聖なる夜の死者

 甲高い叫び声。

 通りの方から聞こえてくる。耳にした者の背筋を凍らせるようなそれは、若い女性が発したもののようだった。彼女は何かに怯え、恐怖し、狂気に向かいながら、必死に助けを求めている。その痛ましく切実な声は、通りから細道に入り、少し歩いた場所にあるマンションの七階、ドアも窓も閉め切って鍵を掛けた一室の中に漏れ入るほど強く響いていた。
 しかしその部屋の住人――深町清一郎は、暗闇の中でリビングのソファに一人腰を下ろし、その冷たい目を壁に向けるだけで、彼女を救う何らかの行動を起こすことも、野次馬として通りを窺おうとすることもしなかった。
 やがて哀れな声の主は泣き叫ぶのをやめた。唐突に声が途切れたことを考えると、彼女の身に何か起こったことは間違いなかった。助けを得られたのか、それとも。深町はその答えを知っていた。彼女は死んだのだ。奇跡が起こることを願い、声を耳にしているであろう誰かに期待し、そして裏切られて、あっけなく命を落としたのだ。
 深町はゆっくりと立ち上がり、ベランダへと続く窓に近付いた。ブラウンのカーテンは重たげに佇み、その先の風景を覆い隠している。少しだけ開いてみると、外はまだ明るかった。部屋にある電波時計には午後四時十五分と表示されている。日暮れ前だ。とはいっても陽気な天気とは程遠い。今日は十二月二十四日、気温は低く、空には雪の気配が漂っている。夜には降り出し、翌朝まで降り続くだろう。ここ数年、この辺りでは十二月の終わりに雪が降ることはなかった。待ち望まれていた筈のホワイトクリスマス。
 だが街は暗く淀んだ空気の中にあった。ライトアップも、毎年お馴染みの音楽も、購買欲を煽るケーキやチキンの広告もない。それは深町の視線の先、マンションの前の道路で今起こっていることと関係している。
 暗い目の先にあるのは、電柱に衝突してひしゃげた車と、それに群がる人々だ。いや、人々という表現は正しくない――それはかつて人であった何かの群れだった。ある者は潰れた四肢を引き摺り、ある者は眼窩から腐った目の残骸を垂れさせ、またある者はその手を自らの腹部に突っ込み、内臓を掻き回している。近くの者に噛み付こうとしている者もいた。彼らは一様に低い唸り声を上げ、耳障りな足音を立て、たまに汚い咀嚼音を響かせていた。その顔に意思はなく、理性もなく、感情もない。あるのはあたたかい体を持った動物への、原始的な欲求のみ。

 そう、彼らはかつて人間であったものの、恐ろしい化け物として姿を変えてしまった者たちだった。



 事の発端は今となってはまともに調べようがなく、これまで出た情報も真偽を確かめる術は残されてはいない。これほど酷い状態になる少し前には色々な憶測が飛び交った――例えばどこかの国の生物兵器が流出してしまった結果だとか、大陸の開発業者が希少な鉱物と共に菌を掘り起こしてしまったのだとか、隕石の中に含まれていた物質が原因なのだとか、現実的な考えから荒唐無稽なものまで、ありとあらゆる可能性が論じられた。しかし多くは今に至っても十分な検証を得られていない。
 それはどこからともなく現れ、海を渡り空を飛んで、爆発的に世界中へと広まった。人から人へ、人から動物へ、動物から人へ、容易に感染し、急速に発症・進行する上、決して完治しない。発症前にどんな手を打っても無駄で、発症後も同様だった。
