白煙の先

「何か食べますか?」
 ホテルの部屋に入るなり、彼はそう尋ねてきた。答えは分かり切っていた。単なる社交辞令だ。
「いや。だが少し吸わせてもらうよ」
 彼は驚いたように私を見る。無理もない。彼と会うのはこれで十三回目だったが、今まで彼の前で煙草を吸ったことは一度たりともなかった。別に彼の体を気遣っていたわけじゃない。煙草の臭い如きで彼に距離を置かれたくなかったからだ。それに――認めるのは辛いことだが、十は下の彼の美しい肌を見ていると、自身の体の衰えを意識してしまう。老いの要因の一つを遠ざけようとするのは、四十半ばにして恋をした男の足掻きだ。惨めで哀れな、決して報われることのない足掻きだ。
「君も吸うか?」
「いえ」
「そうか」
 シガーケースをポケットから取り出して上着を脱ぐ。彼が二人分の上着をハンガーに掛けるのを眺めながら一人掛けのソファに腰を下ろし、ケースから取り出した葉巻の吸い口を作って、すぐに火を点けた。ケースとライターは側にあった小さなテーブルに恭しく置く。どちらも別れる前に妻から贈られたものだった。
 立ち上る煙越しに彼の体が見える。恵まれた骨格、適度に鍛えられた筋肉。いつも完璧な長さに整えられた髪型。振り返った彼の顔は、それらに見合う美しい造形をしている。繊細で中性的な、いかにも女性にもてそうな今時の顔立ちだ。彼はぼうっと焦点の合わない目で煙の行く先を追った。その目つきをした瞬間、彼は社会的責任を負った一人の人間から、理性を忘れ欲望に身を任せることを是とする、本能的な生き物へと変貌を遂げてしまう。
 その目はつまり――行為の始まりを意味していた。
「来なさい」
 彼は従順に従う。私の前に跪き、上目遣いで私を見る。
「以前に吸ったことは?」
「葉巻は一度も」
「それ以外は?」
「あります」
「どうしてやめたんだね?」
「体に合わなかったので」
「なら完全に?」
「半年に一度か二度は」
「そうか。今日はその日だね」
 私は微笑み、一口吸ってから彼に葉巻を差し出した。彼は私が吐き出す煙の中でそれを受け取り、自身の口元へと運ぶ。
「肺には入れずに、口の中にゆっくり含むんだ」
 年に一度か二度は、という言葉は本当だったらしい。助言も虚しく、彼は一口軽く吸っただけで咳き込んだ。そして私の目を物言いたげな目で見上げる。
「ああ、遠慮はしないでくれ。旨いだろう? 上物なんだ」
「……はい」
 彼は眉間に軽く皺を寄せ、小鼻を微かにひくつかせた。そしてもう一度吸い口に唇を寄せる。私はそれを静かに見下ろしていた。かぐわしい煙は私を楽しませ、年下の男の肺を汚していく――そしてまた無理矢理に外へと吐き出される。
 激しく咳き込む彼の手から葉巻をそっと取り、自分の口へと運ぶ。煙を吸い込みながら、彼の揺れる肩を、乱れる髪を眺める。
「顔を上げなさい」
 まだ息が整わない内に命令を下す。言う通りに従った彼の目は潤んでいて、その胸は反射的に起ころうとする咳を押え込んでいるせいか、やや不自然な動きをしていた。
「おいで」
 私は足を開き、彼をその間に引き入れる。黒く艶やかな髪に指を差し込み、ゆっくりと撫でた。意地悪をしたね、と謝るように。彼は目を伏せ、鼻先を私の股間に近付ける。息がなかなか整わないのは、単に煙のせいだけなのだろうか。
「腹が空いているのは、もしかすると君の方だったのかな」
「はい」
「そうか。なら好きにしなさい。ただし、五分だけだよ」
「ありがとうございます」
 彼は即座に私のベルトに手を掛け、緩めた。スラックスの前をくつろげ、下着に鼻先で触れる。彼がそこで息を深く吸い込むのが分かった。まるでその下に、彼の舌と腹を満足させるご馳走が眠っているかのような、夢見心地の目をして。
