岡の肩にそっと触れた。
「俺に任せてくださいね」
 やや間を置いて浜岡が頷くと、ユウスケの手は浜岡の肩を、腕を、胸を、腹を、腰を緩く撫で始めた。スポンジではなく手を使って洗うのは前戯の意味合いもある行為だからなのだろうか。だが任せてくれとわざわざ言われたことを考えれば、抵抗することはユウスケを困らせることなのかもしれない――浜岡は戸惑いながらも、なされるがままにしていた。
 泡を纏った、男の大きな手の感触。それ自体は、嫌悪感も快感も浜岡に与えなかった。痛みを感じたり、くすぐったく感じたりすることもなかった。
 浜岡の注意をより強く引いているのは、明らかに、目の前にある体の方だった。浜岡は青年の体に圧倒されていた。若々しくエネルギーに満ちた体に。しかもユウスケは、勃起し始めた自身のペニスを恥じることも誇らしげにすることもなく、何も起こっていないかのように振る舞っているのだ。
 やがてユウスケの手は、辿り着くべきところに辿り着いた。浜岡の中心部――いつの間にか反応を示し始めていたその場所に。
「そこは……」
 やけに掠れた声。浜岡は羞恥を覚えた。
 それまで浜岡の体に視線を向けていたユウスケは浜岡と目を合わせ、その顔に悪戯っぽい笑みを浮かべた。その笑みにどんな意味があるのか分からず浜岡は困惑したが、
「大丈夫。大丈夫だから、俺に任せて……俺の体に掴まってください」
 吐息交じりのユウスケの声には、何か、妙に逆らい難いところがあった。浜岡はユウスケの肩にそっと手を置いた。
 泡を纏ったユウスケの手は、浜岡のペニスを優しく撫で洗う。丁寧で器用な指の動きは否応なしに官能をそそった。徐々に膨張の度合いを高め、芯を持っていくペニスを、ユウスケの指は洗浄以上の目的を感じさせる執拗さで刺激していく。そう、これはもはや言い逃れようもなく、性的な行為だった。
 いつの間にか二人の体は、白く膨らんだ泡で所々繋がるほど近付いていた。ぐっと熱を帯び、雄々しく上を向いたユウスケのペニスが浜岡の体に触れていた。視線が絡むと、ユウスケは淫猥な目つきで浜岡を見つめ、静かに顔を近付けた。唇が重なった瞬間――浜岡の中で何かが弾けた。
「君の……」
 浜岡はユウスケの唇に吐息を吹きかけるように囁いた。
「君の体は、凄いな……」
 ユウスケは浜岡の目を見つめたまま再度顔を寄せ、口付けながらペニスにペニスを擦りつける。それは浜岡の興奮を激しく煽った。浜岡は片手でユウスケの腰を抱き、もう片方の手を二人の間に伸ばした。震える手はユウスケのペニスを握り、辺りの泡を掬い取りながら扱き始める。
「……浜岡さんの手……硬くて、気持ち良い」
 唐突に姿を現した浜岡の積極性にユウスケが目を見開き驚いていたのは一瞬のことで、すぐにペニスに触れていない方の手を浜岡の首の後ろに回し、緩やかに腰を揺らし始めた。
 二人は口付け合いながら互いのものを擦り合った。浜岡は熱に浮かされたような目をしながらも闇雲に手を動かすのではなく、ユウスケの反応を見ながら弄る場所を変え、強弱をつけてユウスケを煽った。その美しい体が快楽に震えるのを見たかったのだ。
「あっ、ああっ……浜岡さん、俺、もう、もう……!」
 いつの間にか浜岡は青年の体を壁側に追いやっていた。片手でペニスを刺激しながら、もう片方の手を壁と背中の間に差し入れ、今にも達しようとしている体をしっかりと腕に抱いて。
 ユウスケの方はといえば、もはや浜岡のものを愛撫する余裕も無く、ただ喘ぎ声を漏らしながら浜岡にしがみつくだけだった。
「ああ……浜岡さん、浜岡さん……あぁ、いく、いく!」
 ユウスケの体が震える。浜岡の手の中でペニスが脈打ち、二人の体に精液を吐き出していく。
 浜岡は放心状態のユウスケの首に唇を寄せ、泡と精液で白く濡れた手で自身のペニスを掴んだ。
 ユウスケの荒い息遣い、しがみついてくる腕の力強さ、密着した胸、触れた足や腕に生えた薄い体毛の感触、射精に至ったときのユウスケの表情――そういったものが、浜岡を少年のような性急さで高みに導いていった。
「――――!」
 ユウスケの肩で声を殺し、微かな呻き声だけを漏らして、浜岡は達した。
 二人がそのまま抱き合っていたのは僅かな間のことで、浜岡は息が整い切らない内にゆっくりと顔を上げた。
「…………」
 二人は無言のまま見つめ合い――体を離した。
 ユウスケは汗が浮かんだ顔で浜岡に笑い掛け、それからシャワーの湯を出し、浜岡の体に付いた泡や汚れを手際よく流した。
「俺も体を洗うので、浜岡さんは先にベッドに行ってて貰えますか?」
「……ああ」
 浜岡は言われた通りに浴室を出て、少し濡れていた顔と髪をおざなりにタオルで拭いた後、バスローブを身に纏ってベッドに腰を下ろした。
 嵐のように過ぎ去って行った欲望とそれが引き起こした行動の余波の中――浜岡はごく冷静に、自分の胸の内に起こる感情を観察していた。
 生まれて初めて同性と性的な行為に及んだことの後悔の念は、いくら待っても浮かんでこなかった。浜岡は衝動のままユウスケと触れ合ったことを悔やんではいなかった。あるのは、これは起こるべくして起こったのだという感覚だけだった。ユウスケや電話口で話した店の人間、自分自身にも『ただ一緒に眠るだけだ』と誤魔化してはいたが、心の奥底では自分は最初からああするつもりでいたのだろう、そして自分はずっと前からこういう風に同性と戯れてみたかったのだ――浜岡はそんな確信に近い感覚を抱いた。
 だが、ずっと手の中で弄んでいたパズルのピースが嵌る場所を探し当てても、また次のピースで立ち止まってしまう。射精がもたらした快感は虚脱感に変わり、沈み込んだ心の中で孤独感がまた頭をもたげる。
「浜岡さん」
