踊る男

 真夜中の静かな並木道。
 イチョウの木の傍に男が一人俯せに倒れていた。日付が変わって二時間余り経った頃だった。
 時間が時間だけに人通りは少なく、車道の方も閑散としている。男は三十分ほど前から身じろぎもせずに同じ体勢で倒れていたが、少し前に帰路を急ぐバイクと何匹かの虫が近くを通り過ぎて行っただけで、誰に気付かれることもなく夜風に吹かれていた。
 黒のジャケットに黒のジーンズを合わせた男は闇と同化しつつあり、乾燥気味の骨ばった手と、黒い靴に結ばれた白い紐だけが外灯の光を受けて、ごく控えめに存在を主張している。
 果たして男は死んでいるのだろうか、それともまだ生きているのだろうか? 幸いなことに夜明けを待たずして、その謎を解く少年が道の向こうから現れた。
 よく手入れされた自転車に乗り、辺りを見回しながら車道を走っていたその少年は、ぎょっとしたようにブレーキを踏んだ。ブレーキの立てた音にも反応しない男を少年はじっと見つめ、見間違いでも幻覚でも夢でもないことを理解したらしく、自転車を持って近くの歩道に置き、男に走り寄った。
「あの! 大丈夫ですか!?」
 少年は男の傍らに膝を突き、そっと肩に触れながら尋ねた。しかし反応がない。少年は日焼けした健康そうな顔を青くし、ピーコートのポケットから携帯を取り出した。焦った様子で『1』のボタンを押したとき、男が低い呻き声を漏らした。
「……あの、大丈夫ですか? 救急車呼びましょうか?」
 少年がもう一度肩に触れながら声を掛けると、男はぱっと目を開き少年に顔を向けた。目が合った。
 ――暫しの沈黙。
「いや。救急車はいらない」
「…………」
「待って。いま体起こすから」
 男はふーっと息を吐いた後、のろのろと起き上がり、その場に胡坐をかいて顔や白のセーターに付着していた砂と落ち葉とごみを払った。
「この通り、大丈夫。元気元気」
「あの、でも傷が、それに血が……」
 滑らかな肌をしたやや童顔の、しかし老犬のように覇気のない目つきをした男の頬には、明らかに出来たばかりだと思われる擦り傷があった。その上、唇は軽く切れて固まった血が付着していた。心なしか片方の瞼が腫れているようにも見えるが、ただ単に瞼が厚いだけなのか、衝撃やその他外的要因によるものなのかは判別できない。
「大丈夫大丈夫。全然オッケー、問題なし」
「いやでも、あっ、ハンカチ、ハンカチあるので使ってください」
 少年はポケットから綺麗に折り畳まれたタオルハンカチを差し出した。男は気の無さそうな顔で「うーん」と唸り、重たげな瞼を緩慢に動かして瞬きをした。
「でも血、もう乾いてない? 切ったの寝る前だし」
「だけど、……えっ、寝る前……?」
 『倒れる前』ではないのか。少年の顔に戸惑いが浮かぶ。
「うん、そう。俺、ちょっとここで寝てたの。気絶してたわけでも、気分が悪くて倒れてたわけでもなく。まあ寝てたって言っても三割くらい意識はあったんだけど」
「きつかったんですか?」
「いやー? 眠たかっただけ」
「でもここ……歩道……」
「歩道? ああ歩道か。全然セーフじゃん。深夜だし」
 何がセーフなのかという顔をする少年に、男はニッと笑って見せる。やや不揃いの歯がその口から覗いた。
「だってさ、俺が車に撥ねられて死んだら運転手が可哀想だけど、歩道なら早々死なないから。この辺りには歩道を自転車で爆走する馬鹿は、まぁそんなにいないし」
「……でも、ここで寝てたら体に悪いんじゃないですか? 怪我もしてるから……」
 男は片眉を軽く上げた。
「なに、君ってもしかして凄く良い子? こんな夜中に一人でいたら危ないよ。変な人に襲われるかも」
「え、いや、俺は大丈夫です。俺よりもお兄さんの方が」
「体だけは丈夫だから。ていうか俺に襲われるとか思わない? こんなところで寝てるなんて怪しいでしょ、どう見ても。まんまとトラップに引っ掛かった君を攫って、どっかで変なことする気なのかも?」
 男は脅かすように悪そうな顔をして見せたが、少年は反応に困っていますと顔に書いて男を見つめるだけだった。見つめ合っている内に、男はふっと首を傾げた。
