Making Love

「可愛い女の子同士が手繋いで歩いてるのとかはギリ許せる。でも男同士とかマジ無理だわ。暑苦しいし気持ちわりーし身の危険を感じるし。つーか非生産的っていうか不自然じゃね? 人間として」

 ちょうど仁志がビールとミックスナッツを持ってテーブルに戻ろうとしていたとき、店の奥で騒いでいたグループの中からそんな声が上がった。グループは男女八人の大学生で構成されていて、場の雰囲気を壊すのを恐れてか異を唱えるものはいない。一人か二人は微かに眉を顰めたかもしれないが、笑い声が絶えることはなかった。
 英一は軋む床を革靴でゆっくりと踏みながらテーブルに戻り、ぼんやりとした目で壁の絵を見ている連れの前にビールを差し出した。
「りんごの風味だってさ」
「サンキュ」
 仁志ははっと我に返ったような顔で礼を言い、ジョッキを受け取った。乾杯はしなかった。今日はこれでお互い五杯目だ。
「美味しい? 適当に選んだんだけど」
「英一のは違うヤツ? つかそれビール?」
「ビール。俺のは何だっけ……ああ、ただの生だった」
「おい何で俺のだけ冒険した?」
「甘いもの好きだろ?」
「ビールに甘さは求めてねーから……ん? 何か普通のビールじゃね?」
 仁志は一口飲んでから訝しげにジョッキを覗き込んだ。味だけでなく見た目も普通の生ビールだ。
「あー……間違えた、こっちがりんご風味だった」
 丸テーブルを挟んで対面に腰を下ろした英一は、仁志と同時に自身のジョッキへと口を付けていた。アルコールでふわりと血色の良くなった顔には微妙な表情が浮かんでいる。仁志はにやりとした。
「ハズレだろ?」
「うん。明らかに」
 仁志は自身のジョッキを英一の前に置き、代わりに『ハズレ』を手にした。
「あー、やっぱこれはないわ。アップルジュースなのかビールなのか中途半端過ぎて」
「だよな」
「けどまあ、飲めないこともねーなってレベル」
「無理しなくていいって」
「しねーよ」
 だが仁志はジョッキを離さなかった。冷えかけたピザ・マルゲリータをつまみつつ、自ら低評価を与えたことを忘れたような顔でジョッキを傾ける。その様子を英一は白い歯でナッツを齧りながら見つめ、テーブルの下で足を組み直した。ベージュ色のボトムの柔らかい生地が微かに音を立てた。
「なあ仁志」
「なに?」
「んー」
「何だよ」
 英一はビールを更に二口飲んだ。
「さっきのどう思う?」
「さっきのって?」
「奥のテーブルで大声出してたヤツがいただろ。あれ聞こえてた?」
「あー、どの辺の話?」
「可愛い女の子同士が~ってところ」
 ピザの破片かビールが気管に入ったのか、仁志は急に咳き込んだ。十数秒の間苦しんだ後、Yシャツの上から胸を叩き、ふう、と息を吐く。
「大丈夫か?」
「何とか」
 仁志はもう一度息を吐き、それから軽く周囲を見渡して、自分たちの会話を聞いている者がいないのを確認した。店の入りは多くもなく少なくもない。カウンターは埋まっているが二人のいる少人数用のテーブル席はまばらで、一番近くの席にいるカップルは携帯の動画を見ながら盛り上がっている。こちらに意識を向けている様子はなかった。
「――レズもののAVとか見ねーのかよと思った」
「ん?」
「だから、さっきの大学生の話」
「ああ。……そこ?」
 そんなところが気になったのかと言いたげな英一に、仁志はふんと鼻を鳴らしてみせた。
「そこじゃなかったらどこだよ」
「……その後の部分?」
「あー……まあ、あそこまで言うことねーだろとは思った。俺らより十歳は若いくせに時代の流れに逆らってるっつーか」