 いつの間にかユウスケが目の前に立っていた。浜岡と同じようにバスローブを着て、浜岡を見つめている。
「隣、いいですか?」
「ああ」
 ユウスケの顔に浮かんだ笑顔を見て、浜岡は胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
「まだ眠くない、ですよね?」
 隣に腰を下ろしたユウスケは、浜岡の顔を窺いながら尋ねた。
「君は?」
「俺は……うーん、眠ろうと思ったら眠れるかな、って感じですね。……あの、俺、マッサージ出来るんですよ」
「マッサージ?」
 そう聞いて浮かんだのは、浴室での出来事だった。段々と性的な度合いを高めていったユウスケの手つき……。
「俺、一時期マッサージの専門店で働いてたこともあるんです。今の仕事とは関係ない普通のマッサージ店で、資格とかは持ってないんですけど……マッサージをしてるうちに眠っちゃうお客さんって結構いたんですよ。だから浜岡さんさえ良かったら、って」
 どうですか? と尋ねるユウスケの目には、浴室で見たような濡れた欲望の色は無かった。純粋な親切心で提案してくれたのだろう。それに――よく考えてみれば、会ったばかりの中年男と二人きりで、そう眠たくもないのに朝まで抱き合っている、というのは、いくら仕事と言っても拷問に近いことなのかもしれなかった。
「なら……お願いしてもいいだろうか?」
「はい、勿論」
 じゃあ仰向けになって貰ってもいいですか、と促す声に従って、浜岡はバスローブを着たままベッドに横たわった。ユウスケは腕まくりをし、感覚を呼び起こそうとでもするように拳を作ったり開いたりを何度か繰り返した後、浜岡の傍に座り直した。
「もし違和感とか、痛みとか、気持ち良くないなって感じたら、すぐに言ってくださいね」
「ああ」
 浜岡はユウスケの手が背中に触れてから暫くの間、体に少し力を入れて構えていたが、やがて目を閉じ、力を抜いて身を任せた。自分から言い出すだけあって、ユウスケの腕はなかなかのものだった。力任せに揉みしだくのでも、毒にも薬にもならないような無難なやり方でもなく、プロとして報酬を受け取るのに相応しい、的確で手馴れた動きだった。
「どうですか?」
「ああ……いいよ。上手いもんだな」
「ありがとうございます」
「君は……」
「はい?」
「いや、いいんだ」
「そうですか?」
「ああ」
 これ以外に仕事が無いという訳でもないだろうに、君はどうしてこんな仕事をしてるんだ――浜岡はユウスケにそんなことを尋ねようとして、あまりに失礼だろうと思い止まった。
 ユウスケは何事も無かったかのようにマッサージを続けていたが、
「浜岡さんはどんな仕事をされてるんですか?」
 手を動かしながら何気なくそう尋ねてきた。
「研究職だよ。今は……溶接材料の改良と開発、だな。そういうことをやってる」
 そう答えながら、これだけの情報でも調べれば職場も簡単に見つけられるだろうと浜岡は思った。何しろ偽名すら使っていないのだ。負わずに済むリスクをあえて負うのは、自棄にでもなっているからなのか――あるいは会ったばかりのこの青年を信用し始めているからなのか。
「お会いしてすぐに、知的な方だなって思いました」
 あからさまな世辞に浜岡は苦笑した。ユウスケは浜岡の反応に気付いたのか、首を横に振った。
「本当ですよ。俺、昔から人を見る目だけはあるんです。浜岡さんが良い人だっていうのも一目で分かりましたから」
「あまり信用しないでくれ。さっきだって……」
 セックスをするつもりは無いと言った舌の根も乾かない内に、事に及んだのだ。
 浜岡は今になって、あれは重大なルール違反だったのではないかと思い始めていた。
「あれは俺が誘ったんですよ。あんなに積極的になってくださるとは思わなかったから、ちょっとびっくりしましたけど……でも、嬉しかったです」
「……嬉しかった?」
「はい」
 浜岡が目を開けると、脚の方のマッサージに移っていたユウスケは、やや間を置いてから視線に気付き、浜岡に笑みを向けた。
「本当ですよ。俺で気持ちよくなって貰えたんだなーって」
「…………」
「あの、勘違いだったら申し訳ないんですけど、さっき俺に『何でこの仕事をやってるんだ?』って聞こうとしてました?」
 浜岡は答えなかったが、驚きが顔に出ていたらしく、ユウスケは「そうじゃないかなって思ってました」と優しく笑った。
「始めたとき、お金に多少困ってはいたんですけど……でも、この仕事しかないってほど切羽詰ってたわけじゃなかったんですよね。同じゲイの友達で売りやってる子がいて、その子の話を聞いてるうちに俺もやってみようかな、将来自分も利用する側になるかもしれないし、って、そんな感じで初めて……で、やってみたら自分に向いてるなぁって。でも特別性欲が強いとか、スキモノってわけじゃなくて……何ていうか、浜岡さんみたいな人とこういう風にお話する機会って、なかなか無いわけじゃないですか。日常生活で接点って殆ど無いと思うし、もしゲイバーとかイベントとかSNSとか、お互いの性的指向をオープンに出来る場で出会ったとしても、俺、多分浜岡さんに話し掛けられないし」
「……俺が君に、じゃなくてか?」
 ユウスケの言ったような方法で相手を探すことを、浜岡はこれまで全く思いつきもしていなかった。そしてもし実際にそうしていたらと想像してみても、自分が遥か年下の美青年に声を掛けられるかどうか、自信は全くなかった。
「こう見えても、普段は凄い人見知りなんですよ」
 俄かには信じ難い話だった。出会って間もないが、ユウスケは物怖じするようなタイプには全く見えなかったし――人見知りの人間が、見知らぬ人間と二人きりになって裸で触れ合うような仕事に就くだろうか?