 下着の中から、まだ微かな反応を示しているだけの萎えたペニスを取り出した彼は、口を大きく開け、迷うことなく咥内へとそれを迎え入れた。熱く濡れた粘膜の感触。彼の舌は性急にそれに絡みついた。一体どれほどの数の男がこの快感を味わってきたのだろう。今私のペニスを舐め回している舌には、彼が外で纏っている上品で洗練された空気とはかけ離れた、淫らでいやらしい彼の本性、欲望の全てが表れているように思えた。
「昔飼っていた猫のことを思い出すよ。あれに餌を出したときとそっくりだ。我慢が効かないところと、優雅さをかなぐり捨てた後の卑しい顔つきがね」
 彼は比喩ではなく、いつも腹を空にして私の前に現れる。性的欲望は飢餓感と混じり合って強まり、この美しい男を獣に変えるのだろう。
 煙と濡れた舌とを贅沢に味わいながら、私は興奮を高めていく。太腿に置かれた彼の手は熱く、そこに込められた力は私を逃すまいと徐々に強まっていた。だが時は無慈悲にも移り行き、彼に与えられた猶予の時間は過ぎ去ってしまった。私は彼の髪を持って頭を引き、自らのペニスを彼の咥内から抜き取った。唾液とペニスから滲んだ分泌液が私達の間で薄く糸を引き、途切れた。
「あ……」
 名残惜しげな声を漏らし、彼は切なげに私を見上げる。
「五分と言ったろう?」
「でも」
「ああ。あげないとは言ってなかったね」
 私はそう言って葉巻を吸い、それから勃起したペニスで彼の頬を撫でた。濡れた目がその動きを追い、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。ゆっくりと煙を吐き出しながら彼の唇に唾液塗れの先端を寄せる。唇はすぐに私のそれへと吸い付いた。だが私が彼の髪を強く掴んだままなので、それ以上彼の意思で進むことは出来ない。
 葉巻を灰皿に置き、私は暇になった右手の指も彼の髪に絡ませた。発情した二つの目を見下ろし、そして――彼の喉の奥深くへと、ペニスを一気に押し込んだ。
 悲鳴は聞こえなかった。口を塞いでいたのだから当然だ。私は彼の頭を動かし、自慰をするように自分本位なやり方でペニスを扱く。喉の奥を刺激されれば、当然異物を追い出そうとして反射的な痙攣が起こる。道具のように犯され、咳き込むことすら阻まれるのはどれほど苦しいことなのだろう。私の太腿に置かれていた手は強張り、彼の目には涙が浮かぶ。それでも私はやめなかった。それどころかもっと酷いやり方に変えた。立ち上がって腰を振り、彼の喉を強く突く。そんな非道の最中にも歯を立てないよう彼がいじらしく気を遣っていることに、愛おしさと嫉妬と興奮を同時に感じた。今私はこの美しい男を犯している――彼は私と出会うよりずっと前にこんなやり方で犯されたことがある。
 やがて集まった熱が出口を求め出す。私はより一層強く腰を振り、彼の頭を動かして、快感を追った。限界が近付く。彼の方の限界も近かった。両の頬は涙で濡れ、唇の周りは唾液で汚れ、顔全体が紅潮している。私はペニスを彼の咥内から抜き取った。彼は窒息寸前の肺に空気を吸い込む音を響かせて酸素を取り込み、肩と胸と喉を震わせて息をする。少しの間その様子を眺めていた私の中に、一つの悪戯な考えが思い浮かんだ。
「舌を出しなさい」
 彼はおずおずと舌を出した。震えているせいか、興奮する犬のように見えた。
「すぐに飲んではいけないよ」
 唾液が滴り落ちる赤く濡れた舌に、ペニスの先端を近付けた。片手でペニスを緩く扱き、彼の舌の上で吐精する。飛び出す精液が彼の舌を白く染めていく。全身の血が快感と興奮に燃え上がり、私は自身の体に強い力が満ち溢れるのを感じていた――私は今、この哀れな獣を支配している。
