来年のバレンタインデーはよろしく

「このたびはご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした。今後も私が誠心誠意をもってご対応させて頂きます。はいっ、何卒お引き立てのほどよろしくお願い致します。はい、勿論です、ありがとうございます、よろしくお願い致します」
 樋崎の横で男が頭を下げ、そして顔を上げる。二人の男の前、いかにも高級そうな作りの椅子に腰かけた年配の女性は――ほんの二十分前までは悪鬼のように怒り狂っていたのだが――今では孫息子を相手にするような目で二人を――主に樋崎の隣に立つ男の方を見ていた。
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
 優しく見送りの言葉を掛けられ、樋崎の横に立っているその男――奈津男は、血の繋がった祖母相手でもきっとそこまでは、と思うほどに親しみと愛情と尊敬の念がこもった目で彼女を見つめ、また頭を下げた。樋崎も同じように頭を下げ、奈津男と一緒に彼女の家を出て行き、彼女に見送られながら車を出した。
 バックミラー越しに彼女はいつまでも手を振っていて、樋崎の隣に座る男も彼女の姿が見えなくなるまでその顔に笑顔を浮かべていた。



「それで、樋崎さんは何にしたんですか」
 抑揚の殆どない、無愛想な声。その声の主――奈津男を、樋崎はちらりと見やる。声音と合致する無表情。数分前までそこにあった筈の素晴らしい笑顔は影も形もない。
 樋崎は信号が赤から青に変わるまでの三秒を使って解読を試みたが、ここ数日の長距離移動と顧客対応に疲れた頭には、少しばかり難易度の高い問題だった。
「奈津男、主語は?」
「『彼女さんへのホワイトデーのお返しは』。何日か前、ホワイトデーだったでしょう」
 奈津男――生まれるまで女の子だと思っていた両親から、元々用意されていた名前に『男』の一文字を足されたのだというエピソードを持つ、樋崎の後輩であり最近部下にもなったこの男は、およそ営業向きではない内向的で厭世的な性質でいながら、富裕層向けの高級家具の販売という単価のかなり高い営業で、不思議なことに社で常に二位か三位あたりの成績をキープしている。
 頭が良く、スタイルもなかなかに良く、顔もそれなりに整ってはいるものの、普段はお世辞の一つ、笑顔の一つも見せない。清潔感はあるが活力はなく、内気ではないが言動にも表情にも人を寄せ付けようという意思は見当たらず、どう考えても営業向きではない。社長の甥である事から、何か裏があるのではと入社三か月目までは同僚たちに疑われていたが、半年ほど経つ頃には、彼がひとたび顧客を前にすれば、別人格としか思えないほどの変貌を見せる男だと――驚くほど人当たりのいい、爽やかで心優しい好青年の顔を見せる男だと皆理解していた。
 樋崎は奈津男の教育係だったので、身内の社長以外知らなかった彼の才能に真っ先に気付いた。変貌ぶりがあまりに面白く、樋崎は奈津男が独り立ちした後も何かにつけ奈津男に構った結果、社内で彼の唯一の同僚兼友人、という関係に発展した。
 ――のだが、実は休日に呼び出して会うほど踏み込んだ事は一度もなかった。そうしようと思った事はあっても、奈津男ならプライベートと仕事は分けたいとバッサリ切り捨てかねなかったし、樋崎は実際他の人間がそうやって誘いを断られた場面を目にした事がある。仕事のある日に二人で食事をするくらいには親しく、わざわざ休みの日に顔を合わせるほどは親しくはない、そういう関係だ。
 だから樋崎は奈津男の全てを知っているわけではなかったし、樋崎も奈津男に自分の全てを知られているわけでもなかった。
「そもそも――バレンタインに貰ってない」
「何で」
 少しばかり構い過ぎたせいか、普段は年下相手でも敬語を使う奈津男も、樋崎相手には大分崩れた言葉を使うようになった。喋ってくれるだけ心を許しているのだと周りは言う。樋崎以外の仕事仲間にも業務内の会話は普通にするが、今でも殆ど世間話の類はしない。あまりに取り付く島がない為に、飲み会の連絡すら樋崎経由で行われるくらいで――それは元教育係としてはあまりよろしい状態ではなかったが、懐かない猫が自分だけに心を開いているのだ、と思うと気分は良かった。
「さぁ、別に義務じゃないし、あげる気分じゃなかったんだろ」