「……んー……ていうか君、何か……どっかで見たことある気がするんだけど?」
 体つきは成熟した大人のものにも見えるが、話し方や表情にどこかあどけなさが残る少年の顔を、男は目を凝らして見る。高校生か、せいぜい大学生になりたての年齢だろう。はっと目を引く美形というわけではないものの、運動部系の爽やかさを感じさせる顔立ちはそれなりに整っていて、擦れた感じのない態度は百人中九十九人が好ましいと思うだろう類いのものだ。
「……あっ! コンビニ?」
 男が少年の胸の辺りを人差し指で指すと、少年はこくりと頷いた。近付いた男の口からは、微かにアルコールを含む呼気が漏れた。
「す~っごい、レアキャラだよね。俺あそこのコンビニほぼ毎日行ってるけど、まだ二回しか見掛けてないし。……ん? それは俺がいつも夜ばっかり行ってるからか。高校生?」
「そうです」
「あーやっぱり高校生か~、早く帰らないと俺みたいな不審者に襲われるよ。お父さんとお母さんも心配してるって。可愛い顔してるしケダモノの餌食だよー?」
「……あの、本当に体大丈夫ですか?」
「だから、こっちは大丈夫だってば」
「俺、送っていきますよ」
「いやー、気持ちは有難いんだけど、俺の家ここから物凄く遠いから。タクシーに乗って帰るよ」
 少年は手に持ったままだったハンカチを少しの間じっと見つめてからポケットに仕舞い、意を決した顔で男をまっすぐに見た。
「俺、家知ってます。すぐ横にクリーニング屋と米屋があるマンションですよね」
 男は一瞬固まった後、目を瞬いた。
「……え? 何で知ってんの?」
「お兄さん、橋を渡るときいつも歌ってるから……、俺、あのマンションの向かいの一軒家に住んでるんです。川を挟んで向かいの」
「え……もしかして歌聞こえてた?」
「聞こえてました。あの、ステップの方も」
「えぇ……、まさか俺の一人ダンス、君の家から見えてた?」
「見えてました。俺の部屋二階なんで」
「うわー……まじかー……恥ずかしいなあ大人として」
「ここで寝てたら寒いし危ないので……、送っていきます。立てそうですか?」
 少年が差し出した手を、男は取らなかった。
「だからー、本当に大丈夫だって。ていうかさ、こんな夜中に外出てるってことは、何か用事あってのことでしょ? 俺なんか気に掛けてる暇なんて無い無い。その自転車に乗って用事済ませて、早く家に帰った方がいいって」
 少年は自身の下唇を軽く噛み、鼻からゆっくりと深く息を吸い込んだ。
「……変なこと言っていいですか?」
「ん?」
「俺、お兄さんのこと探してたんです」
「え、何で?」
「……寝る前、お兄さんの歌を聞いて、ダンスを観るのをいつも楽しみにしてたんです。今日はいつまで待ってもお兄さんが来なかったから……、事故にでも遭ったのかもって、この辺りうろうろしてました」
「……え? えええ? 嘘だろ。それだけで、こんな夜中に自転車漕いで走り回ってたって?」
「……そうです。すみません」
「いや責めてるわけではなく」
「この一か月半、平日は毎日だったから……あの……今日は何か事件にでも巻き込まれたんですか?」
 少年は男の顔をじっと見つめながら尋ねた。傷のことがずっと気になっていたのだろう。
「ん~……事件っていうかただの喧嘩で」
「喧嘩?」
 あからさまに顔色を変えた少年に、男はひらひらと手を振って見せる。
「あーでも、全然大丈夫だから。ホントにさ。頭にもボディーにも喰らってないし、本当に全然大丈夫。喧嘩っていうか小競り合いみたいな……」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ……立ってください。立てますか?」
「はいはい。よっと……これでいい?」
 男は驚くほど軽快な身のこなしで立ち上がった。少年は男を見上げ、目を瞬いた。
「…………」
「さあこれで納得してもらえたかな、少年」
「……はい」
「親御さん心配してない? 早く帰った方がいいよ」
