夏の夜は耳を澄まして

「虫が鳴いてますね」
 俺に肩を貸して歩きながら、文月はそんなことを言い始めた。
「虫~? 何も聞こえないけどなぁ……?」
「ほら。あっちで『むいむい、むいむい』って鳴いてますよ」
 むいむいなんて鳴く虫はいただろうか。アルコール漬けの頭を何とか持ち上げ、草むらに目をやって耳を澄ませる。暗がりに潜む虫たちの声が、微かに耳に入ってきた。
「……どっちかっていうと『ギーギー、ギーギー』じゃないか?」
「いえ、『むいむい、むいむい』ですよ。……稲葉さん大丈夫ですか?」
「大丈夫……じゃない」
「コンビニのトイレ、は間に合わないですね」
 吐き気を催して口を押さえた俺を、文月は側溝の方へと導いた。俺はすぐにしゃがみこみ、六つも年下の男に見守られながら嘔吐する。涼やかな虫の声をこれ以上ないほど台無しにした俺に、文月はそっとペットボトルの水を差し出してきた。
「あー、もう本当に文月はよく出来た嫁だなぁ」
「いつ嫁になったんですか?」
「うーん、お前がうちの会社に入ってきたときかな」
「随分前からだったんですね。まだ指輪も貰ってないんですが……」
「貯金下ろして買ってくるよ。ダイヤでいいだろ?」
「いいですよ。でも変なところで買っちゃ駄目ですからね。稲葉さん騙されやすいから」
「そんなことはない」
「あります」
 文月は余った水で側溝を手早く綺麗にし、空いたボトルを自販機横のリサイクルボックスへと落とした。それから俺の元に戻り、また肩を貸し、歩き出す。
「じゃあ一緒に選ぶか。俺センスないしな」
 別れた妻の口からそういう文句をよく聞いたものだった。貴方にはセンスも思いやりもない。独りよがりだからこういう指輪を選んだの。
 離婚してすぐの頃は彼女に対し憎しみすら抱いていたが、今となっては尤もな言い分だと自分でも思う。だから俺は同じ間違いを繰り返したくないのだ。たとえこの会話がただのお遊びで、文月と俺は恋愛関係でも何でもない、ただの会社の同僚に過ぎないとしても。
「センスが無くても、僕は稲葉さんに選んでほしいです。稲葉さんが選んだものなら、玩具の指輪でも、お菓子のカールでもいいですよ」
「……さっき変なところで買うなって言ってなかったか?」
 そう尋ねながら、俺は面白くなって肩を揺らした。いくら仮想の関係とはいえ、贈り物にお菓子のカールは無いだろう。
「値段相応の品質ならいいんですよ。あれは稲葉さんの今後の為の忠告で、指輪自体は何でもいいんです」
「カールでも?」
「カールでも」
「うん。けどやっぱりダイヤがいいような気がしてきた。お前はダイヤが相応しい男だ」
「ありがとうございます」
「仕事も出来るしな」
「恐縮です」
「その上男前だし、いい匂いがするし、身だしなみもきちんとしてるし、性格も良いし、上品だし、何をやらせてもスマートにこなすし、頭も良いし……なぁ思うんだが何でお前みたいな男がいまだにうちの会社にいるんだ? 世界に羽ばたいて行かないのか?」
 文月はそもそも入社した経緯からして規格外の新人だった。
 当時某大手企業の幹部候補だった文月と、その会社とは全くの別業種であるうちの会社の社長がゴルフ練習場で出会い、偶然会話する機会を持った。たった数分で文月をいたく気に入った社長が、それはもう熱心に文月を口説き倒して引き抜いたという、漫画か何かの話のような話を引っさげて文月は俺の前に現れた。
 そして人を見る目だけはあるタヌキ爺に、俺は感謝することになったのだ。
「……QOLを考えた結果ですね」
「QOL?」
「僕が一番僕らしくいられて、幸福を感じられるのがここだってことです」
「そっか……って、あれ、文月、お前ちょっと顔が赤くないか」
「赤くないです」
「いや、赤いって」
「……稲葉さん、さっき僕に言ったこと覚えてますか? さすがに照れますよ」
「照れたのか。はは、可愛いな」
 赤くなった頬をからかうように言うと、文月はますます顔を赤くした。
「……家。もうすぐ着きますよ。次はタクシーの運転手に乗車拒否されないくらいで抑えてくださいね」
「分かった分かった」
「その返事、前の飲み会の後にも聞きました」
「そうだったかな。覚えてないな」
「稲葉さん、次の日には全部忘れちゃうタイプですもんね」
 信号機の青が点滅している。車は殆ど通っていないが、文月は立ち止まり、赤に変わる信号を見つめた。
「……そうだ、忘れちゃうんだ。ならいいか。稲葉さん、僕が今から言うこと、明日には忘れてくれますか?」
「何だ? 社長か俺の悪口かー? いいぞー」
 車が目の前を通り過ぎる。夜の風が吹いている。虫がどこかで鳴いている。
「僕は稲葉さんのことが――です」
「……ん?」
「以上です。ちゃんと忘れてくださいね。僕のQOLの為に」
「忘れる忘れないの前に、ちゃんと聞こえなかったんだが。虫の方がギーギーうるさかった」