「樋崎さんはいいんですかそれで」
「良くないよ、俺めちゃくちゃチョコ好きだし」
「欲しいって言わなかったんですか」
「わざわざ言わねぇよ」
「冷め気味ですか」
「冷め気味って言うか、先々週別れた」
「はっ……?」
 本気で驚いた声だったので、逆に樋崎の方が驚いてしまった。この冷めた人嫌いの男が、仕事とは全く無関係な話題――それも恋愛関係について、関心らしい関心を向けていたとは思わなかったのだ。恋愛話をする事はあってもそれは樋崎が一方的に話すだけで、奈津男はいつも相槌を打つか無言で聞いているだけだった。
「そんな驚くか? 三十三だからな、潮時だったんだよ。結婚するタイミングも逃したし、ここら辺でやめとくかってさ」
「でも、五年付き合ってたんですよね」
 奈津男が新卒で社に入った三年前には、既に別れる寸前と同じような空気が漂っていた。冷めきっていて惰性で付き合っていた、というわけではないが、お互いに何かが足りなかった。その隙間を埋める為か樋崎は何度か浮気をしたし、向こうも同じくらい別の男と寝ていた。
「五年か、言われてみると長いな」
「長いですよ」
「奈津男とは三年だよな。あと二年経ってもお前の二重人格振りには飽きそうにないんだけど。今日も凄かったよな、あの頭のおかしいヒステリックババァをあの短時間であそこまで懐柔するなんて……俺いらないレベルのメロメロ振りでビビったわ。途中からお前本当に孫だったかな? と思ったもん。今度から俺いらないだろ?」
「仕事をさぼろうとしないでください。あと俺はその弄りに飽きました。しつこいですよ」
 樋崎はにやりと笑った。奈津男に嫌がられると、もっと構いたくなる。今日は珍しく奈津男の方から話を振ってきたのだ。少し踏み込んでも奈津男の自業自得なのだし、許されるだろう。
「チョコと言えば、お前、詩織ちゃんにも貰ってただろ。内緒に個別で」
「……覗きですか」
 冷たい目で睨まれる。
「たまたま通りがかったの。な~んで詩織ちゃんは個別チョコ禁止令を破ってまで、愛想もクソもない上に甘いもん苦手な男にやるかな。俺にくれればいいのに」
「貰ってたじゃないですか、社長に」
 確かに貰った。それもなかなか高級感のあるチョコレートだった。しかし、
「社員全員にな。そういうのじゃなくてさぁ」
「あげる方もお返しをする方も面倒だから、って禁止になったんじゃないですか。実際面倒ですよ」
 二人の勤める会社では数年前、就業規則のように強制力のあるものではないものの社長直々のお達しがあって以来、社内で義理チョコとお返しのやり取りはほぼ無くなった。完全に無くなったら無くなったで寂しいだろう、と宝塚のスターのように凛々しく美しい社長から社員全員に――派遣社員を含む男女全員に――渡されるチョコのお返しは仕事の成果でと言われている。毎年の厄介な行事を面倒がっていた層はもちろん、それなりに楽しんでいた層にも好評の決め事だった。
「面倒になる程ここ数年貰ってねーなぁ……」
「彼女持ちだったからでしょ」
「彼女出来る前もだよ。学生時代の方がモテてた」
「ふーん……」
「うわっ、興味なさそう。つーか信じてないだろ」
「そんな事言ってませんけど」
 実際、樋崎はそれなりにモテる方だった。背が高く、それなりに筋肉もあるが圧迫感を抱かせない程度に締まった体つき。顔立ちも声も態度もいかにも爽やかなスポーツマンで、自信に満ち溢れた若者だった。今は――どうだろうか? 今もそう悪くはない方だ、と樋崎は思う。あの時よりは輝いてはいないだろうが。
「……樋崎さんは、詩織さんみたいな人が好みなんですか」
「ん? ……んー、すげぇ可愛いと思うけど」
「けど?」
「好みって言われたら違う」
「へぇ、そうなんですね……」
 下の名前で呼ぶのは相手に対する好意からではなく、同じ部署に彼女と同じ田中姓の人間が二人いるからに過ぎない。顔も性格も可愛らしい事務の女子社員の事は好ましく思っていたが、特別な好意ではない。
「あと俺は純粋にチョコが欲しかった。詩織ちゃんがお前に渡してたチョコ、あれはマジで美味いやつだから。お前あれどうした?」
「姉貴にあげました。樋崎さんにあげれば良かったですね」
「嫌味か? お前の貰ったチョコの横流しなんかいらねえよ。いるけど」
「どっちですか」
「まぁいる。貰えるもんなら貰う。次から寄越せ。俺に横流ししてるってのは誰にも言わないから」