 初期に現れるのは風邪のような症状だ。咳、熱、頭痛、倦怠感。しかしどんな風邪薬も、休養も意味がない。何かがおかしいと本人や周囲の人間が思い始めたところで次の段階に入ってしまう。正常な思考、理性を失い、代わりに暴力性と激しい欲望に支配される。食欲は旺盛になり、性欲も増す。そうなると数時間で明らかな異常性を示すようになる。目は濁って血走り、どんな言葉にも耳を貸さないケダモノへと変貌を遂げ、誰彼かまわず追い掛け回して噛み付くようになり、そうでないときには頭痛にのたうち回る。どんな小さな傷も治らず、傷付いていない部分も壊死していく。やがて感情と痛覚すらも失い、運動の機能を失うまで目の前のものを襲い続ける。最後には骨と布きれを纏った肉塊となって死んだようになるが、その体で増殖し続けたものまでもが死ぬわけではない。人の体は死ぬが、それを侵した病原体は不死を約束されていた。洗浄消毒は不可能で、焼却、冷却、他のどんな方法でも不活性化することが出来ないため、空気感染能力まで持ったそれを封じ込めることは殆ど不可能に近かった。
 感染拡大の速さもあり、今ではどんな国の機関もまともに機能していない。集団的な避難は感染者の出現から混乱と無意味な死を生み、非人道的な手段による感染対策は徒労に終わるだけだった。生き残った人々の大半が自宅に籠り、窓を閉め切って最後の時を待っていた。



 深町はそれが猛威を振るう少し前に、新卒から十年以上勤めた会社を退職した。次の就職先を確保した上での自主退職であり、一か月後に新しい会社での勤務が始まる予定だった。そして空白の一か月間は旅行や趣味の時間として使うつもりでいたのだが、退職翌日のニュースで大々的にそれの存在が報じられた。その時点で既に国内での感染が複数確認されていたため、深町はホテルの予約も何もかもキャンセルし、一人暮らしのマンションで事の経過を見守ることにした。しかし事態は収束するどころか悪化の一途を辿り、結果的にその日以来一度も家を出ることなく今に至る。
 食糧、生活必需品の類については、元々備蓄がかなりあった。深町の母親は几帳面かつ行動的なたちで、父親はときどき妙に悲観的な考え方をする男だった。二人の特徴を殆ど全て受け継いだ深町は、いつ何が起こってもいいように全てを完璧に整えていた。そのおかげで、今のところは飢えや体調の悪化に苦しむまでにはなっていない。いつからか電気と水が使えなくなったことで入浴その他の行動に制限がつき、多大なストレスを感じてはいたが、今ではそれにも大分慣れた。外で腐りながら歩いている化け物たちよりは随分ましだったからだ。
 カーテンを閉め、ソファに腰を下ろして、深町はタブレットを取り出した。朝の内に手回し式の充電器で充電を済ませていたため、電池残量は八割残っている。ネットにもかろうじて繋がったが、大手のニュースサイト、政府の運営するページですらも殆どが更新されなくなっている。深町の目当ては別にあった。
『――♪恋のハッピーランチ あなたはハンバーグが大好きな~』
 ハードディスクに保存されていた動画の再生ボタンを押すと、数年前に流行ったアイドルグループの曲が大音量で流れ出す。歓声と拍手がそれに重なる。しかし画面の中で踊っているのは可愛らしい少女たちではなく、いい年をした成人男性のグループだ。メンバーは深町が勤めていた会社の社員で、これは何年か前の忘年会での余興だった。深町の目はステージ中央で一際目立つ男に注がれている。幅もある長身にどう見てもサイズが合っていないセーラー服を着て、栗色のボブのかつらを被り、やけに真剣な顔で懸命に踊る彼の名前は、山田泰助と言った。
 動画は深町の顔に微笑を誘う。世界の終末にまるで似つかわしくない陽気さが、孤独な深町の心を癒した。もうこれで何度眺めただろうか。三分ほどの映像が終了すると、深町はもう三度ほど繰り返し再生して楽しみ、そしてやっと別の動画に移った。
 その次の動画も、メインに映っているのは山田だ。しかし今度のものは前とはかなり趣が違っていた。

「――なあ清一郎、やっぱビデオを撮るのはやめにしないか?」
 そわそわして落ち着かない様子の山田が座っているのは、今深町が腰を下ろしているソファのすぐ前にある、紺色のラグの上だった。