「あ、信じてないですね?」
「それは……そうだろう。君は全然そういう人間には見えないよ」
「そうですか?」
 ユウスケは楽しそうに笑っていた。浜岡はユウスケにからかわれているのかもしれないと思ったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。休みなく動く手に全身を解されて、心もいくらか解れたのかもしれない。
「理由があれば大丈夫なんですよ。仕事とか、学校とか……今専門学校に通ってるんですけど、そういう場じゃ人見知りだーとか言ってられないじゃないですか。まぁ学校の方は無理矢理自分を奮い立たせてる感じなんですけど」
「そうか……。なら、もし今がプライベートだったとしたら?」
「話し掛けられるまで、イヤホンで音楽聴きながら隅の方でずっとスマホ弄ってますね」
 随分な落差だった。想像するのは難しかった。
「……なら俺の方が君に話し掛けて一旦会話が始まったら、今みたいに普通に話せるのか?」
「うーん、今みたいには無理かもしれないですね。内心凄く嬉しいんですけど、表面的には完全に、遠い親戚のお兄さんに話し掛けられた女子中学生みたいな感じになります」
 男子中学生ではなく女子中学生なのは、それほど心理的な隔たりがあるということだろうか。浜岡は法事で顔を見ることがある従妹の中学生の娘のことを思い出した。確かに今までに彼女との話が弾んだことは一度もないかもしれない。
「だから、こういう風に大胆に人と接する機会があるっていうのは、俺にとっていいことだな、って思うんです。普段は出来ないから」
「……でも、嫌なこともあるだろう?」
 ユウスケは一瞬手の動きを止めた。そして誤魔化すように脚から腰へとマッサージする場所を移した。
「……そうですね。ごくたまにですけど、そういうこともありますね」
「すまない。思い出したくないことを思い出させて――」
「いえ、そんなに酷い思いをしたってわけじゃないんです。気にしないでください」
 浜岡の言葉を遮るようにユウスケは言った。気にしないでくれ、と言われても気にしないわけにはいなかったが、そういう素振りを見せればユウスケを困らせてしまうかと思い、浜岡はそれ以上謝罪の言葉を重ねることはしなかった。
「ユウスケ君」
「はい」
「マッサージ、もういいよ。ありがとう、疲れただろう」
「いえ、どうでしたか?」
「疲れが取れたよ。今日は殆ど一日車に乗ってたから……。君も横になったらいい」
 ユウスケは「はい」と頷き、浜岡の隣に体を横たえた。浜岡はユウスケが密着してくる前に、あるいはバスローブを脱ぎ出す前に体を起こした。持ち込んでいたミネラルウォーターのペットボトルを手に取ったのは、あからさまに『避けた』と思われないようにと浜岡なりに気を遣ってのことだった。実際避けようと思って避けたのだが、それはユウスケのせいではなく浜岡側の問題だった。
 ――今になってまた、こんな風に一人の青年を金で自分の良いようにしていいものだろうかと迷いを抱き始めたと、本音を口にすればユウスケはきっと浜岡の為に否定するだろう。分かり切ったことだった。
「今日はどこかに遊びに行かれてたんですか?」
 ユウスケはそう尋ねながら浜岡の方に体を向けたが、それ以上身を寄せてくることはなく、多少身動ぎしても体が触れ合わない絶妙な距離を保っていた。
「ああ……友人の墓参りにね。纏まった休みが取れたから、一人で行ってきたんだ」
 ユウスケは話を掘り下げる質問をしていいものか迷っているような目をしていた。浜岡はペットボトルに蓋をし、「こんな歳になると、周りで誰かが亡くなるっていうのはそう珍しいことでもなくなるんだよ。それに亡くなったのは昨日今日の話でもないんだ」と微笑みながら言った。
「大学の頃からの付き合いだったんだが、別に親友ってわけでもなかった。亡くなる前の数年は顔を合わせてもいなかったくらいでね。長い事海外にいたから」
「浜岡さんが、ですか?」
「いや、私はずっと国内だ。友人の方が色々と飛び回ってたんだ」
「いいですね。……お仕事で?」
「仕事で、というより自分探しって奴だろうな。他人事ながら破天荒な人生だったよ。連絡を取るといつも違う国で違うことをやってるんだ。あいつはハッキリ言わなかったが、一時期は相当危ない仕事もやってたし、母親の違う子どもも何人か作ってたみたいだ。俺があいつの親だったら胃がいくつあっても足りなかっただろうな」
 浜岡はこれから起こるだろうことを先伸ばしにする為に口を動かしていたが、その内容が話すつもりなどなかった小野寺の話になったのは、ユウスケの事を、自らの胸の内を打ち明けるに相応しい人間と見做したからなのだろうか。
「浜岡さんとは、かなり違ったタイプの方なんですね」
「ああ。出会ったのが大学卒業後なら、きっと友人にはなってなかった。危なっかしいし、金は返さないし、物も貸したら壊すか別の奴にまた貸しするかで、本当に散々な男だったんだ、あいつは」