「だから『むいむい、むいむい』ですってば」
「いや『ギーギー、ギーギー』だって。……さっき何て言ったんだ?」
「むいむいと鳴きました」
「……お前な。まぁいいけど、家寄ってくか?」
「今日は足の踏み場はあるんですか?」
「作ればある」
「つまり僕が片付ければあると」
「そういうことになるな。あとカールもある」
 文月は笑った。
「油っこい指輪でも嬉しいです」
「ダイヤの方は明日買いに行ってくる。休みだしな」
「じゃあ僕は花とキャンドルを買ってきて、ディナーの用意をしますね。食事が終わったらコーヒーかワインを飲みながら少し話をして、心の準備が出来たら……あ、稲葉さんのですよ、それが出来たら、僕にプロポーズしてください」
「結構雰囲気重視なんだな? おう、分かった。やってやる」
「楽しみだなぁ」
 信号が青に変わる。俺は文月の肩から離れ、代わりに手を取って歩き出した。
「稲葉さん? 大丈夫なんですか?」
「うーん、あのな、今から物凄く迷惑な話をするぞ」
「大体いつもそうですが」
「そんなことないだろ……うん、あのな。実は俺、お前と出来る限り長く一緒にいたくて、飲みに行くと実際以上に酔った振りしてたんだ。いや、吐くほど酔ってたのは本当なんだが、一人で歩けないほどじゃなかったし、わりと意識もはっきりしてた」
「……え?」
「つまり……、その、むいむいってことだよ。むいむい」
「……意味が、分かりません」
「虫が鳴くのは求愛の為だろ」
 返事がないので立ち止まり、振り返った。文月は涙目で、殆ど泣き出す寸前の顔をしていた。
「つまり、稲葉さんは僕と交尾したいってことですか?」
「……ちっ、違う。いや違わない。えーと違わないんだが今のはそういう意味で言ったわけじゃなくてな。確かにその触りたいとか抱きたいとか思ったことがないと言ったら嘘に」
「僕はしたいです。部屋に入ったら僕にキスをして、僕がシャワーを浴びたら抱いてください。そしたら酔っ払いの戯言じゃないって信じます」
「……部屋に入ったら歯磨きして、酔いを醒まして、俺もシャワーを浴びてからする、でもいいか? 俺、ついさっき盛大にゲロ吐いたんだよ。もしかしたら忘れてないか?」
「忘れてました。でもいいですよ。稲葉さんはそのままだって。僕はありのままの稲葉さんを受け入れますから。お酒臭くて汗臭くて吐瀉物で汚れてる稲葉さんでも、僕はいっこうに構いません」
「俺いつもそんなにかっこわるいわけじゃ……そんなに汗臭かったか?」
 確かに今日は日中いつもよりも走り回ったような気がしないでもない。思わず自分のスーツの臭いを嗅いでいると、文月はその整った顔に微笑を浮かべた。
「稲葉さんはいつだってかっこいいですよ」
「本気の俺はもっとかっこいいんだぞ?」
「じゃあ早く僕を部屋に連れていって、どれだけかっこいいのか教えてください」
「……おう」
 手を引いてまた歩き出す。
「ところで文月」
「はい」
「さっきの、もう一回言ってくれよ。ちゃんと聞こえなかったから」
「さっきの?」
「『僕は稲葉さんのことが大好きです』ってやつ」
「大好きとは言ってないですね」
「じゃあ何て言ったのか教えろよ」
「……むいむい」
「それずるくないか?」
「人のこと言えないですよ」
「むいむい」
「むいむい」
「でもやっぱり『むいむい』じゃなくて『ギーギー』だと思うんだけどなぁ」
「『むいむい』ですって。あと僕は貴方のことが――です、稲葉さん」
 文月は俺にそう言いながら俺に並んだかと思うと、逆に俺を引いて歩き始めた。
「……今、言ってなかったろ?」
「言いましたよ」
「絶対言ってない」
「言いましたってば。虫に音量で負けただけです」
「本当かー?」
 俺を引く手が微かに震えている。文月は小さく笑いながら振り返った。
「僕、いつも稲葉さんには絶対に聞こえない大きさの声で告白してたんですよ。今みたいに。なかなか健気で可愛いでしょう」
「抱き締めたくなった」
「自分で言うなよ、って突っ込んで欲しかったんですが……」
 照れたのか文月は前を向き、歩みを速めた。
「……それで、稲葉さんは言ってくれないんですか? 僕のことが好きだって」
「明日プロポーズするときに言う」
「酔っ払いはこれだからなぁ……」
「本気だぞ」
「はいはい。僕を今よりもっと幸せにする気なんですね。嬉しいです」
「明日ダイヤを買ってきても引くなよ?」
 虫が涼やかな声で愛を求め鳴いている。夜の風が吹いて、抜けきらないアルコールで火照った頬を撫でる。
「ああ、家が見えてきましたよ。……あの、多分明日には稲葉さん全部忘れてるんじゃないかと思うので、まだされてないですけど、プロポーズの返事は今しておきますね。イエスです。だって僕は稲葉さんのことを本当に――」

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