「はぁ、いいですけど。でも樋崎さんも来年からはもらえるんじゃないですか? フリーになったんだし」
「その時までフリーかは分からないだろ」
 奈津男はへぇ、と抑揚のない声で呟いた。
「自信あるんですね」
「自信っていうか、俺わりと寂しがり屋だから一人は無理、耐えられねー」
「そうですか」
「そうだよ。でもお前は違うんだろうな」
 この数年、奈津男に恋人の影は無かった。教育期間中に他県に出たとき、偶然入った店でシェフとして働いていた元恋人と出くわした事はあったが――本人曰く、大学に入学するまで長いこと付き合っていた幼馴染の彼女の後は何もない、との事だった。コックコート姿で化粧っ気も無い状態ですら恐ろしく美人だった彼女を忘れられないのかと思えば、単に今は特に恋人が欲しくないからだという。実際、奈津男はいつも一人で文句も問題もないように見えた。
「寂しいからって恋人を作っても、本当に好きってわけじゃない人と一緒にいるのって、それはそれで寂しいんじゃないですか?」
 ぐさりと胸に突き刺さるような言葉だった。樋崎は少しばかりショックを受け、そして自分がショックを受けた事に傷付いた。
「……まぁ、そうかも」
 樋崎はハンドルを切りながら肯定する。ふっと一瞬胸に冷たい風が吹き込むような感覚が寂しさなら、彼女と別れる前から時折感じていた。もしかしたら彼女もそうだったのかもしれない。お互いに、お互いがこの先もずっと傍にいる人間ではないと気付いていた。一緒にいたのは、ただそれまで一緒にいたからで、それ以上の意味はないと知っていた。
 樋崎はふと、自分は寂しさを奈津男で誤魔化していたのかもしれない、と思った。奈津男が傍にいる時に寂しいと感じた事はない――それはきっと奈津男が、一人でいる事に何の苦痛も感じない男だからだろう。樋崎はそう結論づけた。
「誰かを猛烈に好きになれればいいんだけどな。この年でそういうのは、もう無いんだろうな」
 奈津男は相槌も打たず、やや疲れの滲んだ顔でフロントガラスの先を見ていた。仕入れ先のトラブルの影響で、ここ数日、県内県外各地の顧客に謝罪回りをしていたおかげで、いつもは凛とした目元が頼りない。回ったうちの半分は元々奈津男の担当ではなかったのだが、横領を働いて解雇になった社員の分を、トラブルの二週間前に奈津男なら問題ないだろうと引き継いだばかりだった。ワケアリ社員からその場しのぎの嘘やいい加減な説明を受けていた顧客に、今回のトラブルだ。通常の業務とは違いクレームに発展しかねない事態であった為、一か月前にマネージャーに昇格した樋崎と奈津男の二人で回ったが、元々外交的で経験も積んでいる樋崎と違い、猫を何匹も被る奈津男の消耗は激しかった。
 奈津男に無理をさせてまで会話を続ける気はなかったので、樋崎は黙って車を走らせた。無言のまま事務所のあるビルの駐車場に辿り着くと、二人は車を降りた。
 陽が落ちて数時間経ち、社内に残っていたのは古株の事務員一人で、彼もちょうど出るところだった。
「遅くまでお疲れさんだね。君らもさっさと帰りなさいよ」
「報告書を上げたら帰ります」
 それほど時間が掛かるものでもなく、通常は翌日までに提出が出来れば問題ない類のものだが、明日は二人とも休みだった。一度フロアを出て行った事務員はコーヒーと菓子パンをそれぞれ一セットずつ置いて行き、今度は本当に帰っていった。二人は差し入れを有り難く口にしながらパソコンに向かった。
「この後、飯行くか? 久し振りに」
 斜め向かいのデスクに声を掛ける。奈津男は手を動かしながら答えた。
「パン食べてるじゃないですか」
「これはおやつだろ。夕食じゃない」
「そうですかね」
 奈津男が本当に不思議そうに言うので、樋崎は奈津男の普段の食生活にいくらか不安を覚えた。性格から偏食そうだと思ってたが、どうやら実際そうらしい。
「奈津男、お前昨日の夕飯は何食った?」
「特に何も」
「何も!? 嘘だろ、ふざけんなよ。もっとカロリー摂取しろ、そのうち倒れるぞ」
「日中はちょくちょく摂取してますよ。夕飯食うと寝付き悪くなるんで、あんまり食べないだけです」
「あ? …………」
 樋崎は教育期間中、奈津男を週に三回は夕食に誘った。奈津男が独り立ちしてからは月に一度か二度。奈津男は大抵頷いたし、成人男性の平均量くらいは食べていた。あれは無理をしていたのだろうか、今は遠回しに断られたのだろうかと少しショックを受けながら考えていると、