 罵る声の中に愛情を読み取ったのだろうか、ユウスケは微笑み、浜岡の話に静かに耳を傾けていた。
「けど、性根は悪い奴じゃなかった。どんな女でも好かれたら好意を返して、あいつなりに優しく接してたんだ。向こうが愛想を尽かすことはあっても、あいつから捨てたことは一度もなかった。来るもの拒まずの姿勢のおかげで二股三股はしょっちゅうだったが……。嘘が下手で、騙されやすくて、いつも夢みたいなことばかり言ってたな。『次は絶対に成功する、今までとは違う感覚があるんだ。これが俺の運命なんだって』……そんなことを毎回、子どもみたいな目で言うんだ。いるだろう、たまにそんな男が」
 浜岡が同意を求めると、ユウスケは「そうですね」と浜岡の目を見上げて頷いた。
「小野寺は……あぁしまった、名前を……いや、いいか。その男は最後に孤児院の院長になったんだが、そこの補修作業をやってるときに二階の屋根から落ちて、当たり所が悪かったんだな、病院に着く頃にはもう亡くなっていたんだそうだ。警察の調べでは事件性は無かったし、そこでは恨みを買うこともしてなかったから、完全に事故だった。死因を聞いたときは驚いたよ。密造酒を飲んで病院送りになっても、強盗に腹を刺されても、馬に蹴られてもしぶとく生きてた奴だったから」
「……何と言うか、凄い人生、ですね」
「そうだろう?」
 浜岡は苦笑し、手に持ったままだったペットボトルを何気なく脇に置いた。そして戻ってきた手に、ユウスケがそっと触れた。
「…………」
「浜岡さん。もっとお話、聞かせてください」
 ユウスケは浜岡の手首を握り、それとはすぐには分からないくらいの強さで、軽く自身の方へと引き寄せるように力を入れた。簡単に引き離すことが出来ただろうその手から、浜岡はどうしてだか、逃れることが出来なかった。
 浜岡は緩やかな誘導に従って体を横たえ、ユウスケが自然な流れで引き上げた掛け布団の中でユウスケと向かい合った。ユウスケは間接照明以外の明かりを全て消してから浜岡に身を寄せたが、バスローブを脱ぎ出す気配は無かった。浜岡は内心ほっとしながら、胸に顔を埋めてきたユウスケの頭を撫でた。ユウスケの頭からは例の香水のような香りが漂った。
「君は……何か香水でも付けてるのか?」
「いえ、何も。気になりますか?」
「気になるというか、女の子みたいだ」
「シャンプーのせいかも。今使ってる製品、結構香料が凄くて。……流してきましょうか?」
「いや、いい匂いだよ」
「良かった。浜岡さんも……いい匂いがしますね」
 微かに匂いを嗅がれている気配がした。浜岡は気恥ずかしくなった。
「ボディーソープ以外の臭いがしないか? ……その、おじさん臭いだろう。娘にもたまに言われるんだ」
「女性は男より感覚が鋭いって言いますからね。でも俺は嫌な臭いだとは思いませんでした。むしろ好きな匂いです」
 思わず『娘』という単語をよく考えもせずに口に出してしまったことを後悔したが、ユウスケは特に反応を示さなかった。わざとか、それとも本当に気に掛からなかったのか。
「ずっと嗅いでいたくなる匂い、ですね」
 ユウスケの手は浜岡の背中に回っている。擦り付いてきた体は浜岡の体より遥かに若々しく、しなやかで、熱かった。浜岡が息を呑むと、ユウスケは浜岡の股間に自身のそれを軽く押し付けた。
「……なぁ、ユウスケ君」
「何ですか?」
「俺は君に……ここにいてくれるだけでいいんだ。ただ添い寝してくれるだけで」
 ユウスケは顔を上げた。薄暗がりの中でユウスケの顔は更に美しく見えた。
「……俺じゃ駄目ですか?」
「そういう意味じゃない。俺にそれ以上のことはしてくれなくてもいいんだ、ってことなんだ。その……店のシステムのことは正直言って良く分からないんだが、性的に満たされなかったからと苦情を言うつもりも、金を返せなんて言うつもりも全くない。君は俺が支払った金額以上のことをもうやってくれたんだ」
 衝動が無いわけではなかった。ユウスケの体は十分に、十分過ぎる程に浜岡の欲望を刺激する。ここ数年でこれ程までに欲望を掻き立てられたことはなかった。異性同性どちらであっても、浜岡の生活の中でユウスケ以上に魅力的に感じられる存在は、一人もいなかったのだ。
 だが――どうしても、抵抗があった。果たして自らの欲望を満たす為に、この青年を利用していいものだろうか。そんな問いが浜岡の中で重みを増し続けていた。ユウスケに支払った金は浜岡の心を軽くするどころか逆に重く圧し掛かり、今日この日衝動に任せてこの青年を買うまで自らを道徳的な人間と見做していた浜岡の自意識に、小さな歪を生むまでになっていた。
「あんな話をしてしまったから勘違いをさせてしまったのかもしれないが……俺と小野寺は本当にただの友人で、俺はあいつに恋なんてしていなかった。裸を見たいとか、触れ合いたいという欲望を抱いたことすらなかった。だから俺が君を呼んだのは、あいつの身代わりにしようと思ったからじゃないんだ。誰かに、どうしても側にいて欲しいときってあるだろう? それがたまたま今日だっただけのことなんだ。俺はセックスがしたいわけじゃない。ただ側にいてくれるだけで十分なんだ。だからどうか、俺のことを必要以上に喜ばせようとしないでくれ」