「自分でもチェックしたいからって、お前が言い出したんだろ。というかもう録画開始してるからな」
「ええっ、マジかよ。緊張する」
「ちょうどいいだろ」
「それはまーなあ……」
 山田は目を逸らして坊主頭を掻いている。
「ほら、俺の手が痺れる前にやってみろよ」
「わかったよ」
 姿勢を整え、正座した逞しい太腿の上に手を置いて、山田は何度か深呼吸する。そして随分時間が経ったあと、二人の同僚で山田の恋人でもある女性の名前を叫ぶように口にした。
「俺はあなたと、これからの人生も共にしたいと思っています。どうも頼りないところがあると言われる俺ですが、精一杯努力し、同僚としても人生のパートナーとしても、あなたに相応しい男になることを誓います。俺はあなたを、心から愛しています。もしよければ、俺と、俺と……けっ、結婚してくだしゃい! あっ、あっ……」
「はい、もう一回初めからやり直してくだしゃい」
「ちょっ、待った、一回それ消去してから!」
「したした」
「その顔は絶対してねえな!」
 くっくっと笑う撮影者に向かって、山田は顔を真っ赤にして手を伸ばす。一分ほど画面が揺れたが、山田は結局ビデオカメラを奪えずに元の場所へと腰を下ろした。そしてプロポーズの練習の続きを始めるかと思いきや、やけに真剣な表情で「清一郎」と名前を呼んだ。
「ん、なに?」
「あのさ、今だから言えるんだけど……」
「うん」
「俺、高校のとき、お前のことが好きだったんだ」
「……はぁ?」
「多分さ、思春期にありがちな気の迷いっていうか、憧れに近い何かっていうか……ほら、清一郎、あの頃から男前だっただろ。モテるくせに女の子にヘラヘラしないし、それでいて誰にでも優しくて、雰囲気が大人びてて」
 そこまで言って、山田は懐かしそうな顔に笑う。
「……何で今?」
「んー、何となく、プロポーズ前にあの時の気持ちを成仏させときたくてさ。ごめんな」

 動画はそこで終わっている。深町はその動画も何度か繰り返し再生してから、タブレットの照明を落とした。そしてもう一度外を覗き見る。普段カーテンを閉め切っているのは、力が残った感染者がよじ登ってくることがあるからだ。外の様子をどうしてもベランダから見続けずにはいらなかった四階端の住人は、昼間の内に目をつけられ、夜に侵入されて死んだ。ベランダの窓を割るぐらいのことは、リミッターが外れた感染者にとっては容易なことだった。それ故に深町はいつも暗い部屋で過ごしている。
 動画を見ている間に、車の中で抵抗していた非感染者と思われる人物が外へと出ていた。車を少し離れたところで倒れている。引き摺りだされたのか、それとも自ら出たのか判然としない。背中には齧られた跡がある。感染者の仕業だろう。感染者は発症後一週間を過ぎると咀嚼や消化の機能に異常を来して肉を食べなくなるが、それでもところどころ抜け落ちた歯で噛み付いてくる。噛まれれば食い殺されずとも感染は間違いなく、また噛まれた人間はそうでない感染者よりも発症が早い上、その後の進行も早い。
 車の運転手が死んだのは殆ど事故のせいだろう。ひしゃげた車を見ればそれが分かる。わざわざ噛まれて死ぬよりも、車内で死を待つ方が痛みも少なくて済んだだろうに。深町はそう思った。そしてカーテンを閉めようとしたところで、ふと運転手の腕に噛み付いている男に目を留めた。坊主頭、遠目にも逞しい肩、丸まり気味の背中、ノルディック柄のセーター。どこかで見覚えがある。心臓が激しく脈打ち始め、カーテンを持つ手が震える。深町は男の後ろ姿を見つめ続けた。しかし男は死体の腕を貪るのに夢中で振り返ってはくれない。