「それで、今日はどこに行くんですか?」
 奈津男は平然とした顔でそんな事を尋ねてくる。
「行かないんだろ?」
「行きますよ」
「おい、何だったんだ今の流れは」
「樋崎さんと飯食いに行った日はどうせ夜更かしするんで、さっきの話は別に関係ないです」
「夜更かし? 何で」
「別に意味は無いですけど」
「あるだろ」
「無いです」
 毎回そうなるのなら無いわけはないだろうに、奈津男はそう言い張った。
「……まぁいいや。どこ行きたい?」
 と樋崎が尋ねると、奈津男は黙った。無視しているのかと思うくらいの沈黙だが、実際はそうでは無い事を樋崎は経験から理解していた。暫くキーボードを叩く音だけが響き、残った仕事の三分の二が片付いた頃、奈津男は唐突とも思えるタイミングで答えを口にした。
「うち来ます?」
「ん?」
 樋崎は空耳かと思い、聞き返した。
「…………」
 沈黙。樋崎は奈津男の顔を見たが、ポーカーフェイスからは何も読み取れなかった。本当に空耳かもしれないが、このまま流すには勿体ない申し出だった。
「お前の家、行っていいの?」
「樋崎さんがいいなら」
「いや、俺はいいけど、お前はそういうの嫌がるタイプかと思ってた」
 仕事帰りに店で食事をした後、その流れで家に連れ込んで飲んだ事はあるが、奈津男の家を尋ねた事は無かった。いかにも嫌がりそうだし、実際一度『片付けてないから』と断られた事もある。
「大勢で上がり込まれたりとかは嫌ですけど」
「一人ならいいって?」
「相手にもよります」
「俺はいいんだ」
「いいって言ったからって、散らかさないで下さいよ」
「ガキじゃねーんだから心配しなくても……」
「脱いだら脱ぎっぱなし、食べたら食べっぱなしで片付けないタイプでしょ、樋崎さん」
「その癖は矯正したぞ」
「本当ですか」
「お前の分まで片付けてやる」
「それはいいです。終わりました?」
「んー、あとちょっと。報告書は終わったから誤字チェックしといてくれる?」
「嫌です」
 すげなく断られる。奈津男以外なら苛つくところだが、奈津男相手だと不思議に腹は立たなかった。
「夕飯はお前が好きなもん何でも買ってやるから」
「その条件じゃ嫌です」
「あぁ? 分かった、後でチューしてやる」
「…………」
 報告書のファイルが入ったUSBを差し出しながら顔を見ると、滅多に表情を崩さない奈津男が眉間に皺を寄せていた。よほど樋崎の冗談が気に入らなかったらしい。だが奈津男は溜め息を吐きながらもUSBを受け取り、自身のパソコンに差した。
「サンキュ」
「高くつきますよ」
「分かった分かった。払う払う」
 残っていた仕事をさっさと片付けてしまおうとしているのは、残した仕事を頭の片隅に置いて奈津男の家に上がりたくないがためだった。次に彼の気が向くのは何か月後か、何年後か分からない。樋崎は手と脳を動かしながら、ふと気になった事を口にした。
「そういえば奈津男、詩織ちゃんにお返しは何かやったのか?」
「昨日、コーヒーとクッキーを買って渡しました」
「どんな感じで?」
「ありがとう、これ良かったら、って」
「それだけ?」
「それだけです」
「何か始まったりは?」
「しないです」
「昨日どころかとっくに始まってたり?」
「しないです」
「食事くらいは……」
「断りました」
 誘われたらしい。
「向こうはわりと本気だったってことか」
「向こうはそうでも、俺は社内の女子と恋愛とか面倒ですよ。受け取ったのはそうしない方が面倒臭そうだったからだし」
「ふーん……。でもお前、社内どころか恋愛そのものを面倒がってるイメージ。誰かといるより一人で好きな事して過ごす方が好きだろ」
 そうですね――と返ってくる事を全く疑わずに樋崎は言う。問い掛けではなく単なる確認だった。
 だが返ってきたのは予想通りどころか、全く正反対の答えだった。
「……いえ。本当に好きな人だったら、一緒にいられる限り一緒にいたいです。修正終わったんで、報告用フォルダにアップしておきます。USBの方は削除でいいですか」
「あ? ああ……うん。サンキュ」
 樋崎は動揺の滲んだ声で礼を言い、編集が終わったばかりのファイルを閉じようとした。保存を忘れていたせいで警告のポップアップが表示される。慌てて保存しようとして閉じてしまった。