 射精が終わると、私は椅子にもう一度腰掛けた。舌を出したままの彼を見つめながら葉巻を手に取り、長く伸びた灰を灰皿の中で折った。
「おいで」
 近付いた彼のワイシャツの衿元を掴み、引き上げ、精液を留めたままの舌と葉巻とを触れさせた。吸い口は私の方を向いている――彼の舌の上で、じゅっと火が消える音がした。私は自らの顔に笑みが浮かぶのを抑えきれなかった。暗い欲望が私の中を駆け抜ける。
 だが次に彼が取った行動は、私の想定の範囲外にあった。
「――」
 思わず目を見開いた。彼は精液に滲んだ灰ごとそれを飲み下したのだ。
 あやうく取り落しかけた葉巻を灰皿に投げるように置き、私は衝動のまま彼を抱き寄せた。飲んではいけないと言ったのに。君にそんなことをさせるつもりではなかったんだ――そう口にしようとした唇は、彼の濡れた睫毛が震えるのを目にした次の瞬間には気を変えて、彼の耳元に近付いた。薄く桃色に染まった耳朶にきつく歯を立てると、彼はびくりと体を揺らして私の肩に顔を伏せ、息を止めて私に縋り付いた。
 どれだけ声を殺していても、その息遣いと体の震えだけで、彼が射精に至ったことは分かってしまった。恥辱と苦痛、それが彼を高め、その場所へと導いたのだ。
「触れてもいないのに」
 出会ったとき彼は左手の薬指に指輪を嵌めていた。結婚しているのかと聞くと、別れたばかりで外すのを忘れていたと言って、私の目の前でそれをごみ箱に落としてみせた。
 この男は――この淫らな体を持った男は、一体どんな顔をして女を抱いていたのだろう。



 彼の服を脱がし、自らの服も脱ぎ捨てて、寝室へと移動した。
 私は彼をベッドに押し倒し、肩に顔を埋め、彼の香水を深く吸い込んだ。蠱惑的な香りだった。スーツのジャケットに滲み込んだ、抑制的で清潔感のあるそれとは違う。男を誘う為の――今夜は私の欲望を煽る為だけの香りだった。
 汗ばんだ肌に舌を這わせ、鎖骨に口付ける。それから私の背中に回ろうとしていた彼の両手を捕まえ、手首をしっかりと握りシーツに押し付けて、上下する胸に顔を落とした。乳首を唇の間に挟み、二度、三度やわく食んだ後、ぐっと歯を立てた。
「……っ!」
 私の下で彼の体が揺れる。それでも構わずに彼を押さえつけ、顎に力を加え続けると、彼は腰を浮き上がらせた。硬く熱を持ったものが腹を撫でる感触。
 そう、彼はこれが好きなのだ。ふやけるまで舐めしゃぶられるのも、指で摘ままれるのもお気に入りだったが、自由を奪われた上でこんな風にきつく歯を立てられるのが、彼は好きで好きで堪らないのだ。
 歯形がくっきりとついた乳首を舌で転がし、唇で弄んで、もう一方もそれと同じようにゆっくりと可愛がる。優しい愛撫はその先の苦痛をより強く感じさせる為の下準備に過ぎない。もう一度きつく歯を立てれば、彼の体は面白い程に震えた。私は彼の太腿に自身の勃起したペニスを押し付け、彼のそれの脈動も感じながら、小さな突起を挟んだ歯に力を込め続けた。
「あ……あ……」
 彼は小さく声を漏らす。このまま引き千切られるのではないかという恐怖からか、それとも興奮からだろうか。私は頭の中で警鐘が鳴り始めるのを聞いた。そしてその音を掻き消すような抗いがたい衝動が自身の中に生まれるのを感じた。抗うことを思いつく前に、その衝動は波のように私を飲み込んでしまった。
「――」
 頭上から声は聞こえなかった。前歯を、唇をさらりとした液体が濡らし、じわりと舌へと広がっていく。鉄臭さが鼻をついた。視界に赤が見えた。私はそれを躊躇いなく舐め取り、小さく出来た傷に舌を差し込んで意地汚く啜った。彼が灰を飲み込んで見せたように、私は危うさを、私に破滅を齎すやもしれぬものの種を吸った。