 それとも逆らいたい年頃だからか。仁志は独り言のように呟いてビールを呷った。いつの間にかジョッキは半分空になっていた。営業仕事を終えての五杯目は思考を鈍らせるのに十分な量だが、今の仁志は酔いが醒めてしまったような目をしている。普段ならもっと陽気で多弁になる頃だ。
「英一は?」
「うん?」
「無邪気で残酷な若者の価値観に対するお前の意見は?」
「うん……」
 英一は壁の絵に目をやり、考え込むように暫く押し黙った。さほど本格的でもないこのブリティッシュ・パブで、四方八方に飾られた壁の絵は無作為に選んだのかと思えるほど統一性がない。イギリス風の絵画も何枚かはあるが、二人の傍の壁にあるのはごくシンプルな抽象画で、ぼんやりとした暖色の海に毛糸玉のようなものが浮かんでいる絵だ。二人が仕事帰りにここで落ち合って飲むようになって数年、話が途切れたときに決まってネタになるのがこの絵だった。
「この絵、意味があるのかないのか分からないようなデザインだけど、俺はわりと好きなんだ」
「へー、初耳。英一、こないだは貶してなかったっけ? 球体のバランスが悪いとか、色の調和が取れてないとか」
「虫の居所が悪かったんだよ、あのときは」
 普段、英一は比較的穏やかで、むしろ仁志の愚痴に相槌を打つことが多い。だが二人が話題にしている日だけは違った。一年近く開発に取り組んできた商品に重大な欠陥が見つかり、計画ごと全て白紙に戻ったのだ。その日仁志の前で発した暴言の数々を思い出したのか、英一は恥じ入ったように少しの間口を閉じ、それからまた話し始めた。
「その話じゃなくてさ、さっきの話」
「おう」
「考えないのかなって、今までそうだと信じてきたものが、本当に信じるに値するものなのかって。本当にその形をしているのかどうかって」
「おー……?」
「俺はさ、高校までは自分も普通に女の子を好きになるんだって思ってたんだ。将来結婚して家庭持って、子どもは二人ぐらいだって。実際どんな人ととか、どんな家庭を築くのかとか、そういうのは想像してなかったけど」
 前後の話の繋がりを探している顔で、仁志はジョッキを傾ける。もう殆ど空になっていた。
「大学に入ってから、やっと何か違うなって思い始めて」
「違うって、何が?」
「『普通』ってヤツが。正確に言うと、俺の考えてた『普通』と、現実との間にあった齟齬に気付いたっていうか」
 話に耳を傾けながら、仁志は英一が指先でアーモンドを弄び始めたのに気付いた。英一には、ひどく緊張しているとき、そうやって無意識に手を細かく動かす癖があった。それを仁志が知ったのは二人が出会った大学生のときだ。といっても同じ学校だったわけではない。たまたま同じ短期のバイト、それも少人数のグループで行動を共にする種類の仕事に応募したことで知り合ったのだ。あの頃と変わらない癖が今、普段ならリラックスしている筈の仁志の前で出ている。
「最初は誰のことも好きにならないタイプなんだって思ったんだ。誰かを特別に好きだって思ったことなかったから。でもそれも違った」
「……じゃあ、どうだったんだ?」
 英一はその問いで指先の動きを止めた。癖が出ていたことに今更気付いたのかアーモンドを不思議そうに軽く持ち上げ、食べずにテーブルの端へと置いた。
「さあ、今でもよく分からないんだ」
「何だよそれ。……つーか、春香ちゃんは? 好きじゃねーの? 彼女だろ?」
 仁志が名前を挙げたのは、英一が大学から付き合い始めたと話していた人物だ。仁志は彼女と直接面識を持ったことがない。持ったことはないが、英一と彼女が寄り添って撮った写真を何度か目にしたことがある。最後に見たのは先週だ。その写真では彼女と英一は腕を組んでいた。ごく普通の、仲睦まじい恋人同士のように。