 ユウスケだけではなく自分自身にも言い聞かせるかのように言葉を並べ立てる浜岡の目を、ユウスケは静かに見つめていた。年若い青年の目は浜岡を見透かすように澄んでいた。
「……ちょっとだけ俺の話、してもいいですか?」
 問い掛けに浜岡が頷くと、ユウスケは微笑み、浜岡の胸に軽く顔を伏せた。
「今の店に入ったばかりの頃……俺、今の店しか経験ないから、この業界に入ってすぐの頃、ですね。お客様の家に出張したことがあるんです」
 ユウスケの声は落ち着いていたが、浜岡は何故だか、その後に続く悲惨な出来事を予期することが出来た。
「そのお客様からの指名は初めてだったんですけど、店自体の利用は二回目だから、って聞いてて安心してたんです。でも玄関に入る前、インターホンでのやり取りで何となく嫌な感じがして……けど、そこまで来てやっぱり帰ります、って出来ないじゃないですか。それでエレベーターに乗って、お客様の部屋まで行ったら、ドアが開いてすぐに中に引き摺り込まれて、玄関で無理矢理犯されて……何回か中で出された後に解放されて、お金も貰って、というか服のポケットに捻じ込まれてマンションを出て……連絡の電話が来ないことを心配して店の人間が来てくれたんですけど、それまでずっとマンション近くの公園のトイレで泣いてました」
「……それは……辛かっただろう」
 それ以外の言葉が見つからず、浜岡は打ちのめされたような気分で言った。
「そうですね……。凄く辛かったです。ショックで暫くは店に出られなかったし、三日間家に籠って誰とも話しませんでした。このことも人に話したのはこれが初めてです。……それくらいショックなことだったのに、結局この仕事は辞めなかったんです。自分でも何でなのか分からなかったんですけど、多分俺はあれを最後の経験にしたくなかったんだなって、最近になって思うようになったんです。またあんな目に遭うかもしれない、ってリスクを冒してでも、自分の中に良い記憶を残したかったんだなって。……すみません、こんな重い話して」
「いや……いいんだ」
 浜岡は無意識に、ユウスケを優しく自らの方へと引き寄せながら答えた。ユウスケは顔を上げ、微笑んだ。
「俺、今日が最後の出勤日で、あの店……というかこの仕事自体から離れるんです。だから浜岡さんが最後のお客様なんですよ」
「……そうなのか」
 店からは何も聞かされていなかった。驚いたが、専門学校に通っているという話を考えると、そう不思議なことでもなかった。
「はい。だから浜岡さんが最後で、俺は凄く嬉しいんです」
「…………」
「待ち合わせ場所で言葉を交わしたとき、きっとこの人は素敵な人なんだなって予感がしました。少し緊張されてたように見えたんですが、それでも知的な雰囲気があって、穏やかで優しい声をしてて……でも少しだけ寂しそうな目をした人だ、って思いました」
 ユウスケは浜岡の頬に触れた。
「本当にただ側にいるだけで浜岡さんが満たされるなら、俺はそうしてました。それが本当に浜岡さんの望みだったら、俺はそれを叶えたいと思いました。だけど……浜岡さんが俺と繋がりたいと思ってくれてるなら、俺はそれに応えたい。……浜岡さんは、今も俺のことを一人の男として見てくれてる。そうですよね……?」
 いつの間にか吐息が触れ合うほどに近付いた顔。ユウスケの目とその口から紡ぎ出される言葉は残酷に、巧みに、情け容赦なく浜岡の本心を表情や息遣いや心拍数の中に引き摺り出し――頬に触れた手は、そうして曝け出されていく浜岡の欲望を温かく受容し、肯定し、増幅していくようだった。
 浜岡はもはや誤魔化すことも、逃げ出すことも出来ず、呼吸すら忘れてユウスケに魅入られながら、喉の奥から絞り出すように掠れた声で「ああ」と答えた。
「なら、抱いてください。俺は貴方に……」
 ユウスケは目を伏せて言葉を止め、それからもう一度浜岡を見つめた。
「……俺が貴方に抱かれたいんです」
 頬に触れていた手は後頭部に回り、口付けをねだる。吐息が重なり合う距離――最後の一センチを埋めたのは、浜岡の方だった。
 浜岡は口付けたままゆっくりとユウスケの肩を押し、仰向けにしたユウスケの唇を甘く食んだ。薄く柔らかな唇を唇で愛撫しているだけで体が熱くなった。二人はやがてどちらからともなく舌と舌を絡ませ合い、抱き合いながら体を起こして、互いのバスローブをはだけさせ合った。
 しっとりと汗ばんだユウスケの滑らかな肌と、四十数年の年月を刻んだ浜岡の肌が触れ合う。若々しく力強い体を前にして劣等感を覚えるより先に、浜岡は老い始めた自身の体が活力を取り戻そうとするのを感じた。忘れかけていた欲望の炎が内から体を燃やし、目の前の美しい肉体を貪り尽くそうと全身の血を滾らせる。