 十分に味わい尽くしたところで顔を上げ、彼を見下ろす。紅潮した頬、額には珠のような汗が浮かび、二つの目は潤んで上下の睫毛をしっとりと濡らしている。私は右手を下に伸ばして陰嚢ごと彼のペニスをきつく鷲掴みにし、痛みで開いた口に尖らせた舌を差し込んだ。血を彼の唾液で洗い流し、白く整えられた歯列を軽くなぞる。彼の目を見つめながら唇を離し、左手の拘束を解いた。日に焼けていない白い両の手首には、私の手の跡がはっきりと残っていた。
「……何が欲しい?」
「あなたが……あなたが欲しい」
 私は彼のペニスから手を離し、その手を枕元に置いていたコンドームに伸ばそうとした。指先がそれに触れる直前に、物言いたげな目が私を見つめていることに気付いた。ごくりと唾を呑む。彼の目が私に何かを伝えようとしていると思うのは、私が自らの願望をそこに投影しているだけなのか、それとも――一瞬迷いを持った私の腕に、彼の手が触れた。
 その瞬間、電流が走った。私の手はひとりでに動き、彼の腕を掴んで体を反転させた。俯せになった彼の背中に吸い付く。腹の下に手を入れて尻を持ち上げながら背骨を舌でなぞり、盛り上がった大殿筋を手の平全体で撫でる。滑らかな二つの丘に唇を落とし、吸いつき、噛みついて歯形を残す。痕はこの先も残るだろうか? いいや、残らないだろう。
 親指に力を入れて尻を割り開き、ひくつく穴に口付けた。受け入れることに慣れたそこは、私が捻じ込もうとする舌先を難なく飲み込んだ。それが何だか憎らしくなり、私は舌を抜き取って親指を押し込んだ。それで無理矢理に穴を広げて隙間を作ると、すぐ上から唾液をどろりと垂らした。ぬるつく襞をぐるりと舐めて顔を離し、代わりに痛みを感じるほど硬く張り詰めたペニスを押し付けた。こちらを向いた横顔を見下ろしながら亀頭をめり込ませる。僅かに開いていた穴は急激に窄まり、無言の抵抗を示したが、彼の目は確かに私を欲していた。私の欲望をもっと深くまで受け入れさせてくれと訴えていた。
 ふいに渇きを感じた。浴びる程酒を飲み、忘我の中でこの男を滅茶苦茶に犯してやりたかった。私は片手で彼の腰を掴み、もう一方の手でペニスを彼の中に押し込んだ。半ばまでペニスを収めたところで腰を一気に進め、彼を串刺しにした。
 目を見開き息を止めた彼のうなじに口付ける。中も外も彼の体は燃えるように熱い。入れただけで軽く気を遣ったのだということは、ペニスをぴったりと包み込む内壁の感触と体の震えで分かった。
 私は今この男を蹂躙している。苦痛と快楽とで支配している。汗ばんだうなじに歯を立てるとその感覚はより強くなった。自尊心は私の体以上に膨れ上がり、衝動は外へと溢れ出す。私は彼を獣のように犯した。彼の内壁はやがて薄く滲み出した腸液と私の先走りで濡れ、膨れたペニスを飲み込みいっぱいに広がった襞は摩擦でめくれ上がった。妙に生々しく、扇情的な光景を目にしながら、私は手当り次第に彼の体に噛み付き、腫れ上がるまで尻を叩いて、彼を犯した。
「もっと……ああ、もっと!」
 彼の口からは悲鳴のような声が上がり、その悲鳴は最後には殆ど咆哮と呼べるものに変わった。もっと、もっと、もっと犯して。もっと酷く叩いてください。彼はそう叫んだ。私が言われるままに与えても、彼はそれ以上の苦痛と快楽を求めて叫び続けた。
 彼の声が涸れ果て、私の体力が尽きるまで、私達は交わり続けた。私は彼の中で二度達し、彼は射精せずに何度も絶頂を繰り返した。そこに理性はなく、歓喜と劣情と狂気、そして衝動だけがあった。





 ――まどろみの中で目覚める。意識が途切れたのはきっと数分のことだろう。体はまだ汗と体液でべたついていた。
 腕の中にいた筈の彼は既に体を起こし、ベッドの端に座っていた。裸の太腿に灰皿を置き、指に煙草を挟んでいた。身動ぎの音で気付いたのか、彼の視線はすぐにこちらへと向けられた。