「おわっ……」
 幸い、自動保存のバックアップファイルが残っていた。冷汗をかきながら確定保存し、自動保存後に入力していた分を少し書き加えて、もう一度しっかりと保存してからマシンの電源を落とした。ほっと溜息を吐く。
「奈津男がキャラじゃねー事言うから全部無に帰すところだったわ……」
「人のせいにしないでください」
「いや、ビビらせたお前が悪い」
「何でビビるんですか」
「何でって、……つか、いられる限りって、イコールお前の気が向いたときにってわけじゃなくて?」
「じゃなくて、物理的にです」
「物理的に……ベタベタすんのも好き、とか?」
「したいとは思います」
「嘘だろ……」
「キャラじゃないですか?」
「うん。本気で言ってるなら、俺、お前の事あんまり理解してなかったかも」
「そうみたいですね」
 奈津男は身支度を整え、立ち上がった。さっさと行こうと促すように樋崎を見る。樋崎は殆ど放心状態で奈津男を見上げた。
 ――さらりとした、長くも短くもない黒髪。近くで見れば驚くほど濃く長い睫毛に縁どられた、感情が見えにくい目。すっと冷たく通った鼻筋。客を前にした時だけ人懐っこそうな笑みの形になる唇。触ればひんやりとしていそうな、温かみのない細身の体。取っつきにくく、どれだけ一緒に過ごしても理解しがたい所のあるこの男。平気で先輩や上司、同僚たちの誘いを断る男。
 きっと本質的に、人と付き合う事に楽しみを見出せない人間なのだと思っていた。一人でいる事で充足する人種なのだと。それが――好きな人となら一緒にいられる限りいたいと言う。触れ合う事も厭うどころか望んでさえいる。
 樋崎は自身の中で何か奇妙な感覚が生まれ、湧き出すのを感じた。すぐに溢れ出して樋崎自身を呑み込もうとするその感覚、初めて奈津男と営業に出た日に覚えた感覚と似てはいるが、より圧倒的で激しいこの感覚は――。
「行かないんですか?」
 そう問い掛けられ、樋崎はハッと我に返った。
「あっ、いや……行く。今すぐ行く」
「俺電車ですけど、どうしますか」
 二人が先程まで使っていたのは社用車だ。樋崎は駐車場に自身の車を置いている。
「どうしますかって、乗って行けよ」
「うち駐車場ないですよ」
「近くにコインパーキングは?」
「それはあります」
「じゃあそこに停める」
 そうですか、と奈津男は言って出退勤カードを押し、冷暖房の調整盤のある出入り口近くの壁に近付いて電源を切った。そして横の照明スイッチに手を伸ばし、樋崎の方を振り返った。樋崎は荷物を持って席を立った。
 奈津男は何故か、樋崎が傍に辿り着いてもスイッチに指を置いたままで、押そうとはせずにじっと樋崎の顔を見ていた。
「……なに?」
 妙に胸が騒いで、落ち着かない。樋崎はドアに手を置いて尋ねた。
「対価は?」
「タイカ?」
「しないんですか」
「しないって、何を……」
「…………」
 その瞬間、樋崎はがつんと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「ああ……? まさか、キス?」
「買い物です」
 間髪入れずに奈津男は答え、照明を切った。そのままドアノブに手を掛けようとする手を、樋崎は廊下から漏れ入る光を頼りに掴んだ。
「ちょっと待て」
「帰らないんですか」
「待てって言ってるだろ」
 樋崎は奈津男の手を掴んだまま、もう片方の手で照明のスイッチを入れた。奈津男はさっと目を逸らした。
「奈津男」
「何ですか」
「こっち見ろ」
「嫌です」
「見ろって」
「嫌だって言ってる」
「お前、何か……、お前さ……」
「何ですか」
 営業以外では普通はちょっとした世間話すらしようとしない、人付き合いの悪い奈津男の例外。本当に好きな人だったら一緒にいられる限り一緒にいたいと言う奈津男が、恋人どころか友人もろくに作らない奈津男が、きっと一番共に時間を過ごしている相手――それは。
「俺……の事、好きだろ?」
「好きですよ、何だかんだ頼れる先輩上司ですから」
「そういう意味じゃない」
「じゃなかったらなんですか」
「何って……」
 それは、と口にしようとして、樋崎は急に自分の直感に自信を無くした。奈津男が自分にキスをねだったのだと気付いた時、恐ろしいまでの衝撃と共に、彼の好意が自分に向けられているのだと思い込んだ。だが――今は、とんでもない勘違いのような気もする。
