花食人紙食人

「薔薇を買いに行くんだ」
 閉店作業の最中、城島はそんなことを言い出した。
 店が終わったら今日はどうするつもりなんだと、ほんの世間話のつもりで俺が尋ねたからだ。普段城島は自分から予定を話したがるような奴ではなく、そもそも俺達二人が同じシフトに入ることは滅多にないので、話し好きの同僚から聞いた話で組み立てた城島のイメージを考慮しても、薔薇を買いに行くという返答は完全に俺の想定の範囲外だった。
 ――だって普通、そのまま家に帰るとか、友達と飲みに行くとか、そういう答えが返ってくるものだと思うだろう。
「え、買いに行くって城島が?」
「そう。僕が」
「薔薇を?」
「薔薇を」
「誰かに贈るとか? 彼女居たっけ?」
「いないよ。自分用」
「自分用……」
 仕事終わりに自分用の薔薇を買いに行く同僚。
 俺の頭からはそれ以外のことがすっぽ抜けてしまい、もう殆ど数え終わっていた売上金をまた初めから数える羽目になってしまった。城島の方はというと特にペースを崩された様子もなく静かにごみを片付けている。豆腐屋といっても商品の製造を車で二十分の本店に任せた販売専門の支店、しかも置いている商品の殆どがおからクッキーやおからパウンドケーキの素といった日持ちのする加工食品なので片付けるごみは少ない。そして今日はたまたま売れ行きが良く廃棄はゼロだった。もたもたしていると城島は先に帰ってしまうかもしれない――俺は光速で売り上げを数え直してから尋ねた。
「……部屋に飾るとか?」
「いや。本田くんの方は終わった?」
「終わった」
 俺達は二人で店の裏に入って着替え始めた。別に二人仲良く着替える必要は全く無いし、俺達以外の従業員は女性しかいないので普段は時間をずらして着替えているのだが、男二人のときはタイミングさえ合えば何となく一緒に着替えることになっていた。
「部屋に飾るんじゃなかったら買ってどうすんの?」
「食べる」
 一瞬聞き間違いかと思い、横に立つ城島の顔を見た。パートの佐々木さん評するところの『ちょっと大人しめだけど、よく見たらなかなかの男前』が俺の視線に気付き視線を返してきた。
「……薔薇を食べる?」
「薔薇を食べる」
 城島は頷いた。
「花を?」
「花を」
 沈黙が降り、俺達は十秒ほど見つめ合った。
「……え? 何で? 何で花を食べんの? 食えなくない?」
「食べられるよ。イメージ出来ないかな。ほら、ジャスミンティーとか、そういう感じだよ」
「ああ……うん? うん……、ああ、薔薇ってお茶に出来んの?」
「さぁ」
「さぁ、って。城島も薔薇のお茶飲んでんだろ?」
「薔薇のお茶は飲んだことないよ。いつもそのまま食べてるから」
「じゃあ何でジャスミンティーとか例に出したんだよ」
「いや、人間が花を自分の胃の中に入れる行為は別にそんなに珍しいことでもないってことを思い出して欲しくて」
「そうだっけ……?」
 なかなか思い出せないまま着替えを再開する。俺と違って巨大なクエスチョンマークを抱え込んでいない城島は、ジーンズにシャツというシンプルな私服姿にさっさと戻ってしまった。
「じゃあ、お疲れさま」
「いや待って」
 まさかここで帰すわけにはいかない。
 俺が引き留めると、ドアに手を掛けようとしていた城島は振り返って軽く首を傾げた。
「なに?」
「いやさ……、城島は何で薔薇食ってんの?」
「気になる?」
「気になるよ」
「何で?」
「いや気になるだろ普通。俺、生まれて初めて日常的に薔薇を食ってる奴と遭遇したよ」
「そうなんだ」
「そうなんだじゃなくて」
 中学のときの同級生で現同僚、学生時代はまともに会話をしたことすらなく、同じ職場で働くようになっても個人的に連絡を取り合う仲ではない、そんな関係でも気になるものは気になるのだ。
「実験だよ」
「実験? 何の?」
「体臭が薔薇の香りになるっていうサプリのこと知ってる?」
「何それ?」
 そんなのものがあるのか。城島から嫌な臭いがしたことは無かったと思うが、本人は密かに体臭を気にしていたのだろうか。