 浜岡はユウスケを膝の上に座らせ、腰まではだけたバスローブの隙間から手を差し込んで、ユウスケの太腿に触れた。筋肉の感触、湿り気を帯びた肌が震える。太腿の付け根まで手を滑らせると、ユウスケは浜岡の体に芯を持ち始めたペニスを擦り付けた。
「浜岡さん、触って……俺に触ってください……」
 ねだるユウスケの後頭部に手を添えて深く口付け、ペニスには触れずに太腿の付け根や内腿を親指で刺激する。焦らされたユウスケは浜岡の腕にしがみつき、早く触れてくれと切なげに腰を揺らし始めた。浜岡は顔を離し、後頭部に添えていた手でユウスケの腰を抱き、もう一方の手でペニスへと触れた。既に立ち上がっていたそれを手の中で緩やかに刺激すると、ユウスケは浜岡の肩に顔を伏せた。乱れた熱い吐息が浜岡の肌をくすぐる。浜岡は急激に熱が下半身に集まっていくのを感じた。
 完全に勃起したユウスケのペニスから手を離し、ゆっくりとユウスケの体をベッドに倒した。正常位のような体勢でユウスケを見下ろすと、ユウスケは浜岡を切なげな目で見上げた。汗に濡れた頬、開いた口からは荒い息が漏れている。裸の上半身は汗ばんで輝き、目に焼き付けておきたくなるような美しさと、吸い付きたくなるような淫猥さで浜岡を魅了した。
 ――今からこの男を、抱くのだ。浜岡はごくりと生唾を飲み、ユウスケに手を伸ばしてバスローブの紐を解いた。白い布地の暗がりから現れた、勃起し、そそり立つペニスの雄々しさが、ユウスケの裸体を完璧なものにする。
「君は……本当に、綺麗だ」
 浜岡は青年の美しさに心打たれ、無意識にそんな賛美の言葉を口にしていた。ユウスケは静かに目を瞬き、それから微笑んで、
「……浜岡さんも、見せてください」
 そう誘い掛けた。浜岡がバスローブを傍らに脱ぎ捨てると、ユウスケは浜岡の顔を、体を濡れた瞳に映し、硬く勃起したペニスを見つめて飢えた獣のような溜息を吐いた。
「さっきよりも……大きい」
 その言葉に、浜岡は羞恥と、腹の底から湧き上がるような歓喜と欲望を同時に感じた。
 ユウスケは下敷きにしていた自身のバスローブのポケットから、コンドームと小さなボトルを取り出した。浜岡はユウスケが足と足の間に手を伸ばし、ローションらしき液体を会陰部の下の窄まりに塗り付けるのを、逸る気持ちを抑えながら見つめていた。ローションのぬるつきを借りて指先は驚くほど簡単に窄まりへと沈み込んでいく。関節も難なく受け入れたその穴は、そのまま二本目もするりと受け入れた。ぬるついた液体はとろりと中へと流れ込んでいく。
 ほんの少しの間、濡れた音を部屋に響かせた後、ユウスケはローションを傍らに置き、指を自身の体から引き抜いた。
「浜岡さん……」
 ユウスケの目を見て、受け入れる用意が出来たのだと分かった。浜岡は自分の方の準備を手早く済ませ、その間に四つん這いになったユウスケの腰を持って自分の方に引き寄せた。
「…………」
 薄暗い部屋に、二人の息遣いが響いている。浜岡はゆっくりとユウスケの尻を割り開き、露出させた穴にペニスの先端を押し付けた。そしてゆっくりと中へと埋め込んでいく――あれほど簡単に指を受け入れていたそこは想像よりもきつく、狭苦しい場所だった。浜岡は自らのペニスが襞をいっぱいに広げ、括約筋に締め付けられながら中を押し広げて進んでいくのを、快感に押し流されてしまわぬように息を詰めて見下ろしていた。
 最初こそ抵抗はあったが、ある程度まで進むと挿入は容易になり、いつのまにか浜岡のペニスは殆ど全て、ユウスケの中に飲み込まれてしまっていた。
 玉のような汗が浮いた背中の窪みを辿り、ユウスケの横顔を見る。ユウスケはすぐに自らへと向けられた視線に気付いた。
 ユウスケは荒く吐息を漏らし、シーツを掴みながら頷いた。それは合図だった。
 浜岡はユウスケの肉付きの薄い腰を両手で持ち、緩やかに腰を動かし始めた。言葉を発する余裕はなく、ともすれば呆気なく達してしまいそうだった。ぬるついた直腸の粘膜は初めから男の欲望を受け入れる為の場所であったかのように浜岡を熱く包み込み、締め上げ、愛撫して、浜岡に快感を与え続ける。
「あ……ああ、あぁ、凄い、浜岡さん、凄い……」
 それまで吐息を漏らすだけだったユウスケは、やがて堪え切れなくなったように声を漏らし始めた。青年の声は浜岡の血を滾らせ、体温を上げ、体の奥で燃える炎を更に大きく燃え立たせる。浜岡は結合部から淫猥な音が聞こえ出すほど激しく腰を使い始めた。突く度にユウスケの体は波打ち、その手の指はシーツにきつく食い込んだ。
 ユウスケの体を獣のように貪り続け、快感を追っていくうちに、浜岡は限界へと上り詰めて行った。浜岡は熱に浮かされた頭で、殆ど無意識にユウスケのペニスへと手を伸ばした。だがそれに指先が触れるや否や、ユウスケはシーツを掴んでいた手で浜岡の手を押し返し、嫌々をするように首を横に振った。
「やだ、浜岡さん……嫌、です、俺、駄目……」
「何が、駄目なんだ?」