「春香か」
「そろそろ結婚って感じだろ、年的にも」
「結婚はしない。実のところ、春香は彼女じゃないんだ。最初から」
「ええ……ええっ? マジかよ」
「うん」
「じゃあ何? まさかセ……」
 仁志は言葉を飲み込んだ。だがその続きは明らかだった。
「そういうのでもない。従妹なんだ。小さい頃から一緒に遊んでたし、お互い兄妹みたいに思ってる」
「お前に恋愛感情がなくても、春香ちゃんがどう思ってるかは分からないだろ」
「いや。春香のタイプは仁志みたいな男だし、歴代の彼氏もそうだった。お前を紹介してくれっていまだに言われる」
「……いまだに?」
「大学のときから言われてた」
「俺、春香ちゃんの連絡先すら聞いたことねーんだけど」
「お前と春香がくっ付いたら困るから教えてない」
「じゃあお前、やっぱ春香ちゃんのことを……」
「俺は仁志が好きなんだ」
 英一は仁志をまっすぐに見て言った。切れ長の目の端はアルコールで微かに赤くなっていたが、酔って出鱈目なことを口にし始めたようには見えない。それに、まだ理性を失うほどの量の酒は口にしていない。
「お前に出会ってからずっと好きだし、これまでの人生でお前以外を恋愛対象として好きになったことがない」
 十二年越しの告白は二人の間に沈黙を齎した。
 だが店の奥では、例の大学生たちがまた大声を上げ始めている。店の大型テレビで流されていたサッカーの試合がちょうど佳境に入ったからだろう。応援しているのか批判しているのか、彼らは酔いに任せて騒いでいる。
 英一はビールの残りを一気に飲み干し、立ち上がった。
「今夜はゆっくり飲めないし、そろそろお開きにしよう」
「……次は俺の番だったろ。あと一杯、飲んで行けよ」
 この店は注文ごとに会計するシステムだった。二人はこれまで交互に支払いをしてきたし、今夜最初に財布を出したのも、最後に出したのも英一の方だった。
「一杯くらい気にしなくていいよ」
 次でいいよ、とは言わなかった。いつもならそう口にする筈だった。英一はもうジャケットに腕を通し始めている。
「英一が気にしなくても俺が気にするんだよ」
「正直言うと、もう帰りたいんだ。おやすみ」
 そう言って立ち去ろうとした英一の腕を、仁志は寸でのところで掴んだ。片手で英一を掴まえたままピザの最後の一ピースを口に入れ、それを残りのビールで流し込み、ナッツを三粒掴む。
「……じゃ、帰るか!」
 仁志はナッツを口に投げ込み、スーツのジャケットとネクタイを取ってから言った。英一の腕を離したのは立ち上がった後、有無を言わせぬ勢いで先を歩き始めてからだった。



「仁志」
「んー?」
「そっち、俺の家の方向」
「知ってる」
 店を出て数分、やっとのことで声を発した英一の顔には戸惑いの表情が浮かんでいる。英一の住むマンションはここから徒歩圏内の場所にあるが、仁志は電車に乗らなければ帰れない。駅は反対の方角だった。
「さっきの話は本気だし、俺はこれから何にもなかったように振る舞うなんて無理だから」
「そうだな」
「あと、俺は酔ってない」
「俺も。とっくに醒めた」
「さっきの話、本当に聞いてたか?」
「勿論聞いてた」
「だったら……」
「やっぱ外に出ると冷えるな」
 マンションに着くまで仁志はずっとそんな調子だった。英一は途中で説得を諦め、あとは黙って仁志の横を歩いた。
 土曜日の午後十時半、マンションのエントランスに人影はない。二人はエレベーターに乗り込んだ。狭い箱の中は薄暗く、静かだ。
「英一」
「……うん」
