His Caterpillar

「榎坂竜平くん。ずっと好きでした、付き合ってください!」
 ――今日の放課後、体育館裏に一人で来てください。それだけが書かれた手紙を靴箱の中から見つけたとき榎坂は、随分古風な決闘の申し込みだと思った。封筒も中の便箋も白の無地、字は明らかに男のもので、少々荒っぽい筆跡をしていたからだ。
 だが目の前に立って頭を下げている鈴木充という男は、どうやら武器どころか敵意も殺意も持ち合わせていないようだった。
「俺男ですけど」
「知ってる」
 鈴木は顔を上げた。榎坂より一学年上の高校三年生、昨年の文化祭においては校内イケメンランキング二位に輝いた容姿の持ち主だ。180cmを超える長身、彫りの深い日本人離れした顔立ちに、心地よく響く甘い声。全く接点のない榎坂でも、その顔と名前を一致させていたレベルの有名人だ。
「……じゃあ罰ゲームとかドッキリとかですか?」
「いや、本気。冗談でもない。入学二日目のときに靴箱のところですれ違って、一目惚れした」
「俺はどう考えても他人に一目惚れされるような顔はしてませんが」
「え? すげー格好いいじゃん」
 不思議そうに言う鈴木は、嫌味を口にしているような雰囲気でもなかった。どうやら本気で格好いいと思っているらしい。
 榎坂は自分の容姿に対してこれまで向けられてきた言葉を思い出してみる。控えめなものでも『何を考えているか分からない』『理科室の住人っぽい』『いつか事件を起こしそう』という散々なものしか浮かばない。いまだに母親に髪を切ってもらっていることが原因なのか、銀フレームの眼鏡が悪いのか、話し掛けられなければ話さない非社交的な性格が災いしているのか、小学生の頃から変わらない評価であったので、榎坂は自分の容姿の程度を十分に理解していた。
 どうも趣味の悪い先輩だな、と榎坂は心の中で呟く。
「俺の顔が好きなんですか?」
「顔っていうか……最初はそうだったけど、昼休みに図書館で本読んでるときの雰囲気も凄く好きだし、新聞部の記事とか見て凄いって思って、もっと好きになった」
 新聞部の記事。榎坂はそれを読んではいなかったが、部員に取材を受けたので、何が書かれているかは知っていた。所属している生物部の研究作品が、全国コンテストで受賞したという話だった。取材では口にしなかったものの、この学校において生物部は廃部寸前の部活であり、春の時点で二年の榎坂が既に部長を務めているという状態であったため、その研究作品がほぼ榎坂の手によるものであることは周知の事実であった。
「俺、榎坂くんのことがマジで好き」
「そうなんですか」
「もし榎坂くんさえ良ければ、友達からでも……本当に友達からでもいいから、付き合ってほしい」
 潤んだ瞳は、一心に榎坂を見つめている。
 物陰から鈴木の友人たちが飛び出してくる様子はなく、鈴木が人違いをしていたり、前後不覚に陥って訳の分からないことを口走っていたりする可能性も低そうだった。これは九割九分、本気の愛の告白だ。
 榎坂は心を決め、誠実さには誠実さで応えることにした。
「鈴木先輩」
「……はい」
「俺、これまで誰かに話したことはなかったんですが」
「うん」
「毛虫が好きなんです」
 間があった。鈴木は訝しげに首を傾げた。
「ごめん、もっかい言って」
「だから、毛虫が好きなんです。蝶とか蛾の幼虫の。ただの芋虫でも毛が生えていれば構わないんですが」
「……えーっと……その、生物部だから?」
「生物部に入る前から好きです。七歳の頃には自覚していました」
「……ごめん、俺の告白と何か関係ある話?」
「あります。俺、今まで毛虫にしか性的興奮を覚えたことがないんです」
「えっ」
 またもや沈黙が降りる。鈴木は明らかに戸惑った顔で、口元に手を当てた。
「えっと……これって逆ドッキリ?」
「俺は本気です」
「じゃあ、えっと、榎坂くんは人間じゃなくて、マジで毛虫に……毛虫を恋愛対象にしてるってこと? その、メスの毛虫を……」
「オスメスどちらも好きです。それと、恋愛対象ではないですね。研究対象にしたいとは思いますが、恋愛という意味では愛していません。マスターベーションのときに使うだけです」
「ま、マス……」
「マスターベーション」
「マスターベーション……」
 何故か繰り返して、鈴木は黙り込んだ。
「先輩、それでは失礼します」
 これで諦めてくれただろう、と榎坂は一人納得してその場を去ろうとする。だが鈴木は榎坂の腕を掴んだ。
「ま、待って!」
「まだ何か」
「その……榎坂くんは……毛虫でどうやって……えーっと……普段どんな風にオナニーするの?」
 かなり踏み込んだ問いだ。だが毛虫と性を結び付けた話を始めにしたのは榎坂であり、鈴木は先輩という立場を利用して榎坂に性的なからかいを行おうとしているというよりは、ただ恐ろしい現実に向き合おうとしているだけのように見えた。
 せっかく打ち明けたのだから、納得してくれるまで話に付き合おう、と榎坂は心に決めた。
「夜、自分の部屋で、ガラスケースの中に入った毛虫を見ながら、手で擦ってやります」
「あっ、何だ、てっきり毛虫でモノを擦るのかと」
 あからさまにほっとした顔で鈴木は言う。だがその安堵はまだ早かったかもしれない。
「昔は無毒の種類でやってたんですが、夢中になると潰してしまうのでやめました」
「つ、潰……もういっこ質問いい?」