 それでも少年は頷かない。なかなかの手強さだった。
「……あの、どうせ同じ方向だし、途中まで一緒に帰りませんか?」
 少年は立ち上がり、向かい合って尋ねた。
「んー……いや、俺は他に用があるからまだ帰れないんだ」
「……ここで寝てたのに?」
「そう、ここで寝てたのに」
「……もしかして家に帰りたくない、とか?」
「あー……いや? そんなことないよ。さぁー帰ろうか」
「一緒に?」
「…………ああもう、分かったよ。一緒に帰る。それでいい?」
「はい!」
 少年の顔いっぱいに広がった輝かしいまでの笑顔から、男は眩しげに目を逸らした。

 男のゆっくりとした歩みに合わせて、少年は自転車を押しながら横を歩く。先程までの押しの強さはどこへやら、歩き始めに「本当に大丈夫ですか」「水とか飲みますか」などと尋ねたきり黙り込んでいた。風は冷たいがその顔と首には汗が浮かび、自転車のハンドルを握る手の平は湿っていた。
 妙な空気の中で気まずい沈黙が暫く続き、先に根を上げて声を発したのは男の方だった。
「実は昨日、同棲してた彼女に振られてさ」
 進行方向をぼんやりと見ていた少年は、隣の男に顔を向けた。
「……追い出されたんですか?」
「うん、まぁ、そういうとこ。まだ荷物は向こうに置いてあるし、そんなに険悪な関係になったわけじゃないんだけど、ここでちゃんと区切りつけよっか、てさ。俺たちもういい歳だし。彼女と俺、同い年だったんだよね」
「いい歳って……」
「おじさんだよ。三十一」
「全然おじさんじゃないですよ」
「いやー、おじさんだって」
「だって俺の兄貴が三十三ですよ。おじさんって呼んだら、小さい子相手でも本気でキレますから。だからお兄さんも『お兄さん』ですよ」
「……どうも。まぁ、俺はお兄さんっていうか中身は完全にガキだしね」
「…………、夜中に外で歌って踊るし?」
「そうそう」
 男が笑って頷くと、少年はぎこちなく笑みを返した。
「まさか誰かに見られてたとはな~。つーか、毎日酔っ払って帰ってんのバレバレだね」
「あ、やっぱりそうなんですか」
「うん。仕事先が小さい居酒屋でさ。大将も飲んでるから、俺もつられて仕事中にちょいちょい飲んでんの。お客さんに勧められて飲むこともあるかな……。あと帰る前に一杯飲むし。でもアル中じゃないよ?」
「あ、はい……」
「かなりの酒好きではあるけどね」
「いつも結構飲まれるんですか?」
「休みの日以外は大体かな。君は? 飲んだことない?」
「ないです。監督から……、あ、俺元野球部なんですけど、部の監督から酒と煙草は二十歳まで死んでもやるなって言われてたんで、やらないです」
「そんな感じした。すっごい良い子そうだもん、君」
「そ、そうですか……?」
「うん」
「ありがとうございます」
 少年は頭を下げて言った。
「いーえ」
 そして再び沈黙が二人の間に降り立った。
 暫く夜風に吹かれながら静かに歩いて行く間、男は少年に気取られない程度のさりげなさで、少年の様子を観察していた。夏でもないのに薄らと汗ばんでいる肌を、何度もごくりごくりと唾を飲み込む喉を、落ち着かなげに動く指先を。
「……あのさ」
「あ、はい。何ですか?」
 またしても沈黙を破った男に、少年は答える。
「うん。もし気のせいだったら申し訳ないし、そうだったら聞かなかったことにして欲しいんだけど……、君、もしかして俺のこと……意識してる?」
 少年の歩みが止まった。数歩先で男の歩みも止まり、少年を振り返る。
 少年の顔は、夜道にも明らかなほど真っ赤だった。
「……あ、やっぱりか……」
「……すみません」
 蚊の鳴くような声。
「いや、謝んなくていいよ。別に偏見とか無いし、不躾に聞いた俺の方が悪いから。……でも、あのさ、自分で言うのもなんだけど、相当趣味悪いと思うよ、君」
「そんなこと言わないでください」
「でも、俺の事全然知らないだろ?」
「けど……好きなんです」
「うん……、何で?」