「俺はこれまで色んなヤツのことを好きになったよ。前の前の彼女とは結婚してもいいと思ってたし、前の彼女のこともかなり好きだった」
「知ってる」
 仁志が最後に彼女と別れたのは六週間前だ。その日、あの店で酔い潰れる寸前まで飲みに付き合ったのは英一だ。
「俺は英一みたいに一途でも誠実でもない」
「浮気は一度もしたことないだろ。……されたことはあっても」
「それは浮気の定義にもよるんじゃねーかな」
 自嘲気味の声。英一は訝しげに仁志の顔を横目で窺った。オレンジ色の蛍光灯の下では、上手く表情を読み取ることが出来ない。
「なあ英一、俺もだ」
「……何が?」
「俺も英一のことがずっと好きだった。昔からずっと。……大事にしたいと思ってたんだ。英一のことも、俺たちの関係のことも。崩したくなかった」
 エレベーターは七階で止まった。
「家に何か酒あるか?」
「あいにく切らしてるんだ」
 先に通路に出たのは英一の方だった。仁志は動かない。
「けど、そんなの無くてもいいだろ」
 英一はエレベーターのドアが閉まらないように押さえながら言った。仁志は唇の端を上げた。

 エレベーターを出て、ちょうど九歩。英一はドアの前で鍵を取り落した。指が震えている。仁志がそれを拾い上げ、鍵穴に差し込んで回すのを、英一は黙って見ていた。
 二人はドアが閉まると同時に抱き合った。部屋の中は真っ暗で何も見えない。仁志が手探りでスイッチを押して照明を点けた。ぱっと明るくなった視界の中で二人は同時に互いの顔を、その目に映るものを見た。仁志は英一の体を壁側に押し付け、英一は仁志の頬に手を伸ばす。二人は唇が合わさる寸前まで見つめ合っていた。そうしていたかったからだ。
 角度を変え、体を近付け、やり方を模索しながら、二人は何度も唇を触れ合わせる。初めのうち主導権を握っていたのは仁志だったが、やがて英一も同じように仁志を求めるようになった。身長がそう変わらない二人はぴたりと体を密着させて相手の唇を貪り、酒の味を残した舌を絡め合う。靴も脱がないままで、二人は長い間そうしていた。
 やっと顔を離したとき、二人の息はすっかり上がっていた。気まず過ぎることはないが、何となく居たたまれないような沈黙が降りる。仁志は英一のさらりとした髪を撫でた。
「あのさ」
「うん」
「……何か……生産的なこと、しようぜ」
「生産的なこと?」
 英一が聞き返すと、仁志は妙に真剣な顔を作った。
「メイキングラブ」
 二人は数秒間じっと見つめ合い、それから同時に笑い出した。相手の体に凭れ掛かりながら肩を震わせる。メイキング・ラブ。日本人の二人にとって欲望を煽るような言葉ではない。馴染みもなかった。ただ、妙に笑いを誘う響きだった。
「なあ、ちょっとせっかち過ぎるか?」
「いや」
 英一は笑いながら首を横に振った。
「俺もしたい。やろう。今すぐ」

 靴を脱ぎ捨て、仁志が鞄を置いたところにジャケットを放る。一人暮らしの家の寝室がどこにあるか仁志はとっくに知っていたし、英一もそれを分かっていたが、英一は仁志の手を引いてそこまで案内した。それは多分、意味のあることだった。
 間接照明だけを点けて、二人はベッドになだれ込んだ。上になり下になって口付け合い、互いのシャツのボタンを外していく。暫くすると仁志は英一の上になって上半身を裸にし、また口付けて腹を撫でた。意識して体を鍛えている仁志と違い、英一の体にはそう筋肉が付いているように見えないが、腹筋は締まっていた。仁志の手のひらが動くと、そこはいじらしく震える。
「英一」
「……うん?」
「確認なんだけどさ、その、経験は?」