 根拠として言えるのは、ただ奈津男が樋崎以外の食事の誘いには殆ど乗らない事、それに他の――客以外の人間を相手にする時にはもっと口数が少ないという事。そして、キスをねだるような言葉を口にした事。それくらいだ。
「分かんねーけど……」
「好きですよ」
 奈津男はそう言って、ゆっくりと樋崎に顔を向けた。彼のその目は挑むように樋崎の目をまっすぐに見たが、その瞳には少しだけ――怯えが見えた。
 何に怯えているのだろう。樋崎は戸惑いを覚え、そして彼の恐怖の正体に気付いた。
 樋崎は奈津男を掴んでいた手を放し、それからその手を奈津男の後ろに回して、そっと抱き寄せた。緊張した体――樋崎を強く意識している体。
「なん、ですか?」
「うん……? 何だろうな……」
 樋崎が肩がけのバッグを床に置き、何となく背中をあやすようにぽんぽんと叩き始めると、奈津男はびくりと体を更に硬くしたが、暫く続けている内にふっと力を抜いた。どこか諦めたような溜め息が一つ聞こえた。奈津男は樋崎の肩に顔を埋め、ぎこちなく抱き返してきた。
「……キスは……無いんですか」
「……して欲しいの?」
「上から言うのやめてください」
 奈津男は急に機嫌を悪くした猫のように樋崎の体を押し、その腕の中から逃れようとした。樋崎は反射的に奈津男に手を伸ばし、ぐっと引き寄せて抱き締めた。
「……っ、樋崎さ……」
「逃げるなよ」
「嫌です」
「嫌じゃないだろ」
「離してください」
「逃げないって約束するなら」
「…………、分かりましたから」
 樋崎は抱き締める腕から力を抜き、そっと下ろし――奈津男の手から鞄を奪い取った。抗議の声が上がる前にそれを自身の鞄の上に投げ捨て、先手を取られて固まった奈津男の頬に手を添えた。滑らかな、ひんやりとした頬。逃げる間を与えず、そして何も考えずに、唇を重ねた。奈津男は目を開いたままだった。
 唇を離し、至近距離で見つめ合う。頬に触れていた手をゆっくりと下げ、首に触れると、どくどくと激しく血が巡る音が指先から伝わってきた。樋崎を見つめる瞳は潤み、涙が光を受けて輝いている。いつも冷たげな頬は熱でも出したように上気していく。
 ――恋をするとき……好きな男に見つめられるとき、この男はこんな顔をするのだと、樋崎は思った。
 初めて目にするその顔は、樋崎の中にあった戸惑いや躊躇いを吹き飛ばし、生まれたばかりの感情を――奈津男に対して抱いた感情の正体を、鮮やかに浮かび上がらせた。
「すげぇ可愛い」
「は……」
「俺の事好きなの?」
「…………」
「本当に、マジで可愛い。どうしてそんなに可愛いんだよ? 何となく可愛いとは思ってたけど、まさか……ここまで可愛いってのは……」
 樋崎は堪らなくなって、見るからに戸惑っている奈津男にもう一度口付けた。それから離して……もう一度。
「樋崎、さん」
 逃れようとする奈津男をまた抱き締める。力を入れ過ぎて、奈津男が呻く。
「樋崎さんって……!」
「ああ、ごめん」
 力を抜いて、またキスをする。奈津男は顔を背けた。
「俺っ、嫌ですよ、好きでも、寂しいからって理由でこんな事されるの……」
「ああ? いや、違う、好きになったから。可愛いって言っただろ」
「何ですか……それ。分かりません。詩織さんの事も可愛いって言ってたじゃないですか」
「でも好みじゃないって言っただろ」
「俺も好みじゃないでしょう」
「好みって気付いた。俺は奈津男みたいな面白くて猫みたいに可愛い人間の事が……」
「何も気付いてないです」
「いや気付いたから。お前が物凄く可愛い事に気付いて、好きになったんだよ」
「好きじゃないですよ」
「好きだって」
「好きじゃないです」
「好きだから」
「勘違いじゃないんですか。明日休みでハイになってるだけですよ」
「次の日が休みだからって人を好きにはならないだろ」
「明日になってみないと分かりません」
「ああ?」
「俺は今までのままで結構満足してたんです。勘違いで無駄に喜びたくないですから」
「勘違いって」
「俺は今までの人生で格好いいとは幾度となく言われてきましたけど、可愛いなんて一度も言われた事がありません」
「だから?」
「なので、可愛いって言うのは樋崎さんの勘違いの可能性が高いですし、そうなると好きっていうのも勘違いだと思います」
「いや、可愛いって確かに思ったし今も思ってるし、勘違いではないだろ」