「そういうのがあるんだよ。実際の効果はともかく、飲むだけで体臭が薔薇の匂いになるっていうのが売り文句のサプリがさ」
「へぇ……?」
「サプリじゃなくて薔薇をそのまま食べても薔薇の香りはするのかなと思って、自分で人体実験してるんだ」
「……へぇー」
「じゃあ行くね」
「いや待って、頼む」
 二度も引き留めてしまってはさすがに心苦しさを覚えないでもなかった。しかし城島と次にシフトが被るのがいつか分からない状態で行かせるわけにはいかない。俺は本店の豆腐屋の息子で大抵いつも店にいるが、城島は普段近くの大学で研究をしていて、彼の叔母であり某アイドルグループの熱烈な追っかけでもある佐々木さんの代打でしか入らないのだ。
 城島はどうやら簡単には帰してもらえないことを悟ったらしく、更衣室兼事務所の狭い空間に一つきりの椅子へと腰を下ろし、肩に掛けていた鞄を机に置いた。俺はさっとシャツのボタンを閉めて城島に向き直った。
「効果は? ていうかいつからどれくらい食ってんの?」
「三週間前から毎日三本ずつ。効果は今のところ分からない」
「三週間前から毎日三本ずつ食べてて分からない?」
「うん。自分の体臭って結構分からないものだね。でも一か月は続けてみるつもり」
「へぇ…………城島、あのさ……」
「なに?」
「近くで嗅いで確かめてみてもいい? 薔薇の匂いがするかどうか」
「いいよ」
「まじ?」
「うん」
「実は『体臭が薔薇の香りになる』って聞いた瞬間から、何とか嗅ぎ取ってみようと密かに奮闘してたんだけど」
「駄目だった?」
「そう、駄目だった。よし、じゃあ失礼して――」
 背を屈め、城島の頭に鼻を近付けた。こんなに近付いたのは初めてだな、と思いつつ薔薇らしい香りの微粒子を捕まえようとする。だが何度鼻を動かしてみても、城島の黒髪からはどこか嗅ぎ覚えのある普通のシャンプーの香りがするだけだった。華やかなフローラル系ではなく主張の少ないさっぱり系の香りだ。
「………うん………うーん?」
「する?」
「するような……しないような……頼む、ちょっと待って。もうちょっと嗅いでみるから」
「うん」
 耳に鼻を近付け、流れで首に鼻を近付けた。あまりにも薔薇らしい香りが嗅ぎ取れないので、そもそも薔薇はどんな香りがするものだっただろうと俺は自分の記憶の方を疑問に思い始めた。
 殆ど皮膚に触れる寸前くらいに近付けていた鼻を離して、俺は城島の顔を見た。
「……うーん……しない……ていうか城島汗かいてる?」
「かいてるね」
 事務所は別に暑くもなく寒くもない温度だったが、城島の顔には一目見て分かるほど汗が浮いていた。どう見ても肥満体系ではないし筋肉質というわけでもない城島が汗をかいているのは、俺から執拗に体臭を嗅がれて緊張したせいだろうか。
「お前が汗かいてるの初めて見た」
「そう?」
「普段は汗腺死んでんのかと思うくらい汗かかねーじゃん。何で?」
「ところで薔薇の香りはした?」
「いや……息、嗅いでもいい?」
「……いいよ」
 やや間があった。友人未満の人間に息の臭いを嗅がせてくれと言われたら、きっと俺も即答は出来ないだろう。
 嗅ぎやすいように小さく開けられた城島の口に鼻を近付けた。城島は普段の癖か数秒の間鼻呼吸をしていたが、思い出したように口からゆっくりと息を吐いた。
「…………城島、お前フリスク食ったろ」
「食べたね。忘れてた」
「フリスクの主張が激し過ぎて分かんねーよ」
「そっか」
 城島はにこりと笑う。体を張って実験しているのなら効果が出る方に期待していてもよさそうだが、全く残念そうではない。そしてまだ汗をかいている。
「あーーーー何かモヤモヤする」
「本田くんも食べてみる?」
「いや遠慮しとく。美味しかったら一回試すけど」
「美味しくはないね」
「だと思った。……あっ! サプリの方は? 効果あったわけ?」
「サプリ? 試してないよ」
「試してないのかよ。それでいきなり薔薇食ってんのかよ」