 英一は枕に片頬を押し付けながら仁志を見上げる。
「何回かは、ある」
「……男とは?」
「一回やろうとしたけど、出来なかった。……仁志は?」
 仁志はシャツを脱ぎ捨て、二人のベルトを外しながら小さく唸った。
「大学のとき、サークルの先輩のをしゃぶらされたことがある。一回だけ」
「……口で?」
「口で」
 英一は仁志の腕に手を伸ばした。爽やかな体育会系の典型といった顔立ちに相応しく、その腕には見た目も触り心地も好ましい筋肉が付いている。
「どうだった?」
「俺、自分のこと巨乳好きだって思ってたけど……こっちも好きな人間だって分かった」
 仁志は英一の腹の下に手のひらを滑らせた。膨らんだ股間をやわく握る。英一はごくりと喉を鳴らした。その喉仏の横に仁志は唇を寄せ、囁く。
「英一、お前着替えただけじゃなくてシャワー浴びてから来ただろ」
「うん」
「つーか、いつも?」
「大体いつも。……変な期待とかしてたわけじゃなくて、ただ、仁志の前ではいい匂いでいたかったんだ」
「俺、お前の汗の匂い好きなんだけどな。何か仄かに甘くて」
「気のせいだろ」
「じゃあこれから確かめてやる。もっと興奮して汗かけよ」
「それはこっちの……」
 英一は一瞬息を止めた。仁志の手が下着の中に侵入し、直接それに触れたからだ。仁志は空いている方の手を英一の肩に置き、ゆっくりと唇を唇で食みながら手を動かし始めた。英一のペニスはとっくに勃起し始めていて、仁志の探り探りの手つきにも素直に反応を示していく。仁志は鼻と鼻を擦り合わせながら、目で英一に訊ねた――口でしてみてもいいか? 英一は頷いた。
 下着ごとボトムをずり下げると、それは勢いよく姿を現した。平均より少し長めで、肌と同じように色は薄めだ。仁志は根元に指を絡ませ、先端にそっと唇を落とした。漏れ出していた先走りを舌先で舐め取り、ごくりと喉を鳴らしてから他の部分にも舌を這わせ始める。これ自体を『好き』だと告白した通り、仁志のやり方は熱心で愛情深い。技巧はなくとも英一を追い詰めるのに十分だった。
 英一は息を荒げながら慣れない様子で愛撫を受け続けていたが、やがて目を閉じ、与えられる快楽を味わい始めた。太ももの下で止まっていたボトムと下着を仁志が取り去ると、英一は裸の太ももを立ててシーツに皺を作り、仁志の固く短い黒髪に手を伸ばす。
 限界が近づくにつれ、息を吸い吐く一連の動きはいよいよ速まり、大きくなり、髪を撫でる手には力が入る。
「仁志、もう……」
 英一は震えながら顔を離すよう仁志に促した。だが仁志は少し顔を上げて笑みを浮かべて見せただけで、逆に深く口に含んでしまった。
「仁志、仁志ってば、もう出るから、離せって……!」
 そう言いながら、英一は仁志を無理に引き剥がそうとはしなかった。仁志が絡み付けてくる柔らかい舌の感触、濡れた息、熱く愛撫を繰り返す咥内が英一の理性の働きを鈍らせている。
 数秒の後、英一は唇を噛み、太ももに力を入れ、腹を震わせて達した。いつの間にか脱げてしまった靴下の上で足の指が強張り、それから弛緩する。英一の口が離れていくと、仁志は射精の余韻に浸りながらゆっくりと息を吐いた。
「……仁志……」
 英一はぼんやりと目を開いて下に目をやった。仁志は口元に手を当てている。何をしようとしているのか理解する前に、喉仏が動くのが見えた。
「な……」
 仁志は欲情に濡れた目をして笑い、唇をぺろりと舐めて見せた。
「なに……なにして……」
「飲んだ」
 不味いけど美味しかった、と仁志は続ける。
「そんなわけないだろ……吐き出して、よかったのに」