「俺は勘違いだと確かに思ってます」
「お、お前なぁ……」
 あまりに頑ななので、樋崎はがくりと肩を落として奈津男を離した。奈津男はすぐに鞄を拾い上げ、髪と衣服の乱れをさっと整えると、何事も無かったかのような顔をしてドアを開けて廊下に出た。樋崎も荷物を拾い、奈津男に続いて廊下に出る。エレベーターの前で隣に並んだ。
「……分かった」
「何が?」
 尋ねたのは奈津男だ。紅潮していた頬からは赤みが引き、いつもの冷たげな質感に戻っていた。
「今日お前の家に泊まって、明日の朝起きて一番にまた好きだって言ってやるから」
「そうですか」
「信じてないだろ」
「はい」
「……エレベーター遅いな」
「一番下から上がってきてますからね」
 初めて柔らかな唇と、唇に触れる吐息、そして腕に抱いた体の感触。あれは本当に現実で体験した事だったのだろうか。そう不安になるほど、奈津男の態度はがらりと変わってしまった。
「……俺もお前が俺を好きだって言ったのは夢か幻に思えてきた」
「そうなんですか」
「でも今日は絶対お前の家に行くし、泊まるからな」
「着替えはどうするんです?」
「車に置いてる。歯ブラシもある」
「準備いいですね」
「出来る男だからな」
 返事はない。ちょうど到着し、開いたエレベーターに二人は乗り込んだ。
「……なぁ、何で俺の事好きになったの」
「別に」
「別にって何だよ」
「理由なんてないですよ」
「何となく?」
「知りません。分からないんです。でも好きで……凄く好きなんです。……このエレベーターって監視カメラ付いてないですよね」
「え? ああ、ついてないけ、ど……!」
 言い終わる前に、奈津男は樋崎に襲い掛かった――いや、正しくは抱き着いたのだが、色っぽさや可愛らしさを感じるにはあまりに唐突な動きだった。
「な……なんだ、びっくりしただろ」
 と言いつつ、樋崎は奈津男を抱き返した。心臓が跳ねる音が聞こえそうな程に密着して、樋崎の肩に顔を埋めた奈津男の薄い汗の匂いと、爽やかなヘアフレグランスの香りが樋崎の鼻腔を刺激する。
「……甘えていいですか」
 くぐもった声。エレベーターはゆっくりと降りていく。七階……六階……まだドアは開かない。
「……いいよ?」
「じゃあ、キスしてください」
「分かった」
 しかし、奈津男は顔を上げると自ら唇を重ねてきた。五階……四階……樋崎は奈津男の後頭部に手をやり、口付けを深くする。三階でドアが開く気配がして二人は体を離した。ドアの先には段ボールが載った大きなカートがあり、その向こうには困った顔の男が立っている。スペースが足りないのは一目で分かった。男は「いいですよ」と軽く手を上げ、樋崎は平静を装いつつボタンを押してドアを閉めた。また二人きりになる。樋崎は自身の左手に奈津男の右手が触れるのを感じた。奈津男はするりと指を絡めてきた。三階から二階に下りていく……もうすぐ一階。
「信じないんじゃなかったのか?」
「信じてないです」
「なら何で?」
「どうせ今日だけの事なら、後悔しないようにしようと思って」
「どうするんの?」
「樋崎さんが俺の事を好きだと思ってるうちに、したい事をしておくんです」
「奈津男、お前……俺に甘えたかったの?」
「……うん」
 小さく答える声に、胸がいっぱいになる。犬のようにくしゃくしゃと撫で回して、顔中にキスを降らせたくなる衝動に駆られる。
 一階……樋崎の手から奈津男の手が離れる。開いたドアの先には誰も立っていなかった。樋崎は奈津男の手を掴み、走り出した。
「あっ……?」
 戸惑う奈津男の手を引いて、夜間の出入り口になる裏口へと走っていく。警備室の前のドアをカードキーで開け、通行人がいないことを確認して、手を繋いだまま駐車場まで走った。夜も遅く、人気のない駐車場で急ぐ二人に目を留める者はいない。
 リモコンで開錠した車の後部座席に奈津男を押し込んで、樋崎も同じドアから中に入る。引き寄せてキスをして、元々完全にフラットな状態にしてある後部座席の背もたれに、頭を打たないように支えながら奈津男の体を倒し、樋崎はその上になった。男二人が横になるには狭いスペースでそうなるには、二人とも足を曲げているしかなかった。