 深町は深呼吸をして、ベランダに続く窓の鍵を開けた。そして数週間振りに外の空気を吸った。音を立てないように静かに、ゆっくりと一歩を踏み出す。冷たい外気に晒された肌に鳥肌が立ち、悪臭を吸い込んだ鼻が痺れる。隣の部屋のベランダから正体不明の茶色い液体が流れ込んでいたが、深町は一瞬足を止めただけで、後戻りをしようとはしなかった。ぬるつく足元をサンダルで進み、手すりを掴んで、外へと乗り出す。男はそれでも振り返ってはくれない。
 死臭が漂う中で、深町は大きく息を吸い込んだ。
「泰助!」
 男はぴたりと動きを止めた。そしてゆっくりと振り返る――飛び出た右目、その下の頬の皮膚は剥げ落ちて醜く、口元は赤黒く染まっている。すっかり様変わりしていたが、その顔は明らかに、山田泰助の面影を色濃く残していた。



 それから一時間後。深町は玄関ドアの前に立っていた。手袋をしたその右手にはゴルフクラブが握られ、左手は折り畳んだキャスター付きの台車とロープを持っている。ヘルメットをした頭、マスクをした顔、その目は大きく開かれて緊張の色を浮かべていた。
 耳を澄まし、覗き窓から十分外の様子を窺った後に鍵を開け、チェーンをしたままドアを開ける。そこから見る分には、廊下には何の気配もない。一度ドアを閉め、チェーンを外し、それから静かにドアを開けて外に出た。
 暫くの間、人にも動物にも化け物にも遭遇しなかったが、四階の踊り場には服を着た溶けかけの肉塊が転がっていた。それを避けて静かに階段を下り続ける。二階には床を這って歩く老人がいた。一目で感染者と分かる状態で、殆ど死にかけだった。それでも長いこと感染者と近付く機会のなかった深町の心に少しの間酷い動揺を齎し、歩みを更に慎重なものにさせた。
 エントランスを出ると、転がる異様な姿の人や小動物の死体が目立つようになる。対照的に、非感染者や走り回るほど体力が残っているものは少ない。感染から死亡までの時間が極端に短いせいだ。深町はパニックに陥りそうになる思考を宥めつつ、注意深く車の方へと近付いていった。目当ての人物――というよりもはや化け物と言ってもいい形相だった――も深町の方へと歩み寄ろうとしていたが、片足を骨折しているのか、ぎこちない足取りで立つのがやっとという状態だった。
「泰助。泰助、俺だよ。分かるか?」
 深町は小さな声で呼び掛けた。だが山田は返事をしない。その顔には生気がなく、深町に近寄ろうとする他の感染者と同じように、ぎらつきながらも無感情な目つきをしていた。
 立ち止まって台車を置き、ゴルフクラブを構える。そして手の届く範囲にまで近付いていた少年に向かって振りかざす。彼は派手に跳んで倒れた。ぐしゃりと嫌な音がして、もろくなった骨が砕け肉が弾ける。深町はそれに目を向けることすらせず、別の方向から襲い掛かろうとしていた中年女性に向かってゴルフクラブを振った。彼女は一度では倒れなかったが、暫くの間ひたすら打ちのめす内に、最初の一人と同じようになった。どちらもすぐには立ち上がれないだろう。深町は得物を片手で握ったまま、山田に近付いていった。
 ちょうどゴルフクラブと同じくらいの長さまで距離を縮めたところで、深町は行動を起こした。大きく足を踏み出し、伸ばされた手をゴルフクラブで抑え、左手をコートのポケットの中に入れる。そしてそこから取り出した小さな機械――スタンガンの先を、山田の腹に押し付けた。歪んだ体が跳ねる。固い地面に倒れ込みそうになるのを、深町は寸でのところで阻止した。体液が付着するのにも構わず体に腕を回したのだ。だが巨漢の体重を長く支えることまでは出来ず、失神した体をゆっくりと地面に横たえた。それから深町は素早く台車の元へと走り、それを手にして山田の側へと戻った。そして台車を開き、くくりつけていたロープを取る。山田の両脇に手を入れて台車の上に持ち上げ、座るような形にして、台車に固定しつつロープで体を縛った。

 帰りは行きよりも困難な道のりだった。エレベーターは使えず、重たい荷物を抱えている状態だ。周囲に気を配りながら階段を上り、七階に辿り着くのには随分時間が掛かった。