「うん」
「こんな変人が身近にいたとは……」
 城島はやや不本意そうに軽く唇を突き出し、小さく唸った。
「でも本田くんは……ティッシュを食べてるよね? 叔母さんが話してたよ」
 佐々木さんは話し好きだ。城島の趣味がプラモデル製作と一人登山でがんもどきが好物、父親の影響で80年代の洋楽をよく聴き、昔のロボットアニメのブルーレイBOXを複数所有していることを俺が佐々木さんに聞いて知っているように、城島の方も佐々木さんから俺の話を聞いているのだろう。
「そんないつも食ってるみたいな言い方すんなよ。ごくたまにしか食ってない」
「でも食べてるんだよね」
「ティッシュは食うだろ。ほんのり甘いし」
「薔薇とティッシュって多分、食べたことがある人とない人の比率を比べてみたら同じくらいだと思うよ」
「でもティッシュは皆結構食ってない?」
「僕は食べたことないな」
「まじ?」
「うん」
 少なくとも俺の尋ねた範囲では八割がたの人間が食べたことがあった。一年前まで付き合っていた元彼女は有り得ないと顔を顰めていたが。
「……けどさ、薔薇も食べないよな、普通」
「でも僕が食べてるのは食用の薔薇だよ。食用のものが売られてるってことは食べられるし食べる人がいるってことだよ。食用ティッシュは見たことないけど」
「…………確かに。確かに」
「薔薇、食べてみる?」
「うーん……」
「食べてみようよ」
 正直全く心が惹かれない。もし万が一俺の体から薔薇の体臭がするようになったらかなり困るし、そもそも花を食べたいと思わない。だが気になることは気になるのだ。それも物凄く。
 考えながら城島の顔を見つめているうちに、俺は別のことが気になりだした。
「……ていうか城島汗かき過ぎじゃね? 大丈夫? 熱ない?」
「大丈夫だよ。熱はない」
 額に手を触れた。城島が体を引いたので触れていたのは一瞬のことだった。熱いような気もするし、そうでもないような気もする微妙な温度だった。
「じゃあ気分悪い?」
「いや」
「でも汗やばいって。滴りそう」
「暑いから」
「いや暑くはないだろ」
「逆に本田くんの体感の方がおかしいって可能性もあるよ」
「ええ……?」
 そんなまさか。どう考えても城島の方に異変が起こっている。
「具合悪いなら送ってくけど」
「大丈夫、本当に何もない」
「本当に?」
「本当に。病気じゃない。今日一緒に働いてて何か変だと思った?」
「いや、普通だったけど……」
 俺は城島に顔を近付けた。心なしか顔も赤いような気がする。だが確かに勤務中はごく普通の様子だったのだ。よく見ていたからそれは分かる。城島が汗をかき始めたことに俺が気付いたのは――そう、薔薇の話をし始めてからだ。
「……あっ! まさか最初から俺の事からかってたとか!? 何かのドッキリ!? それで汗かいた?」
「いや、本当に毎日薔薇を食べてるしドッキリでもないよ」
「……本当に?」
「本当に」
「神に誓って?」
「無神論者だよ僕」
「えっ……ああ、じゃあ……城島は何が一番好き?」
 城島はじっと俺を見つめ、少し黙ってから、
「君」
 そう答えた。
「……黄味? 卵の?」
 城島は首を横に振る。
「人間の本田くんが好きだね」
「え、俺? ……俺?」
「うん」
「……じゃあ俺に誓って本当に薔薇食ってる?」
「本田くんに誓って本当に毎日薔薇を食べてるよ」
「…………」
「…………」
「え? まじで俺のこと好き?」
「うん」
 『人間の本田くんが好きだね』『本田くんが好きだね』『本田くんが好き』『好き』『好き』『好き』頭の中が城島の言葉でいっぱいになる。好き? 城島が俺を? 好きってなんだ? やっぱりドッキリなのか? 俺は辺りを見回し、ドアの先に人影がないことも確認してから城島に向き直った。
「……恋愛対象って意味で? それとも別の?」
「ううん」
「え、どっちだ」
「別のじゃなく恋愛対象って意味の好き。僕は本田くんのことが好き」
「そっか……」
「うん」
 沈黙。俺まで汗をかき始めた。