 樋崎は車内のライトに照らされた奈津男の顔を見下ろし、その顔の横に両手を突いた。奈津男は黙って樋崎を見つめている。微かに息が荒いのは走ったせいだろうか。潤んだ目は樋崎だけを映している。その目に怯えは見えなかった。樋崎は親指で頬を撫で、キスをした。奈津男は樋崎の背中に手を回し、与えられる口付けを受け止めた。
 確かに少しハイになっているのかもしれない――樋崎は頭の隅で思う。好きだと気付いたばかりの相手を会社の駐車場でこうやって押し倒して、こんなキスをするなんて正気じゃない。そう思いながら無意識に奈津男のシャツのボタンを外し、アンダーシャツの下に手を忍び込ませて素肌を撫で、奈津男の唇の隙間に舌を差し込んで――樋崎はようやく思い留まった。
「悪い、我慢できなかった……」
 体を離そうとする樋崎の腕に、奈津男が縋り付く。その手はスーツ越しにも伝わってくるほど熱い。樋崎は眩暈を覚えた。
「樋崎さん……俺、もっと……もっとしたい」
「するにしても、ここじゃ……駄目だろ」
「キスだけ……お願いだから」
 そう囁きながら、奈津男は樋崎を引き寄せて唇を重ねた。そして触れるだけの、ぎこちなく甘えるようなキスを何度も繰り返されて、樋崎は折角優位に立とうとしていた理性が情動に押し潰されるのを感じた。
「奈津男……お前……お前なぁ……俺が手が早いの知ってるだろ? あんまり可愛い事すると、ここで抱くぞ」
「うん」
「じゃないだろ、馬鹿」
 そう戒めたすぐ後に、樋崎は堪らなくなって奈津男に衝動のままのキスをする。唇を吸い、咥内に舌を差し込み、触れた舌を絡め取って、甘噛みする。奈津男はそれを全て甘受し、その体は快感に淡く波打つように動いて樋崎の欲望を煽った。二人はまた暫くキスに没頭して――ようやく唇を離したのは十分程ほど経った頃だった。樋崎は本当に事を起こす寸前で何とか衝動を堪えて体を起こした。今度は引き留められなかった。奈津男もここで抱かれようと本気で考えていたわけではなく、ただ我儘を言ってでもキスを続けたかっただけなのだろう。樋崎は大きく息を吐いて気持ちを落ち着けた後、横たわったまま荒く息を吐いている奈津男の頭を撫でた。奈津男はうっとりと目を閉じ、猫のように樋崎の手に擦りついた。
「……お前みたいなのがさ……こんな風に甘えてきたら……本当にたまんねぇな。すっげぇ可愛がってやりたくて仕方なくなる」
 奈津男は瞼を開き、樋崎を甘く蕩けるような目で見上げた。
「……可愛いよ、奈津男」
 奈津男は嬉しげな笑みを浮かべる。顧客相手に見せるあの完璧なそれとは違ったが、心の底から嬉しそうな、柔らかく甘い、樋崎の心を鷲掴みにするような笑みだった。
「樋崎さん」
「ん?」
「どんな風に……可愛がってくれるんですか」
「家に帰ったら?」
「うん」
「まずソファに座って、お前を膝の上に乗せる」
「……それから?」
「色んなところをめちゃくちゃ触りまくる」
「うん」
「で、盛り上がったところで一緒に風呂に入って、いちゃつきながら俺がお前の体を洗う。あとは……そうだな、お前がして欲しいって思った事を何でもやってやるよ」
「何でも?」
「何でも」
 樋崎が頬を撫でながらそう答えると、奈津男は切なげに眉を寄せ、溜め息を吐いた。
「何だよ」
「明日になったら、そんな風に言ってくれる事は無くなると思ったら……」
「おい、まだ信じてなかったのか」
 奈津男は小さく頷いた。もし奈津男が樋崎の心をちらりとでも覗くことが出来たなら、未来を悲観して溜め息を吐くことも無かっただろう。
「言っとくけど、俺はもう来年のバレンタインに、お前からお高い本命チョコを貰う気満々だからな」
「チョコ……? あげるなんて言ってません」
「欲しいからくれ」
「自分で買えばいいじゃないですか」
「それじゃ意味ないだろ。付き合ってる奴から貰いたいんだよ」
「……付き合う事になったんですか?」
「なった」
 奈津男は暫く黙って、自身の頬を撫でる樋崎の手に自身の手を重ねた。
「じゃあ……もし……もし、明日朝起きてまだ樋崎さんが俺の事を好きだって言ってくれたら……」
「くれるんだな?」
「何個だって……好きなだけあげますよ」
 樋崎は奈津男を抱き起こし、運転席に移動する前にもう一度だけキスをした。唇を離したとき、奈津男はその顔に柔らかく幸福そうな微笑を浮かべていた。……きっとそれは、奈津男が恋人だけに見せる顔だった。
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