 疲労と興奮に震える手で鍵を開け、ぐったりとした山田を載せた台車と共に、深町は部屋を出てからちょうど三十分後に帰宅した。ドアを閉めてすぐに鍵を掛け、途中で折れてしまったゴルフクラブとスタンガンを手にしたまま、留守中に忍び込んだ者がいないか確認する。部屋の中は勿論、ベランダにも侵入の形跡はないようだった。深町はヘルメットとマスクを外し、得物を二つとも捨て、玄関に置き去りにした山田の元へと戻った。
 ロープを解き引き摺るようにして寝室に運んで、ブルーシートを敷いたベッドの上に載せる。服を鋏で切って脱がせ、血で張り付いてしまった部分は慎重に剥がして、裸にする。なけなしの古い灯油が入ったストーブで部屋を暖めているせいか、山田はそれでも何の反応も示さない。まるで死体のような体を、深町は少しずつ清め始めた。血に濡れた口元を拭い、至るところに付着した体液や排泄物を除いていく。擦り傷や歯形が至る所にあり、表皮は脆く、出血している箇所もあった。両手は指をいくつか失っていて、噛み千切られた跡が痛々しい。腹部には酷い鬱血があり、内部も損傷しているように見えた。それでも心臓が動いている理由は、感染者が得る驚異的な生命力を山田も得たからに違いなかった。普通の人間ならとっくに生命活動を停止していておかしくない状態でも、感染者は地を這うくらいのことが出来る。死の直前でも彼らは醜態を晒し続け、見る者に恐怖と嫌悪感を味わわせ、絶望的なほどの悲哀の中に突き落とす。
 山田を清め、汚れたブルーシートを処分した後、深町は洗面所に向かった。鏡の前に立ち、何度も角度を変えて感じを確かめながら、髪を切る。それからまばらに生えた髭を剃り、歯を磨き、浴室に入って、飲料用の水を使い体の隅々まで綺麗にした。最後に香水をつけ、下着だけ履いて、深町の元へと戻った。その手はウィスキーの瓶とグラスを一つだけ掴んでいた。
「泰助」
 山田はまだ意識を取り戻してはいなかった。深町が掛けた毛布もそのままだ。感染者が発症後に眠ることは普通ないが、気絶はする。夢は見るのだろうか、と深町は思った。
 ベッドに腰掛け、手にしたものを置いて、動かない山田の頬を撫でる。表面の皮膚が落ちたそこはぬるついていた。その上、剥がれ落ちていない部分、かつては血色の良かった肌も酷い状態だった。全体的に紫がかって、徹夜をしても出来なかった隈が濃く目の下に浮き出ている。飛び出した右目の瞼は閉まらず、血走って濁り、天井に虚ろな視線を投げ掛けていた。
「泰助、起きろよ」
 だが返事はない。スタンガンは人を失神させるほどの威力では無かった筈だが、傷付いた体には衝撃が大きかったのだろう。深町はグラスにウィスキーを注ぎ、ヘッドボードの棚に置いたライトの光の中でそれを傾けた。喉を焼く琥珀色の液体が胃液の中に落ち、吸収されていく。すぐに飲み干し、もう一杯注いで少し口に含み、山田の口元に顔を寄せた。ぼろぼろになった唇を舌で開け、酷い臭いのする口の中へウィスキーを流し込む。舌を湿らせる程度の量だ。暫くして山田は小さく呻き声を上げ、体を数秒の間痙攣させて、やっと意識を取り戻した。
「おはよう。さっきの、痛かったか? けどああするしかなかったんだ。悪いな」
 山田は深町の方へと顔を向け、低く唸った。明らかな威嚇だ。しかし体は痺れたままなのか、手足をくねらせるだけで、飛び掛かることまでは出来ないようだった。深町は宥めるように肩を撫で、ウィスキーを飲み続ける。
「なあ、何であそこにいたんだ。お前、家にいるって言ってただろ」
 最後に連絡を取ったのは随分前のことだ。山田はここから車で三十分ほど離れた場所に建てられた家、そこの災害時用シェルターの中に、妻子と共にいると話していた。山田はそこに深町も匿おうとしていたが、深町はその強い誘いに頷くことは一度もしなかった。