「すみません。ライターだけ借りました」
「ああ……」
 短時間とはいえ一人眠ってしまったことを恥じていた私は、曖昧に返事をした。
「……吸うのか?」
「いえ。本当に体に合わなくて」
 そう言って彼は煙草を持つ手を軽く持ち上げ、薄く燃える火を見つめた。
「ただ香りを嗅ぐ為だけに持っているんです。だからライターを忘れてしまうんですが……シャワーを先に浴びても?」
「ああ、どうぞ。構わないよ」
 彼は着火前と殆ど変わらないだろう長さの煙草を灰皿に押し付け、火を消した。それから灰皿をベッド横の棚に置き、静かに私の方へと体を寄せた。どうするつもりなのだろうと思っていると、彼は私の頬にその手をそっと当て、顔を近付け、私の唇に優しく彼のそれを押し当てた。彼の指先は私の髪を撫で、輪郭をなぞり、口付けの終わりと共に離れていった。
 そして彼は微笑みを浮かべ、完全に正気に戻った目で私を見下ろし、何も言わずに――私が何か言う前にベッドから降り、寝室から出て行った。


 入れ替わりにシャワーを浴びて浴室を出ると、彼の姿はホテルの部屋から消えていた。念の為確認してみたが、彼の分の上着と鞄も消えていた。寝室は軽く整えられ、彼が使ってベッド脇に置いていたライターと灰皿は綺麗に拭かれて元の場所に戻されていた。
 私は椅子に腰を下ろし、葉巻の吸い口を作って火を点けた。彼がしていたように口を付けないまま指に挟んで持ち、ぼうっと前を見る。
 彼と次に会えるのはいつだろう、最後のキスはもしかすると私達の関係が精神的な繋がりを含むものへと移行したという意味なのかもしれないと、去って行った男の痕跡を頭の中で追いながら考えようとする。だが心の奥底では、私と彼が会うことはもう二度とないのだと分かっていた。
 私達はいつも別れる前に次の約束をした。彼は私の側で朝を迎えたことはなかったが、去る前にはいつも別れがたくなるような情熱的なキスをくれた。それがあんなに優しく、恋人同士のように親密なキスだったことは、出会ってから今まで一度もなかった。
 やり過ぎたのだろうか。どこかで度を超してしまった? 紳士的な振る舞いを全てかなぐり捨ててしまったことが気に入らなかったのか? いや、きっと足りなかったのだろう。あんなに手酷く犯した後で、彼は涙の跡を除けば何でもないような顔をしていた。
 俄かに怒りが胸の中に沸き起こるのを感じた。あの年下の無礼な男は、私にあそこまで許し、そして私にあそこまでさせておきながら、何も言わずに私を捨てたのだ。私は彼と出会った頃、暴力的なセックスを経験したことは殆どなかった。変わったのは彼がそれを望んだからだ。彼の望みを叶える為にあれ程尽くしたのに、私はこうして寒々しく打ち捨てられた。吸いもしない煙草の香りを覚えさせた誰か、私以上に彼を酷く傷付けた男の代わりにされただけなのか? ああ、私はきっと彼の指輪のように何の価値もないものに変わり、いつかは忘れ去れてしまうに違いない。

 葉巻を咥え、煙を吸い込む。そして煙をゆっくり吐き出すと、怒りは煙のように霧散し、跡形もなく消えた。私はほっとしていた。彼ともう二度と会わずに済むことに、いつ捨てられるのかとこれ以上怯えずに済むことに、やめてくれと口にすることを知らない彼を、私自身危険を冒しながら際限なく傷付け続けずに済むことに、強い安堵を覚えていた。そしてきっと彼は知っているのだと思った――私が今、これほど解放された気持ちでいることを。
 
 吐き出した白煙の先に彼はいない。この先もずっと、永遠に。それが少しだけ寂しかった。
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