「…………」
 ユウスケは答えない。答えられないのかもしれなかった。
 浜岡は動きを止め、ユウスケの後頭部からうなじへ、うなじから背中へと視線を落とし、浮いた汗が滴となってシーツに零れるのを見た。それから息を吐き、ゆっくりとユウスケの中からペニスを引き抜いた。
「ああ、ううっ……あぁ……」
 呻き声を上げ、下半身を震わせたユウスケの腕を持って仰向けにする――ユウスケのペニスは勃起していなかったが、先走りをだらだらと漏らし、腹筋は収縮を繰り返して、浜岡が開かせた足と足の間のぬるついた穴は物欲しげにひくひくと震えていた。
「浜、岡さん……」
 ユウスケは浜岡を切なげに見上げる。浜岡はユウスケに口付けた後、もう一度ペニスを挿入した。ユウスケの肉壁は浜岡をきつく締め付け、その脚は浜岡の腰を挟んで、腕は浜岡の後ろに回って浜岡を引き寄せた。驚くほど近付いた瞳を見下ろした浜岡は、ユウスケの望みをはっきりと感じ取ることが出来た。
 浜岡はユウスケに口付けながら、ゆっくりと腰を動かし始めた。この途方もない快楽の波の絶頂は目前に迫っていたが、浜岡はそれを駆け上るより、ユウスケと呼吸を合わせ、彼の興奮を高めながら、少しずつその場所へ向かうことを選んだ。
 緩やかな抜き差しによって、やがてユウスケの体は震え始め、唇はろくに浜岡に応えることも出来なくなっていった。
「ああ、浜岡さん、浜岡さん、浜岡さん、……ああ、あぁ、いく、俺、もう、もう……!」
 ユウスケは忙しなく浜岡の名を呼びながら浜岡にしがみついた。長い手足は浜岡を引き寄せてきつく抱き締め、深くペニスを受け入れる。その力強い抱擁に浜岡は痛みを覚えたが、その痛みを歓喜と共に受け入れ、青年の体を抱き返した。触れ合った肌が汗で互いの体へと馴染み、同化していくように二人の隙間を埋めていくのを、快感に震える青年の直腸がペニスを甘く愛撫し、絶頂へと導こうとしているのを、二人が共に理性を手放した官能の海に沈もうとしているのを、浜岡は全身で感じ取った。これこそが浜岡の望みだった。写真を見たあの瞬間から、浜岡はこの瞬間の訪れを心の奥深くで待ち続けていたのだった。青年の力強い体をわがものとし、そして浜岡も青年の一部になろうとする、この瞬間を。
「――――」
 浜岡は青年の名を呼び、その青年の腹の内で熱を吐き出した。

 二人は長い間抱き合ったままだった。やっと抱擁が解けたときには、浜岡の呼吸は殆ど整ってしまっていた。
「ありがとう」
 浜岡が礼を言うと、ユウスケはまだ整い切らない息を吐き出しながら浜岡を見上げた。その目は涙に潤んでいて、もしかしたら泣いていたのかもしれないと浜岡は思った。それが痛みからでなければいいと、浜岡は労わるようにユウスケの頬を撫でた。ユウスケはそっと浜岡の腕に触れ、微笑んだ。





 後始末を済ませると、二人はそのまま抱き合って眠ることにした。
 行為が終わった後、ユウスケは体を繋げる前が嘘のように殆ど言葉を発していなかったが、暫く経っても浜岡が目を開けたままでいることに気付くと、ぽつりと口を開いた。
「俺、人と人の関係は点と線で出来てると思うんです」
「……点と線?」
「そうです。人が点で、人と人の間にある繋がりが線」
 ユウスケの声はか細く、囁き声に近かった。ゆったりとした瞬きは眠たげで、疲労の色が濃く滲んでいた。
「簡単に切れてしまう線もあるし、ずっと切れない線もあって、それは好意とか、憧れとか、怒りとか、憎しみとか、友情とか、愛情とか……そういうもので、その線を通じて、互いの一部を共有していくんです。……多分、浜岡さんと、ご友人の方の間にも、その線があったんだと思います。全然性格の違う二人で、恋人でも親友でもなかったけど……長い間ずっと切れないでいた線が」
 小野寺のことだ。何故今この話を蒸し返したのだろうと不思議に思いながらも、浜岡は静かに耳を傾けていた。
「その線を通じて、浜岡さんはその人のドラマチックな人生の一部を受け取ってたんじゃないかって……その人みたいに色んな国を旅して、色んな人を受け入れて、たくさんのことに挑戦して、失敗して、苦しんで、死に掛けて、最期の場所を見つけて……そんな風に浜岡さんも、その人の人生を少しだけ生きて、少しだけ同じものを感じて、その人と繋がっていったたくさんの線の先の点と、間接的に繋がってたんじゃないかって思うんです。その人が亡くなって……浜岡さんとの間にあった線が切れてしまったから、多分、浜岡さんは…………」
「……バランスを崩した?」
 ユウスケは小さく頷いた。
「それじゃあ俺は……君で、バランスを取ったんだな」
 浜岡はユウスケの髪を撫でながら、小野寺の方は自分との線から何を受け取っていたのだろうかと考えた。小野寺が飛び出さずにはいられなかった国に生き続ける男から、何を見て、何を感じることが出来たのだろうか。浜岡の人生は果たして、小野寺にとって受け取る意味や価値のあるものだったのだろうか? 