 下で山田を見たとき、その周囲に妻子の姿は無かった。
「奥さんと子どもを置いて、俺を迎えに来てくれたのか?」
 そう訊ねながらも、深町はそれがあり得ないことを知っていた。例えそれが親友のためであっても、山田は愛する妻と幼い娘を置いて出て行けるような男ではない。
「二人はどうしたんだ?」
 深町は、体を清める途中で山田の太腿に見つけた傷を思い出した。小さな噛み跡。あれは子どもに噛み付かれた跡だ。それが無くとも、妻子がもう既にこの世にいないことは想像がついていた。でもなければ山田は家を出たりはしない。妻子を食い殺したのか、それとも食われようとして逃げ出してきたのか。いや、山田は家族を傷付ける前に自ら命を絶っただろうし、感染した二人を置き去りにしたりはしない。きっと感染した二人と限界まで共に過ごし、泣きながら手を掛けて楽にしてやって、二つの死体を並べ火を放ち、それから何とかここまでやってきたのだろう。深町はそう思った。
「お前は昔から、情が深いやつだったからな」
 山田は相変わらず唸り続け、合間に苦しげな息を吐き、口の端から唾液を漏らしていた。とても掛けられている言葉を解している様子ではない。
「だけど、どうして俺のところに来たんだ? 俺のことが心配になったのか? 親友の手で楽にして欲しかったから? ……それとも俺に、会いたかったからか?」
 グラスに何杯目かのウィスキーを注ぎ、飲み干す。深町の体は桃色に染まっていた。アルコールの摂取は久し振りで、しかも空腹の状態だった。酔いの回りは早い。
「俺はお前に会いたかったよ。ずっと会いたかった。お前が一人なら、俺はどんな危険を冒してでもお前に会いに行って、ずっと傍にいたのに」
 だが山田の元には、妻子がいたのだ。深町は二人に会いたくなかった。山田が全力の愛を注ぐ二人の前で、どんな顔をすればいいのか分からなくなったからだ。会社を辞めたのもそれが理由だった。結婚式にも出て、二人の小さな娘の手も握ることが出来たが、ぽたりぽたりと落ちる水滴が岩に穴を穿つように、柔らかな雪が積み重なって屋根を壊すように、深町の心には穴が開き、その足が立っていた場所は崩れ落ちてしまった。
 新しく全てをやり直すつもりでいたのだ。こうなるまでは。
「泰助、俺のことが分かるか? 俺に会いに来てくれたんだろ? 清一郎だよ。お前が一度は好きになった男だ」
 獣のような声を上げるだけの山田の顔を、深町は見つめる。アルコールで歪んだ視界の中で、一瞬、山田が人の良さそうな柔らかい笑みを浮かべているように見えた。深町は幻想の中の山田に笑い返した。そしてグラスとボトルをヘッドボードの棚に置き、山田に掛けていた毛布を剥いだ。
「でも俺はな、お前と違って胸の中は綺麗じゃないんだ。出来れば最後まで良い顔したかったけど、神様だかサンタだか悪魔だかが、俺のところまでお前を寄越してくれたから」
 深町は山田の腹を撫で、その上に乗った。手を伸ばそうとする山田の肩を両手で押さえ、太い腕にするりと手の平を滑らせて掴み、頭を落として山田の胸に口づける。顔を上げたときには、吸い付いた跡がどす黒く残っていた。深町はもう一度頭を下げ、その跡を舌先で舐めた。
「酷い味」
 深町は両手を山田の手首まで下げ、自身が腰を下ろす位置も下にずらした。そして山田の股間に顔を埋める――赤紫色に変色し、先端が奇妙に膨張したペニスの臭いが、深町の鼻腔に入り込む。分泌物と血液の臭い、清めたばかりだというのに軽く失禁したのか、シーツが濡れてアンモニア臭も漂っていた。しかし深町は頬を染めたままそれを執拗に舐め続けた。元々巨大なそれは少しずつ膨らみ、硬度を増していく。完全に勃起すると、深町は口の中に唾液を溜め込み、それを凶悪な形に変貌したペニスにどろりと垂らした。