「あのさ、質問してもいい?」
「答えるかどうかは別だけど、質問するのはいいよ」
「……何で俺?」
「気付いたら好きになってた」
「中学のときから?」
「いや、ここで働き始めてから」
「ふーん……そっか……」
「うん」
 何だか妙な雰囲気だ。小さな部屋で二人きり。室温は高くないのに二人とも汗をかいている。
「え、ええっと……そうだ、薔薇の話は? ていうか何でこんな話になったんだっけ? 薔薇の話は結局本当?」
「さっき誓ったよ、本当だって。薔薇を買いに行くって話をしたのは……本田くんと話をするきっかけを作りたくて」
「作りたくて……薔薇を食べ始めた?」
「うん」
「俺の為に?」
「いや、あわよくば本田くんが僕に興味を持ってくれたらいいなっていう下心から」
「薔薇を食べ始めた」
「うん」
「何で薔薇を?」
「友達が薔薇のサプリを飲んでるのを見て思いついた」
「そして実際俺は食いついた」
「だって本田くんって、意味深なこととか変なことを言われると気になって仕方ないタイプだから。そしてパズルの答えが分からないと眠れないタイプ。絶対に自分で解かなきゃ満足出来ないってわけじゃないけど、人に聞いてでも答えは絶対知りたい」
「確かに……その通り」
「そして間違いなくこれで本田くんと僕の会話はこれまでの最長記録を更新したから、僕の目的は一応達成されたことになる」
「じゃあこれで終わり?」
「終わり。帰ってもいいかな?」
「駄目」
「何で?」
「城島の顔、真っ赤だから」
「そう?」
「そう。耳まで真っ赤」
 冷静な口調とは裏腹に、城島の顔は本当に熱でも出ているのかと思うくらい真っ赤で、汗は五分前の二倍くらいの勢いで流れていた。
「大丈夫じゃないだろ?」
「うん、まぁ……正直気絶しそうだよ」
 城島は笑いながら言う。目は潤んでいて、太腿の上で組んだ手の指は忙しなく反対の指を交互に撫で続けている。
「……あのさぁ」
「うん?」
「城島って変な奴だな」
「本田くんがそう言うならそうなのかも。いや、そうだね。こんな馬鹿みたいな気の引き方を考えて実行に移したのは生まれて初めてだよ。本当に恥ずかしい」
「でも何か」
「……でも何か?」
「俺と話したくて薔薇を食べ始める意味の分からなさが何かさ」
「何か……なに?」
 はっきり言ってくれ、と目で訴えかけられているようだった。
「何か……ちょっとすげー可愛い」
「……『ちょっと』なのか『すげー』なのか分からない」
「とにかく可愛い。正直グッときた」
「…………」
「気絶するなよ」
「……してないよ」
「……なぁ。多分城島の家より俺の家の方がここから近いけど……うちで休んでく?」
「いや、いい」
「いや休んでいけよ。このまま外を歩き回ったら気絶するって」
「いいって。大丈夫だから」
 俺は城島の手を取った。俺の手も城島の手も汗で湿っていた。
「気遣うなよ。実家じゃなくて一人暮らしだから」
「知ってる」
「おやつ出すしさ」
「おやつ?」
「薄くて軽くて柔らかくて白くてほんのり甘いやつ」
「…………」
「昨日特売で買ったばかりだから新鮮なやつ」
 城島は涙目のまま軽く噴き出して笑い、俺も何だか面白くなって笑った。ひとしきり二人で笑った後、俺は城島の手を引いてゆっくりと立ち上がらせた。
「俺の家行く?」
「行く」
「よかった」
「……あのさ、貰うだけじゃ申し訳ないから、僕もおやつを買って持って行くよ。いつものところで。どうせ帰り道に寄る予定だったから」
「それは……いや、待て。ちょっと待て。俺は絶対食べないからな」
「いや、食べるよ。本田くんは絶対食べるね。ここまで来たら絶対食べる。賭けてもいいよ」
 そう言ってにやりと笑った城島の顔は赤みがやや落ち着き始めていたが、その頬はきっと薔薇色と表現するのに相応しい色に染まったままで、俺に賭けは間違いなく自分の負けだと確信させるのだった。
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