スプーン


「別に俺たち付き合ってるわけじゃねーし」

 というのが、今朝ラブホテル街で女の子と一緒のところを、大学に向かう途中の俺に発見された彼の言い分だった。
「ふぅん、付き合ってるわけじゃないんだ。週に一度はデートして、セックスしてるのに? 俺はお前の彼氏じゃないの?」
「そういう括りは嫌いなんだよ。別に『浮気しない』とか『一人に絞る』とか約束してたわけじゃないだろ」
 約束。そりゃあ小学生中学生ではないのだし、いちいち言葉にはしない。でもそれは言葉にしないだけで、暗黙の了解というやつなのではないだろうか。と俺は思う。一方でも不特定多数との性行為を習慣としていれば、もう一方も性感染症に感染する危険性が高まるし、女と男なら子どもが出来る可能性だってある。感情的なことを抜きにしても、一対一の付き合いにはそういう危険性を排除する義務が当然生じるものなのでは。そう言うと彼は苛々とドレッドヘアを振った。
「真面目くんの理屈で縛んのやめろよ」
 俺はラテンの血が入ってるから、一人に落ち着いたりできるわけないだろと彼は続ける。ラテンの血。彼は何でもそれで説明しようとする。血といっても16分の1かそこらなら数滴残るぐらいなのではないかと思うのだが、彼にとっては重要なルーツ、自分の情熱や奔放を説明するのにぴったりの理由であるらしい。俺の親父は現地妻を五人も持っていたし、母親は現在三人の年下の男を囲っているから、性的な奔放さで言えば実のところ俺の家系の方がその傾向があると前々から思っていた。しかしその話をする気はまったくないので、反論は冷たい眼差しに変えて彼に向けた。彼は目を逸らした。
「……あの女の子、サークルの子だろ。狭いところなんだし、中を掻きまわすのはやめておけば」
「あいつビッチだから全員と寝てるよ」
 やっぱりそういうタイプか、と俺は一人納得する。顔や頭や性格が特にいいわけでもなく、『悪い男の魅力』のようなものを醸し出しているわけでもないこの男に、まともな女の子が寄りつく可能性は低い。
「性病の検査をしてくるまでお前とは寝ない」
 俺の宣言に、彼は「はぁ?」と間の抜けた声を上げた。
「何だよ、せっかく部屋まで来たのに?」
「うちに上げたのは話をするためだよ。外でしてもよかったか?」
「……」
 不満げな顔。原因は明らかに自分にあるのだということに納得していない。
「つか何で検査とかしなきゃいけねーんだよ。だるいしうぜえよ。ちゃんとゴムつけたし必要ねーだろ」
「じゃぁしなくていいよ。そのかわりお前とは二度としない。さっさと帰れば」
 俺はソファに腰掛けた。もうお前とは話す気はない、という意思を示すために、手元にあった分厚い物理学の本を開く。文系の彼は物理にはめっぽう弱く、というより文系であるのも惰性によるもので学問自体に意欲がないらしい。だから少しばかり難しそうな本を手にするだけで俺は彼に対し圧迫感を出すことが出来た。俺はお前の理解できない世界に入ってるぞ、という圧力。
「……帰る前に、プリン食べてく」
 自信をなくした声で、彼は小さく呟いた。そのままキッチンに消える。プリン、というのはここに来る前に寄ったコンビニで彼が買ったものだ。いかつい容姿をしてるくせに可愛らしい食べ物が好きな彼は、おみやげがないと悪いだろという建前を作ってはそういうコンビニスイーツを買ってくるのだ。
「ん。お前も食べるだろ」
 冷蔵庫から目当てのものを取り出した彼は、ソファに寝転がったままの俺の顔の横に、小さなカップとステンレスのスプーンを差し出した。正直俺はそんなに甘いものは好きではないし、しかもそれは再三言ってきたし、浮気のことが有耶無耶になりそうな予感がした。だから当然俺は差し出されものを無視した。
「……頭脳労働には糖分がいるだろ。食べろよ」
「お前が二つ食べれば」
 彼は俺の傍らに腰かけ、テーブルに俺の分のプリンを置き、自分の分のスプーンの包装を破り、プリンの蓋をぺりぺリと剥がした。
「あのさ、怒ってるだろ」
「怒ってない」
「じゃあ嫉妬してる」
 プリンを忙しなく口に運びながら、彼はそう言った。嫉妬だって。嫉妬。侮辱されたような気がした。
「何で俺が嫉妬しなきゃならないんだ。お前、鏡見たことあるのか」
「あるけど、お前が好きなのは俺の顔じゃねーだろ」
「どこも好きじゃない。頭の悪い節操無しのどこを好きになるって?」
「さぁ……知らねえけどさ」
 大した根拠もなく大口を叩く。彼の悪徳の中で一番嫌いなところだった。苛々する。
「……お前が女の子と寝てもいいっていうのなら、俺もお前以外の人間と寝てもいいってことだよな」
 俺がそう言うと、彼の手にしていたプリンが買ったばかりのラグの上に落下した。半分残っていた中身が零れる。
「何してんの? 早くきれいにしろよ。染みが付いたら弁償だからな」
「なぁお前は浮気すんなよ」
「は?」
「謝るから。本当にごめん。だから他の奴としないでくれよ」
 彼は俺の手から本を取り上げ、真正面から俺を見て、情けない顔で懇願した。俺はその手を振り払い、テーブルの上に行儀よく並べてあったプリンとスプーンを手に取った。スプーンはコンビニで貰えるプラスチックのものじゃない。俺があのスプーンを嫌っていることを覚えていたからだろう、重要なことは何も頭に入れてないくせに、こういう些細なことをいつまでも忘れないのだ。どうでもいい、浮気に比べれば遥かにどうでもいいことだ。俺は溜息を吐いた。
「なぁ……聞いてる? ほんとごめん、二度とやらないから。検査もちゃんとするし」
 彼は俺の手からプリンを奪い取り、その腕に俺を抱き寄せた。ごめん、ほんとに悪かった。そう繰り返す。
 自分の行為を正当化したあとに、相手の行為は制限したがる自己中心的思考回路。謝れば済むと思う浅はかさ。恐ろしく自分勝手な男だ。手に握ったままのこのスプーンで、その皺のないつるつるした脳を掬いだしてやりたいと俺は心底思った。

 だがその衝動を実際の行動に移すのは現実的ではなかったので、彼の狭い額をスプーンの背で叩くという行為で妥協することにした。

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