 深町は一度ベッドから下り、下着を脱いだ。形のいいペニスは勃起して、先端から粘つく液体を垂らしている。瓶に残った最後のウィスキーを一気に飲み干して、深町は山田の元に戻った。腹を跨いで膝立ちになる。山田のペニスを右手で持って、もう片方の手を自身の尻に伸ばした。慎ましく窄まって閉じた穴に指を差し込んで広げ、ペニスの先端を宛がう。そしてゆっくりと腰を下ろしていった。
「ああ、泰助……」
 山田の手は目の前の体へと伸ばされる。片方は深町の腕を掴み、もう片方は胸に爪を立てる。力はそれ程強くはなかったが、爪が、尖った骨がぴんと立った乳首を掠め、その下の肌を重力に従って抉り、薄く血を滲ませた。それと同時に、深町が山田のペニスを根元まで飲み込む。
 深町は甘く喘ぎ、体を震わせ、そして射精した。生温かい精液が山田の胸に、顔に掛かる。山田は咆哮した。濃厚な情欲の香りが刺激となったのかもしれない。生気を取り戻した目で、射精直後の深町を睨み、その体を引き寄せ、繋がったまま体勢を逆転させて、押し倒した体に圧し掛かった。そして白い肩に噛み付き、激しく腰を動かし始めた。
「――!」
 歯が深町の肌に突き刺さり、広げられた足の間で赤黒く血管が浮き出たペニスが行き来する。しかし深町が上げた悲鳴には、明らかに興奮と欲望が混じっていた。
「ああ、あああ、泰助、泰助、俺はお前のことがずっと好きだった、ずっとずっと好きだった、愛してるよ、お前とずっとこうしたかったんだ、ずっと昔から、ああ、泰助、泰助、お願いだ、俺の名前を呼んでくれ!」
 山田は獣じみた声を上げ続けている。その目に理性はなく、呼び起こされた肉への強い渇望だけがあった。清一郎、と呼ぶ声は聞こえない。だが深町は、山田の息遣いの中にそれを呼ぼうとする気配を感じ取って、涙を流した。
 深町の体の中で、山田のものがびくりと大きく震える。そして山田は顔を上げ、涎を垂らしながら大きく唸った。その下で深町は、自分の直腸に吐き出される熱い液体、精液と血とそれ以外の何か、死を告げる種子を大量に含んだものの質量に喘いだ。それは腹をゆうに満たし、息苦しさまで感じさせる。苦痛と快楽の中で、深町はもう一度絶頂に達した。
 射精を終えた山田は、糸が切れたように倒れ込んだ。深町は荒く息を吐き出しながらその顔を引き寄せる。焦点の合わない目を見つめ、唇を合わせる。山田は反射的に柔らかい肉を噛もうと顎を動かしたが、力無いそれは唇をやわく食むだけで、歯が深町を傷付けることはなかった。深町は山田のでろりと肥大した舌を舐め、目を閉じて頭上に手を伸ばした。そして枕の下に手を入れる。開いたポケットナイフ。その柄を握って、自分に覆い被さる男の頸動脈へと突き立てた。山田の体が激しく揺れる。ナイフが離れると、腐臭のする血が溢れ出した。深町は狂ったように激しく暴れる山田の背中に腕を回し、足で腰を抑え込んで、強く抱き締めた。山田は深町の首に噛み付き、どこにそんな力があったのか、強く歯を立てた。ぐらついた歯は山田の体内で抜け落ちる。残った歯は深町の皮膚を切り裂いた。
 しかい深町はもはや、痛みを感じてはいなかった。代わりにあるのは奇妙な浮遊感、脳味噌まで痺れさせるような快感と多幸感。山田の体はやがて動かなくなった。薄れ行く意識の中で深町は、自分を貫いているペニスが腸の中で崩れていくのに気付いた。擦り付けられて腸壁の中で剥がれた皮、ぐしゃりと弾けた肉の中の血液が自分の中に浸み込んで、一つになっていくのを。

 外では雪が降り始めていた。それは血と肉に汚れた街を白く覆い隠し、明かりが消えた部屋から熱を奪い、一つに重なった体を凍らせて、堅く結びつけるだろう。
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