「……自分でもよく分かんないんですけど、何か……毎日歌って踊りながら歩いてるお兄さんの姿を見てるうちに、この人、凄く可愛いなって……。俺の癒しなんです。……こうして話してみてもっと好きになりました。お兄さんは凄くかっこいいし、可愛い人だって思います」
「うーん……? 可愛いかぁ……?」
「可愛いですよ、凄く」
 少年は情熱的な眼差しで男を見つめて断言した。
 男は少しの間、気圧された様子で黙り込んでいたが、やがて何か思いついたように「よし」と呟いた。
「じゃあ俺が、残りの時間で説明してあげよう」
「何をですか?」
「俺のことを諦めた方がいい理由」
 そう言って男は歩き出した。少年は慌てて男の隣に並んだ。
「一個目はー、これ」
 男は自身の顔を指した。
「こういうこと、俺わりとよくあるんだよね。暴力的な男って最低だろ? しかも喧嘩の相手が、今日泊めてもらう予定だったヤツってのも最低だよ」
「……女の人ですか?」
「いや、男。三個上の従兄」
「喧嘩の理由は……?」
「その従兄の嫁さんに俺が色目使った……ってそいつが思ったから」
「使ったんですか?」
「さぁ、多分。多分使った。それが二個目ね」
「……女好きってことですか?」
「そう。しかも俺、めちゃくちゃ手が早いから」
「そんなにですか?」
「うん。で、三個目は金が無いこと。この間借金を返し終わったばかりで貯金ゼロ。比喩とかじゃなくてホントにゼロ。お年玉とか貯めてるなら君の方が金持ってる」
「…………」
 少年は黙り込んだ。男は疲れた目で空を見上げた。
「――ってことで、夢を壊して悪いけど――」
「大丈夫です」
「え?」
 男は傍らの少年に顔を向けて目を瞬いた。
「今、何て言った?」
「大丈夫です。俺、やっぱり好きです」
「ええー……」
「それに……あの、俺気付いたんですけど、俺、まだ一回も男は駄目とか、俺みたいなのはタイプじゃないとか言われてないです」
「……間接的には言ったつもりだけど?」
「でも、直接的には言われてないです。……俺じゃ駄目ですか?」
 男は小さく「うーん」と唸りながら右手で首の左側を掻き、それから下唇を掻いた。傷が開いて僅かに出血し、男の指を汚す。男は怪我をしていたのを忘れていたのか血を見て少し固まった後、ジーンズで指を拭った。
「でもさ、君、未成年だろ?」
「十八歳なので問題ないと思います」
「いや……うん」
「俺じゃ駄目ですか?」
 少年の再度の問いに、男はまた「うーん」と唸った。
「あー、どうしよっかな……。うん。あのさ、これは正直あんま言いたくなかったんだけど……俺、前科持ちなんだよ」
「大丈夫です」
「ええっ……いやいやー、そこは即答しちゃ駄目だろ。意地になってない?」
 少年は首を横に振り、真顔で繰り返した。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃーないって。これ、嘘でも冗談でもないから。真面目な話。そこ気にならないって言われても困るんだけど」
「気にならないわけじゃないですよ。凄く驚いてますから。でも大丈夫です」
「いやー……」
 男は心底困ったような顔で額を掻いた。
「……今逃亡犯やってるとか、現在進行形で罪を犯してるってわけじゃ、ないんですよね?」
「うん、まぁ。それはやってないけどさ……」
「なら大丈夫です」
「何やったか聞かないの?」
「はい」
 男は溜息を吐いた。目的地が視界に入ったところだった。
「俺さぁ、本当に駄目な人間なんだよ。控えめに言ってもクズの甲斐性なしってところ。さっきだってもう全部どうでもいいと思ってたし……」
「歩道で、寝てたときですか?」
「うん。だってさぁ、暫く家に泊めてもらうはずの従兄怒らせて喧嘩して、友達の数も所持金も乏しいからって、つい昨日別れたばかりの彼女に『やっぱ一晩泊めてください』ってお願いして……それもコンビニで酒買って飲みながら。これで三十一だよ、俺。タクシー代ケチって歩いていく内に何か色々考えて嫌になってきて、疲れてさ、もういいやって感じだったんだよ、声掛けられるまで。死ぬとかそんなんじゃないけど」
「…………」