「俺がしたかったんだ。ちなみにこれは、初めてだから」
「……別に、気にしてない」
 自分以外の男との行為について英一は一言も仁志を責めていなかったし、そうしたいという素振りも見せていなかった。
「でも、興奮したろ?」
 そう言って英一の頬に触れた仁志に、英一は一拍置いて頷いた。
「した。……嬉しかった」
「よかった」
「なあ、俺も……俺もしたい」
 急に上体を起こして仁志の股間に顔を近付けようとした英一を、仁志は慌てて押し戻した。
「ちょ……さすがにきたねーから、やめてくれ、手でいいから」
「仁志はやってくれただろ」
「俺はお前と違って会社から出てそのままなんだよ! その、後でシャワー浴びるから、その時にいっぱいしてくれ」
「いっぱい?」
「いっぱい。たくさん。何度でも」
「欲張りだな」
 英一は笑って仁志の体を引き寄せた。自分の横に倒し、口付ける。その唇と舌に残った味に一瞬顔を顰めたが、次の瞬間には気にならなくなったように深く唇を合わせていた。二人は熱烈に口付け合い、抱きしめ合って、やがて英一は仁志のスラックスの中に手を差し込んだ。先走りで濡れたペニスをゆっくりと擦っていく。仁志がスラックスと下着をずり落とし、ねだるように太ももを擦り付けると、英一はそれに応えて手の動きをきつくした。親指で先端をぐりぐりと苛め、全体を扱き、性急に高めていく。
「英一、英一……」
「気持ちいい?」
 仁志は頷き、英一の背中に手を回した。それからぎゅっと目を閉じて、荒い息を吐きながら射精した。精液はあちこちに飛んで二人の体を濡らし、シーツに落ちる。だが二人は気にした様子もなく体を擦り合わせ、笑い合い、見つめ合って、何度もキスをした。



 真夜中、二人はぐったりと疲れてベッドに寝転んでいる。浴室で二回、ベッドに戻ってもう一回、きっかり四回ずつ達した。仁志はくすぐったがって身を捩る英一の体のあちこちに唇を落とし、英一は仁志の体を何度となく甘噛みして、二人は互いを好きなように愛し合った。覚えたての子どものようにはしゃいだ結果、最後には二人して体力が尽きてしまい、かろうじてシーツを取り換え水を飲んだだけで、後は明日に丸投げになった。
 仁志はもう眠ってしまったようだ。浴室から持ってきたバスタオルと毛布にくるまり、無防備な顔で寝息を立てている。英一も心地よい疲労と脱力感の中でうとうとと目を閉じようとしていたが、まだ意識があった。乾き切っていない仁志の髪を撫で、身を寄せる。そしてぼんやりと夢に落ちる前のひとときを楽しみ始めた。
 現実感を失った英一の意識はふわりと体を離れて浮上し、漂う。仁志の体を包み込むように広がり、境界線を無くして一つになる。あたたかい。満たされた気分だった。英一は幸福感の中でパブの絵を思い出した。赤とオレンジと黄色の海。穏やかな水面。そこに浮かぶ球体の中に人影を見た。英一と仁志だ。二人はそこで手を取り合っている。球体を構成していた糸は解け、自由を手にした二人は太陽に向かって泳ぎ出した。二人が作る波は優しく、現れてはゆっくりと消える。美しい光景だった。二人はごく自然に寄り添い、不安も焦燥も怒りも、嘘すらも存在しない完璧な海で泳いでいる。
 幻想的なイメージの中、英一は自分の隣で眠っている男を、これまでよりもずっと強い気持ちで好きだと思った。他の誰よりも愛していると感じた。そして自分たちは今、誰の非難も受ける謂れのない調和の取れた関係にあるのだと確信し、何か特別な、素晴らしいものを手にしたのだと思った。

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