 浜岡は、小野寺がもし生きていてこの問いに答えるとしたら、「そりゃそうだろう」と真顔で答えた後、にやりと笑って見せるに違いないと思った。
「浜岡さんは……」
 ユウスケはそう何かを言い掛けて、言葉を止めた。
「どうした?」
「……俺、実はそんなに線が多い方じゃないんですよ」
「……人見知りだから?」
 ユウスケは首を横に振った。
「凄い人見知りだから」
 浜岡は微かに口元を緩めた。ユウスケは気配でそれを感じ取ったらしく「本当ですよ」と笑いながら言った。
「話してみたいなって人がいても、俺、いつも相手に話し掛けられるのを待つだけなんです。自分からはいけないから」
「君に話し掛けられて嫌がる人間なんて、そうそういないだろう」
「いますよ、多分いっぱい」
「その根拠は?」
「根拠は無いですけど……でも、そう思うんです」
「……君は君が思っている以上に魅力的な人間だよ。俺が保証する」
「じゃあ、俺と浜岡さんがもしどこかでまた出会ったら……その時は、話し掛けてみてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
 浜岡はそう答えながら、自分たちの間にある線はいつまで切れずにいられるのだろうかと思った。二人の間に起こった素晴らしい出来事が、たとえこの先一生浜岡の胸の中に留まり続けることになったとしても、それは点と点を強く結びつける線が二人の間にあることを意味しない。二人にあるのは、この一夜だけなのだ。
 このたった一夜だけで腕に抱いた青年を愛おしく思い始めている自分に、浜岡は心のどこかで気付いていたが、これが彼を抱いて眠る最初で最後の夜だと覚悟してもいた。数か月後には日々の生活の中でいつしか途切れてしまった、か細く脆い線の先を懐かしく思うだけになっていても、それが人生の中でバランスを取り続けるということなのだ。
「でもやっぱり……俺には無理かもしれないです」
「……そうか」
 それでもいい、と浜岡は本心から思った。ユウスケが明日からの彼の人生から浜岡を締め出しても、彼が浜岡に与えてくれたものの価値が無くなってしまうわけではないのだから。
 だがユウスケは、思いがけない言葉を続けた。
「だから、浜岡さんが俺をもしどこかで見掛けて目が合ったら……あんなに言ったのに何で話し掛けてこないんだ、って怒ってください」
「……それは……、ずるいな」
 ユウスケは小さく笑い声を上げた。
「でも、お願いしますね。待ってますから……あの、俺、そろそろ眠くなってきました」
「……ああ、そうだな。俺もだ。じゃあ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
 ユウスケはすぐに寝息を立て始めた。その規則的な音に誘われて、浜岡もそう間を置かずに心地良い眠りの世界へと沈み込んでいった。


 その夜――浜岡は短い夢を見た。
 休日の午後、専門書を買い求める為に、浜岡は街にある大きな書店へと出掛けた。用事を済ませ書店を出たところで、浜岡は右の手の平から糸が一本伸びていることに気付く。
 その糸の先を追ってみると、道の向こうから歩いてくる、見知った顔の青年へと繋がっていた。行き交う人々は誰もその糸に気付いていなかったが、ただ一人、同じ糸で繋がったその青年だけは例外だった。
 二人は一瞬目が合うが、青年はすぐに視線を外し、耳に嵌めたイヤホンから流れてくる音楽に耳を澄ませているような顔をして、まるで何も気付かなかったように、立ち止まっている浜岡の側を通り過ぎていく。そして二人の間にあった糸は、小さな音を立てて切れてしまった。
 浜岡は青年と同じく何も起こらなかったような顔をして、途切れた糸を引き摺って歩き出そうとする。
 だが、ふと、浜岡は微かな痛みが胸に起こるのを感じて足を止めた。そしてこのまま終わってしまうのだろうかと、そんな思いに囚われて、後ろを振り返った。
 すると青年も同じように振り返って、浜岡の方を見ているところだった。
「なぁ、どうして声を掛けてくれないんだ?」
 浜岡がそう声を上げると、青年はイヤホンを外し、気恥ずかしげに微笑んだ。
 それから二人はゆっくりと互いの方へと歩み寄っていく――途中、切れた糸の先を拾い上げて、二人はそれを固く結びつけるのだった。
topページに戻る