「それで目を開けたら、近くに人生まだまだこれからですって感じの、若くてキラキラした子がいるじゃん。一瞬天使かと思ったよ。あれ、いつの間に俺死んでたんだろって。もしかして吐いたゲロ喉に詰まらせて死んだのかってさ」
「……生きてますよ」
「うん。……うん。あー……うん。あのさ、本当の本当に俺の事好きなの?」
「本当の本当に好きです」
 間髪入れずに少年は答えた。
「そっかぁ……」
「はい。……会ったばっかで、こんなこと言われて、お兄さん絶対困ってると思うんですけど……でも、好きです」
「……まぁ、もし仕事帰りでも深夜でも酒が入っても無かったら、ていうか今日じゃなかったら、正直速攻で逃げてたかも。全力で走ってさ。だって普通有り得ないし怖いじゃん」
 少年は男が並べる拒絶の言葉を聞きながら徐々に俯き、泣くのを堪えるかのように唇を引き結んでいたが、ふと顔を上げた。
「……でも?」
「うん。でも今日だったから……、正直、君のことすげー可愛いと思ったよ。今まで男にそんなこと思ったこと一度も無かったけど」
 少年は足を止めた。男もそうした。
「じゃあ……?」
「……うん」
「俺と付き合ってくれる、ってことですか?」
 男はジーンズのポケットに手を入れ、潰れた煙草の箱を取り出したが、中には何も入っていなかった。男は空っぽのそれをポケットに戻し、深く息を吐き出した。
「とりあえず……期間限定のお試しで、ってことならいいよ。俺も君もお互いのこと殆ど知らないんだし、いきなり付き合うっていうのも、何かアレだろ? ……それでもいい? 期間限定でも?」
 少年はその顔に満面の笑みを浮かべ、何度も激しく頷いた。
「いいです。全然いいです。すっげー嬉しいです。よろしくお願いします!」
 興奮をそのまま声と面に出して言う少年に、男は苦笑した。
「こちらこそ」
「あっ、あの、連絡先教えてもらっていいですか?」
「ああ、うん。いいよ」
 二人は携帯で連絡先を交換すると、また歩き出した。
「なぁ、この時間っていつも眠くならないの? 高校生だろ?」
「あ、俺部活やってるときから帰ったら速攻寝るようにしてるんです。で、二時間くらい経ったら起きて、色々用事済ませてからまた寝るようにしてて……だからお兄さんが帰ってくる時間帯はギリギリ起きてます」
「へぇ、そうなんだ」
「はい。あ……、マンションの前まで送って行っていいですか?」
「いや、それは駄目」
 男は首を横に振った。少年の顔から笑みが消えた。
「分かり、ました……すみません」
「……家に泊まったからって、元彼女とヨリ戻したりとかは無いから。あいつ、そういうとこちゃんとしてるし」
 少年は頷いた。
「俺の方が年上だからさ。最後まで送られるのは、何ていうか……格好つかないだろ? まぁここまで醜態を晒しておいて今更だけど」
「分かりました」
「ありがと。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 男は少年が家の庭に自転車を置き、家の中に入っていくのを、少し離れたところで見守っていた。そして少年が完全に視界から消えるのを確認した後、歩き出した。
 橋の前に立ったところで男は急に立ち止まり、ポケットの中から携帯を取り出して文章を打ち始めた。

『もしやめたくなったら、いつでもやめるって言っていいから』

 送信ボタンを押す直前に、男はメッセージを受け取った。

『後ろを振り返って下さい』

 男は振り返った。少年が家の二階の窓から顔を覗かせ、手を振っていた。心底幸せそうな、邪気の無い笑顔を浮かべて。
 男は呆けたような顔で出来たばかりの年下の恋人を見つめ、やや遅れて手を振り返した。そして少年に軽く頷いて見せた後、マンションの方角に向き直って書きかけのメッセージを消し、ポケットに携帯を仕舞い込むと、橋を渡り始めた――毎夜そうしていたように幸福な気持ちで歌を歌い、酔っ払ったアヒルのように不格好なやり方で踊りながら。
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