「どうぞ」
「榎坂くんは……毛虫が好きなの? それとも、毛虫の属性が好きなの?」
「どういう意味ですか?」
「うーん、えっと、毛虫の存在そのものが好きなのか、それとも毛虫の毛の感じとか、芋虫的な見た目が好きなのかっていう……」
「ああ、毛の感じが好きです。尖っていたり柔らかそうだったり密集していたり数えられる程度だったり種類はありますがどれも可愛いですし、長毛短毛問わずあの素晴らしく魅力的な動きには本当にそそられます。個性的かつ刺激的な模様の体もいいですね。直進運動に合わせて歪む皮から伸びた毛の振動具合は性行為を連想させて――」
「よし、分かった、榎坂くん、よく分かった」
 鈴木は青い顔をしている。毛虫は苦手な方なのかもしれない。
「じゃあ、諦めてくれますか? 先輩はとても魅力的な方だとは思いますが、俺は毛虫にしか興味がないので」
「いや。俺、今の話聞いてちょっと希望持っ……あ」
 鈴木はそこでやっと自分が榎坂の腕を掴んだままだということに気付いたのか、慌てて「ごめん」と謝罪の言葉を口にして手を離した。
「いや、大丈夫です。でも何故ですか?」
「うん。あのさ、榎坂くんはさ、毛虫が好きなんじゃなくて、毛虫的な存在が好きなんだろ?」
「つまり、どういうことですか?」
「うーん……いや、その、これは例えなんだけど、もし俺が毛虫に限りなく似せた着ぐるみを着て、一か月くらい禁欲した榎坂くんの前で蠢いてたらどうする?」
「ああ……なるほど」
「いけそう?」
「うーん……どの程度似せているかにもよりますが、毛虫にしてはサイズが大きくなりますね」
「うん……でも出来る限り小さく縮むから」
 榎坂は想像した。鈴木の肌に青い模様が浮かび、全身が茶色い毛で覆われているところを。巨大な毛虫は榎坂の布団でいじらしげに体を身悶え、榎坂のペニスが体に擦り付けられるのを、榎坂の精液が全身に振り掛けられるのを待ち望んでいる。
 そして今、現実世界の鈴木は切なげに長い睫毛を震わせて、榎坂が頷くのをただ待っていた。
「もしかしたらいけるかもしれません」
「えっ、本当に!?」
「でも、百パーセントではないです。多く見積もっても三十パーセントくらいで……」
「三十パーセントもあれば十分だよ! じゃあ、俺と付き合ってくれる?」
 鈴木は両手で榎坂の手を握り、期待に満ちた目を向ける。つい数十秒前までその顔に浮かべていた不安と落胆と悲しみは、どこかに行ってしまったようだ。
「俺は構わないですが……先輩はこんな話を聞いても、まだ俺のことが好きだって言うんですか?」
「うん、好き。大好き」
「毛虫の着ぐるみの話も、本気ですか?」
「本気。今日中にメーカーにオーダーして作ってもらう」
「俺、小一の時に毒毛虫にあれを刺されて大惨事を起こしたことがあるんですが、それでも?」
「大惨事って……ん、小一? 精通は……」
「来てませんでしたが、七歳の頃には自覚してたって言いましたよね。俺は毛虫を初めて見たときから性的な対象として捉えてました。多分先輩が想像したことがないようなことを毛虫と一緒にやってきたと思いますし、これから先、毛虫に対しての欲求が無くなることもないと思います。そんな変態でも、先輩は本当に好きでいられますか?」
 そうはっきりと言うと、榎坂の手を握る手が、ゆっくりと静かに離れていった。
 毛虫の話を打ち明ける前から分かっていたことだ。それに愛の告白をしてきたのは鈴木であって、榎坂は鈴木に対しひとかけらの恋愛感情も抱いていなかった。だが榎坂は、少しだけ残念に思った。
「じゃあ、俺は部活があるので」
 踵を返し鈴木に背中を向けた榎坂は、しかし歩き出すことは出来なかった。その体を後ろから抱き締められていたからだ。
「それでもいい。俺はどんな榎坂くんでも受け入れる。大好きだから」
 強い決意を滲ませた声。だが、鈴木は即答しなかったのだ。
「……無理してませんか?」
「全然してないって言ったら嘘になるけど……でも、俺、本気だよ。男に告白するってだけでも相当考えてから実行したし、気の迷いとか勢いじゃないから。それに榎坂くんは毛虫のこと、恋愛対象とは見てないって言った。恋愛対象は人間って意味じゃないかもしれないけど、毛虫に限定されてないんだったら、人間の俺が好きになって貰える可能性だってゼロじゃないと思う。それなら頑張りたい。好きになって貰えるまで、俺、何だって試したい。だから……付き合って?」
 最後の一言は、殆ど泣きそうな声だった。
「先輩、離してください」
「うん……ごめ……ん?」
 鈴木は謝罪の途中で視線を下にやった。自分の前に差し出された手。榎坂は鈴木に向かって頭を下げている。
「不束者ですが、今日からどうぞよろしくお願いします」
「えっ……あっ……こ、こちらこそ、よろしくお願いします!」
 その顔に満面の笑みを浮かべて、鈴木は差し出された手を両手で取った。
 相手が離そうとしないので、榎坂は暫くの間強く手を握られるままにしていたが、ふと、鈴木の目もとが濡れていることに気付いた。鼻を啜っているところを見ると涙ぐんでいるのだろう。濃い睫毛に涙の滴が落ちている。
 榎坂はそれを、朝露に濡れた毛虫の、細やかで美しい体毛のようだと思った。
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